取手

取手は利根川と小貝(こかい)川の合流地点にある。一帯は水郷湿地帯で、台地にある若柴と川向こうにある我孫子をむすぶ道筋の確保に苦労した。当時の水戸街道は、我孫子から高野山道といわれる現在の国道356号線を東へたどり、布佐で利根川を渡って須藤堀まであがり、そこから小貝川に沿って若柴に向かった。

天和・貞亨年間(1681〜1688)に関東郡代伊那忠治による大規模な治水事業が行われ、取手・藤代間の湿地帯に新田が開発されて新たに道が設けられた。藤代と取手が水戸街道の宿場となり、以降布佐経由にかわって取手経由がメインロードとなったが、それでも洪水に悩まされ、いくつかの廻り道が用意された。本街道は吉田村→小泉村→百井戸村→米田村→谷中村を経る道筋である。中通りとよばれる台宿→青柳→井野→酒詰のルートは明治時代に陸前浜街道と名づけられ、その後国道14号→6号となった新しい街道である。

桔梗塚・竜禅寺

神奈川・静岡の東海道を旅する者にとって、富士の山がどこまでもついて離れないように、関東地方、特に茨木・千葉の常総地方を旅する者に、どこまでもつきまとう背景がある。利根川をはじめとする網の目のような自然水系に加えて、坂東精神の原点たるべき平将門という名である。平将門は取手の北西、結城郡石下町豊田の里に生まれ、幸島郡北山(岩井市北原−2005年3月、岩井市と猿島町が合併して板東市となる)に戦死した。

桓武天皇4代目、高望王の3男で鎮守府将軍平良将の子として生まれたが、父良将の死後、平国香、良兼の両叔父に父から受け継いだ領土を横領された。紆余曲折があった後、平将門は中央政権に反旗を翻し関東で独立を図った逆賊の扱いを受け、結果的には平国香の息子平貞盛と、栃木県沼田に勢力を張っていた藤原秀郷との連合軍に破れて終る。首は京都七条河原にさらされた後、怨念の炎に乗って全国を飛び回った。

平将門は、人を疑うことが不得手な、およそ政治的な駆け引きを知らない善人であったこと、若くして片親をなくした寂しがりやであったこと、その反動としてこと親族に対しては、幼稚なほどに純な信頼を寄せていたこと、その一方で、武略にかけては豪胆と天才的な才能の持ち主であったこと、最後は親戚・政権を敵にまわしてあえなく戦死したこと、死後の行方に尾鰭がつくなど、驚くほどに源義経と共通するものが多い。

将門は武士社会の幕開けをつげ、義経に先駆けて悲劇のヒーローとなった歴史的人物である。関東全域にわたって、将門伝説をきかない地方はない。取手宿に入る前に、一ヶ所訪ねておきたいところがあった。国道294号線を西に4kmほどいった米ノ井に、平将門ゆかりの場所がある。

関東鉄道常総線稲戸井(稲、戸頭、米ノ井、野々井の合作)駅近くの国道沿いに、BMWや現代(ヒュンダイ)などの外資系の名も含めた多くの自動車ディーラーが並んでいる。稲戸井駅入口バス停の後ろに、北関東マツダ取手店の前庭を借りて、2m四方ほどのベニカナメモチの生垣が造られている。柔らかな真紅の若芽に囲まれて、いくつかの石仏が身を寄せ合うように隠れていた。平将門の愛妻桔梗の墓という。数多い将門伝説の中で、桔梗についても様々の説がある。

@ 愛妾であった桔梗御前は、将門が討たれたと聞き、この塚の前まで逃げて来たが、追手につかまり殺された。

A 桔梗は、将門の死を聞いて悲しみ、桔梗田といわれた沼に入水自殺した。

B 桔梗は秀郷の妹であり将門の愛妾となったが、秀郷との戦いが始まると、兄に情報を提供して将門を裏切った。秀郷は、口封じのため、妹を殺した。

C 桔梗は藤原秀郷と不倫関係に陥り、平将門の弱点が「こめかみ」にあると教えてしまう。これを聞いた秀郷によって将門はこめかみを射られ、あえなく死んだ。口封じのため、桔梗も殺されてしまう。

D 桔梗は大須賀庄司武彦の娘で、将門の戦勝を米ノ井の竜禅寺三仏堂に祈願しての帰路、この地で敵将藤原秀郷に罰たれた。

いずれにしても、この辺に植えられた桔梗は花が咲かないといわれ、桔梗は花をつけないように栽培して薬草とする事実に関連づけられる。

桔梗塚から国道の南にひろがる住宅街を縫っていくと、竹薮に面して、国指定重要文化財の「三仏堂」で知られる
竜禅寺がある。開創は延長2年(924)平将門によるとされる天台宗の古刹だ。本堂の前庭のような境内を、樹齢80年というキンモクセイの大樹がどっかと占拠している。三仏とは、釈迦如来、阿弥陀如来、弥勒菩薩のこと。桔梗にかんする第5説は、竜禅寺に伝わる話である。

JRのガードをくぐると宿場がはじまる。通りは「本陣通り」と名づけられていた。
左手に古い商家が二軒つづいている。手前が明治元年創業の奈良漬製造元株式会社新六本店、右隣りが清酒君萬代(きみばんだい)の田中酒蔵。

新六本店の角の道を入っていくと、樹木の生い茂る小高い丘に突き当たる。急な石段を登ると、平将門が創建したと伝えられる
長禅寺である。山門をくぐりぬけ、左の奥に控えるのが本堂で、正面には葉桜の向こうに観音堂、俗称「三世堂」がある。二層に見えるが、内部は三層になっていて、往路・復路が交わることなく巡拝できる「さざえ堂」様式である。案内板には、日本最古のさざえ堂とあった。会津若松の飯盛山でみたねじれ六角堂とちがい、三世堂はそのねじれ部分を内部に取り込んでしまって、外観はあくまで方形の端正なよそおいを見せている。

