水戸街道 3



松戸−馬橋小金布施我孫子


松戸

江戸川

松戸側の堤防を歩いている。ゆったりとした江戸川の流れが大きく左に旋回するところに、淀みが葦に囲われてとり残されてある。カイツブリが棲んでいそうな風景である。10月16日、水戸街道の第一歩を印してから1ヶ月あまりの間に江戸川の堤はすっかり秋の色になっていた。堤防斜面の草は短く刈られているが、水辺には身の丈ほどもある草花が川の流れを隠していた。山吹色の花はセイタカアワダチソウというらしい。涼しげな穂先を風になびかせているのはススキかオギか。

旧街道沿いの松戸宿を散歩するまえに、宿場はずれの丘陵にある旧跡2箇所を訪ねることにする。


戸定が丘(とじょうがおか)歴史公園

松戸駅の南方丘陵に戸定が丘(とじょうがおか)という見はらしいのよい場所がある。松戸城址の一角でもあったとされるこの土地に明治17年、最後の水戸藩主徳川昭武(15代将軍慶喜の実弟)が別邸を築いた。朝の9時過ぎ、二人ほどの先客をみかけただけで、手入れの行き届いた庭園は静まり返っていた。左手には垣根越に青々とした竹林がせまっている。根元にはまだ茶色の産皮をのこしているから今年になって伸びてきたものだろうか。奥まったところに松戸城跡を示す石垣が残っていた。見上げるような紅葉の木が庭園を取り囲んでいる。勤労感謝の日あたりが見ごろらしい。

9時半の開館時刻を過ぎて、戸定邸に入った。大名下屋敷造だが、その庭はゆるい起伏のある芝生に丸い樹木の刈り込みを配した和洋折衷式庭園である。慶応3年(1867)、パリにて第5回万国博覧会が開催され、日本からは幕府、薩摩藩、佐賀藩が出展した。幕府を代表し将軍代理として渡仏したのが13歳の徳川昭武である。彼はパリでみた芝生が敷き詰められた西洋庭園に魅せられ、戸定邸に取り入れた。晴れた日には庭の向こうに富士山がよく見えるという。帰りがけ、窓口で松戸・小金付近の旧街道をくわしく教えてもらった。国道6号とは大部分がそれている。なるべく忠実に旧街道を行く方針である


戸定が丘の北隣にある丘陵が
松戸中央公園である。鎌倉時代に執権北条長時が砦を築いたため、「相模台」と呼ばれた。戦国時代になって天文七年(1538)、小田原北条氏と小弓公方足利氏・里見氏連合軍が戦った国府台決戦の舞台となった。その後近代になって、陸軍兵学校が築かれ、公園入り口に旧陸軍兵学校門と門衛が残っている。公園の隣、聖徳学園校舎内には国府台決戦での戦死者を葬った経世塚があるとのことだが、見なかった。

対岸の金町関所から渡し船で江戸川を渡った旅人は下横町に上がる。ここから松戸宿である。このあたりは渡船場河岸(下河岸)とよばれ、銚子から利根川をさかのぼってきた鮮魚をあつかう魚市場で賑わった。天領松戸宿の入り口を示す
「是より御料松戸宿碑」が建っている。ロータリークラブの寄贈によるものだが、本来は「御料傍示杭」とよばれる木製の杭で、現在堤防から河川敷になっている付近に建てられていた。先ほどセイタカアワダチソウの写真を撮ったあたりである。堤の遊歩道から昔の河岸地域を振り返ると、なつかしいアパートの建物が目を引いた。薄汚れた壁を隠すかのように三者三様の木が屋根の高さまで育っている。クリスマスにはどれも豆電球で飾りたてたくなるような趣のある木であった。

宿場中心街

渡船場道を東へ進むと旧街道大通りに出る。そこから松ノ木通りまでのおよそ1kmが松戸宿の中心街である。問屋場・本陣・脇本陣などはすぐ左の松戸郵便局のある場所にあった。建物は現存せず、その跡を示す標さえもない。その反対側、右手奥まったところに
松龍寺がある。かっては広大な敷地を有しており将軍の鹿狩り時の休息場所でもあった。鐘楼台の淵に大小雑多な石地蔵・石仏が無目的的に集められている。そのなかで、色といい形といい材質といい、かなり異色なオブジェを一つ見つけた。

