橋を渡った右側たもとに小さな空き地があってその奥に乙姫の石像がある。日本橋から江戸橋にかけて、川の北岸は最近まで海魚をあつかう東京の一大市場であった。徳川家康が江戸に移った際、摂津の佃村の名主森孫右衛門が村内の漁師を率いて江戸海岸の小島であった佃島に移住してきた。佃煮の佃である。島の漁民は湾で取れた白魚を幕府に献上していたが、やがて幕府の許可を得て日本橋の北詰に魚市場を開くことになった。以降日本橋魚河岸は、関東大震災で魚市場が築地に移るまで繁栄を謳歌した。| *掛値 昔は盆・暮二回払いの掛売りが普通だった。今でいう「年2回ボーナス払い」である。当然ながら売値にはその間の利息相当分が含まれ現金正価より高い。越後屋はそれをやめた。 余談 一般に三越は伊勢商人に数えられているが私は、近江商人(日野商人)に入れていいのではないかと思う。伊勢商人のルーツは日野商人。 |
| 表店と裏長屋 日本橋を中心とした江戸の町人地は、地形に合わせて碁盤目状に町割されました。かっての町人地にあたる中央通り沿いには、今でも江戸の町割りの名残を感じさせる区画が残っています。 一つの町屋敷は通りに面した店舗である「表店(おもてだな)」とその後ろにうなぎの寝床のようにつながる「裏長屋」で構成されていました。表店では商人が店を営み、裏長屋は職人や奉公人、浪人などが住む職住接近空間でした。 ボランティア サポートプログラム |
| 石町時の鐘 鐘付撞堂跡 所在地 日本橋室町4丁目5番 本町4丁目2番地域 時の鐘は、江戸時代から本石町3丁目に設置された時刻を江戸市民に知らせる時鐘です。徳川家康とともに江戸に来た辻源七が撞き役に任命され、代々その役を務めました。鐘は何回か鋳直されましたが、宝永8年(1711)に製作された時の鐘が十思公園内に移されています。鐘撞堂は度々の火災に会いながら、本石町3丁目(現日本橋室町4丁目・日本橋本町4丁目)辺りにあり、本通りから本石町3丁目を入って鐘撞堂にいたる道を「鐘つき新道」と呼んでいました。そのことにより、時の鐘が移送された十思公園までの道が、平成14年3月に「時の鐘通り」と命名されました。近くの新日本橋駅の所には、江戸時代を通してオランダ商館長一行の江戸参府の時の宿舎であった「長崎屋」があり、川柳にも「石町の鐘は、オランダまで聞こえ」とうたわれ江戸市民に親しまれていたのです。 平成15年3月 中央教育委員会 |
| 今川橋の由来 元禄4年(1691)この地、東西に掘割開削され江戸城の外堀(平川)に発し、この地を通って神田川に入り隅田川に通じていた。始めは神田堀、銀(しろがね)堀、八丁堀などと呼ばれていたが、後に江戸城殿中接待役井上竜閑が平川と掘割の接点に住んでいたので竜閑川とよばれるようになった。この運河は、江戸市中の商品流通の中枢としての役割は極めて大きく神田の職人町、日本橋の商人町は大きく栄えた。この掘割は、神田と日本橋の境界として11の橋梁がありこの地に架けられた橋は当時地元町人の代表であった名主、今川善右衛門の姓をとり、「今川橋」と名づけられたという。昔、東海道以外の街道を江戸より旅する時は、日本橋を発ち初めて渡るのが今川橋であった。昭和25年竜閑川の埋め立てと同時に今川橋も廃橋解体され、360年の歴史を閉じた。 平成元年1月吉日 鍛冶町1丁目町会 場所提供者 江原富夫氏 |
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| 江戸時代 | 昌平橋 | 筋違橋 | ーーーー |
| 明治5年 | 相生橋 | 万世橋 | ーーーー |
| 明治6年 | ーーーー | 万世橋 | ーーーー |
| 明治??年 | ーーーー | 万世橋 | 昌平橋 |
| 明治32年 | 昌平橋 | 万世橋 | 新万世橋 |
| 明治36年 | 昌平橋 | 元万世橋 | 万世橋 |
| 明治39年 | 昌平橋 | ーーーー | 万世橋 |
