中山道(武州路2)



蕨 - 浦和 - 大宮 - 上尾 - 桶川 - (北本)    
いこいの広場
日本紀行
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戸田橋を渡り堤防の道を右に入る。満々と水を湛えた荒川に艀がゆったりと行き交う。橋下ではなにやら工事が進行中のようである。

土手下に下りていく車道の中程左手に渡船場跡碑と中渓斎英泉の「戸田の渡し」絵入りの説明板が建っている。荒川には、江戸防衛のため明治に入るまで橋は架けられていなかった。天保13年(1842)渡し業務を行っていた下戸田村は家数46軒、人口226人、渡し舟13艘、船頭8人を擁していた。渡船場は荒川を利用した舟運の一大拠点としての機能も有し、幕府公認の戸田河岸を運営していた。明治8年(1875)に木橋の戸田橋が完成し戸田の渡しは廃止された。

渡し跡碑の後ろ側に中山道旧道が短く残っている。信号交差点まで下りてUターンして水神宮の前を通り過ぎ旧道に入る。

すぐ右手の細い路地をはいったところに地蔵堂があり手前に享保16年(1731)の庚申塔がある。説明板には堂宇は戸田市内最古の木造建造物だとあるが、見たところ最近修復されているようで正面の壁面は新しい。

街道にもどると左手の川岸ミニパークに中山道の案内板が設けてある。渡船場跡から北にのびる旧道は200mほどで菖蒲川に突当り、その後の旧道筋は失われているという。

街道は菖蒲川の南岸をたどって国道17号に出、北に向かう。本町1丁目信号を右折して一筋東の静かな通りを北上する。国道本町交差点東側の五差路で左斜めに折れて国道に出る道が旧道筋である。右手ミニパークに川岸ミニパークで見たと同様の中山道案内板がある。

国道17号を北上し、戸田市役所入口交差点の先、蕨警察署入口信号で蕨市に入る。

その先二又で国道を左に分け、右の旧道に入って行く。分岐点に中山道蕨宿碑が立つ。

最初の十字路左手のポケットパークに蕨宿絵地図がある。このあたりに南木戸があり、蕨宿の南出入口となっていた。

すぐ先右手の郵便局の前にも蕨宿絵図の看板が建っている。

斜向かいの蕨市歴史民族資料館・分館は明治20年(1887)建築の織物買継商の旧宅で一般開放されている。あいにく休館日(月曜)で中を見ることができなかった。

コンビニのある十字路角に蕨町道路元標がある。このあたりが宿場の中心地であった。

左手に
「旧脇本陣」の行燈を立てた岡田厚生堂薬局、歴史民俗資料館、つづいて蕨宿岡田本陣跡として立派な冠木門を模したモニュメントがある。皇女和宮がこの本陣で休息した他、明治天皇の大宮氷川神社親拝の際の小休所ともなった。岡田脇本陣は岡田本陣の分家である。

岡田本陣の初代岡田正吉は蕨城主渋川公に仕えた武将岡田正信の子孫で江戸時代以前、戸田市上戸田の元蕨地区で人馬継立業を行っていたが、蕨宿が現在の場所に整備されてからはこの地に移って宿場の本陣・問屋・名主の三役を兼務する名家となった。

本陣跡の先を右に入り市役所を通り過ぎたところ、右手に和楽備神社がある。「和楽備」は「蕨」に重きを置かせるために万葉仮名で表示したものという。神社の由緒書きを探したが見当たらず、入口左手にある水盤には詳しい説明書きがあった。

神社の参道右手に横道がでていてたどっていくと堀跡の池を通って公園に出た。ここが蕨城址である。南北朝時代に渋川氏が居を構え、大永4年(1524)に北条氏綱により攻撃され、城は破壊された。江戸時代になると、徳川家康が城跡に御殿を築き、蕨宿本陣が整備されるまで本陣代わりに利用していた。

街道に戻りすぐ右手に「中山道武州蕨宿」と刻まれた宿場碑があり、その先左手には「中山道蕨宿近江屋」の行燈を立てた近江屋呉服店がある。先代が滋賀県彦根からこの地に移ってきて呉服屋を始めたという。