坂川に沿って北に歩くと
松戸神社である。日本武尊が東征の際に従者と待ち合わせた地に建てられた祠がその発祥だという。待つ土(地)から松戸の名が出たという伝えもある。松戸宿鎮守で、毎年10月18日が例大祭(神輿渡御は直前の土日)である。16日の今日土曜日は、2時から子供御輿の渡りがあるという。夕方から明日にかけて、町は賑わいを増すのだろう。いくつか早々と店を開いている屋台があった。水神のある一角にお百度参り用の補助具がある。一列に古銭をそろばん状に20個通したもので、5列で合計100個ある。参るごとに一個を反対側に移すのだというが、途中で誰かが参加したらどうなるのだろうと考えた。

春雨橋付近

街道をよこぎる坂川にかかる春雨橋の周辺には古い商家が多い。建物だけ保存されているものもあれば人が出入りする現役の店もある。その中で幸運にも「近江屋」に出会った。呉服・きもの店である。そろっとはいって声をかけると奥から品のよい奥さんが出てこられた。決まり文句の挨拶をする。現在は2代目で、初代が近江、蒲生の出で、同じく日野商人だった丸正に奉公のあと、この地に分家してきたという。
「そうでしたか。私の親父は塚本でした。五個荘ですがねえ」
「暖簾に丸正さんの印があるのですよ」

春雨橋を渡ったところに寺が二つ、奥で敷地が繋がっているようにも見える。宝光院と善照寺である。二つの寺の間に昔、浅利又七郎という剣の達人が道場を開いていた。そこで、若き日の
千葉周作が腕をみがいていたのであった。千葉周作は後に北辰一刀流を確立し、赤胴鈴之助に伝授する。師千葉周作の娘が吉永小百合であった。周作は自分の娘と弟子が、幼い恋仲であったことを知っていたものと思う。
ともかく・・・・

駅前通りに近づくにつれ、古い店が少なくなり、ありふれた駅前商店街に変わっていく。

平潟遊郭跡

松戸宿の北端、松の木通りを左に折れて松の木橋で坂川を渡る。一昔前、坂川の西側は平潟田圃とよばれた広い水田だった。松の木橋と一平橋、坂川と平潟河岸に囲まれた区域に平潟遊廓があった。浅草田圃の真ん中に新吉原が作られたのと同じ地理的現象ではあるが、平潟には平潟河岸と、後にできた
納屋河岸(上河岸)を中心として、材木・鮮魚を扱う商人や水運業者があつまり、彼らを相手とする飯盛女を抱える旅篭が数多くできた。それらが発展的に遊廓を形成していったという点で、人工的に作られた吉原とは大きく異なる。

大正時代の平潟遊廓は贅を尽くした木造建築が立ち並んでいたということである。売春禁止法ができた昭和33年以後は司法試験のための学生寮であったというから驚く。どんな法律を勉強していたものか。1994年、風情ある建物はすべて取り壊された。

松の木橋から川に向かって進み左に旋回する場所に遊廓入口となる大門があった。今は住宅が立ち並び、跡を記す標識もない。まもなく通りの左手に見上げるような柳の大木が見えてくる。この通りの左側一帯にあった遊廓の名残をとどめる唯一の景色である。一平橋からのびている道との交差点近くに平潟神社と来迎寺がある。遊女たちへの祈りが詰まっている。


殆ど一日を費やして松戸の旧市街を散策した。川と宿と店が一体となったまとまりのある宿場である。宿場を通り抜けたところで旧道は線路を横切るが、人も車も先の陸橋を渡らなければならない。竹ヶ花交差点で旧道に逆戻り、見落としがないか歩いてみたが、雷電神社という小祠があったほか、旧道をうかがわせるものはなさそうだった。

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馬橋 

上本郷で6号線に合流し、北松戸駅の東はずれを直進する。馬橋駅入り口から八ヶ崎交差点まで、旧道は駅に立ち寄りするように「く」の字に迂回する。その奥まったところに大きな万満寺がある。目をみはるような立派な大門を通って、仁王門をくぐると左手に水掛不動三尊像がある。この寺では年に2回、唐椀供養といって仁王の股をくぐって中気除けをする行事で知られる。戸定邸で旧道を教えてもらったとき、この寺に長嶋茂雄も参拝したという話を聞いた。脳梗塞で倒れてからのことだろうか。それほど有名な寺ということだった。

八ヶ崎交差点で国道6号にもどる。北東角の歩道に文化3年(1806)に作られたという大きな石道標があった。「左水戸街道」、「右印西道」とある。東に15kmほどいったところが印西(いんざい)市だ。JR武蔵野線の手前左手の高台に「蘇羽鷹神社」がある。境内に芭蕉の句碑があるということだった。

