今様奥の細道 13

6月3日−6月15日(新暦7月19日−31日)


羽黒山−月山湯殿山鶴岡酒田
いこいの広場
日本紀行

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資料33

六月三日、羽黒山に登る。司左吉と云者を尋て、別当代会覚阿闍利に謁す。南谷の別院に舎して憐愍の情こまやかにあるじせらる。
四日、本坊にをゐて誹諧興行。

有難や雪をかほらす南谷

五日、権現に詣。当山開闢能除大師はいづれの代の人と云事をしらず。
延喜式に「羽州里山の神社」と有。書写、「黒」の字を「里山」となせるにや。「羽州黒山」を中略して「羽黒山」と云にや。「出羽」といへるは、「鳥の毛羽を此国の貢に献る」と風土記に侍とやらん。月山・湯殿を合て三山とす。
当寺武江東叡に属して天台止観の月明らかに、円頓融通の法の灯かゝげそひて、僧坊棟をならべ、修験行法を励し、霊山霊地の験効、人貴且恐る。繁栄長にして、めで度御山と謂つべし。


羽黒山

6月3日
(新暦7月19日)−6月10日(新暦7月26日)

舟形街道(県道46号)は丁字路で羽黒街道に突き当たって終わる。羽黒街道は羽黒山と鶴岡を結ぶ道で、県道47号となって鶴岡に向かう。

芭蕉はここを左折して手向宿に落ち着くことにした。手向は羽黒山の門前町で、道の両側には冠木門を構え、注連縄を張った宿坊が建ち並ぶ。江戸時代には330軒をこえた宿坊が軒を連ねていた。

手向郵便局手前の十字路を右にはいると一筋南に羽黒街道に並行して細い路地が延びている。自坊小路とよばれる通りで、両側に黒塀や長屋門、土蔵をもつ屋敷が残っていて趣ある一角をなしている。その代表格が芳賀邸である。芳賀兵左衛門は、曽良随行日記の6月12日の条に現れる人物で、当時、本坊に仕えていた上級職の僧である。自坊小路に広大な屋敷を構えていてその庭園を抜けた裏山に次の三句が刻まれている芭蕉句碑はよく知られていた。

辰霜や鳳尾の印それよりは   其角
雲のみねいくつ崩れて月の山  芭蕉桃青
抜たりなあはれ清水の片わらし 嵐雪

「芳賀兵左衛門」の表札がかかる長屋門をくぐってみたが、広い庭と建物は無人のようであった。小路をうろうろしていると反対側の屋敷門から若い夫人が出てこられた。「3年前父が亡くなってから裏山は荒れ放題で今は立ち入りを断っています」とのこと。彼女は31代目の当主にあたる。

街道に戻り、すぐ左手にある重要文化財黄金堂は修復工事中であった。黄金堂は建久4年(1193)に源頼朝が平泉の藤原氏を討つにあたり、戦勝祈願のため寄進したと言われている。羽黒山頂にある三神合祭殿の前身「寂光寺金堂」(大金堂)に対し、こちらは小金堂とよばれ、「小金」が「黄金」となったとも言われている。

交番のところで南に折れた街道のすぐ先の丁字路を右に入ったところ、右手民家の畑脇に「図司呂丸屋敷跡」の説明板が立っている。呂丸こと近藤左吉の屋敷跡である。正面に羽黒第一小学校が見える。芭蕉一行は新庄を発ち、最上川を船で下って、午後4時ごろ呂丸の家に到着した。呂丸は、鶴岡の藩士図士家に生まれ、山伏の摺り衣を染める染屋を営む傍ら羽黒俳壇で活躍していた。大石田の高野一栄の紹介状を羽黒山本坊の会覚阿闍梨へ手渡して、芭蕉と曽良を南谷別院に案内した。その後も芭蕉の手向滞在中色々と世話を尽くした人物である。

街道は鈎型に突き当たる。左折して右折地点でそのまま東の路地に入っていくと坂を上がって家並みの尽きる辺り、左手に烏崎稲荷神社があり、その境内に覆屋に納められた呂丸の追悼句碑がある。呂丸は元禄5年芭蕉を慕い俳諧修行の旅に出た。ついで京洛に上がり元禄6年2月2日病の為京都で客死した。

正面に呂丸辞世の句が、右面に芭蕉の追悼句が刻まれている。

辞世 消安し都の土に春の雪 呂丸
当帰より哀は塚のすみれ草 芭蕉

鍵の手をすぎると桜小路と呼ばれる宿坊街にはいる。街道の両側はすべて宿坊である。右手の大進坊という300年以上の歴史を有する宿坊の前庭に芭蕉の三山句碑が建っている。山頂にある句碑を模したもので大正11年(1922)に建立された。

