今様奥の細道 12

5月28−6月3日(新暦7月14日−19日)



大石田−新庄−本合海−(最上川下り)狩川手向
いこいの広場
日本紀行
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資料31

最上川のらんと、大石田と云所に日和を待。爰に古き誹諧の種こぼれて、忘れぬ花のむかしをしたひ、芦角一声の心をやはらげ、此道にさぐりあしゝて、新古ふた道にふみまよふといへども、みちしるべする人しなければとわりなき一巻残しぬ。このたびの風流爰に至れり。

大石田

5月28日(新暦7月14日)−6月1日(新暦7月17日)

芭蕉と曾良は山寺から馬を借りて天童へ向かった。六田宿でまた内蔵に逢い立ち寄ったらもてなしてくれた。尾花沢で打ち合わせていた通り、大石田の高桑川水が本飯田まで迎えにきてくれた。

土生田宿の先の追分で羽州街道としばらく別れ左の道をたどって大石田を目指す。かつてはこの追分地点に、三角柱の形をした六尺程の道標が建っていた。平成11年(1999)に土中から中間部分が発見され、「おおいしだ 道」の刻印が確認された。

右手に「おへど山」の標柱が立つ赤鳥居をみて、旧道はまもなく県道189号に合流し、右手の山裾をこえる辺りで最上川に接近する。川沿いに駐車場が設けられているが茂みが深くて最上川は部分的にしか眺めることはできない。芭蕉はこの時、初めて最上川を目にした。阿武隈川、北上川とは違った印象をうけただろうか。季節は梅雨に入り水量はこれまで見てきた川よりも一段と豊かだったに違いない。「五月雨を集めて早し最上川」のイメージはこの時生まれていたのかもしれない。

県道右下に残る今宿の旧道を行く。地名は宿場を思わせるが大石田宿の一部だったか。県道に戻ると堤防にスペースが設けられ、「芭蕉翁 最上川と出会いの地」と書かれた大きな看板が建っている。ここから河口の酒田まで奥の細道は最上川の舟くだりを含めてつかず離れずの旅を続けることになる。古くは13世紀半ば、順徳天皇が佐渡島を脱出し、酒田より最上川を遡上してここ大石田に上陸したという伝承が残されている。

ここからは堤防の上を歩いていく。郵便局前の堤防下に大石田河岸船役所跡がある。酒田までの最上川舟運は天正8年(1580)の三難所開削により本格化し、大正時代の陸羽西線の開通に伴ってその役目を終えた。その間、大石田河岸はその中枢的な役割を果たし、寛政4年(1792)には幕府の舟役所が置かれた。

堤防に沿って瓦を乗せた白壁風の塀が続いている。コンクリートの胸壁をとりつけた特殊堤防の一部であるが、白壁に窓を設け海鼠壁の冠木門がいかにも舟番所の風情を醸している。ただそれは川に面した側だけであって、内側はたんにコンクリート壁に白ペンキをベタ塗しているだけの胸壁である。

橋の北側にうつると堤防に民家が接するように続いている。いずれの家も玄関は反対側の道路(県道30号)沿いにあって、裏は小屋、蔵、裏庭がランダムに並んだ様相で、どれが誰の家かは無論、家の境界さえも判別がつかない状態である。その中でトタン屋根小屋の裏側に「奥の細道 高野一栄亭跡」の標柱が立っているのを見つけた。現在の板垣宅であるという。その北隣が川水宅だそうだが、象の尻尾をみているようでピンとこない。

一栄亭跡の南隣の小屋脇に「芭蕉翁真蹟歌仙“さみだれを”の碑」の標柱があった。ここも板垣家の敷地だろうか。入り込んでいくと裏庭と思われるスペースに大きな自然石に高野一栄宅で巻いた歌仙の初折の表六句と各残りの裏六句を刻んだ油石がはめ込まれている。

芭蕉と曽良は川水に案内されて午後二時半ごろ高野一栄宅に着いた。ここに3泊することになる。一栄は船問屋を営む傍ら大石田俳壇の中核に位置した人物で、高桑川水は大石田村の大庄屋高桑金蔵で芭蕉と同年の46歳だった。

その夜は疲れて早く寝た。

5月29日(新暦7月15日)

一栄宅で芭蕉、曽良、一栄、川水のメンバーで連句の会が開かれ、「さみだれを」一巡四句が詠まれた。この折の芭蕉の発句は、「おくのほそ道」に収めた「五月雨をあつめて早し最上川」の初稿にあたる。
   さみ堂礼遠あつめてすゝしもかミ川   芭蕉
  岸にほたるを繋ぐ舟杭           一栄
  爪ばたけいざよふ空に影待ちて       曽良
  里をむかひに桑のほそミち         川水


