稲吉(いなよし)

かすみがうら市に入ってしばらく国道6号を走り、下稲吉交差点から500mほど手前を左の旧道にはいる。緩やかな坂をあがり県道197号線と交わる十字路あたりから稲吉宿場がはじまる。

宿場の中央付近、右手に本陣と旅籠だった江戸時代の建物が保存されている。水戸街道で本陣建物が残されているのは取手と中貫のほか稲吉しかない。
稲吉本陣坂本家住宅は、一段と高い敷地に白壁に黒板塀をめぐらして、堂々とした薬医門を構えた立派な屋敷だ。赤いトタンで覆った玄関屋根の上部には、領主本堂氏の定紋「笹りんどう」がつけられている。

隣の
木村家は「皆川屋」という旅籠だった。一階から二階まで当時のままの姿で残っている貴重な旅籠建物である。江戸時代末期の建築で、二階建て総瓦葺。二階の窓を覆う千本格子が美しい。二階の客室には当時の遊女の名が記された壁がそのまま残っていて、当時の旅の楽しみ方を伝えている。

道を宿場入口まで戻り、県道197号線を西にとって
「助六の首塚」を訪ねる。常磐自動車道をこえて下佐谷地区の県道53号線にまじわる手前に「福田グリーン農園」がでてくる。旧名主の風格を感じさせる立派な長屋門だ。ここに義人助六は生まれた。百姓一揆の代表となり、禁制を犯して江戸屋敷へ強訴に及んだため、打首獄門となった。ブドウ園と栗畑の狭間に設けられた福田家墓地に摺鉢を伏せた形の石が助六の首塚である。

牛久一揆は文化元年(1804)のことだった。それよりも27年も前の安永6年(1777)、稲吉宿から助郷を要請された下佐谷村の名主福田与惣左衛門助六らが志筑(しずく)藩主本堂氏江戸屋敷に訴え出た。助六は強訴の罪で中志筑の刑場で打首獄門となり、水戸街道に3日間さらされた。牛久の場合は同様の理由で、もっと大掛かりな反抗だった。それほどに助郷は農民にとって過酷な制度だった。

旧千代田町は茨城栗の誕生地で
「果樹のふるさと」として知られている。
勝手の名主福田家も今は観光果樹園の経営で忙しそうだ。9月下旬の今は巨峰、ナシ、クリが美味しい時期である。柿はまだ一ヶ月はやい。千代田地区には百をこえる果樹園が広がっている。入園料は組合で協定しているのであろう、どこもかわりなく、栗・梨は500円、ブドウ巨峰は900円となっている。ブドウと梨はその場で食い放題。栗は(手を傷つけてでも食べたければできないことはないが)かごに入れて目方料金を払って持ち帰る。

梨園はすこし離れているというので栗とぶどう狩を楽しむことにした。ランチがわりの巨峰食い放題だが、一房もたべれば腹はふくれた。甘くて美味だった。栗は数個実をひろって、爪と歯で硬い皮を剥き渋をけずりとってかじった。コリコリとした歯ざわりが郷愁をよびおこし、舌に少々の渋みを残して、焼き栗や蒸し栗ではあじわえない野趣が醍醐味である。ただし、皮の破片を爪の間に刺し込んで、数日指先が痛かった。

街道に戻って宿場の北端にある香取神社をたずねる。このあたりにも本陣かと思わせるような長屋門を構えた大きな家が見受けられた。右手道路角にたっている
道標には石岡・土浦まで各々約二里とある。うっそうとした杉木立の参道をたどると社殿がポツンと寂しくたたずんでいた。太古の時代、日本武尊が東征のおり、当時大海だった霞ヶ浦から入江をたどってこの香取神社の場所に上陸したという。そのとき休息用に稲藁で作った寝床を武尊は気にいって、「よい稲だ」とほめたことから「稲吉」の地名が起こったとか。

参道からすこし街道よりにはいったところに偶然、
芭蕉句碑をみつけた。奥の細道でないだけに少々いぶかしい。『笈の小文』の旅の帰路、岐阜の長良川の鵜飼漁を眺めて詠んだ句だという。どういう趣旨でここに建てたのか、説明版に経緯は記されていなかった。
 
 古の阿多利眼爾見由類毛の皆涼し(このあたりめにみゆるものみなすずし)

天の川をわたり土田地区にはいり、国道6号の下土田北交差点に出る直前で西にむかう道をとると、視界がひらけて前方に水田を隔てて台地が見える。右折して台地に駆け上がるとそこに往西寺がある。その一帯が
長者の屋敷跡で周辺には当時の堀跡が残っている。天正年間(1573〜1591)の当主中根与右衛門は、佐竹氏から軍用金の徴用を受けた時、元来小田氏の庇護を受けている者佐竹氏のために軍用金を用立てる理由はないと拒絶したため、佐竹氏に亡ぼされた。秋晴れの下、黄金色した田園の広がりに点在する緑の果樹園をみはらす台地からの景観は、旅の疲れを癒してあまりある。

