今様奥の細道 11

5月17日−27日(新暦7月3日−13日)



明神−山刀切峠−尾花沢
六田・天童立石寺
いこいの広場
日本紀行
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資料28

あるじの云、是より出羽の国に大山を隔て、道さだかならざれば、道しるべの人を頼て越べきよしを申。さらばと云て人を頼侍れば、究境の若者、反脇指をよこたえ、樫の杖を携て、我々が先に立て行。けふこそ必あやうきめにもあふべき日なれと、辛き思ひをなして後について行。あるじの云にたがはず、高山森々として一鳥声きかず、木の下闇茂りあひて夜る行がごとし。雲端につちふる心地して、篠の中踏分踏分、水をわたり岩に蹶て、肌につめたき汗を流して、最上の庄に出づ。かの案内せしおのこの云やう、此みち必不用の事有。恙なうをくりまいらせて仕合したりと、よろこびてわかれぬ。跡に聞てさへ胸とゞろくのみ也。。

芭蕉は有路家で風雨の2日間を過ごし、快晴になった3日目に山刀伐峠を越えて尾花沢に向かった。当初は背坂峠越えを予定していたのであるが、それは遠回りであることを知らされ急遽山刀伐峠越に変更した。ただし山刀伐峠越は小国側が険峻であるだけでなく盗賊が出没する危険性があるため、宿の主人は屈強な案内人を連れて行くことを勧めた。



明神−山刀伐(なたぎり)峠

5月17日(新暦7月3日)

前回の旅の終点となった新屋聖観音へ、明神集落から逆行してみようと試みた。農道の途中でであった地元の人が最上町ボランティアガイドだった。ここから新屋聖観音まで奥の細道旧道をたどれますか、と聞くと答えはNOで、一緒に新屋聖観音まで連れて行かれた。前回閉じていた観音堂の扉を軽々に開けて拝礼を促された。本題にもどって、この前を通っている道は林道につながっていて明神集落とは関係ない道であると宣告される。

芭蕉はどこを通ったのでしょうとたずねると、観音から国道47号へ200mほどもどったところで、西方向にでている畦道ともおもえる土道をしめされた。ここをいくと道はなくなっているのだが、草むらを歩いて明神に通じる農道にでることはできると。途中を端折って明神集落にもどり、その旧道跡復活地点を教えていただいた。

明神集落を後にして県道28号を南に進む。ほどなく左手に赤い鳥居がみえて、その一角に「万騎野原古戦場碑」が建っている。戦国末の天正8年(1580)、小国(現最上町)領主細川氏の軍勢が山形城最上氏の軍勢と戦って滅ぼされた古戦場である。

県道を南下し、小国川手前で左折して赤倉温泉街にはいる。「おくのほそ道 芭蕉の道」と題した案内板が狭い温泉街の要所に立てかけられて迷わないよう配慮されている。一ヶ所だけ矢印が反対ではないかと思われる個所があった。

芭蕉は虹の橋付近から徒渡りで小国川を越え、阿部旅館と旅館三之丞の間にある坂道を登り裏山(日山)へ向かった。現在、途中の広場まで旧道が保全されている。日山山荘までたどっていったが道はそこで途絶えていた。引き返し県道へ降りる。


赤倉温泉スキー場の西麓をまわりこんでほどなく山刀伐トンネル入り口に着く。ここに県道28号の旧道と、芭蕉が歩いた古道の入り口がある。
旧県道は舗装が整備されているが曲がりくねったドライブウェイである。その右側に細く残る古道は草が茂った薄暗い山道である。当時はブナの原生林がひろがる昼なお暗き峠道であった。峠の名称「山刀伐」とは、切り立った最上町側と、なだらかな尾花沢側の山容が、山仕事で使用した「なたぎり」という被り物に似ていることに由来するといわれる。

旧道を入った早々、左に「ふもとのスズ(清水)」があった。古道は急勾配の「二十七曲り」と呼ばれる全長800mの坂道を登っていく。途中、旧車道と二度交差しながら一旦山頂駐車場に出る。そこから改めて峠に向かう古道をたどる。落ち葉がやさしい心地よい山道である。わずかな距離と知りつつ、盗賊ならぬ熊が気になって足早に歩く。左手からも古道が上がってきていた。

峠はなだらかで、集団で休息するに十分な空間がある。ただし見晴らしはよくない。峠には東屋、「おくのほそ道」顕彰碑、歴史の道解説板、
形の猿羽根地蔵と兄弟といわれる子宝地蔵尊が配置され、その脇に大きな空洞が口をあけた子持ち杉が聳え立っている。尾花沢市と最上町の境界を示す史跡はなかった。