本堂前の境内に日本画家、小川芋銭の筆による小林一茶の句碑があった。

  
下総の四国廻りや閑古鳥 一茶

小川芋銭は牛久でゆっくりたずねることにする。

本陣

街道にもどり東にすすみ、「染野本陣ビル」の横の路地をはいると、奥まったところに取手宿本陣がある。寛政7年(1795)に再建されたもので、豪壮な千鳥破風をつけた総茅葺入母屋造りである。母屋のほかにも醤油蔵などが保存されている。本陣に指名された染野家は代々名主を勤めてきた家柄で、郡代伊那忠治に、取手・藤代の地の治水・開拓・新道敷設を進言して取手宿駅設置を実現させた立役者であった。染野家といえば、我孫子の町でも「染野」の文字を冠した屋号や商号をたくさん見たような記憶がある。直系なのか、地縁にすぎないのか知らないが、この地方最大級の名家姓にちがいない。

裏山を上ったところに、慶喜の父である第9代水戸藩主斉昭公が利根川の渡しで詠んだという歌碑が建っている。 

  
指して行くさほのとりての渡し船  おもふかたへはとくつきにけり

天保11年(1840)正月、水戸へ帰国途中の水戸藩主徳川斉昭は、利根川を渡る船の中で歌を詠み、染野家で休憩している間に、その歌を袋戸へ貼り付けて出発した。
取手川を渡る船中にてよめる  斉昭
  さして行く 棹のとりての わたしふね 思ふ方ニハ とくつきにけり
  行末に さをもとり手の わたし船 わたれる世をハ あたにくらすな
その後、水戸藩ではこの歌のうちの前者を石に刻み、3年後の天保14年、江戸から舟で取手まで運んできた。実際に斉昭が詠んだ歌とくらべると、文字の使い方や言葉が多少異なる部分もあるが、斉昭自筆のものをそのまま石に刻んだようである。   取手教育委員会

中へ入って記帳していると、管理事務所に詰めている婦人から、ビデオ鑑賞をすすめられた。大きな電気カーペットの真ん中に一人あぐらをかいて、18分のビデオを見た。解体して木造建築の伝統工法で復原するまでの一部始終が記録されている。普段の工事現場ではみられない部分が、わかりやすく編集されていて興味深かった。

街道はずれの井野一丁目、急坂をあがった幼稚園の隣に、
本多重次(本多作左衛門重次)の墓があるというので訪ねてみた。愛知県岡崎市に生まれ、「鬼作左」と呼ばれた徳川家の重臣だったが、人質政略に関して豊臣秀吉の勘気にふれ左遷させられ、この地で亡くなった。陣中から妻に送った簡潔な手紙文が後世有名になった。

  
一筆啓上、火の用心、お仙泣かすな、馬肥やせ

「お仙」とは重次の嫡男「仙千代」のこと。後の本多成重で、第6代丸岡城主となった関係から、丸岡町は日本一短い手紙「一筆啓上賞」の公募を思いつき、町おこしに成功した。今、取手も嫡男ではなく本人を担ぎ出して町おこし案を企画中である。重次は青柳村本願寺に眠っている。

子供に読ませようと思って昔買っておいた本から、好きな手紙2作。
平成6年 日本一短い「母」への手紙
   お母さん、もういいよ。病院から、お父さん連れて帰ろう。二人とも死んだら、いや。
平成9年 日本一短い「父」への手紙
   父がコップに残したビールは、父の残りの人生のようで 寂しくなりました。
 
八坂神社の横を通って、利根川の土手に出た。かっての小堀河岸で賑っていた所だ。葦を残して緑に塗り替えられた河川敷はやわらかな陽に撫でられて、淡緑の柳が乙女のように初々しい。野球やソフトボールに興じる若者、犬を連れた散歩人、無線で飛行機を飛ばしているオタクっぽい男、川べりの葦の陰には孤高の釣り人。向こうから小堀の渡し舟が流れてくる。鉄橋を電車が渡る。足元から小鳥が発つ。タンポポに蝶がゆらぐ。利根川は春の盛りだった。

水戸街道は川沿いの道を東に進んで、吉田のバス停を越えたところで左斜めに坂を下りていく。右手の土手から見渡す河川敷は、長兵衛新田ののどかな景色が広がっている。街道筋の家の庭に敷かれた芝桜が美しい。街道を500mも行くと民家は途絶え、眼前は広大な田園地帯である。

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藤代 

相野谷川に架かる橋の袂に道標があって、三面に、「水戸十八里」、「来応寺七丁」、「江戸十一里」とある。ここから藤代町に入る。最近までは藤代町は北相馬郡だったが、3月に取手市に吸収された。この合併はどの地図にもまだ反映されていない。

すぐに、「旧陸前浜街道」の標識を見て、右の細い用水路に沿ってまっすぐに北上すると、やがて谷中本田交差点で国道6号線を横ぎって藤代の街中に入っていく。
相馬神社の前で直角に右折する。角に、長い板塀に囲まれて胴長の二階を持つ旧家は坂本洋服店だ。

藤代本陣跡は中央公民館の敷地にあった。百日紅と老松が今に残る生き証人だと、立て札は言っている。本陣は、代々藤代宿の名主飯田家が勤めた。藤代宿は取手に次ぐ7番目の宿駅だが、実際は隣接する宮和田宿との2宿で1つの宿駅の機能を果たしていた。普通には、この両方を合わせて藤代宿と呼ぶ。