国道にもどるとすぐに常磐自動車道千代田・石岡ICがでてくる。陸橋をくぐった左手に小高い木立の茂みが見える。
千代田の一里塚で、ここより一里先に現存する石岡の杉並一里塚と区間を保って残る水戸街道唯一の道構である。一里塚をこえてすぐに街道は左の旧道にはいって市川集落を通り抜ける。宿場でもない、恋瀬川縁にあるちいさな農村だ。旧道と国道にはさまれた家並みのなかに、一見めずらしい煙り出し屋根をのせた農家が目についた。柱を見せた祖壁の造りも素朴で風情がある。

道は
恋瀬川をわたって石岡市にはいっていく。橋の中央にたって、東西の景色をながめた。川面の両側に葦の茂みが伸び、広々とした田園がそれに続く。特に西の遠方には男女二峰をいただく筑波山が青く裾をひろげて優雅によこたわる。万葉の時代、既婚・未婚・身分・年・相手をとわず、男女が性の享楽をつくして一夜を過ごす、歌垣とよばれる乱交パーティーで知られる霊山である。詳しくは筑波街道をあるいて現場を検証するまで控えておこう。

師付(しづく)の田井(たい)


万葉集(第9−1757)
草枕、 旅の憂いを 慰もる事もあらんと 筑波嶺に 登りて見れば尾花散る、 師付の田居に雁がねも 寒く来鳴きぬ。 新治の鳥羽の淡海も秋風に 白波立ちぬ。筑波嶺のよけくを見れば長き日(け)に、おもひ積み来し憂いはやみぬ。

歌にある師付の田井とは、この辺一帯の水田を指したのではないかと思われる。
恋瀬川(古代信筑川)に沿って、これより下流に広がる水田地帯には、一大湖水を思わせる地名(馬洗戸・津波・網代・雁群・沖)、及び条里制の一部と判断できる遺構のあるところから、この辺一帯は古代から水田地帯であったと推定できる。
尚碑のある付近は、昭和四十八年まで鹿島やわらと称し、湿原の中央に底知れずの井戸があり、日本武尊や鹿島の神にまつわる伝説のあるところで、土地の人は、昔から「しずくの田井」と呼び、しめ飾りをして守ってきたところでもある。

恋瀬川にそって西に4kmほどいった志筑(しづく)小学校の西方、田んぼの中に石碑が建っている。この辺一帯は、平城京から派遣されてきた常陸国の役人高橋虫麻呂が歌に詠んだ場所といわれている。筑波山の頂上からみわたすこの辺の田園風景、またここからながめる筑波山の景色はいずれも心の憂いを消し去ってくれるほどの絶景だった。今も遠くをよこぎる自動車と送電線の障害物を取り除けば、古代とさほどちがわない風景が残されているように思われてくる。
はるかな万葉の風景から、恋瀬川をわたって、すこし近代的なにぎやかな風景に入っていく。

トップへ

府中(石岡市) 

恋瀬川を渡った水戸街道は石岡市国府7丁目(旧幸町)の交差点で6号とわかれ左の国道355号線をたどっていく。旧道はすぐに左の細道へ入り、つきあたりを右折して355号線にもどる。ここからが府中宿場の中心街である。府中という地名は律令時代に国府がおかれていたところで、現在でいえば県庁所在地にあたり各地にある。総社、国府跡、国分寺・国分尼寺跡などは、国府に共通な史跡で、ここ石岡もそのすべてをそろえもつ古い町である。平安時代、この地に勢力を伸ばしたのは桓武平氏の一族だった平将門の叔父、平国香であったが、将門は天慶2年(939)国香を倒し常陸の国府を攻略した(天慶の乱)。

そんな歴史に富む府中の名をさらに高めているのが「おまつり」である。毎年9月14日から16日の3日間に行われる総社の例祭だが、営業上敬老の日にからむ3連休に開催されるようだ。今回その祭りにぶつかった。宿場の中心地は午後通行止めとなる。「石岡のおまつり」は8世紀頃、武士が「武運長久」を祈願したのが始まりと言われている。やがて江戸時代元禄期には、町人が参加する「家内安全」「無病息災」を祈願する庶民のまつりとなった。佐原の大祭(千葉県)、府中のくらやみ祭 (東京都)とともに、関東三大祭り」の一つに数えられ、50万人にちかい観光客がおとずれる。見ものは各町内から繰り出す山車や幌獅子などで、40数台が市の中心部を巡行する。山車の頂上には歴史上の人物人形が通りを見下ろし、下段の舞台ではおかめ、ひょっとこ、きつねの囃子が山車の引き手や見物客の気分をもりあげる。歩道は隙間なく屋台が占める。祭りにありがちな、山車に轢かれそうな荒々しさがなく、女性や子供も一緒に参加できる親しみやすい祭りだった。