  松杉を ほめてや風の かほる音

蘇羽鷹神社の向かい側を国道6号から斜めに入っていく道が旧街道であるが、一方通行になっていて、国道からは入れない。JRを越え、デニーズのある北部市場交差点にきたとき、左手の岡から子供御輿の行列が降りてきた。松戸市全域が祭日のようだ。

その交差点を右にはいり、一筋目を横断するのが旧街道である。ここで旧道は松戸方面への南一方通行と、小金方面への北一方通行に分かれる。蘇羽鷹神社からここまでの旧街道は、ここに車を止めて歩くしかない。曲がりくねった道の両側は比較的新しい家や高層住宅が並ぶ住宅地であった。他方、小金に向かう旧道はなんとなくそれらしき雰囲気が漂う。果たせるかな、旧道を確認する標識にであった。松戸市教育委員会の歴史説明標識は立て札型でなくて細い柱型で、写真には若干不便だ。

北小金駅入り口5差路で国道6号を突っ切って、静かで美しい小金宿に入って行く。


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小金 

小金は戦国時代、高城氏一族の小金城下町として発展した。徳川時代に小金宿が設けられ、また軍馬を育成する小金牧が開かれていた場所でもある。松戸宿が商人の町だとすると、小金宿は高級住宅街という感じがする。それほどに大きな門構えと広い庭を持った旧家が目立つ。すぐ右手が永妻家である。水戸街道の小金宿で古い暖簾を誇る飴の製造販売業者であった。先祖は俳人で、小林一茶と親しかった。左手が、千本格子が見事な鈴木家の旅籠玉屋で、徳川時代後期の旅籠の原型をとどめている。


大邸宅がならぶなかに、白い塀に囲われて新しい建物の寺がある。
「一月寺」という日蓮正宗の寺院である。昔この場所に同じ名前の虚無僧寺「一月寺」があった。時代劇や漫画によく出てきた虚無僧とは、もともと必ずしも仏教とは縁の無い、尺八を吹きながら物乞いをする人々であったという。彼らは青梅の鈴法寺や小金の一月寺を中心に、臨済宗の一派である普化宗の教義を取り入れて宗門化していった。明治4年普化宗は政府によって非合法化される。

本陣跡

古風な邸宅だが一風変わった雰囲気の家が出てきた。宅配の幟やしいたけ、じゃがいも、たまねぎ、烏骨鶏(うこっけい)など、門前の宣伝はけたたましいが、かといって手広く商売をしているふうでもなさそうである。イギリスの郊外へいくと、オープンガーデンといって自慢の庭を開放している個人宅がある。なかにはそこで、手作りのジャムやクッキーなどと一緒に紅茶を出して小遣いを得る人がいる。商売というより趣味で楽しんでいる人たちだ。この家の主は400年以上もこの土地に住んでいるという
大塚家で、井筒屋という屋号で代々、小金宿の本陣を勤めていた。

東漸寺の手前、小金小学校前のバス停あたりにさしかかると急に人出がおおくなった。道は人であふれ、ボーイスカウトの少年が駐車場をさがす車を小学校のグラウンドに誘導している。このあたりが宿場の中心地で、本陣、脇本陣、高札場、問屋場が道の左右にあった。今は本陣跡をしめす白くて細いポ−ルだけがある。今日は東漸寺境内一杯にぶらり市となづけたバザーが開かれているという。昼食に屋台の焼きソバでも食べようかと学校の運動場に車を止めた。校舎裏から寺にはいる道があった。

山門から本堂まで歩道の両側に屋台と蚤の市が店を並べている。花やの裏側で、木に繋がれたが若い女性の愛撫をうけて幸せそうである。本堂前からジャズの調べが流れてきた。門をくぐると絵画や写真が並べられ、芝生ではシニアクインテットが盛んな拍手をうけていた。生演奏がおわると阿波踊りが始まった。至近距離でこの快活で自由な踊りをみるのは初めてである。デジカメの遅いシャッター間隔がまどろこしい。締めくくりはチンドン屋である。不思議にクラリネットが使われる。ずっと三人に密着してついていって、山門の外に連れ出されてしまった。
ぶらり市を楽しんでいるあいだに時間がすぎてもう3時である。我孫子はあきらめた。まだ小金で二ヶ所見たいところが残っている。
 