時代は橋を渡る人力車から、煙をたなびかせて蒸気機関車が鉄路を走る鉄道の時代に入ると、主要な道路が交錯する八ツ小路広場はこのうえない格好なターミナル候補地として注目された。明治39年(1908)、江戸から明治にかけての交通のシンボルだった元万世橋は取り壊され、かわって八ツ小路の跡地には新時代を象徴する鉄道ターミナルステーションの建設が始まった。明治45年(1912)、駅前広場を擁する万世橋駅は、中野駅とを結ぶ中央線の始発駅として開業する。設計者は東京駅舎を手がけた辰野金吾。万世橋駅は東京駅の習作とも云われている。 中世の神田川右岸は、水田が多い農村地帯だったようです。幕府が編集した江戸の地誌である「御内府備考」には、町が整備される前、この周辺が須田村と呼ばれていたという記述があります。江戸初期の慶長年間(1596〜1615)にも、この界隈を中心に「神田青物市場」の起源とされる野菜市が開かれたこともわかっています。水運を利用して神田川沿いの河岸や鎌倉河岸から荷揚げされた青物が、1万5千坪(約49500u)におよぶ広大なこの青物市場で商われていました。当時の市場では、店が店員の住まいを兼ねていました。つまり、現在の私たちが考える市場と違い、当時は市場の中に町があるといったイメージでした。巨大な市場でしたので、中にある町も須田町だけでなく、多町(たちょう)、佐柄木町、通新石町(とおりしんこくちょう)、連雀町なども市場の一部をかたちづくっていたのです。そして、これら5町の表通りには、野菜や果物を商う八百屋が軒を連ね、連日のように威勢のいい商いが行われていたということです。青物市場の別名である「やっちゃ場」は、そんな威勢のいい競りのときのかけ声から生まれた言葉なのです。 江戸、そして東京の食生活を支え続けたこの市場は、昭和3年(1928)には秋葉原西北に、平成2年(1990)には大田区へと移転しました。それでも、現在の須田町町内には、東京都の歴史的建造物に指定されるような老舗商店が数多く営業しています、須田町は、江戸からつづく活気あふれる商いの伝統が、いまだに息づく町なのです。 現在の須田町中部町会は、この青物市場の中心であった連雀町と佐柄木町のそれぞれ一部が、関東大震災後の土地区画整理事業によって合併し、誕生しました。 |
| 祭神1:「大己貴命(オオナムチノミコト)」大国主命、「だいこく様」。国土経営・夫婦和合・縁結びの神。 |
| 祭神2:「少彦名命(スクナヒコナノミコト)」「えびす様」。商売繁昌・医薬健康・開運招福の神。 |
| 祭神3:「平将門命(タイラノマサカドノミコト)」平安時代末に活躍した武将で、関東の英雄。江戸東京の守護神。 |
こぎれいな本郷通りを歩いていく。心持ち学生の姿が多い気がしてくる。本郷2丁目交差点では数人の学生が通行人にビラを手渡す中で、一人の若者がマイクを口につけつつも目は原稿からひと時も離さず、一生懸命に何かを読み上げていた。左派系政党の宣伝だが、ひじょうに丁寧で穏やかな口調がむしろ初々しい。北に進むにつれ学生の数がさらに増してくる。
トップへ 兼康祐悦という口中医師(歯科医)が、乳香散という歯磨粉を売出した。大変評判になり、客が多数集まり祭りのように賑った。(御府内備考による) 享保15年(1730)大火があり、防災上から町奉行(大岡越前守)は3丁目から江戸城にかけての家は塗屋・土蔵造りを奨励し、屋根は茅葺を禁じ瓦で葺くことを許した。江戸の町並みは本郷まで瓦葺が続き、それからの中山道は板や茅葺きの家が続いた。 その境目の大きな土蔵のある「かねやす」は目だっていた。『本郷も かねやす までは江戸のうち』 と古川柳にも歌れた由縁であろう。 芝神明前の兼康との間に元祖争いが起きた。時の町奉行は、本郷は仮名で芝は漢字で、と粋な判決を行った。それ以来本郷は仮名で「かねやす」と書くようになった。 −郷土愛をはぐくむ文化財− 文京区教育委員会 昭和61年3月 |
白山通りの西側を歩いている。本駒込6丁目の交差点の一筋手前に、3基の外灯を頂いた鉄柱がならび立ち、「大鳥神社通り」の旗をかかげている。大鳥商店街を100mほど進むと右手が「巣鴨大鳥神社」である。通りに面した片隅に子育て稲荷が併祀されており、三方を民家に囲まれた狭い敷地の奥には、大鳥神社の小さな祠が10段ほどの石段上にこじんまりと乗っていた。その中には日本武尊が祭られている。大鳥神社は貞享5年(1688)巣鴨稲荷社として創設された。宝暦5年(1755)には時の鐘が造られ明治初年まで市民に時刻を告げていたとされるが、その鐘はない。江戸末期、辺り一帯は「稲荷横丁」と呼ばれ、11月の酉の日には今も露店が立ち、熊手を求める参拝客で賑わう。