人出を縫って宿場をみて歩く。金刀比羅神社から駅前通りをこえたあたりまでの国府3丁目が中心のようだ。昭和4年に大火があって、中心街の町並みはほとんどが焼失した。染物の丁子屋は火災をまぬがれたまれな例である。桟瓦葺屋根は正面寄棟造、背面切妻造りで正面に下屋庇をつける。重圧な黒漆喰塗の外壁は昔の面影をとどめている。通りの反対側には十七屋履物店、久松商店といったハイカラな洋風店舗がならんでいる。いずれも大火災の後に建てられたもので、当時はやっていた
「看板建築」を取り入れた。

広い駅前通り(八間道路)のひとすじ南は金丸通りで、鈴之宮稲荷神社の隣に紀州屋をはじめ八軒からなる妓楼が、藩から許されて
新地八軒とよばれた遊郭を形成していた。近江屋という名もみえる。その中で特に紀州屋の女将いく子は天狗党の若者の面倒を見たことで知られる。

天狗党とは、水戸街道の各地で聞かされる名前で、大抵は豪商を襲い略奪、放火を繰り返す、おそろしく迷惑な存在として登場する。江戸時代の末期、水戸の下級藩士を主体に結成された尊皇攘夷派の急進改革派グループである。保守門閥派と激しく対立、1864年攘夷延期を不満として武田耕雲斎・藤田小四郎を主導者とする一派は紀州屋に集結、筑波山にて挙兵した。結局幕府軍に追われ、加賀藩に降伏。武田以下350余名が敦賀で斬刑に処せられた。

駅前通り交差点の東南角、関東つくば銀行のとなりに
府中宿の本陣(矢口家)があった。今はヴィオラというパン屋になっている。

次の大きな交差点で宿場は終わる。そこから東へ県道52号線をたどり石岡の一里塚へ向かうのが旧水戸街道であるが、府中の町を離れるまえに寄っておきたい場所が三ヶ所ある。それぞれちらばっており歩いて廻るのはかなりつらい。

総社へは国府三丁目交差点から県道138号線を西に進む。総社の森の北に石岡小学校があり、敷地内に国府跡、民俗資料館、陣屋門が集まっている。律令時代以来の政治の中心地だった。

総社宮は古くは国府宮(こうのみや)とよばれた。国司が国内の神社を巡拝するのに代えるため、大国主命など六柱の神を合わせて祀ったもので「六所の宮」ともよばれている。年に一度の大祭とあって、神門前の広場には、テントのなかに豪華な神輿が出番を待っていた。初日、今日の午後二時に花火を合図にここを出て、供奉行列を組んで今年の年番町である中町に設営された御仮殿(おかりや)へ向かう予定である。

神社の北側には国府の役所が置かれた。小学校の敷地内に
「国衙跡」の石碑がたつ。またその背後には一里塚の列のように大きな木が植えられた府中城土塁がのびている。府中城は、正平年間(1346〜1370)大掾詮国により築造され、天正18年(1590)佐竹義宣に攻められて落城した。

敷地入口に建っているのは
陣屋門で、文政11年(1828)江戸小石川の藩邸を新築する際、その余材をつかって府中の陣屋に建築した高麗門である。石岡は水戸徳川家の初代頼房の五男頼隆が初代府中藩主となった城下町である。だが石高は2万石、家臣も200名ほどの小藩で、藩主はもっぱら江戸小石川の上屋敷にいて、石岡には陣屋しかなく、そこに郡奉行や代官などの役人が住んでいた。

陣屋門からおよそ1km北の位置に県道7号線が左斜め前に折れていく若松五差路がある。そこを直進して府中小学校の前を通っていくと、学校の北側に広い野原のような
国分尼寺跡に出る。深い芝生に覆われた2、3の台型の盛り土には桜の木が育っている。建物は平将門の乱でずっと昔に焼失して、礎石だけが発掘されたというが、どれなのかわからなかった。草にかくれているのか、それとも埋めもどされたか。萩が公園全体に植えられていて、小さな赤紫の地味な花は7分咲きのようだった。

若松五差路から県道7号を南下し、若松町十字路を東におれると、旧街道が宿場をぬけて東に向かう交差点にもどる。十字路の手前の路地を北にはいるとつきあたりが
国分寺跡だ。路地をはいったところの両側に蔵造りの建物がならんでいる。青柳新兵衛商店、青柳鉄店、指南青柳道場と、青柳一家の建物は白壁、黒漆喰、赤レンガ、大谷石と、バラエティーに富んだ蔵つくりであった。

いわゆる天平時代の国分寺とは、聖武天皇の勅願により、鎮護国家を祈るため、国ごとに置かれた寺院のことである。その国分寺は戦国時代に府中城が佐竹氏に攻められその時消失した。その後元禄時代になり本堂が再建されたが、明治41年の大火で失われた。その後建てられたものが現在の「常陸国分寺」である。金堂、七重塔、中門(仁王門)などの伽藍跡は礎石位置を示す石碑が建っているだけで往時の姿を偲ぶものはない。

