7月26日( 1日目) 日本橋北区‐板橋区‐浦和
7月27日( 2日目) 浦和‐大宮‐鴻巣
7月28日( 3日目) 鴻巣‐熊谷‐深谷
7月29日( 4日目) 深谷‐本庄‐高崎
7月30日( 5日目) 高崎‐坂鼻‐安中‐横川‐坂本
7月31日( 6日目) 坂本‐旧碓氷峠‐旧軽井沢‐沓掛‐追分
8月 1日( 7日目) 追分‐小田井‐岩村田‐塩名田‐小諸
8月 2日( 8日目) 小諸‐塩名田‐八幡‐望月‐芦田‐白樺湖‐笠取峠‐長久保
8月 3日( 9日目) 長久保‐和田‐唐沢‐和田峠‐下諏訪
8月 4日(10日目) 下諏訪‐塩尻峠‐塩尻‐洗馬‐牧野‐本山‐日出塩‐桜沢‐贄川
8月 5日(11日目) 贄川‐平沢‐奈良井‐鳥居峠‐薮原‐宮ノ越
8月 6日(12日目) 宮ノ越‐原野‐木曽福島‐‐寝覚の床‐倉本
8月 7日(13日目) 倉本‐須原‐野尻‐三野‐妻籠‐馬篭
8月 8日(14日目) 馬篭‐新茶屋‐落合‐中津川‐恵那
8月 9日(15日目) 恵那‐西行塚‐御嵩
8月10日(16日目) 御嵩‐伏見‐今渡‐美濃大田‐坂祝
8月11日(17日目) 坂祝‐加納‐垂井‐関が原
8月12日(18日目) 関が原‐今須‐長久寺‐柏原‐醒ヶ井‐鳥居本‐彦根
8月13日(19日目) 彦根‐高宮‐豊郷‐五個荘‐老蘇の森‐馬渕
8月14日(20日目) 馬渕‐鏡‐野洲‐守山‐栗東‐草津‐大津‐京都三条
資料
旧中山道徒歩旅行(1966年夏)

いこいの広場
日本紀行


浪人の時、高校時代の友人と約束していたことがあった。東京から京都まで歩こうというのだ。そのころテレビで東海道を歩き通したという若者が出演して得意げに体験談を話すのを見た。また、東海道一人旅といった旅行記の本が売れていた。ちょっとした歩き旅ブームだったように思われる。大学最初の夏休み、約束の時期がきて計画を具体化させることとなった。

道中の約束事を決めた。ヒッチハイクはしない、旅館には泊まらない、旧道がある限りそれを歩き新道をとらない、の三つである。食事については確信がなく、とにかく自炊用具も持っていこうと決めた。8月16日から逆算して、7月26日に東京日本橋を出発して22日間の中山道徒歩の旅が始まった。今二冊のアルバムを手元において30年以上も前の旅を思い出している。最後のページに要約を書きこんでおいた。まずそれからはじめたい。

     7月26日朝8:05東京日本橋出発 ― 8月14日夜10:52京都三条大橋到着
     正味20日間
目的   @歩くこと A旧中山道に昔の面影を求めること
     B文明から去って旅情に生きること C旅にでること

行程   一日平均28km 最終は45km(近江八幡‐京都三条)総キロ600km
     (小諸・白樺湖への寄り道、若干の変更コースを含む)
     内100kmはヒッチハイク(すべて受動的)、交通機関(バス、汽車)による
生活   朝6時には起床 就寝は夜9時頃 たまには11時
食事   はじめ自炊の予定 用具の重荷、時間の浪費、場所をみつけるのが困難なため
     大宮にて返送。以後、食堂
     朝:パン、牛乳、トマト、定食 昼:ラーメン、氷、焼きそば、カレー、焼飯
     夜:玉子丼 又は親子丼、焼きそば、カレー、焼飯
用便   公衆便所(駅、公園)、食堂便所、学校便所、民宅便所
     小便にかぎり、やむをえぬ場合は適時、適所にて5回ほど
道・旧跡 本『中山道』及び各地方5万分の1の地図による
     (岐阜、東京、滋賀、京都は5万分の1の地図はなし)
     適時その土地の古老に聞く。道標による道の確認も役立つ
     キロ数はドーロ マップ又は5万分の1の地図の目測による
撮影   白黒写真36枚撮り9本、20枚撮り2本
     カラー写真20枚撮り2本、12枚撮り1本 計約350枚
寝床   公園、遊園地(浦和、鴻巣、高崎、恵那、彦根)、神社の森(深谷、下諏訪)
     忠霊塔下(御嵩、坂祝)、学校グラウンド隅(長久保、宮ノ越)
     河原(小諸‐千曲川、贄川‐奈良井川、京都‐鴨川)、バス停留所(追分)
     お堂(倉本)、道端・軒下ミルク小屋(馬篭)、キチン宿(坂本)
     知人宅(関ヶ原、馬渕)
娯楽   トランプ、ハーモニカ、コーラス、ボート(浦和別所沼、仙緑湖)
会計   (一人当たり)
     準備 計約13000円(リュック1500円、寝袋3000円等)
     道中 計約15000円(交通費 約2000円(近江八幡―東京、等)、
        宿代600円(坂本にて)、ボート代 計170円、
        自炊用具返送代700円、フィルム代、食費等
     後始末 計約8000円(写真現像、礼状、アルバム1000円、等)   
感想   「よかった!」