右手には古い屋根看板を出した「鈴木薬局」が趣ある佇まいを見せている。二階の格子が美しい。一階の店は板張りしてあって定休日かあるいは閉業した様子に見受けられる。

天保年間創業と言う老舗煎餅店満壽屋の前に「地蔵の小径」と刻まれた石標が建っている。その横道をはいっていくと三学院に至る。境内右手には梵字馬頭観音塔と、一つ屋根の下に万治元年(1658)の目疾地蔵、 寛文〜元禄年間(1661〜1704)の建立と考えられる六地蔵、その奥に元禄7年(1694)の高さ約2.4mにおよぶ大きな子育て地蔵が納まっている。

鐘楼、大イチョウ、三重の塔、奥行きの長い屋根をつけた破風をもつ本堂などよりもこれらの地蔵が有名らしい。

街道に戻り蕨宿の北出口に近づくころ、右手に連子格子や土蔵を配した家並みが残っている。

街道は錦町3丁目信号で国道17号を渡る。交差点手前左角に、北木戸跡を記念したミニパークが設けてあり、蕨宿の概要が説明されている

国道の西側旧道沿いにも旧街道の面影を漂わせる家並みが見られた。

旧道をしばらく行くと右手の水路脇に「一六橋」の立札が立っている。水路は見沼用水の分流で、通称一六用水と呼ばれていた。「一六」といぅ名称は、南北朝時代から戦国時代にかけてこの辺りで一と六の付く日に「市」が聞かれたことによると伝えられている。

その先の水路にも「境橋」の説明板が建っている。この水路も見沼用水の分流で笹目用水とよばれ、蕨宿(現蕨市)と辻村(現さいたま市)の境界をなしていた。辻村は現在のさいたま市南区辻である


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浦和 

外環自動車道の手前右手に一里塚の跡碑と弁財天の祠がある。辻一里塚は江戸から5里目の一里塚であった。このあたりは昔湿地帯で、水の神である弁財天を祀った。碑と祠は昭和62年の建立で新しい。

街道を道なりに歩いていく。右手、古い趣の布団店の店先に見本の仕立て布団が二枚気だるそうに展示されている。

道はS字に曲がって丁字路に突き当たる。右折して六辻信号で国道17号を横断する。最初の信号で左斜めに折れていくのが旧中山道である。

しばらく行くと登り坂にさしかかる。歩道橋左脇に「焼米坂」の碑が立っている。この坂はもともと浦和坂と呼ばれていたが、この辺りに焼米を売る店があったので知られ、いつしか焼米坂の名で呼ばれるようになった。

左右に残る懐かしい佇まいの民家を見ながら1kmほど歩くと右手のこんもりとした森の中に調(つき)神社がある。延喜式内の古社で社殿は安政年間(1854〜1860)の建築とされる。伊勢神宮へ収める御調物を収める御蔵から斎清の為当社に搬入する妨げにならないように鳥居、門を取り払ったといわれ、この神社には鳥居がない。さらに狛犬の代わりに入口に兎が置かれている。調(つき)から月を連想させたものであろう。ちょっと変わった神社ではある。

街道は浦和駅西口にさしかかり繁華な商店街に入る。左手歩道に中山道浦和宿の碑が立つ。浦和駅西交差点の次のさくら草通り左手に道路元標があった。車輛禁止のプロムナードとなっている。

入って突当りを右に折れると県立図書館があり、道路沿いに
「浦和一女発祥の地」の碑がある。現県立浦和第一女子高等学校の前身である。共学化が進む中で未だに男子の浦和高校と女子の浦和一女子が併存する稀な例である。

その隣に「明治天皇浦和行在所跡」碑がある。静かなこの門前通りはここが旧中山道かと感じさせる。北に隣接して玉蔵院地蔵堂がある。玉蔵院は弘法大師の創建になるという古刹である。地蔵堂は安永9年(1780)建立で、3間四方、入母屋造りの本格的な仏堂建築である。

街道にもどり、商店街を北にすすむ。仲町交差点を渡った先の細い路地を左に入った所に仲町公園という小さな公園がある。浦和幼稚園の前で、公園には園児を迎える母親たちであふれかえっていた。その幼稚園を背にして明治天皇行在所跡碑が建てられている。ここが浦和宿星野本陣跡である。星野家は浦和宿の問屋と名主を兼ね、本陣の敷地内には問屋場と高札場があった。浦和宿には本陣1軒、脇本陣2軒のほか旅籠は15軒で、埼玉県内の中山道宿場のなかでは最も小さい宿場であった。