凉しさやほの三日月の羽黒山
加多羅禮努湯登廼仁奴良須當毛東迦那 (かたられぬ 湯殿にぬらす たもとかな)
雲の峯いくつ崩れて 月の山

桜小路をぬけて車道にでる。大きな石鳥居をくぐり隋神門からいよいよ羽黒山頂への参道が始まる。その前に車道沿いにあるいでは文化記念館に寄った。館内に芭蕉が月山頂上で一夜を過ごしたという笹小屋が再現されているということだが、館内撮影禁止とあって入るのを止めた。建物の裏手にも芭蕉直筆と伝わる三山の句が刻まれた石碑がある。

道向かいに橋本坊という大きな茅葺の魅力ある宿坊があった。

随神門にもどる。ここから羽黒山頂まで、約1.7Km、2446段の石段を上がっていく。随神門は芭蕉が訪れた10年後の元禄12年(1699)、秋田の矢島藩主が寄進した仁王門が始まりで、その後神仏分離によって仁王像は随身像にとって代わられ、随神門と改称された。

随神門をくぐるといきなり継子坂という100段近い石段を一気に谷底まで下ってしまう。下りきったところに朱色の神橋があり、祓川が流れている。行者はここで身を清めて霊域の山上をめざした。右手に須賀の滝が祓川に落ちている。五十代別当執行の天宥が造った人工の滝である。天宥は慶長11年(1606)現在の山形県西村山郡西川町に生まれ25歳の若さで羽黒山別当に就いた。怪僧天海に師事し羽黒山中興の祖と仰がれる人物である。詳しくは山頂にある天宥社に譲る。

神橋の少し先に爺杉とよばれる巨大な杉が聳えている。目通り周囲8.3m、樹高48.3m、樹齢1000年以上という山内随一の老巨木である。

石段を踏みしめて歩を進めると左手、杉木立の間に国宝五重塔の優美な姿が現れる。素木造りの柿葺、高さ24m余の方3間5層の塔である。夜のライトアップでさらに幽玄な風景を作り上げるという。

右手石段脇に「一の坂」の石碑がある。ここから長い石段の道がはじまる。参道両側の杉の並木は、樹齢350〜500年の巨木が並び、その数は400本以上で国の特別天然記念物に指定されている。

左手に「火石」がある。蛍石ともよばれ昔は夜になると光を放ち、麓がまだ浜だったころ漁師などが頼りにしたという。火は修験道の象徴的存在であった。今は苔むして明かりを放つどころではない。

参道は「油こぼしの坂」とも呼ばれる急坂「二の坂」が始まる。二の坂の中程左手に名物「力餅」の幟が翻る茶屋がある。平日早朝にも拘わらず数人の女性客がいた。

右手に「御坂中央」と刻んだ自然石碑がある。茶屋で一服するによい加減な場所だ。

二の坂を上がりきった先右手に芭蕉塚(三日月塚)がある。山に少し入ったところに一対の石灯篭が建ち、その奥に「芭蕉翁」と刻まれた石碑が建つ。明和6年(1769)建立の古いもので、芭蕉が羽黒山逗留の折「涼しさやほの三か月の羽黒山」の句を詠んだところと伝えられる。

芭蕉塚からすぐ先三の坂に入る手前右手に「本坊宝前院跡」の標石がある。若王寺宝前院は、かつて当地にあった一大伽藍で、もともと山頂にあったが、第50代別当執行天宥の時、寺院の失火から羽黒本社が類焼するのを恐れ、当所に移築されたものと伝えられる。南谷で芭蕉が泊まった玄陽院はこの宝前院の別院である。

その南谷への道がすぐ先、三の坂の手前で分かれている。500mほどのほぼ平らな山道をたどっていくと、池を囲んだ空き地に出た。ここにはかつて羽黒山の別院、紫苑寺があった場所で、芭蕉が訪ねた頃紫苑寺は既に焼失して無く、かわりに山頂から玄陽院を移築して、本坊宝前院の別院としていた。

呂丸に案内されて3日の夕方芭蕉と曽良はここにたどり着いた。月山、湯殿山参詣を挟んで、二人はここに六夜を過ごすことになる。玄陽院建物跡には苔むした礎石が点在するのみである。茅葺の東屋は観光客用のものだろう。