西側の下り道は東側にくらべて4倍近くの道のりをダラダラと下っていく。足元は比較的平坦である。後半は旧県道とかさなって、やがて現県道28号に合流する。合流点には広い駐車場と大きな「尾花沢市」、「奥の細道 山刀伐峠」の案内標識が立っている。

市野々集落をぬけ、関谷集落の家並みが尽きた所に「関谷番所跡」の標識が立っている。曽良が随行日記に「市野ゝ五、六丁行テ関有。最上御代官所也。百姓番也。関ナニトヤラ云村也。」と記した場所である。

押切を過ぎ赤井川を渡った先、正厳集落との中間辺り、曽良が「正ゴンノ前ニ大夕立ニ逢。」と記したあたりである。右手に「傳順徳天皇陵(天子塚)御案内」と題した大きな案内板が立っている。三国街道終点寺泊から佐渡島に流され順徳天皇は島で崩御され、真野御陵に葬られたことになっている。実は後年島を脱出して最上川をさかのぼって大石田に上陸。その後一時舟形山(御所山)に隠棲した後山を下りて正厳宮内に御所を営み寛元4年(1246)この地で崩御したというのだ。北に延びる道のかなたに宮沢中学校旧舎がみえ、その右方に小さく白い鳥居が認められた。行けば1km足らずだが、ずいぶん遠くに見えて寄るのを止めた。解説は極めて具体性に富み、信じたい衝動に駆られる。

正厳集落の街道沿いにその御所となった御所神社があった。同じような内容の説明板がある。前では「舟形山」であったのに対し、ここでは「御所山」になっていて、かえって真実味が増す。

正厳集落西端の宮沢局をすぎた先の丁字路で県道から分かれて左折し、すぐ県道にもどって丹生川をわたり、二藤袋地区をおおきな曲尺手状に通り抜けて国道347号を横断する。旧道は国道手前で県道を左に分け直進するのだが、国道に分断されて横断不能。結局県道で国道を横断した直後右におれて旧道復活点にもどる。旧道はその後、真っ直ぐな道筋を維持しながら途中県道28号を二度斜めに渡ってそのまま尾花沢市内の新町で県道301号に出、右折して県道120号の羽州街道に合流する。その十字路交差点角に島田屋鈴木清風が待っていた。

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資料29

尾花沢にて清風と云者を尋ぬ。かれは富るものなれども、志いやしからず。都にも折々かよひて、さすがに旅の情をも知たれば、日比とゞめて、長途のいたはり、さまざまにもてなし侍る。

 
涼しさを我宿にしてねまる也
 這出よかひやが下のひきの声
 まゆはきを俤にして紅粉の花
 蚕飼する人は古代のすがた哉 曽良


尾花沢 

5月17日(新暦7月3日)−5月27日(新暦7月13日)

清風は当時、紅花問屋島田屋の若旦那で39歳の働き盛りだった。江戸に滞在した際に俳諧を学び芭蕉とも親交を結んだ。7月上旬は紅花の摘み取りの真最中で島田屋は多忙を極めていた。芭蕉一行はその辺の事情を知っていたのかどうか。尾花沢での10泊のうち、最初の夜5月17日を含め21日、23日の3夜を清風宅に泊まり、後の7夜は近くの養泉寺に宿泊している。

清風宅は尾花沢宿の中心地にあった。その跡地の隣に芭蕉・清風歴史資料館がある。資料館は札の辻(現山形銀行尾花沢支店)にあった旧丸屋・鈴木弥兵衛家の店舗と母屋を清風邸跡の東側に移築・復元したものである。左半分の白壁土蔵と母屋は江戸時代末期のもの、右半分の格子町屋造りは明治時代の建築である。

芭蕉が清風を訪ねたとき偶然か、聞き知ってか新庄の豪商渋谷甚兵衛(風流)も商用で清風宅を訪れていた。疲れ切っていた17日の夜を除いて、21日と23日で、芭蕉・清風・曽良・素英・風流の間で五吟、風流を抜いた四吟歌仙を巻いている。風流は新庄での再会を申し出たものと思われる。

五吟歌仙 (芭蕉、清風、曽良、素英、風流)