句会を早く終え、その後芭蕉は一栄と川水を誘って2kmほど下流左岸にある黒瀧山向川寺に参詣した。曽良は遠慮した。まだ疲れが残っていたのであろう。黒瀧山向川寺は、曹洞宗総持寺と永平寺を大本山とする名刹で、永和3年(1377)大徹宗令禅師が開山した。創建のころは数々の塔堂伽藍が建ち並ぶ一大寺院であったが数度の火災にあって一切が焼失した。荒廃した僧堂と、境内に聳え立つ樹齢600年、樹高40mのカツラの老木が過去の栄華を語りかけてくるようであった。奥に最近建てられた白亜の仏舎利塔がまぶしく見えた。スリランカから仏舎利を賜ったというが、無住の寺との間に時間的空間的飛躍がありすぎてイメージを結びつけられない。

帰宅後、芭蕉と曽良は川水宅で夕食の持て成しを受けている。大庄屋の川水のこと、贅をつくした食事であったろう。

5月30日(新暦7月16日)

一栄宅で句会があり、前日の一巡4句にこの日の32句を合わせて、歌仙「さみだれを」の巻を完成させた。その後、芭蕉は近辺を散歩したのち一栄亭にて歌仙の清書に当った。

一栄亭跡の真蹟歌仙碑はこの最初と最後の6句を芭蕉の筆跡で刻んだものである。

私も近辺を歩いてこよう。本町通りに出る。大石田のかっての繁華街である。蔵造りや格子造りの町屋など、古い建物があちこちに見られ河港で繁栄した面影を偲ぶことができる。川側の黒い格子造りの家が高野一栄宅跡に建つ板垣家のようである。米を商っているようだ。

その先に二階建白壁に連子格子を施した蔵造りの住宅がある。高桑健太郎家住宅で町の景観保護建築物に指定されている。旧家の風格をただよわせるこの家はひょっとして大庄屋であった高桑川水の家系ではないかと想像する。

道の反対側に門を構えた旧家らしき佇まいがある。大石田宿の本陣を勤めていた二藤部(にとうべ)家宅である。斎藤茂吉が自ら聴禽書屋(ちょうきんしょおく)と名付けたこの離れに昭和21年1月から翌年11月まですごした。


その先北側の路地をはいったところに西光寺があり、ガラス張りの覆堂の中に明和年中(1764年〜1772)の建立とされる「さみ堂礼遠あつめてすゝしもかミ川」の句碑が安置されている。また同じ句の昭和版句碑もあった。仁王門の仁王像は慶応3年、大石田の彫刻家柴川文蔵が東京浅草の仁王に似せて彫刻したものであるという。不釣り合いな太い眉毛と素人くさい手つきがなんとも愛嬌があってユーモラスだ。

本町通りを戻り、乗船寺に寄っていく。乗船寺の本堂裏庭に正岡子規の「ずんずんと夏を流すや最上川」の句碑と、斎藤茂吉の「最上川逆白波のたつまでにふぶくゆふべとなりにけるかも」の歌碑がある。また墓地には高桑川水夫妻の墓もあった。

6月1日 (新暦7月17日)

さて、大石田の散策も終え、芭蕉と曽良は翌朝高野一栄宅を後に、新庄へと向かった。一栄と川水は、「弥陀堂」まで芭蕉を見送り別れを告げた。弥陀堂は井出の地蔵堂と考えられている。大石田小学校の北側の道を通っていくと井出集落に入り、普門寺から50mほど手前左手に「井出の地蔵様」として女性の信仰が篤い子育地蔵堂がある。

一栄、川水は芭蕉と曽良のために舟形宿まで馬二頭を用意した。井出で二人と別れ猿羽根峠を目指す。丹生(にゅう)川に突き当たり県道305号に出て川を渡る。岩ヶ袋、海谷、鷹巣と通り過ぎて芦沢集落で尾花沢から北上してきた羽州街道に合流する。追分に石道標が立っていて正面に「是大石田道」と刻まれているのが読み取れた。


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新庄 

6月1日(新暦7月17日)−6月3日(新暦7月19日)

芦沢集落を出て坂を下った左手に大きな沼があらわれ、その北端に小さな赤い鳥居が見えた。県道からはずれて鳥居をめざす。芦沢集落の鎮守として明和5年10月(1768年)に創建された稲荷神社である。建立には名木沢を支配していた国分織部氏がかかわっている。