街道にもどり、次の路地(市場通り)を左に入って常盤公園に寄る。入り口歩道にしゃがみ込んで野菜を売る農婦の像がある。二・七市場の風景であろう。常盤公園は浦和宿が整備される前は徳川氏の御殿が置かれた場所で、鷹狩などの折に使われていた。

再び街道にもどって、すぐ左手奥に慈恵稲荷社があり、参道の半ばに「ニ・七市場跡」があり、「御免毎月二七市場之杭」と刻まれた石標が建っている。浦和宿では戦国時代から毎月2と7のつく日に市が開かれ賑わった。周辺では、蕨が一・六の市、鳩ケ谷では三・八の市、与野は四・九の市、大宮では五・十の市と、毎日どこかで市が開かれていたことになる。

浦和宿を後にしてしばらく単調な街道が続く。浦和橋でJR線路をまたぎ北浦和駅、廓信寺を左にみて大原陸橋東交差点にさしかかる。交差点の手前左側に庚申塔があるのを見逃した。

交差点のすぐ先左手に「一本杉」と刻まれた小さな石碑が立っている。かつては高さ18mもの一本杉が聳え立っていた場所で、ここで日本最後の仇討ちが行われた。江戸末期の文久4年(1864)、水戸藩落士宮本鹿太郎が千葉周作門下の河西祐之助を討ち、見事父の仇をとった。詳しくは写真に譲る。

街道は与野駅をすぎ1kmあまりでさいたま新都心駅前に差しかかる。浦和と大宮が合併して、その中間あたりに新たな官庁街をつくろうとしたのであろう。


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大宮 

街道はケヤキ並木に入っていく。ケヤキ並木は1967年の埼玉国体を記念して植えられたそうだが、その前年に旅した旅行記には鬱蒼としたケヤキ並木が大宮の唯一の記録写真として残っている。残念ながら大宮のどのあたりだったのか記録がない。


さいたま新都心駅前交差点手前、右手の歩道上の高台橋跡に小さな祠があり、火の玉不動とお女郎地蔵が安置されている。高台橋は北袋町と吉敷町の境を流れる鴻沼(高沼)用水にかかる橋で、現在は暗渠になっていて表示板がなければ気づくことはない。このあたりは昔刑場があった寂しいところであった。

江戸時代、大宮宿に柳屋という旅籠がありそこで千鳥と都鳥という女郎姉妹が働いていた。姉の千鳥は材木屋の若旦那と恋仲となったが、そこに悪名高い神道徳次郎という大盗賊が割って入った。宿に火をつけると凄む徳次郎と若旦那の間で思い余った千鳥は高台橋から身を投げてしまった。 哀れに思った近くの人が建立したのが女郎地蔵である。


またこの頃高台橋付近で火の玉が見られるようになった。ある夜、一人の男が火の玉に切りつけると「ギャー」と言う声がしてそこには物凄い形相の不動明王が立っていた。翌日その場所には剣を持たない不動明王の石仏がいた。剣は昨夜切り落とされたのだという。

さいたま新都心駅を過ぎ、右手に「武蔵国一宮」と深く刻まれた社標が、その後ろには朱色の氷川神社一の鳥居が堂々と建っている。欅を主とした見事な並木参道は延々と2kmに亘って一直線に続いている。並木は江戸時代は松、その後杉並木と変わって現在の欅等の雑並木と変遷した。かつて中山道はこの参道を通っており、大宮は氷川神社の門前町として発展したが、寛永5年(1628)に新しい道が整備されるに伴って新たな宿場町が形成された。

吉敷町交差点の先、左側に立派な門が見える。近寄ってみると西橋商事の表札がかかっていた。門は前田家江戸屋敷から貰い受けたものといわれる。

街道の右側に移り路地を入ると
塩地蔵尊と子育て地蔵が祀られた祠が並んでいる。左側の塩地蔵には次のような伝承がある。

妻に先立たれた二人の娘を連れた浪人が大宮宿で病にたおれ、日一日と重くなっていった。ある晩、夢枕に地蔵が現れ二人の娘に塩断ちをするように告げて消えた。娘は早速塩断ちをし祈ったところ父の病が全快した。そこで、たくさんの塩をこの地蔵に奉納した。