宮和田

再び国道6号を横ぎり、駅前の通りを東に進むと街道は二つに分かれる。その間の細い道が旧道で、すぐに土手につきあたる。角の熊野神社に車をとめて土手を越えて川辺までおりてみた。宮和田の渡し場があった所だが、何の痕跡もない。右手に常磐線の電車が鉄橋を渡っていた。振り返るとまっすぐな旧街道の見晴らしがよい。土手に沿った細道をたどり、国道に戻って文巻橋を渡る。ここが下総と常陸の国境であった。

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若柴 

橋を渡り終えてすぐ右に入り、土手の中腹に延びている細道をいく。対向車がきたらどうしょうかと考えたが、幸い見通しはかぎりなくよかった。左土手下に赤銅色をした入母屋造り観音堂が見えた。この地点が宮和田の渡しの対岸にあたる。横の坂道が、渡しから続いていた旧道である。堂内には11面間音像が安置されているという。

寺伝によれば、天慶年間(938〜947)に平貞盛が父国香の菩提を弔い、自領の民心を安定させるために建てたという。
平国香といえば、甥にあたる将門の領地を掠め取った強欲な土豪であり、その息子貞盛は世渡りに長けた策士で、俵藤太秀郷を味方につけて将門を討ち、軍事貴族として出世した、将門ファンにとっては、聞きたくもない名前であろう。時を経て、眼病に霊験がある観音様ということになり、人が集まってきた。

清水京染店の前を通り小通幸谷(ことりこうや)の町をぬけ、常磐線の龍ヶ崎踏切を越えると川原代(かわはらしろ)である。土手にでると牛久沼の排水機場がみわたせる。牛久沼から小貝川へ流出する水量を調節するための貯水池である。白鳥が一羽ポツンと浮かんでいた。一帯はお花畑で、チューリップが満開だった。道路際の白と淡紫の柴桜が陽射しを反射してその色合いを際立たせている。

「往還橋」を渡って県道5号線に合流する。50mほど進んだところで、左に入る道があって、角に屋根で囲われた小さな道標がある。柱が邪魔になって文字のすべてが読めない。資料によれば、「右 りゅうがさき なりた」「左 わかしば 水戸」とあるらしい。とにかく、ここが旧道だ。対面にある「トンカツ末広」も、よく目じるしにされているが、看板の文字も消えて、どうやら廃業した様子であった。

道なりに進んでいくと関東鉄道龍ヶ崎線の踏切を越えて、馴柴小学校の北側の三叉路にでる。南北に通っているのが、取手経由の街道が出来る以前の古い水戸街道で、布川を経て我孫子の布佐にでた。学校の敷地、東北隅に、文政9年(1826)12月に15名の若柴村民によって建てられたという道標がある。三面にそれぞれ、「布川三里」、「江戸十三里」、「水戸十六里」と、大きく彫られていて分りやすい。金網に守られた上に、チェーンで囲まれているのは、見た目に痛々しい。金網を破りセメントで固められた石柱を引っこ抜いていくいたずら者がいるかしらん。

あと1里半で水戸街道の中間点に着く勘定になる。次の宿場牛久あたりになりそうだ。

寄り道

龍ヶ崎市内にある般若院の枝垂桜はその古さと大きさで有名だと知った。六義園の枝垂れ桜をみてから、ちょっと桜に凝っている。
般若院 樹齢400年、樹高約10m、目通り幹囲約5m、枝張り東西約15m、南北約22m
六義園 樹齢50年、 樹高約13m、目通り幹囲??  幅約17m

幹の太さは樹齢と比例しているとすれば、般若院の桜の幹は圧倒的である。確かに巨大タコ怪獣のような枝振りは見ごたえあったが、肝心の花は終わっていて、新緑の葉に花びらの残骸がしがみついている風であった。

女化(おなばけ)稲荷神社

そこから県道48号線を一気に北上する。このあたり48号線を女化街道ともいう。「女化」という名はそれほどに人をひきつけるあやしい魅力を発散する。地図を見るとおもしろい。稲荷のある場所は女化町で、テリトリーとしては牛久市に属する。しかし、この神社の敷地だけが龍ヶ崎市の飛び地になっているのだ。さらに奇妙なことには、競うかのように、そこから300mほどの距離に牛久市女化町の別の女化稲荷がある。寄り道したのは龍ヶ崎市の稲荷であった。

昔、忠五郎という農夫が猟師に狙われた狐を助けたところ、狐は美しい娘に化けて忠七の嫁となり、三人の子供をもうけた。ある日、昼寝をしているうちに油断してしっぽを出してしまった。正体を見られた狐は幸せだった忠七との愛をあきらめ、泣く泣く原の古塚へ帰っていった。村の人々はそんな狐を憐れみ、狐塚に女化稲荷神社を建てて彼女を偲んだ。永正2年(1505)のことである。原はいつしか女化の原と呼ばれるようになった。

テーマは鶴の恩返しに似ているし、狐が女に化けるのは
九尾の狐もそうだった。人の身でない女が求愛され、子を産んだ後に人界を去るのは羽衣の天女がそうである。自分の身を変えなければ人と交われない哀れの要素と、自分の身を隠して人を助ける無償の愛と、人は動物にたとえてその二つを使い分けてきた。現代的意味において差別問題に思いが至る。肌の色の違う人間のなかでの差別ーアメリカの例と、同じ肌の色をもつ人たちのなかでの差別ー日本の例と。