街道は段丘上に上がり、地名も上ノ原という集落に入る。集落手前、左手の林の中に 明治天皇行在所碑があった。この場所は羽州街道が通っていたところでもあり、その古道は後ほど見る織部坂に通じていた。上ノ原集落をぬけるとラブホテルを横目に見て坂を下り国道13号に合流する。

左に折れて名木沢川に向かって下っていく。橋の手前に左に出ている細道を入ったところに
織部館跡」の標識が立っていた。芦沢稲荷の説明板に書かれていた名木沢の支配者織部氏の館跡である。林の中に延びている古道は、明治天皇行在所に通じている旧羽州街道の跡である。名木沢川にいたる下り路を織部坂と呼んでいた。芭蕉はこの道を馬に揺られて下ってきた。

名木沢宿に入り、右手に名木沢宿本陣織部氏の住宅がある。織部氏は親方様と呼ばれ、名木沢宿の本陣、問屋、名主、番所など名木沢のすべての要職を一手に引き受けていた。屋敷の一角は関所で、山形藩最北の番所として重要視された。二人は大石田で受け取った出手形をこの番所に収め、山形藩を出る許可を得る。


ここから猿羽根峠を越えて舟形宿にいたる古道は失われているため、毒沢交差点で右に出ている明治新道(旧国道)をたどって峠に向かう。すぐの二股を右にとって国道13号バイパスをくぐったところで左に折れて山道に入っていく。かっては整っていた舗装も荒れて草深い道になっていた。崩落箇所が発生したのか通行禁止の立札が倒れていた。約2kmほどの山道を上がっていくと猿羽根峠下の駐車場に出た。そこからは土道をたどって旧峠に登る。

旧峠は休憩所やなぜか土俵もあって、史跡公園として整備されており、一帯には斎藤茂吉文学碑、芭蕉句碑、「(従是北)新荘領」と刻まれた領界碑猿羽根地蔵堂、一里塚などがそろっている。地面は概して平らで峠としての頂上感がない。しいていえば領界石碑のそばに立つ「奥の細道猿羽根峠」の標識のある場所が街道の最高地点だろうか。猿羽根峠は最上郡(新庄藩)と村山郡(尾花沢天領)を分ける峠であった。領界石の奥のほうまで進んでいくと下り坂になった古道の一部が残っている。

元禄2年(1689)6月1日(陽暦7月17日)芭蕉と曽良は大石田からこの峠をこえて新庄の渋谷風流宅を訪ねている。句碑に刻まれた「風の香も南に近し最上川一句はこの峠から望んだ最上川の風景だったと考えられている。今見える風景には山が視界を狭めていてわずかに水面の光が見えるのみであった。

街道は舟形宿に入る。新庄藩と尾花沢幕府領とが接する猿羽根峠の麓にある舟形宿には新庄藩の番所が置かれて通行が厳しく監視されていた。領内から出るには手形が要ったが入る分には特段要らないらしい。右手に「本陣商店」とある家が舟形宿本陣だった伊藤家である。二人はこのあたりの問屋場で馬を大石田に返しここからは歩いて行った。

羽州街道はそのまま直進して県道56号を横切ったところで小国川に突き当たる。旧道はここから小国川の渡しを経て新庄へ向かっていた。一旦国道13号に合流して舟形橋をわたると右手に旧道の跡らしき道が残っている。川辺まで降りていくと渡し場跡らしい雰囲気が感じられ、対岸の舟形側にもそれらしき場所を偲ぶことができた。

羽州街道は国道から左斜めへ分岐して欅坂へと進む。このあたりは新庄藩が小国川渡しの休み所として4戸の家を移し四ツ屋ともよばれていた。欅坂から柴山、そして鳥越にかけては並木が続いていたという。柴山で国道13号に合流する。左手に陸羽東線と山形新幹線が接近してきて国道と並走する。まもなく陸羽東線の線路との間に紫山一里塚跡があった。

街道は国道を北上、南新庄駅を通り過ぎ左に大きくカーブするところで、旧道は国道を左に分けてまっすぐ北に進む。一本道が家並みをつらぬき、やがて右手に鳥越八幡神社参道が現れる。ここは中世、鳥越九右工門の楯があったところで、その大手口にあたる場所に、寛永15年(1638)新庄藩初代藩主戸沢政盛が社殿を建てた。本殿は一間社流造りで華麗な彫刻を施し、拝殿は梁行2間、桁行3間の入母屋造り、銅板葺きで本殿とは異なり素木造りである。拝殿は元禄4年(1691)になって二代目政誠によって造営された。