「あじさい寺」
本土寺は旧道から離れ、JRの北側にある日蓮宗の名刹中の名刹である。建治3年(1277年)、源氏の名門平賀家の屋敷跡に領内の鼻和(はなわ)地蔵堂をここに移して法華堂とし、日蓮聖人より長谷山本土寺の寺号を授かったのが始まりと伝えられる。水戸黄門が植栽・寄進したという松杉などの大木がつらなる長い参道の正面に、丹塗りの仁王門がたちはだかる。門をくぐると繊細な青いもみじの葉が空を遮っていた。あと一ヶ月遅ければさぞかし素晴らしい紅葉を楽しめただろう。順路に従って一大伽藍を見学した。中でも回廊のある菖蒲池はよく設計されていて、梅雨時の景色は見事だろうと想像できる。

小金城跡

本土寺からさらに街道を離れ、小金の主、高城氏の拠点を見る。高城氏は戦国時代、北条氏の外様としてかなりの力を持っていたが、豊臣秀吉の小田原征伐以降没落した。城跡は大谷口歴史公園として保存されている。堀の一部が発掘され、復元された門がある。本丸跡は、多くの城跡のように、円形の盆地に説明板を立てたものであった。公園といってもひとけのない寂しい場所で、薄暗い林の中で独りでいることに安らぎよりも不安を感じさせた。

北小金駅南口交差点はサティを中心とした町一番の繁華街である。サティの西側に本土寺道案内の石柱が自転車の中に埋まっていた。南側にはまだ新しい「八坂神社御跡地」の碑と道標が2柱並んでいる。一つはかなり磨耗していたが「水戸海道」と読み取れた。一番小さい石柱には大きな文字が深々と彫られていて「左ながれ山へ 右 水戸道中」とある。向かいの東南角にはマツモトキヨシの第1号店が通りにまで商品をならべていた。松本清が始めた商品陳列法で、日本1のドラッグストアに仕上げた。彼は1969年松戸市長になっても斬新なアイデアを生かし、「すぐやる課」を設けて東京のベッドタウン松戸を有名にした。その店の西向かいに「小金町道路元標」が遠慮がちに立っていた。

街道はそこで東に進路を変え、道なりに南下し再び国道6号線を横切って隣の町、柏へ向かう。

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松戸市と柏市の間に向小金という流山市の一部が舌の先状に侵入している。福祉会館入口交差点角の香取神社境内に黒光りした立派な一里塚の石碑が建っていた。小林一茶の句が書き添えられている。一里塚の説明は一般的な内容だが、表現が非常に文学的・情緒的で、教育委員会の作文とは趣が大いに異なる。地元の人の思いがじかに伝わってくるようだ。

 この香取さまの社頭 南北に通う道は 江戸と水戸との往還 水戸街道であります むかし街道には 一里毎に土を盛塚となして 榎の木を植え生やし 旅人たちの目じるしとも 暑い陽射しには憩いの日陰を 俄かの雨には頼みの木立を それは酷しくも美しい 自然と人間との かかわりでもありました 
 ここにも 一里塚があって 長い歳月の程を 朝に夕に 往き来の人を 旧水戸街道ー向小金送り迎えた 榎の巨木は 幾とせか前に枯損して 塚は毀ち均され これは植え継がれた榎です 
 過ぎゆく 怱忙の歴史の彼方に そこはかとなく 忘れ去ることの忘却を想い この碑を建てました            昭和62年秋  氏子総代 以下略 

   
下蔭をさがしてよぶや親の馬  一茶

小金から柏にかけて、明治の初期まで一帯は小金牧とよばれた広大な野馬の放牧地だった。一茶の句もこの土地の景色を詠んだものだ。明治に入ってから開墾がはじまり村ができはじめ、今は柏駅の南北にそれぞれ衛星駅を従え、サッカークラブを所有する一大都市に発展した。

柏市にはいったばかりの今谷上町の八坂神社に「
柏市文化財めぐり 水戸街道と松並木」と題した説明板があった。かなりペンキが剥げ落ちた部分があって文字が読みづらい。

 柏市を国道6号線とほぼ平行して、市街地を通る「水戸街道」の名は、江戸時代徳川御三家の一つ水戸徳川家が水戸に封じられてからつけられたものです。水戸から先は磐城街道、あるいは相馬街道といわれましたが、それらをあわせて、江戸を起点として「陸前浜街道」または単に「浜街道」とよばれました。現在みられる水戸街道は江戸時代の後期に改修されたとみられ、それ以前は、多少ちがった道筋でした。また、市役所の近く諏訪神社の前に街道の一里毎の目じるしとしての「一里塚」がありました。
 水戸街道は参勤交代や旅人の往来が多かったのですが、、場所が広大な原野である小金牧を横断する形となっていたので、道に迷うことがあったようです。そこで、野馬奉行綿貫夏右衛門が、水戸候から資金を与えられ、街道の両側に千本の松を植えたのが松並木の始まりといわれています。つい最近までこの付近には当時を偲ぶ松並木が見られましたが、現在では付近の環境が変わり、松も老木になxxxxxほとんど見ることができなくなりました。   昭和61年11月    柏市教育委員会 柏市文化財保護委員会