奥まった池のほとりに芭蕉の句碑が寂しく立っていた。

ありがたや雪をかほらす南谷 

参道に戻って三の坂を上がり始める。三の坂の途中左手に小社が建っている。植山姫神社といい縁結びの神として信仰を集めている。三の坂も終わりに近づいたところで、右に羽黒山講堂旧円珠院趾、左に斎館、そして前方に赤い鳥居が見えてきた。鳥居をくぐって羽黒山頂上に到達する。羽黒山は標高414mの低い山で月山、湯殿山と違って年中登拝ができる。

左手によく似た姿の神社がならんでいる。手前が厳島神社、隣が蜂子神社である。蜂子神社は出羽三山の開祖、蜂子皇子を祀る。蜂子皇子は崇峻天皇の第三皇子。崇峻天皇が蘇我馬子により暗殺されたため、推古元年(593)馬子から逃れるべく丹後国由良から海を船で北へ渡り、現在の山形県鶴岡市由良にたどり着いた。時に舞台岩と呼ばれる岩の上で、八人の乙女が笛の音に合わせて神楽を舞っている美しさにひかれて、近くの海岸(八乙女浦)に上陸したという。八乙女浦は、その時の八人の乙女に由来する。蜂子皇子はこの後、海岸から三本足の烏に導かれて、羽黒山に登り羽黒大神の示現を受けたと伝えられる。引き続き、月山、湯殿山に登り、出羽三山を開いた。皇子の肖像画は何とも気味の悪い様相をしている。

続いて境内中央に豪壮な茅葺屋根を構えるのが出羽(いでは)三山神社(三神合祭殿)である。社殿は合祭殿造りと呼ばれる独特のもので、高さは28m、主に杉材を使用し内部は総朱塗りで、屋根の厚さは2.1mに及ぶ萱葺きの豪壮な建物である。月山、湯殿山が雪に閉ざされて登れないに対し通年参詣が可能な羽黒山に三神を合祀した。延長5年(927)平将門の創建と伝えられ、現在の社殿は文政元年(1818)に再建された本社(寂光寺金堂)を昭和44年に大修復したものである。

本殿の前の御手洗池(鏡池)は、神霊を宿す池とされ、羽黒山のご神体となっている。古来より多くの人々により奉納された銅鏡が埋納されているので鏡池という。

鏡池の傍らに立つ鐘楼は切妻造りの萱葺きで、小さいが豪壮な建物である。最上家信の寄進で元和4年(1619)再建した。山内では国宝五重塔に次ぐ古い建物である。国重要文化財である大鐘は建治元年(1275)の銘があり、古鐘では、東大寺・金剛峰寺に次いで日本で三番目に古い。文永・弘安の蒙古襲来の際、羽黒の龍神によって敵の艦船を海中に覆滅したので、鎌倉幕府は羽黒山の霊威をいたく感じて、羽黒で鐘を鋳て羽黒山に奉ったものであるという。

駐車場への出口近くに天宥社がある。25才の若さで羽黒山50世執行に就いた別当天宥法印を祀った社である。天宥法印は羽黒山中興の祖と仰がれ、今日の繁栄の基を築いた。天宥は当時黒衣の宰相と云われた上野竟永寺天海僧上に師事し宗政を匡し一山の改革を図った、又参道に石磴を敷き植林を奨励し田畑を興し、祓川の懸崖に瀧を落し、山内堂塔の造替移築を計る等山の威厳を整え、又絵画、彫刻、造園の術にも非凡なる才能を発揮したといわれる。 然るに晩年反対派の讒に遭い新島に流配の身となり在島7年82才で入寂した。

近くに芭蕉像と三山句碑がある。句碑は文政8年(1825)月山の旧登山道の野口に建立されたものを昭和40年ここに移転された。

凉しさやほの三日月の羽黒山
加多羅禮努湯登廼仁奴良須當毛東迦那(かたられぬ湯殿にぬらすたもとかな)
雲の峯いくつくつれて月の山

駐車場に出る。左手の太田商店前から月山への旧登山道が残っている。芭蕉もこの道をたどって月山に向かった。羽黒山山頂から荒沢までの旧道を「奥の細道歩道」と呼んでいる。

車道を横切って山中に入っていく。直立する杉木立の中を気持ち良い山道が延びている。土だったり、畳石であったり足元もやさしい。

途中、「八乙女遥拝所」の標柱が立っていた。八乙女とはここから真西方向にある鶴岡市由利の海岸で、蜂子皇子が八人の乙女に魅かれて上陸した浜辺である。今は山中で何も見えないが、かつては木立の間から浜辺がみえたのだろうか。古代には海岸線がもっと近くまで迫っていたそうだ。