巣鴨駅が右前方に見えてくる。国道の傍に「徳川慶喜巣鴨屋敷跡地」の大理石碑が立っている。| 巣鴨の住んでいた徳川慶喜 徳川幕府15代将軍徳川慶喜(よしのぶ)(天保8年(1837)〜大正2年(1913))がこの巣鴨の地に移り住んだのは明治30年(1897)11月、慶喜61歳のことであった。大政奉還後、静岡で長い謹慎生活を送った後のことである。翌年3月には皇居に参内、明治35年には公爵を授けられるなど復権への道を歩んだ。 巣鴨邸は、中山道(現白山通り)に面して門があり、庭の奥は故郷水戸に因んだ梅林になっており、町の人々からは「ケイキさんの梅屋敷}と呼ばれ親しまれていたという。慶喜が巣鴨に居住していたのは明治34年12月までの4年間で、その後小日向第六天町に移った。その理由は、巣鴨邸のすぐ脇を鉄道(目白−田端間の豊島線、現在のJR山手線)が通ることが決まり、その騒音を嫌ってのこととされている。 平成十年5月 巣一商店会 豊島区教育委員会 |
台地を堀状に削り取ってJR山手線が東西に走っている。白山通り・国道17号線がその上を跨いで、南北に伸びる。JR線路の北崖は桜の並木がつづき、春には、陸橋から見晴らす線路に染井吉野の桜吹雪が降り注ぐことであろう。並木の入り口に「染井吉野の碑」が作られた。白と黒の大理石を立体的に配置したモダンな碑だが、染井吉野桜の説明はない。かわって近くの桜木に小さなプレートが巻きつけられていて、そこに簡単な説明があった。| エドヒガンとオオシマザクラからできた品種といわれ、生長が早いので、明治末には全国に広まりました。名は江戸染井の植木屋からでたもの。 |
どこからこんなに大勢なおばあちゃんやおじいちゃんが集まってくるのだろうと、不思議に感じるほど、老人の勢力があふれかえっている。杖はあたりまえで、押し車も車椅子も、人ごみの普通の景色に溶け込んでいる。買い手がおばあちゃんなら、売り手もおばあちゃんだ。品揃えも自然とあばあちゃん色に染まっていて、帽子・シャツ・カーデガン類が豊富にそろえてある。また、もんぺとスラックスを溶かして再製したような「モンスラ」という新語を教わった。
ミセスファッションの店先に、どぎつい赤色のパンツがぶら下がっているのを見つけてハッとなった。「老人もの」の中に「オトナもの」が混じっているわけもなく、危うく誤解するところだった。なんでもこれにはわけがあって、赤パンツは健康と幸福を呼ぶ縁起物なのだそうだ。それでも、宣伝文句のなかに「夜興奮して眠れなくなるおばあちゃんもいる」とある。一枚買って帰りたい衝動をグッとこらえた。モンスラと赤パンツはともに巣鴨のオリジナルである。| とげぬき地蔵尊御縁起 (抜粋) 正徳3年5月、江戸小石川に住む田付氏の妻、常に地蔵尊を信仰していたが、一人の男子を出産後重い病気に見舞われて床に臥した。・・・ある日のこと田付氏の枕元に、木の節のようなものが置いてあり、平らな部分に地蔵菩薩のお姿があった。・・・田付氏は形を印肉にしめして一万体の「御影」をつくり、両国橋から隅田川に浮かべ一心に祈った。・・・以来田付夫人の病気は次第快方に向かい、以後無病となった。・・・西順という僧がいて、その御影をほしいといわれ、二枚を与えた。西順は毛利家に出入していたが、ある時同家の女中が口にくわえていた針を飲み込んで大いに苦しんだ。西順が持っていた地蔵尊の御影一枚を飲ませると、腹中のものを吐き、御影を洗ってみると、飲み込んだ針がささって出てきた。(田付氏が自ら記して高岸寺に献納された「霊験記」より) |
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道教の伝説によると、人間の頭と腹と足には三尸(さんし)の虫がいて、いつもその人の悪事を監視しているという。三尸の虫は庚申の日の夜、人の寝ている間に天に登って天帝に監視結果を報告し、罪状によっては寿命が縮められることがあった。そこで、三尸の虫が天に登るのを妨げるために、その夜は村中の人達が集まって神々を祀り、その後、寝ずに酒盛りなどをして夜を明かした。これを庚申講という。庚申講を3年18回続けた記念に建立されたのが庚申塔で、今も各地に残っている。仏教では、庚申の本尊を青面金剛および帝釈天に、神道では猿田彦神としている。これは、庚申の「申」が猿田彦の猿と結び付けられたもの。また、猿が庚申の使いとされ、庚申塔には「見ざる、言わざる、聞かざる」の三猿が彫られることが多かった。 |