日光東往還

南柏駅入口を通り過ぎた次の交差点から別の日光街道が始まっている。御成街道や例幣使街道とともに日光街道の脇街道の一つとして、日光東往還といわれる道である。旧水戸街道の現南柏駅東付近で北に分岐して、山崎−中里−関宿−境−谷貝−仁連−諸川−武井−結城−多功の10宿を経て雀宮で日光道中と合流する。20里約82kmの道のりである。

旧水戸街道とこの東往還との追分があってもよさそうだと交差点を調べてみたが、何もみつからなかった。交差点を過ぎたところのバス停が「新木戸」とある。街道追分が小金牧野馬土手の出入口に絡んでいたのであろうか。道はJR常磐線の陸橋をわたり国道6号線に交わる。その交差点の信号機に「旧日光街道入口」とあった。あくまでそこは、新国道からの入口である。

北柏

南柏から旧道はそのまま東に進んで柏市内を横切る。年末の人出を避けるように市の中心街を抜ける。宿場散策どころではない雰囲気だ。サンタ姿の出前スクーターが車の横を抜けていった。

柏駅入口交差点の右手、柏神社の前に「水戸街道の木戸」と題した説明板がある。ここから南柏の日光東往還分岐点まで、水戸街道が小金牧を東西に貫通している様子が描かれている。木戸は枡形をなし牧と村の連結点であった。柏は丁度その中間にあたり、宿場をおくような所でなかった事が理解できる。

江戸時代、柏市域の一部は小金牧といわれた幕府直轄の馬の放養地、供給地であり、当時の水戸街道はこの牧の中を通過していました。その情景は下の「水戸土浦道中絵図」から探ることができます。牧の中を水戸街道が画面東西に走りぬけ、その街道沿いには松並木と思われる樹木、周辺の野原には野馬の群れる姿が見られます。牧のはずれには木戸(「柏木戸」、「新木戸」)が置かれ、その周囲には野馬土手が築かれている様子がわかります。水戸街道は、水戸藩士の通行や人々の物資の輸送などに使われた重要な道でした。そのため牧と村の出入り口には木戸を作り、人々の往来を確保し、無宿者や浪人者などにも対処するための関所の役目も果たしていました。明治時代になって地租改正が行われ土地に番地がつくようになると、柏木戸のあったところが柏1番地となりました。現在、木戸は残されていませんが、水戸街道の「新木戸」や成田街道(現在の県道我孫子・関宿線)と言われた「花野井木戸」「船戸木戸」などが今でもバスの停留所の名称として使われています。

北柏へは不自然な入り方をする。場所は呼塚新田だが、周辺には根戸新田、松ヶ崎新田、柏堀の内新田と、新田に囲まれた干拓地帯だ。手賀沼に注ぐ川を新国道が渡るにあたって、大きな陸橋を架けた。旧道は分断され、Zの字に曲がった1車線を上下車両が共有する。国道にはいるとすぐ陸橋脇に「北柏入り口」として旧道が添えられている。国道に上らずに向こうの旧道に繋がる道がない。

北柏の駅は素朴な下町風の建物だった。朝8時ころで、学生や会社員が駅の中に消えていった。沿道の景色は一転して旧街道らしくなって、東陽寺あたりには旧家の豪邸が目立つ。寺の墓地の一角に石仏が集められている。道標らしきものは見当たらなかった。次の根戸十字路を左に折れて布施に寄り道することにした。関東3弁天の一つという布施弁天と、利根川の渡し跡を見に行く。

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布施 

我孫子(R7)−関宿(R47)線をしばらく行くと根戸入口の歩道橋に出る。直進すると野田に至る。右にまがると道はすぐに二又に分かれ、「是より布施海道」の道標と「筑波街道」と刻まれた道標を兼ねた常夜灯が追分地点に建っている。脇に「布施弁天」の案内看板があってわかりやすい。沿道には古い家並みが続くが、電柱には「富勢(とみせ)商店街」の看板がかけられてある。布施村の銀座街に相当する道筋なのだろう。別天地のようなのどかさが漂っている。