街道の左手、仲町バス停前にビルに挟まれて一軒板壁の民家が残っている。正面は閉ざされていて、空き家のようである。古い建物が皆無に近く昔の面影を見ることができない中で、大事なものを探し当てた気分であった。このあたりが高札場跡で、大宮宿の中心街に入っていく。

駅前交差点の角、高島屋が建つ場所に
紀州鷹場北沢本陣があった。北沢家は紀州候の鳥見役として御鷹場本陣と宿駅の脇本陣を兼ねていた。

大宮宿は本陣2軒、脇本陣が9軒もある大きな宿場だった。宿駅の本陣として最初スズラン通り右手に
内倉新右衛門本陣があったが、後に少し先の日吉通り入口右手岩井ビルの場所にあった山崎本陣に変わっている。明治元年の明治天皇行幸の折には浦和宿星野本陣で宿泊した翌日、氷川神社に参拝したのち、山崎本陣で昼食をとった。

旧大宮宿は飲食店が建ち並ぶ繁華街に変わっていて宿場の旧蹟は現存していないばかりか、その跡地にも何の標識類を見かけることもなかった。

裏参道の一筋南の路地を右に入っていくと突当りに小さな多子稲荷神社があった。本殿は天保4年(1833)の建立である。

裏参道は松尾神社の脇を通って鮮やかな朱塗りの神橋前に出る。橋を渡り威風を放つ朱色の楼門をくぐると武蔵国一宮が厳かにその威容を見せた。氷川神社は今から凡そ二千有余年前、第5代孝昭天皇の御代の創立と伝えられる古社である。

拝殿は開放的で祈祷を受ける席が整然と並んでいた。数年前初孫の七五三で、流れ作業的にこの拝殿に座って祈祷を受けたことを思い出した。

JR東北本線の下をくぐり、「大宮郵便局北」信号の先左手のココス駐車場入口に安政7年(1860)に建てられた大山道道標があり、「大山御嶽山 よの 引又 かわ越道」と刻まれている。中山道から西へ分かれる大山道があったが、今はその痕跡は残されていない。

警察学校入口バス停先の大きな丁字路角、回転すしの前に小さな馬頭観音とその説明碑がある。享和2(1802)年に、馬の供養や村の安穏、旅の無事などを祈願して建立されたもので、「下鴨野宮村」と刻まれている。

新幹線の手前左手に赤い鳥居が立って、その奥に東大成の庚申塔がある。元禄10年(1697)の建立で、「耳の神さん、目の神さん」として地元の人達からの信仰を集めている。

旧街道(県道164号)は国道17号をよこぎって宮原駅前を通過、国道16号の少し手前右手に賀茂神社がある。英泉の木曽街道浮世絵に上尾宿として描かれている神社である。

国道16号の先、右手のJA前に宮原町の道路元標があった。

まもなく右手に南方神社がある。信濃国一之宮諏訪大社の大神を吉野原の村人が村の鎮守として勧請したものである。社名「南方」は主祭神建御名方にちなむものであるとともに諏訪湖を表わす「水潟」にゆかりがある。

街道はこの先で大宮市から上尾市に入る。

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上尾 

上尾市にはいってすぐの信号左手の二又分岐点に寛政12年の庚申塔が立っている。左に入る細道は川越道である。少し入ってみたがすぐに住宅地に消失していた。

上尾陸橋信号交差点を渡った先の左手に愛宕神社があり、境内入口左手に享保7年(1722)建立の庚申塔が祠に納められている。

上尾駅が近づきこのあたりから上尾宿に入る。右手の創業180年という老舗和菓子屋「伊勢屋」の店先に鍾馗が飾られている。普通は屋根の上に置き鬼瓦の家に対して鍾馗を以て対峙させたという。

上尾駅の手前に上尾宿の総鎮守、氷川鍬神社がある。創立は寛永9年(1632)といわれる。参道を入った右手に文政5年(1822)建立の「二賢堂跡」の碑がある。上尾宿で旅籠を経営していた山崎武平治がこの場所に聚学義塾を開き近隣子弟の教育に当たった。二賢堂は山崎武平治が菅原道真と朱文公の二賢人を祀るために建てたもの。