神社の森は、なんとなくお化けくさくて気味悪い場所かと思っていたら、予想は全く誤った。その正反対で、桜の名所であるらしく、盛りが過ぎた桜の木の下で、二組の花見客が芝生に輪を作っていた。桃やモクレンの花も桜に負けじと元気が良い。いくつもの鳥居のトンネルの奥に、女性らしい清楚な社殿がたたずんでいる。白木のままの素肌が白い桜に似合って、風呂上りの乙女のようなすがすがしさだった。

若柴宿

ようやく、本来の宿場にもどる。街道は牛久沼の湿地帯を避けて台地を迂回することに設定された。このため坂が多い。大坂を登り切ったところの八坂神社が宿場の入口にあたる。若柴宿は藤代・牛久の宿と近いため本陣もない小さな宿だ。台地の西端崖にそって1kmほどの宿場通りに豪華な門構えの家が並んでいる。町家や旅籠風の格子造りでなくて、たたずまいは農家に見える。門構えはそれぞれ、個性をみせてはいるが、中をのぞくとどの屋敷も申し合わせたように、広い庭には梅・桃・桜・椿の花木や、松・紅葉の庭木であふれ、母屋は重厚な瓦屋根の入母屋・寄せ棟造りである。家並みは松戸の小金宿を上回る豊かさだ。

ねがらの道・種池
「ねがら」とは根がはびこると言う意味。台地の端にあたる宿場通りから、牛久低地に落ちる坂が数本でている。どの坂道も、露出した木の根が壁をなしている。宿場街道に平行して崖下の湿地際につくられた裏道を「ねがら道」とよんでいる。裏街道というにはあまりに虐げられた道という気分が強い。ところどころに種池と呼ばれる池がある。かつては清水が沸いていて農民がそこで種もみを浸した。いまでは仲町の池だけに清水が沸く。ちいさな池で、視野の広がる方向には水面のきらめきがのびる湿地帯である。

金龍寺

街道は金龍寺参道の入り口で右に直角に曲がる。曹洞宗の名刹金龍寺は、応永24年(1417)新田義貞の子貞氏が上州太田に建立した新田家の菩提寺を、一族の由良国繁が牛久城主になったときに移築したものである。牛久沼をみおろす境内の左奥に新田家の墓がある。この寺に、牛久沼の名の由来にまつわる伝説があるが、あまりにたわいない話なので省略する。小貝川のほとりにあった11面観音堂はこの寺の管理下にある。

星宮神社

集落の終わるあたり、街道沿いの森の中に若柴の鎮守、星宮神社がある。天慶4年(941)、常陸国太守平貞盛によって建立、寄進されたという古い歴史を持つ。祭神は天御中主大神で、肥後国八代神社から分霊勧請して祀ったものと伝わる。この神の使いが「うなぎ」だというので、若柴では決してうなぎを食べないという。隣の牛久が「うなぎ」を特産として、国道沿いにうなぎ屋が店を並べているのを、若柴の人たちはどう感じているものか。

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牛久 

道は県道243号を横切り、左に大きく曲がって原新田の在所を通り抜ける。見晴らしよい田畑が広がる中に、街道に沿った栗林がワンパク坊主のイガグリ頭のような初々しい実を抱いている。成井地区の街道両側に塚の名残が残っていて、最近一里塚の標石が設置された。15番目の
「成井の一里塚」である。水戸まで30里というから、この一里塚が江戸−水戸の中間地点に当たる。

道はやがて雑木林の枝が覆いかぶさる坂道を90度に曲がり、JR常磐線の銅像山踏切を越える。左右に分かれる坂の左側を降りて、線路に寄り添って走る国道6号を横切り、東側の細道に入る。(工事中につき、次の道を左にはいった。)ここから、牛久宿が始まる。牛久市街の南西はずれにあたる。牛久宿は次の荒川沖宿を合宿とし互いに助け合って運営していたが、それでも宿駅の負担はきつかった。飢饉でも、重税でもなく、宿駅制度を原因とする農民一揆の先駆けとして、牛久は歴史に名を残すことになった。

女化騒動(牛久助郷一揆)

文化元年(1804)10月、女化稲荷を本陣として、近隣信太・河内2郡55カ村の農民ら6000人余りが集結した。牛久宿の問屋他の役人宅を襲う計画である。当時、牛久・荒川沖宿は10カ村で「人馬継立」を行っていたが、問屋主人らは恒常的な人馬不足を解消するため助郷の村数を増やそうと、村人の同意も取らずに近在60カ村の増村を幕府・道中奉行に要請した。

普段でも貧しい村民は助郷課役の重圧に耐えられなくなった。小池村(現阿見町小池)の吉重郎と勇七、桂村(現牛久市桂)の兵右衛門の3人をリーダーとして助郷推進者3名の屋敷を襲撃した。幕府は代官を派遣して徹底的な弾圧に乗り出し、農民側は交渉の機会も与えられず、一揆は失敗に終わった。一揆責任者の勇七は獄門、吉重郎と兵右衛門は遠島の裁きとなったが、3人は江戸伝馬町の牢屋で拷問の末に獄死した。19年が過ぎて、牛久宿で打ち壊しを受けた麻屋家が、一揆の首謀者3名の供養のため、道標を兼ねた供養塔を荒川沖の東方、阿見町に建てた。狭い県道48号を南に下った阿見1区南の交差点の一角に道標が露出している。かってはお堂のような建物の中にあったのが、自動車事故の巻き添えでもくったものか、一角の空き地に壊れた資材が散乱していた。