バスの終点は「あけぼの山公園」として整備され、広い駐車場の横には日本庭園、田園の真ん中にオランダ風の風車が回っている。葉をすっかり落とし、たわわに赤い実だけをつけた大きな柿の木は鳥たちの天下だ。小高い丘には823年創建の古刹、東海寺(布施弁天)がある。堂々とした楼門と三重の塔が構える石段をのぼると、正面に朱色も鮮やかな1717年建立の本堂が現れる。若者が黙々と本堂の階段に真っ赤なペンキを塗りつけていた。初詣を控えた化粧直しだ。ガラス戸の中を覗くと弘法大師が彫ったと伝わる
弁財天像がニヤッとして私を迎えてくれた。「撮影はダメヨ」というのを聞かずに1枚撮らせて貰った。境内の右奥に全国唯一ともいわれる珍しい多宝塔式の鐘楼がある。こちらは白木の清楚で格調ある建物だ。

但馬の国筒江の里に伝わる伝説   −布施弁財天のいわれ−
千葉県柏市布施に紅龍寺東海寺という名刹がある。大同2年(807)7月7日の早朝、湖の中か紅色の龍が現れ、たちまちにして島が現出し、日が没するころにはおおきな振動と共に不思議な雲が島の周辺にたなびいた。そのときどこからともなく現れた弁財天がいうには「私は但馬の国朝来郡筒江村より来たりてこの島に降臨したり」と。これより以後、毎夜のごとく島には明るい炎が輝いていた。弁財天が里人の夢に現れて述べるには「私の住んでいた安らかな山は但馬国朝来郡筒江村にあり。みるところ板東武者はわがままにして欲が深く、仏神を敬おうとする者少なし。よってこの地に来たれり」と。  以下略

七里ケ渡と布施河岸

公園の北側を利根川に向かって河川敷の田圃を進み新大利根橋の西袂にでると、葦原の中に大きなスズカケの木が見える。一枚の葉もなく寒々とした枝端に、薄茶色をしたゴマ団子のような実をつけていた。木元には渡し舟の事故にあった犠牲者を供養する、東海寺の名を刻んだ水神宮石碑がある。ここが七里ヶ渡し跡で、かってはこの背後に、利根川水運の一拠点として布施河岸が賑わいを見せていた。手前の河原は一面に赤茶けた葦が広がっているが対岸河川敷では砂埃を巻き上げて、モーターバイクがあらん限りのエンジン音をたてていた。
 
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我孫子 
 
旧水戸街道にもどり、国道6号線との交差点「我孫子市外入口」から国道356号線をたどる。国道356号線は我孫子から銚子まで93kmの道だが、我孫子宿を抜けるまでは旧水戸街道であり、途中木下(きおろし)を通って成田にも通じるため成田街道ともばれる。我孫子の宿場に入るのに、北柏にもまして不自然な形をとっていた。おそらくJR常磐線が分断したのだろう。

我孫子宿は駅前の八坂神社から東へおよそ1kmの間にある。イトーヨーカドーの南側に旧道を挟んで二軒の商家があった。米屋と酒屋である。北側にあるのが沿道随一と思われる古い家の「飯泉米店」、反対側は予期もしなかった「近江屋」だ。

縦長の敷地の道沿いに、趣味の店風の飾り付けをした可愛らしい店を出している。客を見送りに出た奥さんに声をかけると、店内に案内されて奥にでんと座り込んでいる主人を紹介された。棚の最上段に「近江屋」の文字を焼きつけた徳利がならべてある。一番左は『菊皇政』と書かれた酒つぼだ。話は殆ど奥さんから出た。
「私たちは滋賀県とは関係ありません。おじいさんが我孫子で酒造りをしていた『近江屋』に丁稚奉公していまして、暖簾わけでおなじ屋号の酒屋を始めたのです」「『菊皇政』という酒をつくっていた」 やっと主人のコメントが入った。

旅の後、『旧水戸街道繁盛記下』(山本鉱太郎 崙書房出版)を買った。同書28ページの「大正時代の我孫子」の地図に、まぎれもなく「近江屋酒造」が記されている。位置は寿町の本陣跡あたりに近い。 向かいに「秋山酒造」とあった。

街道は宿場の中心であった寿町に入り、左に曲がったところの寿交番横に「従是子神」の道標があり、すぐ先のマンション「ジョイテル」の玄関先には「我孫子宿本陣跡」の標識が立っている。道路の反対側には、コンクリートの白塀越に柔らかな茅葺屋根を見せる脇本陣小熊家が宿場の面影を残していてくれた。