結論からいえば、三つの約束事はみな少しずつ違えることになった。自炊は一回しただけで断念した。坂本では雨に降られたとはいえ、テントを張らずに宿にしけこんだ。長野でトラックに乗せてもらったし、岐阜ではめぼしい旧跡がないのを理由に、大胆に電車で迂回することに決めた。これらの短縮は距離にして全行程の6分の1にも及ぶ。それを時間にして半日で済ませてしまった。最後の日を45キロ強行して一泊省いたことも加えて、日程は結局2日短かくなった。反面、小諸と白樺湖への寄り道は中山道に味を添えることになった。
とにかく正味20日間、500キロの徒歩旅行が始まったのである。

今振り返ってみると坂本から始まる旧碓氷峠の道から、落合で終わる木曽路までの信州があまりに圧倒的で、碓氷峠以前の群馬、埼玉、東京と、木曽路以降の岐阜や滋賀はプロローグとエピローグのようなものであった。特にビルの谷間の舗装道路を車に遠慮しながら歩く初日の東京は、二人にとっては足慣らしの区間であったような気がしている。実際、20日間のうちほぼ半分の9日を信州で過ごした。信州があれほど充実した気分を与えてくれたのは、風景や気候が素晴らしかっただけでない。足踏む道が、旧道が残る懐かしくてやさしい土の道だったからである。



7月26日(1日目) 日本橋北区‐板橋区‐浦和

朝8時5分、東京日本橋を出た。現在の日本橋は明治44年(1911)に木の橋を取り壊して築かれた石橋である。昔の面影は壊されたが、がっしりとした橋台と橋脚が二連のアーチ橋を支え、欄干に立てられた花形洋燈が近代化の象徴として明治の香りを漂わせている。橋の上は首都高速道路が覆っていて見晴らしが悪い。橋の中央に東京市道路元標が立っていたが、6年後の昭和47年に、橋の北側に作られた元標公園に移された。南たもとには日本橋由来記の碑がある。由来記の向かいは西川ビルで、八幡商人西川甚五郎が1615年に開いた江戸一号店の場所である。日本橋交差点の一等地には日野商人、外池宇兵衛の柳屋ビルがある。お江戸日本橋を中心とする界隈には多くの近江商人が大店を構えていた。
橋を渡るとすぐ左に越後屋跡の三越が、つづいて金座跡の日本銀行が出てくる。
 
その後東京のどこを通って行ったのか、国道17号線という他は覚えていない。私にとっては三度目の上京であるが、それまで東京の町中を歩いたことはなく、また市内の地図を詳しく眺めたこともない。通りや建物の名前をみても固体識別ができていなかった。写真の記録も残っていないところをみるとただ黙々と歩を進めていたようである。道筋からいえば神田明神の前を通っていたはずである。

10時頃巣鴨を過ぎて北区滝野川という所で最初の休憩をとった。ステテコ姿のおじいさんが出てきて話しかけ、勝手に昔話が始まり戦争体験談に及んだ。アルバムには
「日本はまだ負けてやせん。岸さんや佐藤さんとも友達なんだ」という北島翁の談話のメモ書きがある。

昼食は板橋区の志村一里塚で、友人の下宿のおばさんが作ってくれたおにぎりとゆで卵を食べた。日本橋から3里目である。休憩も含めて4時間で12km:時速3km。
まもなく戸田で荒川を渡り埼玉に入る。東京をぬけ出しても車やビルの数が減っただけで、描いていた中山道の面影がいっこうに現われてこない。例えば旧家の家並みや松並木などである。蕨(わらび)を通り過ぎ一日目の宿泊予定地である浦和まで足を急ぐ。

夕暮れどき浦和に着いた。テントを張る場所を探しに出掛ける。安全で清潔で水とトイレのある場所といえば、おのずと学校か公園に絞られる。辿り着いたのは
別所沼公園というところであった。まだ日は明るく子供が遊んでいる。我々二人が公園の一角に場所を確保すると、好奇心から子供がよって来た。警戒心など全くない平和な風景である。さっそく交流が始まり日暮れて子供が帰るまで野球などで時間をつぶした。
足の筋肉の硬直をもみほぐしながら最初の野宿の床についた。