新田川を渡り国道13号を斜めに横切ると右手鳥越一里塚のブナがそびえている。その根元に一里塚碑と「新庄城下南入口」の標柱がある。新庄城下ではここと上茶屋町に一里塚が設けられた。この一里塚から測って柴山、猿羽根の両一里塚が判明した。

一里塚からすぐの路地を右に入ると左手に「奥の細道 氷室の句碑と柳の清水」の標識が立っている。大きな柳の木があって清水と芭蕉の句碑があった。

  水の奥 氷室尋ぬる 柳かな

元禄2年(1689)陽暦7月17日の暑いさなか、芭蕉は新庄の富豪渋谷風流邸(渋谷甚兵衛邸)を訪ねていった。そこで開かれた句会での挨拶句である。城下に入るにあたってここで一息つき、この清水で喉を潤し汗をぬぐったことであろう。

旧街道はこの先線路で分断され、県道310号の地下道をくぐって反対側に出る。その先は旧道との変則十字路と県道34号との三叉路が重なって複雑な道筋になっているが、結局県道34号に乗って上金沢町に入っていく。

芭蕉が宿泊した豪商渋谷風流(甚兵衛)の家は、南本町の森金物店の場所と言われているが、他方で上金沢町5−33の佐藤義国氏宅だったとする説もある。佐藤宅地には「奥の細道風流亭跡」の標識があるとのことだったが、該当番地の家(ヘアメイクcecilの向かい)には標識らしきものは見かけなかった。

升形川の手前左手に渋谷家菩提寺接引寺があり、入り口にかまど地蔵がある。この地蔵は宝暦5年(1755)の大飢饉の餓死者を供養するため造立された。飢えないようにぼた餅を食べさせられるためいつも口元が汚れているという。確認のため覗き込むと確かに墨で塗ったように口周りが黒かった。となりの六地蔵もおこぼれにあずかって全員口の周りを黒く汚しているのがおかしい。

県道32号と交わる落合町角を右に折れると大町通りである。雪国らしく雁木付の商店街が続く。城下随一の繁華街で、蔵店が並んでいた通りも往時を偲ばせる店はみあたらない。街道は駅前通りとの交差点を渡って、新庄城大手口となる大町十字路を境に南本町と北本町に分かれる。この両町が宿場の中心地で、本陣、問屋は南北両町にあった。南本陣は伊東弥左衛門家、北本陣は中島宗内家が勤めた。

芭蕉が2泊した豪商渋谷風流(甚兵衛)の家は、南本町の森金物店の敷地付近にあったとされ、店先に「芭蕉遺跡風流亭跡」の石柱が立っている。到着早々に風流宅で歓迎の宴が開かれ席上、「水の奥」三つ物が詠まれた。芭蕉は柳の清水を発句に詠んだ。

  水の奥氷室尋る柳哉    翁
  ひるがほかゝる橋のふせ芝  風流
  風渡る的の變矢に鳩鳴て   ソラ


6月2日(新暦7月18日)

風流の兄渋谷盛信宅は風流宅の斜向いの駐車場敷地にあった。歩道上に「芭蕉遺蹟盛信亭跡」の標柱が立つ。渋谷本家九郎兵衛盛信は問屋業を営む城下一の豪商だった。風流亭で一夜を明かした翌日、芭蕉は昼過ぎより渋谷九郎兵衛に招かれ、当家で「御尋に」歌仙を巻いた。連衆は、風流、芭蕉、曽良、孤松、柳風、如柳(如流)、木端の7名である。

  御尋に我宿せばし 破れ蚊や         風流
  はじめてかほる風の薫物(たきもの)  芭蕉
  菊作り鍬に薄を折添て             孤松
  霧立かくす虹のもとすゑ            曾良


またこの日に盛信亭にて「風の香」三つ物も詠まれたものと思われる。

  風の香も南に近し最上川   
  小家の軒を洗ふ夕立       息 柳風
  物もなく麓は霧に埋て      木端


大手口を左折すると鈎型の道沿いに市民プラザがある。町奉行所跡・明治天皇行在所跡・藩校明倫堂跡など城下行政の中心地をなしていた。プラザには「風の香」三つ物の発句を刻んだ芭蕉句碑があった。