カッパ

本牛久郵便局の手前、
「芋銭河童碑道」の石標がたっている交差点を左に進むと、旧牛久城中区域に入る。三日月橋・カッパの里に向う道と、得月院を経て小川芋銭記念館雲魚亭にいたる道が分かれる広い三叉路角に牛久城大手門跡の碑が建てられている。牛久城は、16世紀のはじめのころ在地領主岡見氏によって築かれたといわれる。天正18年(1590)豊臣秀吉の東国攻めによって岡見氏は滅亡、かわって上野金山城主であった由良国繁が入城した。元和7年(1621)、由良氏が徐封になり、廃城となった。城は周囲3方を沼に囲まれ、一方の北側は台地を掘切った城郭であった。

まず、左の道を進んで河童碑をみることにした。途中、徳月院に寄って小川芋銭の墓をたずねる。小川芋銭は明治元年(1868)江戸赤坂の牛久藩邸大目付小川伝右衛門賢勝の長男として生まれた。廃藩置県で父に伴って牛久に帰農した。俳雑「ホトトギス」などの挿絵や表紙を描いたほか書道、随筆、俳人としても知られた文人だった。牛久沼に棲んでいたといわれる河童の伝説に魅かれ、「芋銭の河童か、河童の芋銭か」といわれるほど多くの河童の絵を描いた。茂った木々の隙間に沼を見下ろす台地の片隅に、膝をかかえて座り込んだ孤独な河童が彫られた石があった。碑と反対の方角には芋銭が晩年をすごしたという雲魚亭がひっそりとたたずんでいる。

そこでもらった案内地図に、河童碑に隣接して
「牛久藩陣屋跡」とあるが、どうしても見つけることが出来ない。駐車場にもどって帰ろうとしたとき、車から降りてきた市の職員らしき二人連れの若い男性にたずねてみた。
「ここがそうなんです」と、駐車場のとなりの草むらを指差した。説明板も碑もなければ、土塁や濠跡らしき遺構もない。これでは誰もわからないだろう。

先ほどの三叉路に戻って、道を左にとる。三日月橋の標示にしたがってすすむと、牛久沼のほとりに出た。橋の袂で、合歓の木蔭に潜むように河童が坐っている。河童の碑のレリーフと同じポーズだ。顔、手足、背などをよくよく観察すると、河童とはアヒルとカメとニンゲンの合成動物だという印象を得た。牛久沼は稲荷川と谷田川の合流地点が堰どめられた形をしていて、長くはあるが、湖のようなひろがりは感じない。縁は高く伸びた葦で覆われ、縁べりは湿地帯を形成している。その一角が整備され、カッパの里、牛久アヤメ園と名付けた公園になっている。そこにも同じ顔をした河童が咲き残りのアヤメをみつめていた。

ウナギ

牛久沼はうなぎの本場でもあった。うな丼の発祥の地でもあり、「うなぎ街道」とよばれる、沼の東岸を走る国道沿には、古い暖簾を誇る鰻料理屋が店を構えている。江戸時代、ある男が牛久沼で舟渡しを待つ間、茶屋でうなぎの蒲焼と丼飯を注文した。蒲焼が出てきたと思ったら舟が出るという。慌てた男はどんぶりのご飯の上に蒲焼をのせ皿で蓋をして船に乗った。対岸についた頃には、鰻の身がやわらかくご飯にたれがしみていて非常に美味かった。それが江戸中で評判になった。

丼じたいは以前からあったようで、簡易食として重宝がられた。草加の堅餅であるせんべいや英国の貴族サンドウィッチの挟みパン、セントルイス万博のコーンアイスクリームとホットドッグ、日清のカップヌードルなども同じ仲間だ。

ワイン

水戸街道の反対側、駅から1kmほど東にいったところに牛久シャトーという西洋風の瀟洒な建物がならぶ一角がある。明治36年神谷伝兵衛によって建てられたもので、ぶどうの栽培からワインの瓶詰めまでを行う、わが国初のワイン醸造所である。「日本人の飲むワインは日本で造りたい」という願いから、神谷はボルドーからブドウ苗を輸入してこの地で栽培をはじめた。神谷は商才にもたけ、浅草に進出し神谷バー
「電気ブラン」を売り出して大ヒットした。神谷は大金持ちになった。

現在は合同酒精のワイン貯蔵場となっているが、敷地内には工場、貯蔵庫のほか神谷伝兵衛記念館、和洋のレストラン、ブドウ畑、バーベキュー柴庭などがあって、大人が楽しむ公園を造り上げている。レストランのメニューを一瞥したところ、価格は一流ホテルなみだった。資料館前の中庭の木陰で憩う人たちはすべて高年の婦人方である。男が一人、絵を描いていた。記念館は楽しい。地下の樽貯蔵庫はひんやりとしていて、大きな樽が横たわる暗闇に近い通路を歩いていく。2階は展示室だ。着物姿でワイングラスを手にした女性のポスターが一番気に入った。

さて、寄り道から本道にもどる。宿場町は国道から「く」の字に離れ、町のほぼ中央には黒板塀を巡らせた
飯島家の邸宅が残り、正門脇に明治天皇の牛久行幸行在所跡標柱が建っている。その他目にとまる旧家の姿はみあたらず、宿場自体の散策はすぐに済んだ。

国道にもどり1kmほど行って、わずかながら再びくの字の旧道を経る。その後国道6号を北上し、常磐線「ひたち野うしく」駅の西方を通り過ぎて、土浦市との市境にさしかかる。ここに左右一対の一里塚が残っていた。
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荒川沖
 


一対の一里塚は、所在地の行政区がことなるために、それぞれ別の名が付けられている。江戸時代もそう呼ばれていたのかどうか、知らない。
右の東側は牛久市中根町、よって
「中根の一里塚」といい、左、西側は土浦市荒川沖、したがって「荒川沖の一里塚」と称する。