すゞしさを我がやどにしてねまる也   芭蕉 
つねのかやりに草の葉を燒  清風
鹿子立つをのへの清水田にかけて  曽良 
ゆふづきまるし二の丸の跡  素英
楢紅葉人かげみえぬ笙のおと  清風
鵙のつれくるいろいろの鳥  風流

四吟歌仙 (清風、芭蕉、素英、曽良)

おきふしの麻にあらはす小家かな  清風
狗ほえかゝるゆふたちの蓑  芭蕉
ゆく翅いくたび罠のにくからん 素英 
石ふみかえす飛こえの月 曽良

5月18(新暦7月4日)

十八日 昼、寺ニテ風呂有。小雨ス。ソレヨリ養泉寺移リ居。

18日は小雨降る日となった。昼まで清風宅で過ごし、その後素英の案内で養泉寺を訪ね風呂をもらって一旦島田屋に戻り、午後、改めて養泉寺に出向いた。養泉寺は清風邸から羽州街道を700mほど西に行った坂の上にある天台宗の寺で、江戸時代まで上野東叡山寛永寺直系の寺院として格式を誇った。坂を下れば丹生川にむかって水田が広がり遠くには鳥海山や月山が望める。坂を吹きあがってくる涼風は、芭蕉の旅の疲れを癒したことだろう。

養泉寺の境内に、宝暦12年(1762)建立の「涼しさを我宿にしてねまる也」の句碑があり、「涼し塚」と呼ばれる。また、「芭蕉連句碑」と称される大きめの石碑には「すゞしさを」歌仙の、初折の表4句が刻まれている。

5月19(新暦7月5日)

十九日 朝晴ル。素英、ナラ茶賞ス。夕方小雨ス。

19日、素英は二人を自宅に招き「ナラ茶」を振舞った。奈良茶とは、奈良の僧坊で食された茶粥である。素英は本名村川伊左衛門といい、伊勢国の武家の出で俳諧にも通じる文人であった。後に清風と交わりを持ち島田屋へ出入りするようになった。晩年近く、素英は楯岡に移るが、この時尾花沢に墓碑を残すため上町の観音堂境内に石像観音を造り、その基石に辞世の一首を彫り遺した。素英の生前墓として羽州街道沿いに残っている。

曽良の記録を見ると、天候はもう一つであったが毎日のように地元の人たちの接待を受けていたことがわかる。


廿日 小雨。

廿一日 朝、小三良ヘ被招。同晩、沼沢所左衛門ヘ被招。此ノ夜、清風ニ宿。

廿二日 晩、素英ヘ被招。

廿三日ノ夜、秋調ヘ被招。日待也。ソノ夜清風ニ宿ス。

廿四日之晩、一橋、寺ニテ持賞ス。十七日ヨリ終日清明ノ日ナシ。

廿五日 折々小雨ス。大石田ヨリ川水入来。連衆故障有テ俳ナシ。夜ニ入、秋調ニテ庚申待ニテ被招。

廿六日 昼ヨリ於遊川ニ東陽持賞ス。此日モ小雨ス。

25日大石田から高桑川水がやってくる。川水宅と島田屋とは現在の西武街道でちょうど1里の距離にある。芭蕉が来ていると聞きつけてやってきたのであろう。あるいは高野一栄から大石田訪問の手筈を整えるよう頼まれて来たのかもしれない。新庄の風流といい、大石田の川水といい、このあたりの芭蕉人脈の濃密さはセレブサークル並みである。

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資料30

山形領に立石寺と云山寺あり。慈覚大師の開基にして、殊清閑の地也。一見すべきよし、人々のすゝむるに依て、尾花沢よりとつて返し、其間七里ばかり也。日いまだ暮ず。梺の坊に宿かり置て、山上の堂にのぼる。岩に巌を重て山とし、松栢年旧土石老て苔滑に、岩上の院々扉を閉て物の音きこえず。岸をめぐり岩を這て仏閣を拝し、佳景寂寞として心すみ行のみおぼゆ。

閑さや岩にしみ入蝉の声

六田−天童  

5月27日(新暦7月13日)

朝8時ごろ、清風が用意した馬に送られて山寺立石寺の見物に旅だった。山寺は本来予定していなかった寄り道だという。川水はそれを聞かされて、山寺からの帰路の出向かえを打ち合わせた。

尾花沢札の辻から羽州街道を南に下っていく。上町と中町の境をなす十字路を右に入ったところに鈴木清風の菩提寺念通寺がある。芭蕉の来訪より8年後の元禄10年(1697)鈴木清風は独力で本堂を建立した。