| 明治女学校は木村熊餌二・鐙子夫妻の発意から田口卯吉、植村正久、島田三郎、岩本善治が連名で創立 明治18年より41年まで日本近代の女子教育に不滅の足跡をとどめました。 以下略 所在地 豊島区西巣鴨2−14−11(西巣鴨幼稚園・児童館) 昭和58年10月18日 建之 |
| 江戸・東京の農業 旧中山道はタネ屋街道 旧中山道を通る旅人の中には弁当を食べるため、街道沿いの農家に立ち寄り、縁側を使わせてもらう人などもいました。旅人は、農家の庭先や土間で見慣れない野菜を見かけると、国元で栽培しようと、タネを欲しがる人も多く、やがては農家の副業としてタネを販売するようになりました。その後、江戸・東京が生んだ滝野川ゴボウ、滝野川ニンジンなど優れた野菜が出現するとタネを扱う専門店ができ、明治の中期には巣鴨のとげぬき地蔵から板橋区清水町にいたる約6kmにタネ屋問屋が9戸、小売店が20戸も立ち並びさながら、タネ屋街道になっていました。 寛永20年(1643)の代官所に申告した書き付けに、長野県諏訪からきたタネの行商人が榎本種苗店(豊島区西巣鴨)に仕入れにきた模様などが記されています。 馬12〜3頭をひいてタネを仕入れ、帰り道「萬種物」の旗を立てて街道のタネ問屋に卸していったり、農家に販売して歩くなど、さながら富山の薬売りと同じようにタネも行商により商われていました。 平成9年度JA東京グループ 農業共同組合法施行50周年記念事業 東京都種苗会 |
| 江戸・東京の農業 滝野川ニンジンとゴボウ この地域は深い黒土に覆われているため、長い根のゴボウ・ニンジンの生育に適していました。「北区の風土記」に「滝野川の地域は、武蔵野台地の一部で、水田が乏しく、畑地ばかりなので、米の代りに野菜をつくって江戸に出荷していた」とあり、とくに、ニンジンとゴボウは篤農家の努力で優秀な品種が作られ、江戸の人々に歓迎されました。 滝野川ニンジンは他のニンジンに比べて収穫時期が遅く根が長い品種で、長さは1mにもおよびました。濃い赤紅色で、香りが強く肉質がしまっているのが特色で、関西の「金時ニンジン」と並んで関東地方では、享保年間(1716〜36)から昭和20年頃まで、約200年間にわたり栽培されました。 また、滝野川ゴボウは、元禄年間(1688〜1704)に北豊島郡滝野川の鈴木源吾によって栽培が始まり、根の長さが1mもある大長ゴボウで品質がよく人気がありました。 平成9年度JA東京グループ 農業共同組合法施行50周年記念事業 |
つぎは右手の西尾商店である。明治40年(1907)創業、亀の子束子一筋でここまでやってきた老舗だ。
路地の奥からこざっぱりしたおじいさんが歩いてきた。当然な日課のように、仕事をしている指物師に声をかけ、世間話を始めた。私が通りにもどって、プランターを並べている下町路地風景の写真を撮ろうとカメラを構えていると、さきのおじいさんがやってきて、角の軒にたっていたもう一人のおじいさんと立ち話を始めた。小学校以来の同級生のような雰囲気である。できることなら避けたいと思う隣人関係がここには生きている。風景としても美しい。
稲荷神社の隣あたりだ。私たちはこの魅力的な旧道を知らずに、17号線を歩いていたのだった。とげぬき地蔵もしらなければ、おそらく次の板橋宿でも黙々と車の煙と競うように国道をあるいていたものと思う。
線路の踏切をこえて駅の西口に出る。こちらの方が開けていて、活気がある。駅前広場に旧中山道を記念した「むすびのケヤキ」碑が建てられていた。隣に板橋宿場の案内がある。
通りに面して、堂々とした宮造りの銭湯「花の湯」が青瓦唐破風を誇示している。その側道をはいると花の湯の裏側にマンションがある。かってはここに豊田家の屋敷があり、脇本陣をつとめていた。千葉県流山で捕らえられた近藤勇が、板橋宿に護送され、監禁されていた場所でもある。マンション前の植木の中に碑が立つ。