道は二手にわかれ、右の道をとって進んでいくと吹越神社に至る。境内には校舎か倉庫のような大きな建物がある。峰中堂といい羽黒派古修験道の根本道場である。明治までは秋の峯の修行は南谷(一の宿)で胎内修行を終えた後吹越(二の宿)に移って胎外修行を行っていたが、現在は1週間に短縮された修行のすべてがここで行われることになった。又平成5年には、開山1400年を期に長年の禁を解き女性にも修行の道を開いた。 たまたまこの中堂で女性の秋の峰が終わったばかりだと聞いた。トイレや炊事場など、わずかに生活の臭いが残る中堂の端を通り抜けて再び旧登山道に入る。

山道は下り坂となって県道47号を横切った先に荒澤寺がある。1400年前、出羽三山の開祖蜂子皇子が月山、湯殿山へ赴く際ここ荒澤で修行したと伝わる。皇子の歿後、弟子弘俊が草庵を建て広沢寺としたのに始まる。のちに役の行者、弘法大師、慈覚大師らもここで修行を積んだと伝えられ、羽黒山十大伽藍随一の寺となり栄えた。この荒澤寺は羽黒山奥之院として修験者の大切な行場となっている。

奥に進む入口に「是より女人禁制」と刻まれた石塔が立っている。女性はこれ以上月山には近づけなかった。石燈籠が建ち並ぶ道を進んでいくと右におれた所に使われているのかよくわからない建物があった。旧道は左におれてまもなく山中に消えていった。旧登山道は月山八合目に至る県道211号に沿って所々に残っているようである。

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6月6日(新暦7月22日)

月山 

資料34
八日、月山にのぼる。
木綿しめ身に引かけ、宝冠に頭を包、強力と云ものに道びかれて、雲霧山気の中に氷雪を踏てのぼる事八里、更に日月行道の雲関に入かとあやしまれ、息絶身こゞえて頂上に至れば、日没て月顕る。
笹を鋪、篠を枕として、臥て明るを待。日出て雲消れば湯殿に下る。

六日 天気吉。登山。三リ、強清水。二リ、平清水。二リ、高清。是迄馬足叶 。道人家、小ヤガケ也。弥陀原こや 有中食ス。是よりフダラ、ニゴリ沢・御浜ナドヽ云ヘカケル也。難所成。 御田有。行者戻リ、こや有。申ノ上尅、月山ニ至。 先、御室ヲ拝シテ、角兵衛小ヤニ至ル。雲晴テ来光ナシ。夕ニハ東ニ、旦ニハ西ニ有由也。 (曽良随行日記)

芭蕉が月山に登ったのは6月6日(陽暦7月22日)。奥の細道では8日(7月24日)となっているが曽良の記録の方が信用できる。いずれにしても夏の暑い時期である。芭蕉は白装束にあらため、宝冠を巻き、木綿注連(ゆうしめ)を首にかけ金剛杖を手にして月山頂上をめざした。

芭蕉を追って月山に登る。荒沢寺からの月山旧登山道は境内の奥で林の中に消えていた。かわって県道211号を歩いていく。ほどなく丁字路角に、「菊田旅館」の看板と地蔵堂があった。覗いてみると月光地蔵尊が安置されている。この道が荒沢寺に通じる旧登山道かと入ってみたが、そうでもなさそうだ。

車道を更に上がっていくと右手に「東北自然歩道羽黒修験者のみち」の石標があって細い山道が林の中に延びている。多分これが旧登山道の名残であろうと思われた。ただし荒沢寺までつづいているかは疑わしい。

少し行くと左手に「傘骨(からかさぼね)」の標識が出てきた。ここが半合目だという。ここから月山ビジターセンターまで引き返し8合目までいくバスを待つことにした。

登山道は傘骨から1合目の海道坂、2合目大満原(だいまんばら)、3合目の神子(巫女)石(禁を破って月山に登ろうとした巫女がここでたちまち石になってしまった)、4合目 強清水、5合目 狩籠(かりごめ)、6合目 平清水、7合目 合清水(高清水)と続く。各合目には停留所が設けられているが誰も利用しない。6合目から8合目までは旧登山道が残っていて旧道沿いにキャンプ場もある。