鈴木屋本店の立派な建物が建つ三叉路を右に曲がると、しばらくして成田街道と水戸街道の追分に出る。白いレールに囲まれた三角地に幾つもの道標や道祖神などが雑然と集められていた。国道356号(成田街道)は直進し利根川の南側に沿って布佐、木下を経由して銚子へ向かう。旧水戸街道は左に折れて「浜街道」踏切をわたり、泉交差点を横ぎって天王台駅の手前で三叉路を左にとってJRガードをくぐり柴崎に進む。

柴崎地区は宿場から離れた静かな町だった。金久保に柴崎神社と円福寺が隣り合わせにあり、円福寺の裏に東源寺がある。柴崎神社はかっては妙見社とよばれていて、古くは日本武尊が東征の折立ち寄ったとも、平将門が武運を祈願したところとも伝えられている。おじさんが屋根にのぼって、積もったイチョウの葉を箒で掃き落としていた。拝殿にちかづくと一羽の鶏が悠々とs参道を闊歩している。赤いトサカの見慣れた鶏ではない。くちばしは黒くて、鶏冠は毛足の長い純白の毛を鋏でトリミングしたようにめでたく整えている。目つきまでなんとなく高貴に見えた。酉の年にちなんだ参詣客用の演出なのだろうと勝手に想像した。

円福寺は真言宗豊山派、江戸初期の開創と言われている。旧柴崎村の領主であった新見家の菩提寺であり、歴代新見家墓石がある。ここも住職と職人が一緒になって正月の準備に余念がなく、暇そうに境内をぶらつくのが少々気が引けた。左手に小さな祠があり、中をのぞくと笠をやや斜めにかぶり手に鯖をぶら下げた可愛いお坊さんが立っていた。鯖大師という。大師とはいうまでもなく弘法大師で、四国土佐に鯖にまつわる大師と馬子のエピソードが伝わる。ご利益に「鯖を3年食べないことによって、病気平癒、子宝成就、心願成就」があるという。コレステロールを下げる効果があるというので週に2回は食べるようにしている者にとっては命がけの決断をしなければならない。

国道6号線に合流する手前に武家屋敷を思わせる豪華な門構えの家が連なる一角がある。その中に旧柴崎村名主であった川村家の邸宅が道の両側にあった。文化11年(1814)、初代川村磯右衛門が酒造をはじめ財をなし、円福寺の檀家総代を勤めた後柴崎村の名主となった。地頭新見家の御用金を調達するなど、政商でもある。一軒一軒、門の外から内側を覗きこんでは、門構えの写真を撮っていく間、ため息をつくばかりだった。

柴崎三叉で国道に合流した直後左に下りた。旧道はここから利根川の堤防まで続いていたはずである。車で近づくと水路にぶつかり、そこには車の幅丁度の距離を保って太い鉄円柱が立ちはだかっていた。柱のペンキには通りすぎるときに車のミラーが引っ掻いた無数の傷跡が残っている。結局車を通すのであればどうしてそこまでイジワルする必要があるのか。ギリギリの通過門を幾つも抜けて堤防にたどりつき、勇んで登ると、河川敷には東我孫子CCの平坦な芝が延々と広がっているだけで、水は見えなかった。どこかに渡し跡があるはずだが。次の日、このあたりの田圃にコウノトリが迷い降りたという記事が出ていた。我孫子北新田といえば、狭い鉄柱柵で保護された土地改良地域のことである。

小堀(おおほり)の渡し・古利根沼

堤防の下の「利根水郷ライン」を東に2kmほど行くと小堀(おおほり)地区に入る。明治末期まで、利根川はここで大きく湾曲していた。三角地帯の小堀集落は利根川沿岸屈指の艀下河岸として栄えていた。川筋を直線化したために湾曲部はとり残されて沼となった。河岸も消え、利根川の南に取手市の飛び地として今に至っている。市民の足を確保するため今も河を横断する小堀渡しが営業を続けている。9時から午後4時まで、1時間に1回、20分かけて向こう岸に人と荷物を運ぶ。小さな小屋には次の出発まで手持ち無沙汰に時間をつぶしている若者が船と小屋の間を往復していた。渡し船操縦士という取手市職員だろう。鏡のようになめらかな川面に、一羽のカイツブリが細い直線を引き、まばたきをした瞬間に丸い波紋を残して姿を消した。