牛久市中根の一里塚説明板は平成2年のもの。土浦市教育委員会はそれから10年遅れて説明板をたてた。先に立て札を立てられた向いの中根一里塚の存在を無視するわけにもいかず、説明には「道の向側の『中根一里塚(牛久市)』とともに対になって残されており」と、気をつかっているようすがうかがえる。

共に17番目の一里塚である点、あらそう余地はない。

一里塚から1kmあまり行った荒川沖南交差点で、右斜めにとって旧宿場町に入る。沿道には旧家が多い。長大な瓦屋根付板塀で囲われているのは宇野家邸宅、郵便局の隣に兜方のどっしりした茅葺屋根を頂くのは
旅籠佐野屋、すこしはなれた鶴町たばこ店も立派な茅葺のたてものである。「鶴町」姓はタバコ屋だけでなく、酒屋、歯科医院、皮膚科にもみとめることができた。

荒川沖宿に本陣はなく、牛久宿と共同で宿継ぎ業務を行う合宿で、牛久宿の補助的存在だが、家並みをみるかぎり、こちらのほうが宿場らしい雰囲気を保っている。近辺の村が助郷という課役に苦しんでいた実情は牛久宿でみたところである。文政六年(1823)一揆の首謀者3人の供養塔が阿見町に立てられた。

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中村 

国道6号の中村南4丁目で右の細道にはいる。ここはまだ宿場町ではない。旧道が国道を横ぎる「原の前交差点」の手前に、松の木が数本、並木の面影をたたえていた。そのあたりに一里塚があったらしいが、なんの説明もみあたらない。国道と旧道の間に松のならぶ土手状に盛り上がった林は、そのどこもそのまま正方形に切り取れば一里塚になりそうな景色ではあった。

国道を斜めに横切って旧中村宿を通っていく。荒川沖での「鶴町」のように、ここでは「川村」があちこちに見える。川村牧場、川村商店、川村自動車、川村工務店。
川村家は中村宿の本陣を勤めた。

中村宿から土浦宿へ

宿場を通り抜け、街道は国道354号線を横断して花室川をわたる。永国で国道6号線を跨ぎ国道354号線に合流する。1kmほどいった中高津2丁目5にあるセブンイレブンの北側路地は旧布施街道である。水戸街道の脇往還として享保15年(1730)に整備された。北柏で水戸街道と別れ布施の七里の渡しで利根川をわたり、谷和原、谷田部を経てここで再び水戸街道に合流した。今日的意味においては取手−我孫子の渋滞をさけるバイパスであろう。水戸街道への出口点には「水海道、布施、関宿、流山」と刻まれた馬頭観音石柱の足元に、小さく「右 やたあべ、おばり、いたばし、みつかいどう」と記された道標がうずくまっている。奥にみえる林まで足をのばしてみた。林に沿って突き当りを左にまがる濡れた土道が残っていたが、すぐに新しい直線の道に合流して、旧道は消失しているようだった。

中高津公民館の前庭に人だかりが見えた。来週末の祭りの準備らしい。右手には櫓を組む一団。真ん中で柱を支える背の高い赤シャツ姿は外人さんだった。ビニールシートの中で2基の神輿台が出番を待っている。その前の手持ち無沙汰な若衆をよそに、年配の重鎮たちは、寄付者名簿の貼り出しに忙しくしていた。隣の家が土地の名主家ではなかろうか。庭木、薬医門、土蔵をそろえた重厚な豪邸だ。

旧道は霞ヶ浦病院入口で354号線と別れ、S字形の坂道を下っていく。最初の曲がり角に古い道標があった。「右江戸道」、「左なめ川 阿は(安房)道」と読める。

下高津を通り過ぎ、銭亀橋で桜川を渡ると土浦城下である。

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土浦 

土屋藩

土浦は水戸街道の要衝として、また、霞ヶ浦と江戸を結ぶ船運の拠点として栄えた町である。幕府は強力な外様大名、伊達62万石を監視するため、水戸に徳川家御三家の一つを配し、土浦には代々譜代大名を置いた。慶長6年(1601)、松平信一が土浦城主となり初めて城下町の町割が行われた。以後西尾、朽木、土屋(95千石)と続く。なかでも土屋家2代目土屋政直は歴代藩主の中で随一の名君といわれ、5代将軍綱吉政権で老中として重任を帯びた。元禄年間の「赤穂浪士討ち入り事件」の裁決にもかかわっている。地元産業の「土浦醤油」にも力を入れた人物である。

水戸街道が整備された時、中城と東崎の二つの集落が結びつけられ、田宿、中城町、本町、仲町、田町、横町の各町が生まれて土浦宿が誕生した。本陣は二ヶ所置かれたが、おおむね本町の山口家と大塚家があたった。

街道は下高津から銭亀橋で
桜川を渡り、河岸として賑わった大町を通る。大町側の堤防に「銭亀橋跡」の碑が建てられてある。元は姿よい太鼓橋であったという。左手に一里塚の井戸がある。標柱の説明は「この井戸は、日本橋から十八番目の一里塚のかたわらにあった井戸である」とあって、井戸そのものに史的意味があるのでなく、一里塚跡をしめす史蹟代わりということのようだ。

県道24号の高架下に「南門の跡」碑がある。道は染谷石材店の前で枡形をつくり大手町につづく。右手にある東光寺の墓地には南門の土塁が残っている。

中城通り

道は土浦大手町曲の先でもいちど鉤の手に曲がり宿場のメインロード中城通りに進んでいく。堂々とした蔵造りの商家が並ぶ見ごたえある景観だ。市が蔵造りの旧家を買い取り、市観光協会が「土浦まちかど蔵」として再生利用している。全国に多くある「蔵の町」のひとつのビジネスモデルであろう。


