布川三里 江戸十三里 水戸十六里
江戸時代に江戸と水戸を結ぶ交通路は水戸街道と称され五街道に次ぐ重要な脇街道であった。初期の水戸街道は、我孫子から利根川に沿って布佐まで下り、利根川を渡って布川、須藤堀、紅葉内の一里塚をたどって若柴宿に至る街道(布川道)と、取手宿、藤代宿を経て小貝川を渡り小通幸谷若柴宿に入る道があった。この二つの道の合流点、現在の市立馴柴小学校の北東隅の三叉路にこの道標(里程標)がたてられ、三面に水戸十六里、江戸十三里、布川三里と、通ずる方角とそれぞれへの里程が刻まれている。裏面には「この若柴駅街道の碑は文政9年(1826)12月に建立した。三叉路で旅人が迷い易いので、若柴駅の老人が相謀り、普門品一巻を読誦する毎に一文ずつ供えて積み立てた(意訳)」とあり、15名の村人の姓名が記されている。明治5年(1872)に水戸街道は陸前浜街道と改称され、明治15年(1882)11月には、牛久沼淵の道路が開通した。そのため台地を通る街道はさびれ、若柴駅(宿)も宿駅としての機能を失った。この道標は若柴駅(宿)街道の碑として、往昔の陸上交通の盛んであった面影を偲ばせるものである。
馴柴小学校角 道標 若柴町3135番地 龍ヶ崎市