県道52号線にのって石岡市街地を離れる。JR常磐線をこえ左におおきくカーブして勤労青少年センターの先に、両側に原型をとどめた
石岡の一里塚がある。東側の塚の前に説明版が建っていて、水戸街道全体の絵図や、古い写真をみることができる。昭和60年に設置された説明板の記述によれば、当時東側の塚には立派な榎が天に向かって伸びていたという。その後に枯れたのだろうか、今は根幹が痛々しく残るだけである。それでも道の両側に塚をのこしていることに加えて、千代田の一里塚との間で一里という距離を実証している点でも、貴重な存在である。昭和のはじめまでは、ここの地名が示すように、街道には杉並木がつづいていた。

トップへ


竹原 

県道52号線をすすんだ旧街道は、関東鉄道石岡営業所の先の二差路で左の道をとり行里川(なめりかわ)集落のなかを通っていく。両袖に低い白壁の塀をのばして堂々とかまえる見事な長屋門があらわれた。この門だけで数世帯かのアパートが経営できるほどで、とても普通の民家とは思えない門構えである。

道は県道と再び交差してまっすぐ進み、花野井川をわたって美野里町にはいる。花野井川(地図には園部川とあるが…)に架かる竹原橋の両側の田に三分咲きのコスモスが広がっていた。花野井といい、美野里といい、名のごとくに美しい田園の里である。川を谷底に、道は竹原神社を右にみて坂をのぼって竹原宿にはいっていく。国道6号にぶつかった正面は「冨田本家」の表札がかかる豪邸だ。国道を北にとる。竹原宿は交差点を中心として西の竹原上郷と北東の竹原下郷につながっていた。
竹原宿に本陣はなく、その他の宿場跡をしめす史跡ものこっていないが、国道の東側には昔の面影をとどめる建物をみることができる。空き地の奥に、小屋風の小さな蔵が白壁となまこ壁を装っている。前に井戸ポンプ、隅に可憐な白とピンクの花を配してかわいらしい自分だけの空間を楽しんでいるようである。昔の資料ではこのあたりに一里塚があったというが、標識類はみあたらない。その先に古風な塀を囲い、一歩さがって薬医門を構えるのは木村接骨医院で、元庄屋の屋敷跡であったという。



片倉 

国道は中野谷、大曲を過ぎて美野里町の中心、堅倉に入る。堅倉は昔片倉と書いた。道の左側には桜並木が続きアジザイとカンナの花が歩道縁を飾っていて美しい。三叉路を左の旧道に入り、曲がりめで直角に右に曲がると、そこから目をみはるような立派な家並がつづいている。豪勢なだけでなく格式も感じさせる一角だ。左に加藤家、本多家。右に一本槍酒店、岩松家。目の保養をしつつもため息がでそうだった。

角の旅館「かど家」は国道沿いに移転していたが、旧かど家の建物は今も元の角地で、二階の勾欄から旅籠の風情を漂わせている。北に進み、左手に赤レンガ塀の狩谷家、右手には庶民的な待乳屋化粧品店をみる。巴川を越えたところには待乳屋菓子店があった。この珍しい苗字は、浅草で待乳山聖天にいっていなければ読めなかっただろう。

巴川をわたり小岩戸地区にはいると、ヒョウタン市の広告が出ていた。土地の特産品のようだ。幸運にも道沿いに棚を組んでヒョウタンの栽培をしている農家をみつけた。この愛嬌ある植物を私も育ててみたい。中身を繰りぬいて乾燥させ表面を自由に描き飾り物に仕上げる。


トップへ


小幡 

巴川をわたり小岩戸交差点で国道6号線を横切ってまもなく、旧道橋場美入口のバス停の丁字路に、石仏や石碑が集められている。バス停の名前に「旧道」と添えてあるのは、街道歩きする者にはありがたい。
美野里町消防団第5分団車庫の隣に村社石船神社がある。昔、巴川沿いに河岸が営まれていたことのあかしであろうか。

美野里町から茨城町にはいる。ここはもう水戸領だ。小幡宿は法円寺から500mくらいが中心であった。ここも豪農風の家が多い。ただ、ここでは見慣れた薬医門や長屋門がぱったり影をひそめて、門には屋根がなく左右の塀の端に柱を建てるだけである。入口だけあって門がない−というべきかもしれない。建物はとりこわされても、そのような門柱だけがのこっている。奇妙な発見だった。ただの偶然だろうか、あるいはなにかの勘違いだろうか。

小幡の宿をぬけ国道6号線に合流して1kmほど行ったところの右手に、公園風に整備された国指定史跡の
小幡北山埴輪製作遺跡がある。昭和28年(1953)に開墾作業中、人物埴輪、円筒埴輪、馬の埴輪などが出土し、昭和62年には偶然、埴輪製作遺跡が発見された。6世紀中ごろから7世紀前半の遺跡と考えられ全国最大の規模を誇る。芝生に覆われた広い敷地の斜面に、細長い半円筒状の盛り土が並んでいる。古代の登り窯跡である。