風の香も南に近し最上川 

ついでに新庄城址に寄っていく。

ここから西に二筋移動すると新庄城址のある最上公園に出る。堀を渡ると戸沢神社があって右に日本庭園、左は広場を経て天満神社がある。新庄城は、寛永2年(1625)、新庄藩初代藩主戸沢政盛が築いた城である。創建時の新庄城は本丸中央に3層の天守閣、3隅に隅櫓、表御門、裏御門を備え、二の丸は役所や米倉、大手門・北御門を有し、三の丸には多数の侍屋敷を区画した堂々たる近世城郭であった。

戦国時代に出羽国仙北郡(秋田県内陸中部)を支配していた戸沢政盛は、関ケ原の功により常陸松岡に4万石を賜り、元和8年(1622)山形最上氏の改易で新庄6万8千石に封ぜられた。戸沢氏は以後明治初年まで、11代250年にわたり、この城を拠点として藩政を展開した。

6月3日(新暦7月19日)

天気もよくなったこの日、芭蕉一行は風流宅を後にし本合海に向けて旅立った。城下から本合海までの旅のルートは、曽良の日記にその間の距離が「一リ半」とあるほか不詳。本合海芭蕉乗船の地に建つ案内板によると風流ほか地元の俳人たちは芭蕉一行を松本村まで見送ったとある。松本は金沢町の西方、国道47号沿いの集落である。また、本合海の渡し跡の碑文には、「江戸時代前期の新庄領内絵図には、新庄から続いて畑・蔵岡を経て古口に至る道路が描かれ一里塚の印が点々と記されている。」とある。新庄と本合海の間には陸路が開かれていたのだろう。国道47号の道筋の原型があったのではないか。

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資料32

最上川はみちのくより出て、山形を水上とす。ごてん・はやぶさなど云おそろしき難所有板敷山の北を流て、果は酒田の海に入。左右山覆ひ、茂みの中に船を下す。是に稲つみたるをや、いな船といふならし。白糸の瀧は青葉の隙隙に落て仙人堂岸に臨て立。水みなぎつて舟あやうし。

五月雨をあつめて早し最上川

本合海 −(最上川下り)− 清川 

6月3日(新暦7月19日)

国道47号で新田川を渡った先で国道458号に移り本合海集落に入っていく。集落の西はずれ近くになって右手の最上川を見下ろす崖上に「芭蕉乗船の地」広場がある。遠くをみつめるようなポーズをとる芭蕉と曽良の像と、句碑があり、和英両文の解説板が建っている。

本合海は、陸路のない時代に内陸と庄内を結ぶ最上川舟運の重要な中継地として栄えました。大石田を後にした芭蕉、曽良一行は新庄の風流亭に2泊し、地元の俳人たちと俳諧を楽しみ名句を残しています。元禄2年(1689)6月3日、主従一行は、松本村まで見送りに来た地元の俳人たちと別れを惜しみ、本合海の船つき場へとめざし、この地より舟上の人となりました。八向楯の絶景と青葉の美しい雄大な最上峡の景観を楽しみ、川を下り清川へと旅を続けます。

地元の人たちの見送りの場所が松本だとはどこからの情報だろう。曽良の随行日記には見送りのことは触れられていない。

堤防をおりて水辺を逆もどりしたところに「本合海の渡し」の碑がある。水辺に石畳み跡と思われる遺構が残っていた。碑文によれば江戸初期には新庄から畑、蔵岡を経て古口までの陸路があり、一里塚さえ整備されていたようである。畑も蔵岡も最上川左岸の集落である。この事項は明治に至るまで新庄から本合海に至る陸路はなかったとする説に異を唱えるもので、奥の細道の道筋に大いに影響を与えることになる。

二人は船に乗り込んだ。ここから清川までおよそ12里(24km)の船旅である。船には二人の禅僧が乗っていた。彼らは合海から乗ったのだという。合海は本合海から分村した舟形街道の清水宿に隣接する相河岸である。村山地方からの出羽三山に参詣する旅人は清水や合海から上辺するのが普通であった。

古口 

本合海から船に乗り6kmほど下って古口に着いた。古口は最上川舟運の船着場として栄え、新庄藩は、庄内藩との境に最寄りの当地に関所を置き、通行の取り締まりを行った。旧舟番所跡は、集落の西端近くにあった。右手の空き地に「奥の細道 船番所跡」の標識があり、堤防近くに明治天皇行在所跡の石碑が立っていた。この場所は船番所跡であるとともに、古口郷の代官所跡でもある。

一リ半、古口ヘ舟ツクル。合海ヨリ禅僧ニ人同船、清川ニテ別ル。毒海チナミ有。是又、平七方へ新庄甚兵ヘヨリ状添。関所、出手形、新庄ヨリ持参。平七子、呼四良、番所ヘ持行。