氷川鍬神社の前に上尾宿の林八郎右衛門本陣があり、本陣の左右には井上五郎右衛門脇本陣白石長左衛門脇本陣が建ち並んでいた。さらに付近には細井弥一郎脇本陣や問屋場があって上尾宿の中心部をなしていた。今は個別の標識もなく、新しい雑居ビルや医院が連なっているだけである。

駅前を通過して右手の遍照院による。途中、歩道に上尾宿のパネルが設けてあって栄泉の浮世絵が掲げられている。描かれているのは大宮宿に近い賀茂神社である。

遍照院山門前左手に二賢堂の創設者山崎武平治の墓を示す標柱が立っているが、その墓は墓地の北端にある。墓地の西側、中程に「孝女お玉の墓」の標識が立っていた。お玉は越後柏崎の貧しい家に生まれ、親の生活を楽にしようと11歳のときに上尾宿の大村楼に身を売った。19歳のとき参勤交代の加賀前田藩の小姓に見初められ、ともに江戸へ行ったが、2年後悪い病をうつされ上尾に戻ってきて25歳で帰らぬ身になった。大村楼の主人が建てたという墓石は自然石を縦に板状に切って正面を機械で磨き上げたようで、江戸時代の墓石には見えなかった。本文は読めないが最後の銘文は「○○老人会」と読めた。再建したものだろう。

街道にもどり「図書館西」信号交差点手前右手に庚申塔がある。銘文等はわからなかったが、青面金剛と三猿の浮彫ははっきりしていて保存状態が良い。

信号をこえると右手に黒い巨大な建物が現れる。酒蔵文楽は明治27年の創業。創業者北西亀吉は近江日野商人の出身である。「北西酒造」から「文楽」に社名変更、街道向かいに北西家の本宅が建つ。

蔵の敷地内には鳥居を建てた一角が設けられていて、そこには創業者の顕彰碑、祠、荒川の伏流水だという仕込み水の井戸と杉玉が瓦屋根櫓の下に祀られている。造り酒屋の命を垣間見る気分であった。

「緑丘地下横断道」交差点右手角に上尾宿碑と案内板があり、屋根瓦の上に鍾馗が展示されていた。屋根に鍾馗を置くのは上尾宿特有の風景であるという。

北上尾駅入口を通過し、久保西交差点の東角地を、鬱蒼と茂った屋敷林を黒板塀で囲った須田家が占めている。塀が高く、樹木が茂って内部がよくうかがえないが幾つかの土蔵や古い建物が残っているようである。須田家は紅花問屋を営んでいた豪商であった。桶川は最上地方につぐ紅花の産地で、桶川臙脂(えんじ)として全国に知られた。

中山道は富士見通り信号交差点で桶川に入る。


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桶川 

桶川市東1丁目と東2丁目の境をなす交差点角に木戸趾の石碑が建っており、ここより桶川宿に入っていく。

右手民家の屋根に小さく鍾馗が乗っていた。屋根の鍾馗は上尾宿だけの風景ではなさそうだ。

左手には今も営業を続ける旧旅籠屋武村旅館がある。建物は新しいが一、二階を格子造りにそろえ、当時の間取りは引き継がれているという。武村旅館は36軒もの旅籠があったうちの1軒で紙屋半次郎が経営していた。

すぐ隣に鮮魚店稲葉屋本店がなつかしい佇まいを見せている。桶川は戦災を免れたため、今も木造の古い建物が残されていて、歩き甲斐がある。

桶川駅前交差点に桶川町道路元標をみて、右手に島村老茶舗が創業嘉永7年(1854)の風格を備えて建っている。二階の連子格子と、右から「御茶処」と彫られた板看板が風情を添えている。建物は昭和初期の建築である。

同じく右手に重厚な蔵造りの商家が残っている。江戸の穀物問屋矢部家の建物で、紅花商人としても活躍していた。少し通り過ぎて北側からながめると街道に面した店蔵の後ろに土蔵が二棟続いているのがよく見える。一番奥の文庫蔵が最古で明治17年の築である。

道向かいの小林木材の建物は江戸時代末期に建てられた旧旅籠小林家で国指定登録文化財である。二階の6間にわたる出格子は見事で当時の旅籠の佇まいを今に伝えている。

右手に冠木門が現れる。府川本陣跡で、皇女和宮も宿泊した。冠木門をくぐると薬医門があり、脇に明治天皇行在所の碑がある。門に「本日は公開日ではありません」という立ち入り禁止の貼紙があった。首だけ立ち入ってみたところ建物はモダンな住宅である。その奥に古い建物が保存されているのか、門からは見えない。

