御成道
「御府内備考」に「御成道、筋違外(すじかいそと)広小路の東より上野広小路に至るの道をいう」とあります。筋違は筋違御門のあった所で、現在の昌平橋の下流50mの所あたりに見付橋が架かっていました。御成道の名は将軍が上野の寛永寺に参墓のため、江戸城から神田橋(神田御門)を渡り、この道を通って行ったからです。見附内の広場は八つ小路といって江戸で最も賑やかな場所で明治時代まで続きました。八つ小路といわれたのは、筋違、昌平橋、駿河台、小川町、連雀町、日本橋通り、小柳町(須田町)、柳原の各口に通じていたからだといわれます。また、御成道の道筋には武家屋敷が多くありました。江戸時代筋違の橋の北詰めに高砂屋という料理屋があり庭の松が評判であったといいます。明治時代には御成道の京屋の大時計は人の眼をひいたようです。また太々餅で売出した有名な店もありました。     昭和51年3月  千代田区
万世橋駅跡 筋違見附跡地 須田町 神田