芭蕉と曽良はここで船を乗り換え、番所で手形の手続きをした。新庄の渋谷風流(甚兵衛)に書いてもらった添状を古口の荷問屋平七に渡すと、平七の子呼四良が手形とともに番所へ持って行ってくれた。手続きはスムーズにいって、清川に向かった。平七の子孫は元戸沢村長を勤めた斎藤直吉氏だという情報を頼りに 戸沢村役場でその家を尋ねるとすぐに教えてくれた。

集落の手前に舟番所を模した建物が建ち、門には金字で「戸沢藩船番所」「乗船手形出札処」と書かれた看板が仰々しく掛けられている。ここが現在の最上川芭蕉ライン船乗り場で、現代の旅人はここから芭蕉丸に乗って最上川を下る。ただし清川まではいかずに途中の草薙温泉までである。ビジネスモデルとしてそれが最有効と考えた。

いよいよ私も最上川舟下りに加わる。平日にも関わらず建物の中は観光客で一杯だった。年配の団体客が圧倒的に多い。切符を買って呼び出しとともに乗船口に移動する。団体客優先で船が準備され、私は最後の船で団体さんと相乗りになった。船はすべてが「芭蕉丸」だ。

芭蕉丸は古口から草薙温泉まで12kmの最上川峡谷航路を下っていく。ほぼ一時間ごとに出港し、舟数は十分準備してあり満席お断りということはなさそうである。降船場の草薙から、トイレと土産を買う時間を考慮してバスが待機しており、古口まで400円で送り返してくれる。

船首で靴をぬいで茣蓙にくつろぐ。団体は賑やかだ。修学旅行気分になってまもなく「柳巻」を過ぎる。南から角川が流れ込む場所で、梅雨時は激流となって最上川の横腹をえぐって渦を巻くという。この日はおだやかで、水面がやや波打つ程度であった。

やがて、右岸の川岸に小さな小屋が見えてきた。最上峡ふるさと村と名付けた休憩所である。船はUターンしてここで一休みする。その間に船客は甘酒で体を温めたりアユの塩焼きを食べたり土産物を買う。バスツアーで大型土産店に連れて行かれるシステムと同じだ。次の船がくるのを見て船は桟橋を離れる。

船旅もいよいよ佳境にはいってきて、船頭さんの口も一段となめらかになってきた。右手に石段と鳥居が見えて、岸に一艘の船が横付けしている。芭蕉丸でなくて義経丸だ。芭蕉丸はここには寄らず、別途高屋駅近くの渡し場から義経丸が観光客を運ぶ。鳥居の右方にかすかに見える小堂が「仙人堂」だろうか。仙人堂は外川神社とも呼ばれ、日本武尊を祀る。源義経につき従ってきた常陸坊海尊がこの地で皆と別れ、山に篭り修験道の奥義を極めて仙人になったという。

目の前に川幅の半分を占めるほどの大きな浅瀬が見えてきた。エンジンの音が止んで船尾に陣取った船頭が櫂を漕ぐ。川の深みを注意深く進む。いつもより波が高い。芭蕉が「水みなぎって、舟あやふし」と叫んだのはこの辺りではなかったかと思う。

ガイド役の船頭さんが本日最後の歌を歌い出す。三つ目の歌だ。それまで二曲は手拍子を迎えたが、今回は拍子を取らないようにという。目をふさぎ渋みのある声で最上川舟唄を歌い上げる。いい歌だ。船客はしばし旅情に浸る。

歌が終わったころ右手に白糸の滝が現れる。滝の高さは124mで日本6位。八合目付近から湧き水が出ているため水枯れはしない。赤い鳥居の上の木々の間に白い一筋の流れが見えた。芭蕉は奥の細道で最上川船下りの印象をこう記している。

 白糸の滝は、青葉の隙々に落ちて、仙人堂岸に臨みて立つ。
   水みなぎって、舟あやふし。
 五月雨をあつめて早し最上川

現在の最上川船下りはこの先草薙で終わる。船旅はちょうど一時間だった。

清川

草薙から4kmほど左岸を下り立谷沢川を東雲橋でわたった先で国道をおりる。左手小学校の裏庭に「芭蕉上陸之地」の石碑、芭蕉句碑芭蕉像が立って、元禄2年(1689)6月3日の最上川下りを記念している。