トップへ


7月27日(2日目) 浦和‐大宮‐鴻巣

翌朝、歩きはじめの数分は足が重い。肩と背も痛い。一日目の緊張感が消え失せるにつれ背中のリュックの重さが気になるようになってきた。一日にして自炊計画は断念することになった。東京の中山道を歩いた限り、火をたいてハンゴ炊飯などできる場所には出くわさなかった。今後信濃にでも入ればそのような場所探しも可能であろうが数回の可能性のために毎日肩を痛めるのは採算にあわない。また買い物、炊事、後始末にかけねばならない時間のことを考えると、自炊計画は野心的すぎたようである。昼、大宮にて自炊用具一式を滋賀県に送り返した。残る重荷はテント類だ。毎日宿に泊まることにさえすればいかほど楽だろうと考えたが、宿賃は費用の見積もりに入れていなかった。やむなく二日目の宿も鴻巣の公園となった。

道中、写真の被写体になるようなものに出会わずなんとなく空しい一日が過ぎたが、夕方のひとときだけは子供の歓迎を受けて充実した。鴻巣公園の藤棚の下にテントを立てている時、夜警のおじさんがやってきた。真夏のテントの中がいかに暑いかを、そのおじさんはよく知っていたのであろう。私たちの計画を聞くといったん姿を消し、しばらくして蚊帳をもって引き返してきた。
「これを持っていけ。夏にテントは要らん」
さっそく蚊帳の四隅の吊りひもを周りの支柱に縛り付け、その中にはいってみた。風が吹き抜ける。夜空が見える。テントも明日送り返そうかとも思ったが雨のことを考えてその衝動は抑えることにした。

途中通り過ぎた大宮の名は、その地にある武蔵国一宮・氷川神社を「大いなる宮居」とあがめたことに始まったという。平安時代はその門前町で、中山道が整備されてから宿場町として栄えるようになった。また今夜の宿泊地鴻巣は、かつてこの地に武蔵国の国府が置かれたことから「国府の州」が「こうのす」と転じ、後に「鴻(こうのとり)伝説」から「鴻巣」の字を当てるようになったと伝えられている。鴻巣は400年近くの伝統を誇る「ひな人形の町」としても知られている。

地名の由来を知ることは楽しい。その真偽のほどはどうでもよく、印象付けの助けになればよい。そのためには由来は単純なほうがよい。長くなればなるほど嘘らしい。

トップへ


7月28日(3日目) 鴻巣‐熊谷‐深谷

鴻巣公園で朝を迎えると近所のおばさんたちが散歩にきていた。夏休みのため小学生の子供も混じっている。そのなかに母をなくした一人っ子がいて私たちになついてきた。本町8丁目に住む重太郎君という。家に招かれ、なぜかそこで習字の勉強をすることになった。夏休みの宿題でも手伝ってやろうと言ったのかもしれない。私は8年振りに筆をとって、「愛」と「旅」の2文字を書いた。「旅」は「たび」、「愛」は「ほたる」と読ませた。


10時過ぎに3日目の行程が始まった。道端の風景は昨日と同じように見える。熊谷で昼飯をとり深谷に向かう。夕方深谷に入ると夏祭にぶつかった。今日のメイン・イベントとしてふさわしい。町外れの神社(島護産泰神社か滝宮神社)の境内に蚊帳のキャンプをはったあと、その夜はゆっくり祭り見物をすることに決めた。まず銭湯をさがして3日振りに垢を落とす。夜店がでていて威勢のいい男がスイカのタタキ売りをしていた。撮りたい風景であったがなんとなく恐くてフラッシュをたかなかった。案の定、写真の結果はNGである。
人波の中に浴衣姿のかわいい少女が目についた。記録係りの特権でその子の了解を得て一枚シャッターをきる。後日写真を送ると便箋一枚いっぱいに書かれた礼状が届いた。栄町に住むまゆみちゃんという。いまこの子は40半ばの母親になっている頃である。

トップへ


7月29日(4日目)深谷‐本 庄‐高崎

朝6時に目が覚める。まだ境内の森はひんやりと静まりかえっている。ようやくして出かけようとした頃、あたりが騒がしくなって人が集まって来た。やがて昨夜活躍した神輿がやってくる。この神社の神輿がもどってきたのだ。酒の酔いの勢いは影をひそめ、なんとなくけだるい真面目顔でひとしきり祭りのフィナーレが行われた。

森の片隅で鉢巻姿の2、3歳の女の子が神輿のことなど素知らぬ顔で父親のゆするブランコに喜び一杯の笑顔を振りまいていた。父親の了解を得て彼女の笑顔を記録に残す。栗原○○ちゃんといった。