トップへ


小鶴

奥谷の手前で国道を降り陸橋で右手の旧道(県道18号)に入っていく。高橋で涸沼川をわたり小鶴のY字路を左に入ると、ゆるやかなくの字を描いてのびる小鶴の町を通り抜ける。小鶴は水戸街道の宿場町ではないが、個性的な店の佇まいをみせる魅力的な町である。佐久間米穀店は一見旅館のような母屋のよこに、庇看板をとりつけた亀甲模様の白壁土蔵をもつ。石造りの建物にひらがなの看板をみるだけでたのしい「こどもや」も看板建築だろうか。

橋をわたって三叉路を右にまがって進むと長い茅葺の長屋門が見えてくる。門の軒先をかりて果物の店をだしているのは「フルーツのヤスムラ」。薄暗い門を通して奥に主家がのぞいている。諏訪神社入口を通り越して小鶴の町をはなれるころ、左手に「奥の細道」の暖簾を掛けた鮮魚屋をみかけた。奥の細道のどこかに旅行して土産に買ってきたものだろう。魚をさばいている主人に声をかけようとしたが、若い女性客が自転車をおりて店にはいってきたので細道談義をする機会をうしなった。


トップへ


長岡 

小鶴から長岡まではわずか1kmほどでしかない。如意輪寺のさきで県道18号と合流した旧道は、長岡橋で涸沼前川を渡るとすぐにY字路を右にとり、長岡の街並にはいっていく。長岡郵便局の隣は長岡名物のみそ饅頭で知られる藤屋製菓である。記念に一個ずつ食べてみようかと店に入り2個注文すると、背をむけて店頭の饅頭をならべていたおばさんに「バラ売りはしていません」と、にべもなく断られた。6個入りパックが最小である。

長岡坂下の変則十字路から東に出ている県道106号を500mほどいった長岡団地の丘に、楠正成を祀った楠公社が建ち、そばに
水戸浪士毛塚がある。水戸脱藩士をはじめ長岡村、小鶴村と奥谷村の士民数百人が水戸から最初の宿場である長岡宿の旅篭中夷屋(現みくらや)に陣をとり気勢をあげた。桜田門外の変決行の3ケ月前のことであるこのとき同志は髪を切って付近の地面に埋め大老井伊直弼襲撃結盟の證とした。明治の時代になって長岡の住民は髪をこの地に埋めもどし、塚と社を建て大楠公にあやかり楠公社としたものである。

旧道に戻って県道40号で坂を上がっていく。このあたりが宿場の中心地であった。沿道は住宅街で商店はすくない。武家屋敷のような白壁塀をめぐらせた水野家の前に高岡神社、その先に脇本陣だった木村家住宅が保存されている。茅葺の修理中であろう、青いシートが屋根の一部をべっとり覆っている。庭には早くも熟した柿の実が散らばっていた。

交差点を越えた左側に総合衣料センターみくらや吉沢家)が見える。元は旅篭の中夷(なかえびす)屋で、ここに尊攘改革の改革派浪士が屯集した。この家の柱には彼らが残した刀の傷跡が残っているという。

県道40号は長岡新田で右折して大洗に向かい、旧水戸街道は県道180号線に引き継がれるが、国道までの短い区間は南行き一方通行のため、車はさきほどの十字路を西にまがって国道6号長岡新田交差点にでなければならない。ここがたまたま東京からの100km地点になっていた。水戸まで7kmとある。北関東自動車道のインターチェンジを越え、旧道は東野交差点で左にわかれる県道180号に再びはいる。ちなみに奥州・日光街道での100km地点は栃木県雀宮だった。水戸街道は東によったため、長岡は雀宮より緯度が低い。


トップへ


涸沼 

水戸に入る前に大きな寄り道をした。涸沼川と那珂川の間に長く広がる涸沼である。
涸沼はもともと海だった。那珂川が運ぶ土砂の堆積で出口が封鎖され湖となった汽水湖(きすいこ)である。海の干満に応じて水位が上下し、満潮時には海水が涸沼川を逆流する。ヤマトシジミの産地で、昭和40年代まではニシンも豊富に獲れた。涸沼はまた水運の重要な拠点でもある。那須連峰から発した那珂川は黒羽で奥州からの物資を集積して太平洋の那珂湊に達する。ここから涸沼の西端海老沢河岸に荷揚げされた物資は、陸路水戸街道を下って霞ヶ浦−利根川水系にリレーされた。

さらに沼は風光明媚な景勝地にもめぐまれ、キャンプ場や公園をめぐって20kmの沼を一周するのも一興であろう。寄り道としてその西側三分の二を周遊することにした。幸い秋晴れで天高く、今日は中秋である。