句を刻んだ大きな石は「清川関所跡」碑も兼ねている。ここに
内藩の船番所があった。清川は庄内藩の船運の中心地であり、庄内平野の要の地点でもあったので、船番所を設けて警備していた。古口の新庄藩船番所に相対するものである。

舟ツギテ、三リ半、清川ニ至ル。酒井左衛門殿領也。平七ヨリ状添方ノ名忘タリ。此間ニ仙人堂・白糸ノタキ、右ノ方二有。状不添シテ番所有テ、船ヨリアゲズ。

平七からの添状をめぐってなにかトラブッたようだが、結果的には無事関所をぬけて清川に上陸できたようである。二人は一筋西の通りに移り、清川から再開される舟形街道を西に向かった。街道の起点は中学校の正門前である。運動場に昭和9年の古い文部省注意板が残されていて、この場所は明治14年9月天皇行在所となったことが記されている。校舎の一部に仮屋が設営された。そばに小・中学校の歴史が刻まれている。中学校は天皇巡幸の1年前の明治13年に建設されている。巡幸に合わせ行在所目的に建てられた事情が垣間見える。校舎の後ろに見える林は御殿林とよばれ、戊辰戦争清川口古戦場跡でもある。この場所に庄内藩主の宿泊所があった。清川本陣跡ともいえる場所だ。

郵便局を通り過ぎ家並みが尽きたところで、県道45号は国道に合流していく。

街道はそのまま旧道を進み、やがて線路と接して舗装道は途絶、草道を左折して線路の反対側に出る。しばらく砂利道だがまもなく大堰沿いの東北自然歩道となって、狩川変電所の手前でY字路を右にとって県道33号に合流する。

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狩川 

まっすぐな県道で東興野集落をぬけると田園の広がりがみえてきた。出羽山地をぬけて庄内平野にはいってきた実感がわく。日本海も遠くはない。のんびりと回転する風力発電機がのどかさを増幅させる。

狩川集落に入ってきた。駅前通りから街道が左折していく立川町狩川信号までの間には旧街道宿場町の面影を残す落ち着いた家並みが見られる。駅前通りとの丁字路角に構える屋敷は周囲を黒板塀で囲い込み、冠木門を構えた大屋敷である。塀の内側にはいくつもの白壁土蔵が屋敷林の間に見られる。

狩川は城下町であると同時に、これまで最上川に沿ってきた舟形街道がここで進路を南に向けて目的地の羽黒山に向かう重要な宿場でもあった。地図をながめると狩川を起点として、北西に酒田をめざす国道47号と南西にむかって鶴岡に向かう国道345号がきれいに扇の両端を描いているのがわかる。舟形街道は県道46号となってほぼ直角に南に向かう。

信号をおれてすぐ左手に冷岩寺、右手に八幡神社がある。神社の境内に「牛馬遠祖 食保大神」の石碑がある。「食保」の文字が逆だが、保食大神(うけもちのおおかみ)は日本書紀の食物起源神話に登場する神である。牛馬のもならず米、粟、小麦、大豆等古代穀物の祖でもある。珍しいものを見た。

冷岩寺の手前の路地を入り込み楯山公園による。頂上に築かれた狩川城跡地である。狩川城は南北朝時代に北畠氏の武将斎藤新九郎俊氏が築いたとされる。南北127m、東西91mの細長い形態だった。その後庄内地方が上杉氏の領有に移り、重臣の直江兼続によって検地が行われたが、これに対して抵抗する一揆が起き、狩川城もこの拠点となった。

慶長6年(1601)、関ヶ原合戦において西軍側へ味方した上杉氏は庄内地方を没収され、最上義光へ与えられた。義光は狩川城の城代として北館大学利長を任じ、狩川・清川・立谷沢の3000石が与えられた。大学利長は慶長17年(1612)に立谷沢川から引水し総延長32kmの北楯大堰を築いて新田開発を行った。堰完成後30年にして狩川の石高は10倍に増えたといわれる。元和元年(1625)、一国一城の制度によって狩川城が破棄された。

城跡はグラウンドゴルフ場に変わっており、周辺一角に空堀の跡らしき地形が残っているほか、遺構はない。

跡地の一角に立派な北館大学利長像が建立されて、極めて詳しい説明板が建てられている。城よりもなによりも、狩川にとって大事なのは北楯大堰だったことがうかがえる。

県道46号にもどって南下を続ける。舟形街道は清川から南にのびる山地の西麓を縫うように延びて、県道46号は小さな扇状地に形成された集落の西端をつなぐようにつけられている。西側はただ区画整理された水田がひろがるのみである。集落に着くたびに県道よりも山側に集落の中央を突き抜ける旧街道が残っていた。