昼、本庄を通り夕方高崎に着く。白い高崎観音の像が遠くにかすむ。そこは明朝訪ねることとし、ねぐらを求めて高崎城山公園に入り込んだ。子供の姿はなく、代わってベンチに座ってビールを飲んでいる3人の若者と視線が合った。会釈をすると向こうから声をかけてきた。互いに身分を明かし合う。その3人も大学生で、アルバイトの仕事を終えたひとときの最中であった。いずれも真面目な好青年だった。同年代のよしみで話がはずみビールをごちそうになった。関西の人間に興味を感じたようである。

小さな子供たちとのはじけるような夕方とはちがって、落ち着いた大人との出合いもまた楽しい。既にこどもとおじさんとおばさん、そして青年に出会った。「このつぎは……」

トップへ


7月30日(5日目)高崎‐坂鼻‐安中‐横川‐坂本

朝、白衣観音を見る。中山道からは外れているが、名所に飢えていたので寄ってみることにした。高さ42メートルの観音立像である。昭和11年建立とあり歴史は感じられない。芸術的とも思えない。証拠写真を撮ってひきあげた。

高崎から1時間ほど歩いた頃、汗を洗うのに手ごろな川に出た。河原に降りて休みをとった。川の名前が知りたくて辺りを見回すと橋の入口に「利根川上支流烏川」とあった。しばらく歩くと初めて写真に撮りたいような一里塚に出会った。板鼻一里塚である。標には

ここは江戸から二八里の地点で慶長九年徳川家康の命によって建造された。一里塚の残存しているものは本縣でこれ一つしかない

とある。1里4キロとするとここは日本橋から112キロの地点になる。4日半かかって来たから、1日当たり平均25キロのペースとなる。全行程の約5分の1が過ぎた。まあこんなもんだろうと二人で納得する。子供たちとの付き合いで朝が出遅れた日があったり、祭りを見てから出掛けたり、予定に無かったことで時間を食った。これからもこんな調子でいくのだろうという見当がついた。別に急ぐ旅ではない。ただ費用が予算に収まっておればよいのだ。

安中に入って待望の杉並木があらわれた。この風景を待っていたのである。「特別記念物」と書かれた立て札でなおありがたく感じられる。古街道はこれでなくては―。安中の町を歩いていると左手に「新島襄先生旧邸宅入り口」「湯浅半月詩碑入口」と書いた石標が目にとまった。新島襄は同志社の創設者である。湯浅半月は安中の出身で、詩人かつオリエント学者であった。新島襄を慕って同志社に学んだ。逆正三角形を三つあわせた同志社の徽章は湯浅半月の考案になるといわれている。隣に「Jo Niijima's House」と英語の立て札もあった。確かに新島も湯浅もアメリカに留学してはいるが、はてここを訪れるアメリカ人が何人いるやら。旧中山道の旅の風景としては違和感がある。ここから200m南とあったので寄るのはやめた。

あたりの風景が段々と山深くなり、碓井峠を越える心の準備が徐々に整う。横川に入って茶屋本陣を認める。宿場町の面影が濃い。1分間ほど本陣の外観を鑑賞してシャッターをきる。歴始探訪の旅であれば本陣の中に入り由緒をたずね資料の一枚ももらってくるのだろうが、二人にはそれほどの向学心はなかった。きわめて情緒的な旅である。歩くことに一義的な意味があった。カメラをぶら下げ駆け足で海外の名所をめぐる日本人観光旅行客のように、「来た。見た。撮った」に近い。

ガイドブックの情報に従って、夕食には迷うことなく釜飯を食った。要するに、素焼きの釜で炊いた混ぜご飯である。味はともかく、小さな釜とおもちゃのような木蓋がかわいい。

腹が満たされた頃雨が降ってきた。この旅で初めての雨である。この日のためにテントを背負ってきたのだが、公園や学校が見当たらない。雨は急速に激しくなってきた。宿に泊らぬという原則を、宿賃は払わないことと解釈して、ホームステイを試みることにした。一軒戸を叩いて意向を伝えたがあえなく断られた。二人は人に頼むことについて淡白である。それきり横川をあきらめ坂本まで歩くことにした。時間も遅くなり人の好意を当てにする余裕もなくなり、旅館の看板だけを目標にして歩いた。今更キャンプすることなど考えてもいない。

坂本に入ってようやく「かねますや」という看板をみつけ、そこに飛び込み素泊まり一人600円で手をうった。ルール違反の後ろめたさなど毛頭もなく、風呂に入り浴衣で蒲団に横たわる感触に満足した。芭蕉は毎日こうだったじゃないかと、心の中で思いつく。明日は碓井峠を越える。これからが本番である。前夜祭と思えば600円も安い。

トップへ 次ページへ