府川本陣の斜向かいが脇本陣跡で中山道宿場館が建てられている。

その先のポケットパークに
桶川宿碑と桶川宿案内板がある。これまでおよそ1里間隔で宿場を継いできたがこれからは2倍の距離となる。鴻巣宿まで約2里。その間に間の宿北本があった。

信号丁字路交差点を右折して桶川稲荷神社に寄る。二つ目の十字路を右に入ると左手に桶川稲荷神社がある。途中、欅の幹の窪みに稲荷を祀った珍しい光景に出会った。

稲荷神社は12世紀の創建とも言われる古社で、江戸時代には桶川宿の鎮守となった。社殿の前に一対の石燈籠が建っている。桶川の紅花商人24名が安政4年(1857)に寄進したものである。この中に矢部家も名を連ねている。

境内右手に重量600kgを越える力石が祀られている。嘉永5年2月これを岩槻の三ノ宮卯之助という力士が持ち上げたという。腕で直接抱え上げるのは到底無理で、実際は地に仰向けになって両足の上に乗せた小舟にこの大石を乗せ、両脚で船を支えたらしい。もちろん大勢の手を借りなければできないパフォーマンスである。

街道にもどり、すぐ左手の大雲寺にある女郎買地蔵を訪ねる。上尾、桶川には大勢の飯盛り女がいた。はるばる川越から遊びに来る男も多かった。弘治5年(1557)に建立された大雲寺本堂の左手に、背中にカスガイをうちつけられ動けなくなった女郎買い地蔵が神妙な顔をして立っていた。台座に正徳3年(1713)の銘がある。この地蔵は夜な夜な女郎買いに出かけるので、住職が背中にカスガイを打って鎖で後ろの木に縛ってしまったのだという。若い修行僧の女郎買いを戒めるために建てられたのが真相のようだ。ここまでの中山道で一番おもしろい。

歩道橋左側の橋脚に一里塚跡の金板が張り付けてある。標柱を立てる余地もないらしい。

市役所入口交差点の右手前に北の木戸跡の碑がある。南の木戸跡碑と同じく新しい。ここまでが桶川宿であった。

交差点角には中山道桶川宿碑が建てられている。

まもなく桶川市を出て北本市に入る。

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北本 

本宿交差点を渡った左側に北本宿碑がある。江戸時代の初期に本宿村が中山道の宿駅として整えられた。現在の本宿付近は、そのころ本鴻巣村と呼ばれていた所である。その後中山道が整備された頃に宿場は現在の鴻巣の地に移された。元宿場のあったところは、本宿(元宿)村と呼ばれ、桶川と鴻巣の間の宿として賑わった。

北本駅のすこし手前、多門寺交差点の右手にある多聞寺ムクロジの大木がそびえている。樹齢200年といわれ、ごつごつした筋肉質の幹は上部が折れているように見え、痛々しい。それでも葉の落ちた枝先に黄色の丸い実をつけていた。種子は丸くて堅く羽子の黒玉に使われる。

その隣に本宿天神社がある。本宿村の名主岡野家の氏神として始まったが本宿が中山道の宿駅であったころは宿場の鎮守として祀られてきた。

北本駅の北、北本3丁目交差点あたりは昔三軒茶屋とよばれた場所で、ここに北本宿の立場があった。今も角には三軒茶屋を冠する店がある。大正から昭和にかけて、駅付近には街道の両側に松並木が続いていた。

旧街道はJR北本駅あたりから左に曲がっていたのだがJR高崎線で分断され道筋は失われた。北本駅先の踏み切りを渡ると線路沿いに旧道がのこっており、家並みが途絶えた辺り、左手に原馬室(はらまむろ)一里塚が現存している。右側は線路あたりにあった。中山道で現存している一里塚は志村についで二つ目である。

来た道をもどって、街道を北に歩きはじめるとすぐ左手に浅間神社がある。社務所では新年の準備が始まっていて三々五々氏子の人たちが集まってきた。境内はいってすぐ右手に庚申塔があった。浅間神社は高さ6mの富士塚の頂にあり、参道・石段・社殿は富士山に向かって一直線上にある。

(2013年12月)
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