小堀河岸
 江戸時代の小堀地区は「艀下(はしげ)河岸」として、その名が利根川・江戸川水系に知れ渡っていた。艀下河岸とは、銚子方面から荷物を積んで江戸へ向かう高瀬船から積荷を分載する河岸のことで、利根川流域では、関宿と小堀にのみ認められていた。これは、小堀から関宿までの利根川に浅瀬が多く、渇水期には高瀬船の航行が困難になったためである。艀下に使われた船も高瀬船であったが、小堀河岸内の船ばかりでなく、遠く上野国(群馬県)あたりからも小堀まで艀下稼ぎに来ていた。文政4年(1821)には、小堀河岸の船70艘、他所から稼ぎに来る船が100艘にのぼった。
 小堀河岸には、荷物の運搬にあたる船持と呼ばれる人びとと、船や荷物の差配を行う河岸問屋(船宿)がいた。河岸で扱う荷物は、各領主の年貢米が多かったが、領主たちは、年貢米が江戸まで円滑に運搬されるよう、小堀河岸の特定の河岸問屋に艀下の提供を求めていた。渇水期には、必ず小堀河岸で艀下船を利用しなければ、利根川を航行できなかったからである。そのため小堀河岸の位置づけは、下利根川流域の舟運のなかでも特異なものとなっていった。
 明治29年(1896)に常磐線が開通すると、物資の輸送は次第に鉄道に取って代わられた。また、明治40年代に始まった利根川の改修によって、小堀地区が利根川本流から分離されたため、小堀地区の河岸としての機能は失われていったのである。
   平成6年11月  取手市教育委員会

沼の北側は沼岸まで民家が並ぶ小堀集落で、観光客相手の釣り船業者が多い。岸辺は私有地で入ることができない。沼の南側に渡るには東西にながい沼のいずれかの端をまわるしかない。東側の坂を上り中峠地区の丘陵はそのまま沼の南側につづいて、深い林の古利根公園に至る。「自然観察の森」を踏み分けていくと「芝原城祉」の立て札に巡りあえた。雑木林の木々の隙間から冬の低い光線を受けた古沼を見下ろすことができる。冬至があけたばかりの沼には黒子のような水鳥と奇声を発する小鳥の姿を見かけただけだった。

丘を降りて沼の西側には水辺までいける道がついている。日がかなり傾いてきて気ぜわしい気分に襲われた。先ほど上から覗いていた沼の東方を水平に見る。黒青い空に月が上っている。沼にも月影が浮いていた。西空は茜色に染まって、菜園の雑な景色を見事なシルエットに仕上げつつあった。帰り仕度の人影も一興のオブジェだ。時間にして1時間ほどだが、撮影会場を独占している気分だった。

手賀沼・白樺派

我孫子市は、かつては「北の鎌倉」と呼ばれた風光明媚な場所で、志賀直哉、武者小路実篤などの文人が住み着いた場所であった。今その中心に位置する手賀沼は日本一水質の悪い湖沼として名高い。生活廃水の悪臭立ち込めるヘドロ沼を想像していたが、意外にも清潔だった。EMを活用した水質改善の実験が行われていると、どこかで読んだことがある。

周遊歩道の出発点にあたる手賀沼公園を散策した。水鳥は餌付けされているようで人間を恐れない。ボートを漕ぐ人もなく、落ち着いて静かな公園だった。葦は赤茶けても茎はしっかり立っている。岸に沿って歩いてゆくとベンチを設けた休憩所があってそこに「手賀沼ゆかりの文人」のタイル板があった。一帯に個人別の紹介パネルがある。なかなか凝ったつくりで熱意が伝わってくる。その中で誰か一名あげるとすれば志賀直哉になろうか。大正時代に8年間我孫子に住んで「和解」「暗夜航路」「城の崎にて」などを発表した。車道の反対側に彼の住居跡が保存されている。一段上がった弁天山の一角に書斎だけが復元されている。

道を隔てて白樺文学館という資料館がある。入口には志賀直哉、柳宗悦、武者小路実篤とその夫人らの記念写真が掛けてある。大正のものだが全員が着物姿であった。館内には白樺派の文人達の手書き原稿や絵画、陶芸など多彩な才能が展示されている。地階から音楽が聞こえてくる。入ってみると高級オーディオセットから大正時代のLPサウンドが休みなく流されている。歌い手は柳宗悦夫人、柳兼子。60歳をこえてからのリサイタルを録音したもので、はりのあるつややかな美声だった。

(2005年1月11日更新)
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