その先、右斜めに手に出ている道が大石田道(現西部街道)で、大石田まで一里。川水はこの道をやってきた。その先、左手に素英の生前墓がある。もちろん芭蕉が来ていたときにはまだ無かった。

尾花沢を出て、横内集落の手前に
奥の細道文学碑がある。ここを通って行った証だ。
土生田から大石田に通じる追分を通過、本飯田の
尾上の松をみやりて楯岡に至る。十日町の現村山郵便局あたりにあった笠原本陣兼問屋場で馬を返し、そこから六田−天童と馬を乗りついだ。六田での馬継の間に内蔵と逢った。

内蔵という男についてはっきりしたことはわかっていない。どこかで知り合って六田に来たときには寄ってくれとでもいわれたのだろう。問屋場かあるいは旅籠の主人と思われる。その末裔とおもわれる家が六田に三軒あった。大きな
芭蕉句碑を前庭に築いている六田宿元祖焼麩処斎藤家がその一つ。ただしここは元旅籠でも宿場の役人でもなかった。

他は六田の名主ほか問屋などを勤めていた名家山口清次郎家、そして実在の「高橋内蔵介(くらのすけ)」という説がある。その高橋家の末裔とされる高橋さんは一向に芭蕉に関心がなくて、実証がむずかしいらしい。しかし、十字路角に最近建てられた芭蕉のブロンズ像にははっきりと「高橋内蔵介」と銘打っている。


天童にはいり一日町から羽州街道と分かれて旧山寺街道に入る。
分岐点は、天童宿の伝馬町だった一日町(ひといちまち)1丁目にあるというだけで入口に標識もなければ目印になる建物もない。北側が空き地になっている路地を東にはいっていくと十字路があり、まずそこを左折して城山公園に行く。

かって念仏寺があったところで、そこに「念仏寺跡 翁塚」と刻まれた翁塚碑と「古池や蛙飛びこむ水の音」句碑があるとのことだが、見つけられなかった。代わって「行末は誰が肌ふれむ紅の花」の句碑と、昭和61年の新しい
翁塚碑があった。翁塚碑は芭蕉の碑というより山形の俳人雨聲庵山皓の碑というほうがふさわしい。趣旨がよくわからない碑だ。

オリジナルの翁塚(宝暦8年)は
明治35年の台風で念仏堂が倒壊した折、当時の町長村田金三郎が北目の自宅へ移したが
昭和23年ここに工場が建設されようとしたので天童市貫津の丸山氏が自宅へ移した、という話をサイトで見つけた。

城山公園の北側に建つ旧東村山郡役所前の石垣脇に「奥の細道ゆかりの地 翁塚跡」と書かれた標柱が立っている。ここが明治時代の村田町長宅跡か。城山公園にあるという翁塚はここから移転されたものか。隣に立っている説明板は郡役所のもので、翁塚跡の説明はどこにもなかった。2つとも3つともとれる複数の翁塚がどう組み合わせても一本の糸に繋がらない。

街道を急ぐ。

先の十字路にもどり東へ進み、小松建具のある十字路を右折するとようやく旧街道の雰囲気がでてきた。約400m南へ行くと三叉路に出る。左に「奥の細道 山寺への道」の標柱が、左角には丸みを帯びた石道標がある。「北目の道標」と呼ばれ「右 若木公道 左 湯殿山道」と刻まれている。

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山寺 

「梨の木清水」
「一本杉茶屋」と史跡をたどりながら
果樹園の中の山寺古道を歩き手に石倉公民館前を通り過ぎる。杉の大木がそびえ、街道風情のある家並みが見られる。集落の終わりあたりで左からくる道と合流し、右に折れていく。「上原」という地名を刻んだ「芭蕉句碑」標柱がある。道なりにすすみ、広域農道を斜めに渡ったところ左手にまゆはきの芭蕉句碑がある。

 まゆはきを 俤(おもかげ)にして  紅粉の花    芭蕉翁

説明文を借りると、「当日は石倉周辺より見渡す紅花畠が満開で月山の遠望もみごとな風景であったろう。芭蕉はこの地で「まゆはき」の句を詠んだと言われている。」「眉掃き」とは白粉をつけた後、眉を払うのに用いる小さい刷毛のこと。私には合歓の花で頬を撫でた幼児体験がある。合歓の花では眉掃きにはか弱すぎるかもしれない。旧街道の右手に「まゆはきの丘直売所」があった。旧山寺街道中唯一の観光スポットのようだ。