狩川から最初の集落は添津である。旧道を歩いていると右手の空き地に大小二つの祠が並んでいて小さいほうには地蔵が、大きな祠には羽州街道土生田でなじみになった六面幢が収められている。六地蔵が浮き彫りされた立派なものである。

並木の名残を思わせる木々が残る道の左側には水が流れている。懐かしさのただよう集落であった。道なりに県道にもどって次の集落に移る。

次は三ヶ沢であるが、この集落内の道は複雑で県道と山際との間に2、3本の道があみだくじ状につながっていて、どれが街道筋か結局わからずじまいだった。

集落の北東はずれにあたる位置に光星寺稲荷大明神がある。寺よりも稲荷のほうが有名である。赤鳥居と赤地白抜きの幟が刺激的だ。集落の中央付近に御嶽神社、そばに起屋根付き玄関をもったレトロ風な建物に「三ヶ澤部落公民館」と墨書きされた看板がかかっていた。

道を適当に左右に選んで南に進むと三ヶ澤の堰南地区に出た。ここには土蔵、板塀の家並みが残っている。旧道はここにちがいないと独り思い込む。

そこから東に歩いていくと山裾に「天然記念物 三ヶ沢の乳イチョウ」と記された標石に出会う。これも行き当たりばったりの収穫である。寺の境内中央に銀杏の巨木がデンと構えて巨大な乳を惜しみなく垂らしている。壮観である。正式には「柱」といい、解説によると「乳状に突起したもので担根体といい、その構造は根と違って軟らかい細胞からできており、多くのでんぷん質を蓄えている。乳白色状の乳と同じような樹液が流出する」という。乳が出るとまでは知らなかった。

その先を右に折れて斜めに県道に接近して合流する。

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手向 

次の添川集落は県道がそのまま昔の街道のようで、家並みが両側に続いている。集落の入り口付近左手に御堂があってその前に大きな庚申塔と湯殿山碑が目を引いた。説明板はなさそうだ。

右手街道沿いに木立に隠れた茅葺の民家を見つけた。旧道の証だろう。

左手に大きな図入りの「新奥の細道」案内板が建っている。「根子杉」が目玉のようだ。地図にしたがって行ってみたが、山道にかなり入っていっても一向に根子杉にちかづいた気配がない。周囲の杉木立からしてその中の目玉杉は相当な巨大杉だろうことは想像できた。

里までもどる。途中の道を南にたどる。途中、林の一角に鉄柵に囲まれた墓石があって傍に梅津中将墓碑」の標柱が立っていた。鎌倉時代の宝治年間(1247−49)、執権北条時頼より出羽の国の探題として派遣された武将で、羽黒山長吏職を兼ねていたといわれている。

その先左手に長い石垣が組まれその上に大きな屋敷跡がある。回り込むと白壁に蔦がからみついた土蔵と立派な門が残っている。人の住んでいる気配はない。これが、案内図で示されていた旧地主鈴木邸だろう。

県道に戻る。丁字路角に白い標柱が目に入って、近寄ってみると「羽黒街道追分」と記され、自然石の追分道標がある。羽黒街道とは舟形街道をいうのであろう。山に向かっている道は「xx山神」と刻まれている。道路標識には「筍沢温泉5km」とあった。羽黒山の真北に位置する。

京田川を渡った右手に大きな石に「聖徳太子塔」と刻まれていている。寛政3年(1791)添川村の職人たちが建立したもので、京田川の河原にあったものを街道筋に移転した。

その先で150mほどの旧道が左に、県道が右にわかれ、互いに弧を描いて合流している。そのすぐ先右手に「歴史の道」の説明板が建っていて200mほどの古道が残っている。

最初の宿場清水の手前にあった以来の二度目の古道である。山道を登っていくと高台に石塔群があった。なかでも深々と刻字された庚申塔と元文5年(1740)の青面金剛童子碑は目立つ存在だ。その奥にみえる建物は「鶴岡市藤島農村環境改造センター」である。

県道にもどって2kmほど、家並みもまばらな山間の道をぬけると舟形街道終点の手向宿入り口に到着する。丁字路で、左にいくと手向宿場、羽黒山の門前町、宿坊街に入っていく。右におれると、まもなく道をまたいで建つ大鳥居をくぐって荘内の中心地鶴岡に向かう。

芭蕉はまず出羽三山巡礼の登山を終え、再びこの地点にもどって鶴岡に向かった。

(2012年10月)
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