本多作左衛門重次(1529〜1596)墳墓 取手
「一筆啓上火の用心お仙なかすな馬肥やせ」の手紙で有名な徳川の旧臣本多作左衛門重次の菩提寺は青柳にある光明山本願寺である。重次はあだ名を鬼作左といい、三河国大平村に生まれ、9才にして家康の祖父松平清康に仕え、のち家康に仕えて当地に移り3000石を領していたが文禄5年7月16日68才を以て病没し、遺骸を俗にお墓山(桜ヶ丘)と称する寺領の丘地に埋葬され、昭和9年県史跡に指定さる。 お仙というのは重次の長男仙千代のことで、のちに越前丸岡4万3000石の城主本多飛騨守成重のことである。本願寺には徳川家康よりの拝領品や武具など門外不出の品が寺宝としてある。   平成3年9月   取手市教育委員会