車を県道18号線、奥谷十字路までもどし、県道16号線で涸沼川に並行して東南方向に走る。5kmほどで涸沼川河口の集積地海老沢に着く。案内標識につられて「いこいの村涸沼」まで直行した。ホテルやスポーツ施設を整えた総合公園だ。釣りやシジミ捕りを楽しむ人たちで湖畔は賑わっていた。かなり距離があるにもかかわらず、水は腰までしかなく、かなりな遠浅だとみえる。

来た道をもどり、海老沢で北におれて県道50号線で涸沼大橋をわたり沼の北側に出る。橋からみる河口の眺めが素晴らしかった。葦原にできたよどみに田舟が休んでいる。稲刈りの終わった田には機械のタイヤ跡がまだ新しい。


橋を渡った上石崎地区では収穫の盛りで、あちこちで稲刈り機のまわりをシラサギが飛び回っている。機械が近づいても逃げるどころか、むしろ稲が刈り取られるのを待ち構えているようにみえる。刈田で隠れ家をうしなった蛙が目当てなのだ。絶好の食欲機会は、少々のカメラの接近を甘受させた。

大きな交差点で県道106号を東にとって親沢公園に向かう。対岸の網掛(あがけ)弁天の鼻と向いあう位置にある景勝の地で、茨城百景の一つである。キャンプ公園の入口の案内板がこの地にまつわる松の話を伝えている。

県指定文化財  名称 親沢
親沢は、涸沼に突き出した砂州である。砂州の突端に以前、一本の野生の松があり、つぎのような言い伝えが残されている。
  昔、一人の老人が住んでいたが貧乏で子どもがなかった。ここにあった一本の松が、一つ葉だったので、子ども代わりに大事に育てていた。世の人はこれを「親沢の一つ松」といった。
 その後枯死してしまったため、付近の人たちが野生の松を植え、後世に伝えようとした。
水戸光圀(義公)が当地に立ち寄ったおり、この話を聞き、つぎの和歌を詠んだ。

   
子を思う涙涸沼の一つ松 波にゆられて幾代へぬらん

ここから眺める夕映えの筑波山は写真家の間で人気が高いらしい。10人余りの男性がそれぞれ思いの場所に三脚を構えて西空の赤らむのをまっていた。やや霞が強くて夕焼けは不完全燃焼に終わりそうだった。彼らは陽が沈んでからの夕映えを待つつもりである。私はつぎの予定があるので、コクチョウのシルエットで我慢して、月の名所に向かった。

宿泊予定の東横インにチェックインがおくれることを連絡して、夕闇せまる湖畔の道を広浦についたのは6時過ぎだった。広浦も涸沼の出口にあたる付近に突き出た砂州である。湖面に映る中秋の名月は「広浦の秋の月」として徳川斉昭が水戸八景(近江八景をまねて領内の景勝地8箇所を選び、藩内の師弟に八景めぐりを勧めたもの)の一つに選んだ。一角には斉昭自らが揮毫した歌碑がある。


  
浪の色も 雲にかよいてすめる夜の 月の光も広浦の月

  
広浦の 浪にやどして遠方の 山のあなたの月を見るかな


ここのキャンプ場は親沢よりも広く、大きなグループがテントをはって、どのパーティーも夕食のたけなわであった。炭火にこげる醤油の香りが漂ってきて、食欲をそそる。もの悲しげなランプの灯火も叙情的な景色である。見えてもよい中秋の満月がみあたらず、キャンプ場の管理人のおじさんにたずねると、土手の方向を指差した。ここからではまだ月が低すぎて見えないのだ。

土手にあがると、東の空に橙色にもえあがった真ん丸い月が浮かんでいた。「広浦の秋の月」は空の月でなく、湖面の月だ。湖面に映るにはもう少し時間がかかりそうだった。

未練をのこして涸沼を去り、夜道を水戸駅南口までたどった。途中になにがあったのかわからない。長岡を出て水戸に入る道程は、翌朝長岡まで引き返しての記録である。


トップへ


水戸 


旧街道(県道180号線)は吉沢町の自動車学校をこえた三叉路で右の道をとる。一里塚下バス停のすぐ北に吉田一里塚がある。塚をわしづかみするように太い根をのばしているのは樹齢100年の榎である。塚の右側には阿天利神社の石碑、左側にはまだ新しい一里塚跡の大きな石柱碑が建っている。石柱の説明文には触れていなかったが、これが水戸に至る29番目で最後の一里塚のはずである。

