本合海は水陸の要衝であるため、川船の港のほか、対岸に越す渡し場もあった。「本合海の渡し」という。この道をたどる旅人も少なくなかったようで、江戸時代前期の新庄領内絵図には、新庄から続いて畑・蔵岡を経て古口に至る道路が描かれ一里塚の印が点々と記されている。渡し場も、渡しの方法も、時代によって異なるであろうが、明治14年秋、明治天皇御巡幸の折は、天皇は斉藤与左衛門家に御小休の後、西の方、数町のところにある渡船場に向かわれ、川幅1町18間の間に準備した「船橋」を板輿で渡られた、と当時の記録にある。「船橋」とは、多数の小舟を川面に横に並べ、これを「橋」とする方法である。御巡幸の一行は千人を超す大行列であるから、渡し場に至る道路も、川岸の石垣も、ことさらに入念な工事を施し、堅固に造られたに違いない。渡し場跡に残る石畳は、あるいは、この時のものかもしれない。渡し舟は、昭和9年、大橋の完成まで続く。渡す人、渡る人、見送る人、渡船場には百万ともしれない人々の哀歓がこめられている。 本合海渡船場復元完成記念  平成12年10月吉日 本合海エコロジー建立
本合海の渡し跡 本合海 新庄市 山形県