色違いの角石を積み込んだ石蔵造りは山口薬局。
吾妻庵は明治6年(1873)創業、母屋は築約200年という老舗蕎麦屋である。格子出窓造りの下屋庇屋根には唐破風をのせた豪華な看板がうだつのように立っている。
並んであるのが店・袖蔵ともに黒壁土蔵の
矢口酒店だ。嘉永2年(1849)の建築で、黒瓦屋根と一体になってますます黒々しい。

「土浦まちかど蔵」の「大徳」と「野村」が白壁蔵造りの店を街道の両側に構えている。
「大徳」は宝暦12年(1762)に大国屋徳兵衛がはじめた呉服商で、「野村」は砂糖問屋であった。ともに市の所有で、観光協会により運営されている。野村の側道には石碑、石灯籠、常夜燈、ベンチなどを配した小公園を形作りその奥には琴平神社と不動院がある。共に霞ヶ浦の湖上交通の安全を祈願する船主や荷主たちによって信仰されてきた。

まちかど蔵の辻から一筋東にすすむと亀城通り(国道125号線)と交差する。この大通りは川口川(旧桜川)を埋め立てたもので、水戸街道との交差点には「桜橋」が架かっていた。橋の親柱のひとつが、二階を全面的にすだれで隠した「てんぷらほたて」の店先に、「土浦町道路元標」と並んで残っている。

桜橋交差点をそのまま進むと土浦商工会議所のビルにあたる。ここが
大塚甚左衛門家の本陣跡だと石標が示している。もう一つの本陣山口弥左衛門の家は大徳家の裏あたりにあったらしい。

街道はそこで左に折れて旧本町、仲町、田町を通って北上し、左に曲がって横町を通り抜け北の枡形、北門跡をみて新川に至る。南北の街道筋(国道354号)にも畳屋松安など、古い木造二階建ての家を見ることができた。新川は土浦宿の北端で、橋を渡ると真鍋に入るが、後戻りして街道はずれに位置する3箇所を見終えたい。

土浦城(亀城公園)

市の中心を占めるのがいうまでもなく土浦城(亀城公園)である。もともと天主閣が無く本丸の中央部分に書院造りの館があった。築城は室町時代の永亨年間(1429〜1440)といわれている。城の周囲に石垣はなく5mほどの土塁で囲まれた、戦国時代の「掻き揚げ城」がそのまま近世に引き継がれた形になっている。東は霞ヶ浦、残る三方を堀や川で何重にも囲まれた水城である。その姿が水に浮かぶ亀のように見えたため亀城とも呼ばれた。

威圧的な城山や石垣をもたず、平で穏やかな空気につつまれたやさしい城だ。濠には白い可憐なスイレンの花が盛りであった。本丸に通じる「櫓門」は明暦2年(1656)の築。2階には「刻を告げる」大太鼓があり「太鼓御門」とも呼ばれ「時の鐘」の役目をしていた。本丸が中庭となって東西に2層のこじんまりとした櫓が構える。

川口河岸
(土浦港)

土浦は霞ヶ浦の西端に位置する。東の端は潮来だ。霞ヶ浦は琵琶湖についで広い。川口川が流れ込む左岸には土蔵や船宿、船問屋、旅籠、料亭などがひしめく河岸があった。地方から水路や陸路で運ばれてきた荷物は霞ヶ浦を横断して横利根川から利根川に入り、関宿で江戸川を下るのが普通だった。今は港は水運から観光にその機能を変え、川は埋められ、港橋は東側の欄干だけが水を望む存在となった。

河岸には船人たちの守護神水天宮が今もある。久留米藩主の娘竹姫の嫁入りに際して建てられたものといわれている。一帯は運動公園に変身し、野球グラウンドでは甲子園県予選のたけなわで、球場からは黄色い歓声が間欠泉のように沸きあがってくる。港橋界隈は応援にかけつけた高校生の流れが絶え間ない。女子生徒の制服は膝上20cmから5cmの範囲、男女とも清潔な白いシャツの裾を中に入れる生徒と外にながす者が半々、アイシャドーの使用率は30%ほど。統一されているのは健康的に日焼けした、あつくるしい顔だった。

予科練記念館

国道125号を霞ヶ浦に沿って南下する。途中、霞ヶ浦総合公園に寄る。国民宿舎水郷の近隣にオランダ風車小屋、湿原植物板遊歩道、和風水車などが配置され、湖面から流れてくる風が生暖かい。「半化粧」という初耳の葉の写真が撮れた。緑の葉の半分くらいほど白く化粧をほどこした広葉だ。

国道を更に南にむかって阿見町にはいる。青宿で、「予科練記念館」の標識にしたがって左に入ると、自衛隊の門に至る。いったん駐車して入館手続きをとる。隊員の中に凛々しい制服姿の女性を見るのは、時代の賜物だ。カメラを取り上げられなくてホッとした。記念館への途中に整備された戦車とヘリコプターが一列に展示されている。

予科練とは海軍飛行予科練習生、別称海軍少年航空兵のことである。昭和5年、横須賀海軍航空隊内に創設され、昭和14年3月ここ霞ヶ浦に移ってきた。霞ヶ浦に飛行場が開設されたのが大正10年(1921)、翌年には海軍航空隊が置かれた。おりしも、そのころは世界的な飛行機世界一周ブームで、昭和4年にはドイツが開発した世界最大の飛行船ツェッペリン号が霞ヶ関飛行場に降り立ち、また昭和6年には、大西洋横断飛行の英雄、リンドバーグが新婚早々の夫人を同伴して訪れ、熱狂的な歓迎を受けた。リンドバーグの息子が誘拐され殺害される前年のことである。