吉田小学校南で国道50号線を横ぎり、一里塚三叉路で左の細道をはいる。途中、県道235号線と交差するが中央分離帯でさえぎられ、徒歩、車ともに左折して迂回しなければならない。結局真鍋肉店の台町丁字路で右折して県道180号にもどる。すぐ左手に
薬王院の参道がある。奥まった閑静な林の中に茅葺朱塗りの仁王門が出迎える。807年、桓武天皇の勅願により伝教大師が創建したと伝えられる古刹で、時の権力者や領主などの庇護をうけて栄えた。仁王門の両側に立つ仁王木像は、浮き出た木目が脂質をそぎ落とした肉体の筋にかさなり、強力がみなぎってみごたえがある。入母屋造りの堂々たる本堂は国指定重要文化財だ。境内にはサルスベリの木が多く、いつもはピンクの花に奪われがちな目を、猿でも滑り落ちそうな大木の幹に集めていた。

旧道までもどり、突き当り朝日山の台地の端に
吉田神社がある。どこからかリズミカルな太鼓の響きが伝わってくる。「カタコリ ドンツク」と聞こえた。社務所の一室に子どもたちが正座して、バチを垂直に上下させている。まだ乳首をくわえた女の子は、もっぱら太鼓台に足をかけて手放しで立つ練習に余念がない。社殿のまえでは白い柔布につつまれた乳児が両親と祖父母の腕の間でたらい回しにされていた。

旧道はいよいよ紺屋町の
備前堀に架かる銷魂(たまげ)橋に到着する。江戸へ向かう旅人と、見送るひとびとがここで共にわかれを惜しんだ。備前堀は初代藩主徳川頼房公の時代、灌漑用水と桜川や千波湖の洪水防止のために、伊奈備前守忠次が築いた用水堀である。江戸近郊での活躍は知っていたがここまで来ていたとは驚きである。橋の石柱には高札場跡とも刻まれていて、人通りの多かったことを物語っている。高札場の近くには問屋場や本陣があるのが普通だが、その跡はわかっていない。

橋の西側には
「江戸街道起点」の石碑がたっている。江戸からここまで29里19町(約116キロ)とある。吉田の一里塚が日本橋から29番目で最後だと推定した根拠はこれによる。なお、によれば東京−水戸は107kmとあり、旧街道が1割弱ながいのは妥当な関係にあるといえる。江戸街道の起点はかならずしも水戸街道の終点を意味していない。江戸に向かう旅人はここで別れを惜しんだが、江戸からやってきた疲れた旅人はここでわらじをぬいだわけではない。もう数百メートル、宿場の中心地であった旧本4町目(現本町2丁目)あたりまで歩をすすめただろうと思われる。

本町1丁目の常陽銀行から本町3丁目の水戸本町局の通りまでが街道のメインストリートだ。「ハミングロード513」と名づけられている。水戸の中心は元の宿場街でなくて、偕楽園、JR水戸駅のある西北部にある。1986年、水戸市東部地区の活性化の一環として、本町商店街の513mの道路両側に彫刻を設置した。残念ながら活性化の試みは成功しているとはいいがたい。蔵造りの店や、千本格子で飾った旅籠の建物が残っていない(再建されてもいない)のが致命的である。趣きある木造建物をみたのは茶屋一軒のみだった。

本町通りの北裏筋に、国道51号に沿ってジャスコが出店しているが本町商店街を歩いた買い物客、観光客はそこへ流れていくようだ。敬老の日の月曜日は定休日なのか、商店街は大半が店を閉めていた。街道の終点としての水戸宿はあっけないほどに淡白であった。

ハミングロード513の中央あたり、茨城信用組合下市支店付近の交差点が水戸街道と岩城相馬街道との分岐点である。それぞれ、水戸からの出発点であり、水戸への終着点であった。交差点には
「旧本町四町目陸前浜街道起点」と刻まれた碑が建っている。街道のここから東は「岩城相馬街道(狭義の陸前浜街道)」に譲り、偕楽園を見て「旧水戸街道」を終わることにしたい。

水戸は徳川御三家の一つ、水戸徳川家の城下町である。徳川御三家とは家康の9男・義直の尾張家、10男・頼宣に始まる紀伊家、そして末子11男・頼房に始まる水戸家をいう。家康の末子3名である。3男秀忠が後を継ぎ、他の兄は早世したか養子に出された。

水戸藩主11名の中で、水戸の町を観光する上で覚えておくべき人物が4名いる。そのなかでも2代目光圀(義公)と9代目斉昭(烈公)は特に名高く、
偕楽園に隣接して、両公を祭神とする常磐神社と、資料館「義烈館」がある。

徳川頼房(威公)(1603〜1661)
水戸藩初代藩主。家康の11男。城を修築し、城下町を拡張・整備し千波湖東側の低地を開発して町人を住まわせた。

徳川光圀(義公)(1628〜1700)
水戸藩第2代藩主。殉死の禁止、笠原水道の開設、貧民の救済と産業の振興などの善政を行い、藩内外から名君と仰がれた。
中国の「史記」にならった、
「大日本史」の編纂は、近世日本の文化に大きな影響を与えた。
1690年藩主を譲り西山荘(常陸太田市)に隠居し、73歳で没する。中納言の唐名から、
「水戸黄門」の名で親しまれている。