2時半ごろ山寺に到着。立谷川に架かる朱色の宝珠橋のたもとに巨大な岩がある。対面石とよばれ、貞観2年(860)慈覚大師が山寺を開くにあたり、この地方を支配していた狩人磐司磐三郎と大師がこの大石の上で対面し仏道を広める根拠地を求めたと伝えられている。猟師は仏道に帰依し殺生をやめた。

沿道に旅館、土産店、飲食店などが軒を連ねる。栗色に煮込んだ丸いこんにゃくを3個串に刺した「力こんにゃく」が名物のようだ。一本百円で買って食べた。からしをつけると美味い。

なかなか登山口が現れない。門前街並みが終わるあたりでようやく登山口にたどりついた。

石段をあがると正面に根本中堂がある。山寺は、正しくは宝珠山立石寺といい、貞観2年(860)慈覚大師が開いた。鎌倉時代には東北仏教界の中枢をなして、300余の寺坊に1000余名の修行者が居住、盛況を極めた。現在も境内35万坪の自然の岩山に、40余の堂塔を配し、日本を代表する霊場である。堂内には、伝教大師が中国から比叡山に移した灯を立石寺に分けたものが、今日も不滅の法灯として輝いている。

すぐ左脇石垣の上に角柱石の芭蕉句碑とその後方に清和天皇の宝塔がある。句碑は嘉永6年(1853)の建立、句はもちろん「閑さや岩にしみ入蝉の声」である。

山門への参道筋には右手に日枝神社念仏堂、鐘楼が立ち並んでいる。念仏堂は江戸時代の初めに再建された、坐禅や写経をおこなう立石寺の修行道場である。鐘楼は除夜の招福の鐘として知られ、元旦にかけて数千人の参拝者が幸福を願ってこの鐘をつく。

左手に亀の甲石、その先に句碑を挟んで芭蕉と曾良像が立つ。芭蕉像は昭和47年のもの、曽良は平成元年の建立で、個人が寄贈したものである。二人は元禄2年(1689)5月27日ここにやってきた。

夫婦杉と小さなめおと地蔵をみて山門をくぐる。奥の院まで800余段の石段が始まる。道中の案内札や標識が充実している。

左上の巨大な百丈岸を見上げながら、岩に狭められた幅4寸ばかりの石段を噛みしめるように上がってゆく。

右手にお休み石があり、左に蝉塚と奥の細道碑がある。蝉塚はもと山門のところにあったがここに移された。自然石の表面に「芭蕉翁」、右側面に「静かさや岩にしミ入蝉の声」と刻まれている。今の暦で7月13日、梅雨明け間近の蒸し暑い午後だった。うっそうとした杉木立の中を縫う石段の参道を無心に歩いていると、ただ耳に聞こえてくるのは鼓膜に張り付くような蝉の声だった。ミンミンときこえたか、ジージーときこえたか、あるいはただの幻聴だったか。本人にも定かでなかった。

一段と急な階段を上ると仁王門が立ちはだかっている。嘉永元年(1848)に再建されたけやき材の優美な門である。

観明院、性相院などを見てようやく奥の院にたどり着いた。左右二棟の堂がならび、右が奥之院ともいわれる如法堂で、慈覚大師が中国で修行中に持ち歩いた釈迦如来と多宝如来を本尊とする。堂は明治5年に再建された。

左側の大仏殿には、像高5mの金色の阿弥陀如来像が安置されている。「堂外からも含め道内撮影禁止」とあって大仏の姿は撮り損ねた。

帰路、性相院から右の岩道をたどって開山堂を訪ねる。百丈岩の頂上に立つ堂で、ここには立石寺を開いた慈覚大師の木像が安置されている。その左の岩の上に赤い祠が下界を見下ろすように建っている。納経堂といい、山内では最も古い建物である。今にも強風に飛ばされそうな危うげな佇まいであった。

開山堂からさらに登ると、五大堂がある。ここは五大明王を祀って天下泰平を祈る道場であるが、それよりも山寺随一の展望台として人気がある。ここからの眺望はすばらしい。

山内の観光を終えて下山する。出口付近にある本坊が歴代住職の住まいである。芭蕉はここを訪ねた日の夜は麓の坊に泊まった。本坊の周囲には僧侶の住む僧坊や参拝客を泊める宿坊もあっただろう。宿坊は門前町にも建ち並んでいたことと思う。芭蕉がどこに宿泊したかについて、情報を得る機会はなかった。


その夜は荷を預けておいた宿坊に泊まった。

(2012年10月)
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