はなやかな注目を集めた霞ヶ浦飛行場も、その後軍国主義の高まりとともに、悲劇の運命をたどることになった。敗戦の色が濃厚になった昭和18年、早稲田大学教授で仏文学者・詩人だった西条八十が「若鷲の歌」を発表。昭和20年8月終戦。その間、24万人の若鷲が飛行予科練習生として入隊し、卒業生の約8割、18564名が桜と散った。殆どが18歳か19歳だった。二人の予科練生ブロンズ像が雄翔園に立つ。

若い血潮の予科練の
七つボタンは桜に錨
今日も飛ぶ飛ぶ
霞が浦にゃ
でかい希望の雲が湧く
燃える元気な予科練の
腕はくろがね心は火玉
さっと巣立てば荒海越えて
行くぞ敵陣なぐり込み
仰ぐ先輩予科練の
手柄聞くたび血潮が疼く
ぐんと練れ練れ攻撃精神
大和魂にゃ敵はない
生命惜しまぬ予科練の
意気の翼は勝利の翼
見事轟沈した敵艦を
母へ写真で送りたい

記念館には遺品や写真が展示されている。父母への手紙類が多い。テープで流れる格調高いナレーションのBGMはハーモニカによる「ふるさと」の歌だった。
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真鍋 

新川橋を渡って真鍋に入る。真鍋坂下で右に折れて潮来をへて鹿島に至る国道354号線は旧鹿島街道である。すぐ左手に、善応寺がある。
「創建は南北朝以前にさかのぼる。近世になり土浦城主歴代の保護を受け、観音堂は寛文10年(1670)土屋数直が土浦城の鬼門除けとして寄進したもので、現存の観音堂は文化11年(1811)の再建である」
「ぼけ封じ」のお守りを売っていた。

寺のすぐそばにある
「照井の井戸」はかつては水戸街道・鹿島街道・鎌倉古道を通る旅人ののどを潤してきた名水である。ここから土浦城へ木樋で通し上水道の役目も果たしていた。柵に囲われて、蓋された井戸から清水がもれ出して、隣の貯水地にひかれている。二匹の鯉にまじって、はちきれんばかりな腹をした金魚がたくさん泳いでいた。

坂下交差点にもどる。ここから急な登り坂になっていて、左側には下屋庇の上に格子の美しい二階をのせた昔ながらの商家が続いている。坂上右手にも「藤本蚕業株式会社支店」と、左読みに書かれた古い建物があった。この下り一方通行の坂道を、恐ろしいスピードで駆け下りてくる自転車通学の高校生に出会った。男だけだろうと思っていたら、女子生徒も負けてはいない。そのあとに、やや遅くして買物帰りのおばさんも仲間だ。交差点近くで起る金属性のブレーキの軋みがけたたましい。清閑古色な宿場通りに爽快な疾風をもたらす愉快な光景だった。土浦一高の下校時刻にみられる日中行事のようだ。

真鍋宿の坂道を上りきり国道125号線と合流すると、「土浦一高前」である。右手にある
土浦一高の構内に明治37年(1904)に建てられた旧制土浦中学校の本館が保存されている。下校前の未練をのこしてたむろする男女生徒を横目に、右奥に入っていった。敷地の南端に、正面玄関を挟んで両側に尖塔を抱える端正な校舎が潜んでいた。ゴシック様式だというが、正面からみるかぎりなんとなくギリシャ正教圏の東欧建築の匂いがするようだった。

「土浦一高前」の交差点は筑波街道の起点で、かってはここに1732年に建てられたという筑波街道の古い道標があった。「左 きよたきつくば 右 ふちう水戸」と刻まれた石標は現在、市立博物館に保存されている。左の細道をいくと、殿里(とのさと)・常名(ひたな)・上坂田・藤沢・小田・北条・神郡を経て筑波神社に通じていた。広々とした原野に孤立する筑波山は男と女の山を頂き、はるか遠方からもよく認められ、紫にかすむ双頭の峰は紫峰と称えられた。土浦からの道は旧道125号線に沿っている。寄り道には過ぎるので「筑波街道」として、別に訪ねることにしたい。



中貫 

真鍋6丁目、若松町信号手前の五差路を右斜め前に入っていく。厚生病院あたりに松並木が昔の面影をとどめている。少しでも景観を保護しようと、電柱が松の幹色に塗られていた。遠くからみれば、まっすぐな松の木とかわらない。いいアイデアだと思う。すぐ先の両側に
板谷の一里塚が残っている。日本橋から19番目の塚とある。

道なりに進むと元の広い道にもどり、すぐに国道6号線を斜めによこぎって細い旧道に入っていく。そこが土浦北端の中貫宿だ。宿の入口にある
鹿島八坂神社は子供会の祭礼を待つばかりで、社の前には紅白の布で巻かれた台車が準備されていた。

街道沿いには富島姓が多い。そのなかの一つ富島酒店の向かい、
本橋家が中貫本陣である。長い塀を廻らし大きな高麗門を入ると唐破風寄棟造りの重厚な母屋が構えていた。水戸街道で本陣の建物が残っているのは取手とこの中貫宿と次に訪れる稲吉宿の3ヶ所しかない。他とちがって、この本陣は現住農家の一部で、式台のみえる玄関前には小型トラックがとまり、左右の建物からも生活の臭いがプンプンとにおってくる。

街道は荒川沖以来、久しぶりに国道6号線と合流し、かすみがうら市上稲吉地区に入っていく。ここは2005年3月までは新治郡千代田町だった。同郡の霞ヶ浦町と合併して「かすみがうら市」となった。市名を漢字にしなかったのは千代田町へのおもいやりか。ひらがなにする理由はなにもない。

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