徳川斉昭(烈公)(1800〜1860)
水戸藩第9代藩主。1829年に水戸藩主となり藩の財政再建のために、質素倹約をすすめ、紙・たばこなどの産業振興を図った。また、人材育成のための藩校「弘道館」や、領内の民ととも(偕)に楽しむという意味から名付けられた「偕楽園」を創設した。水戸八景の創設者でもある。
藩主を譲った後、将軍の跡継ぎ問題や日米通商条約の調印をめぐって大老井伊直弼と対立。水戸に永蟄居を命ぜられた。第15代将軍徳川慶喜公は斉昭公の7男である。

徳川昭武(節公)(1853-1910)
水戸藩第11代最後の藩主。徳川斉昭の18男として江戸駒込水戸藩別邸で生まれる。徳川慶喜とは兄弟。1867年、13歳でパリ万国博覧会に将軍徳川慶喜の名代として渡仏する。その後、イタリア、イギリス、スイス、ベルギーを親善訪問する。パリ留学中に大政奉還がなされ帰国。松戸に別宅を築き余生をすごす。趣味は写真


楽園

第9代藩主徳川斉昭公が、領内の衆とともに楽しむため1842年に造園したもので、金沢の兼六園、岡山の後楽園と並び日本三名園に数えられる。「偕楽園」の名は中国古典「孟子」の「古の人は民と偕(とも)に楽しむ、故に能く楽しむなり」という一節から取ったもの。この台地に飢饉や兵糧の際の食料として役立てる目的で梅の植栽を命じた。広い敷地に植えられた約100種・3000本の梅は格好の観光対象となって全国的に有名になった。初夏のツツジ、秋のハギも美しい。

好文亭は徳川斉昭が詩歌管弦の催しなどをして、家中の人々とともに心身の休養をはかるために天保13年(1842)に建てたものである。好文というのは梅の意味であって、「学問に親しめば梅が咲き、学問を廃すれば梅の花が開かなかった。」という中国の故事にもとづいて名付けられた。三階の楽寿楼からの眺望はすばらしい。偕楽園の南東に隣接する周囲約3kmのひょうたん形の千波湖周辺は市民の憩いの場で、西の湖畔には水戸黄門像が建つ。


水戸八景(近江八景)

徳川斉昭公が天保4年(1833)に領内を巡視し8つの景勝地を選定したものである。斉昭が、藩主を継いだ頃の世情は、決して無事安穏ではなかった。英明で覇気に富んでいた公であっても、心をわずらわすことが多かったであろうから、八景の風景は公の憂いをちらすに役立ったに相違ない。しかし、八景選定の大きな目的は、藩内の子弟に八景巡りをすすめて、自然鑑賞と健脚鍛錬とを図ることにあったのである。当時の流行語を用いれば、正に「文武両道の修練」に資せられたもので、公の深慮の程には全く、感嘆してしまう。(広浦説明板より)

仙湖の暮雪 偕楽園南崖 比良の暮雪
青柳の夜雨 水戸市青柳町(那珂川畔) 唐崎の夜雨
太田の落雁 常陸太田市滝坂東崖 堅田の落雁
山寺の晩鐘 常陸太田市西山研究所裏 三井の晩鐘
村松の晴嵐 東海村村松虚空蔵尊裏 粟津の晴嵐
水門の帰帆 ひたちなか市和田の上 矢橋の帰帆
岩船の夕照 大洗町願入寺裏(那珂川畔 瀬田の夕照
広浦の秋月 茨城町下石崎(涸沼湖畔 石山の秋月

トップへ

大洗

太平洋をみてかえることにした。水戸市内から那珂川にそって県道174号線を東に進む。湊大橋をわたって那珂湊にはいり海門橋で大洗側にわたる。那珂川が太平洋にそそぐ河口沿いに水戸八景「岩船の夕照」に詠まれた願入寺がある。大きな釣鐘が鉄骨の枠組に吊らされたままで、鐘楼の建つのを待っているようだ。

那珂川河口と太平洋に面して建つアクアワールドには家族連れや若者の姿が多くみられた。浜辺で波や砂に興じる者、それを遠く見守る仲間たち。午後もふかまり大気がかすんできた。

大洗の町を南下して港による。夕暮れ時の魚市場は閑として、漁船が整然と休んでいる。幾つかの家族連れが埠頭で糸を垂れ、今宵の夕食には十分以上の魚を捕っていた。

西の空がしずかにあからんできた。もう、落日をみとどけるまでは帰れない。水戸街道の旅を成就した達成感と心地よい開放感につつまれて、夕日をうけて刻々と色あいをかえていく漁港の風景にたわむれた。

(2005年10月)
トップへ

いこいの広場
日本紀行

水戸街道1
水戸街道2
水戸街道3
水戸街道4
水戸街道 5



稲吉−府中竹原片倉小幡長岡涸沼水戸