バスは8合目(標高1440m)までノンストップでやってきた。芭蕉も7合目(標高1060m)まで馬に乗ってきた。

8合目駐車場からいよいよ久しぶりの山登りである。レストハウスの裏側から登山道に入る。案内図を見て分かれ道を左にとった。なだらかな上り道だ。所どころに木道が設けられてハイキング気分である。後ろを振り返ると白装束に杖を手にした集団がつづら折りに登ってくる。どうやら女性のようだ。木道の片側によって道をゆずった。先導役は山伏姿の男性である。思い出したように気だるい法螺貝の音を鳴らす。

先導役を遣り過ごし、しばらく女人講中の撮影に集中した。皆目をあわせないようにして通り過ぎていく。純白の衣裳がまぶしい。晒だそうだが艶を帯びて絹にみえる。頭部の宝冠も巻き方が少しずつ違っていて個性を出しているようだ。一団の最後尾を見届けて後を追った。

8合目から15分ほどで中之宮に着く。ここに御田原神社が鎮座する。小さな社殿だが、月山神社本宮の20年に一度の式年遷宮による古材をそのまま用いて建てられる。月山頂上の本宮参拝が叶わない人はここを遥拝所とした。

左手の一角に白布をかぶった石地蔵と風車、その前に紅の細い炎をゆらす蝋燭の列が恐山でみた光景を思い出させた。

ここで東に分岐する道がある。芭蕉はこの道をとって東補陀落に赴いた。修験者の秘所で、絶壁を鉄梯子で下る難所の先に御浜池がある。一般の月山参詣者は中之宮を直進して上を目指す。

登山道の十字路に差しかかる。8合目で右回りした道との合流点である。その道をすこしたどってみると弥陀ヶ原と呼ばれる湿原帯が広がって高原状の緩やかな斜面に池塘が点在している。それらの中に遠くポツンと見える中之宮の小屋を見下ろす風景は素晴らしい。

芭蕉と曽良はここにあった小屋で昼食をとった。

無量坂を越えたあたりから勾配が次第にきつくなって足元が岩っぽくなってくる。「畳石」と書かれた標識を通り過ぎる。左手斜面に雪渓が見られる。芭蕉は「氷雪をふみしめてのぼること八里」と書いているが、誇張は8里という道のりばかりでなく、寒さについても今と10度ほどの温度差があるようだ。ちなみに2014年9月7日羽黒町 平地最高気温は26度で、月山頂上は15度であった。

手荒い畳石を上がりきってようやく九合目地点に到達した。8合目から1時間半、標高1720m。小屋の手前に地蔵が数体と真名井神社の石室が並び、その後ろに仏生池という小さな池がある。登山者はほとんどが小屋の外で休み、中はガランとしている。池を眺めながら5分ほど足を休ませて、頂上に向かう。

前方に見えるのは月山頂上ではなく、オモワシ山(1828m)。真の頂上を隠し自らを頂上と「思わし」めることから名づけられた思わせぶりな山である。

ガスが立ちこめてきた東側斜面にも雪渓をみた。草木はうっすらと色づき始めている。

景色に見惚れるのはその辺までで、やがて「行者返し」と呼ばれる難所に差しかかる。畳石の数十倍もの大きな岩が気まぐれに組まれたような急坂である。昔、役行者が月山登拝の折、月山大神が現れて、修行が未熟であるからと羽黒山へ押し戻されたところと伝えられる。両手を使わないと上がり下りできない。坂途中の右脇に来名戸神社という小祠があった。

難所を越えるとモックラ坂とよばれる最後の行程に入る。比較的なだらかな稜線には大きめの畳石や木道が敷かれ、休み場所のような踊り場もある。

最後の岩場をこなすと先に頂上の山小屋が見えてきた。

芭蕉は「息絶え身こごえて頂上に至れば、日没して月顕る」と記している。南谷から月山山頂まで約24kmの道のりである。早朝に出てまる一日かかった。私の道程は5kmを3時間余り。たどり着いたのは昼過ぎ。長袖一枚で、浸み込んだ汗が冷たかった程度であった。日没となればかなり寒くなるのであろう。但し曽良の日記によれば、二人が頂上に着いたのは3時半ころだから、芭蕉は月が顕れる情景を記したかったばかりに到着時刻を3時間程遅らせた。寒さも3時半であれば、身が凍えるほどではなかったはずである。

頂上は石垣に囲まれた月山神社が占拠していて自由に入れない。本宮入り口には宮司が立っていて500円のお祓いを受けなければ入れてくれない。さらに「撮影禁止」の大きな掛札があった。つまり月山の頂上(最高地点)の記録写真が撮れないということになる。山が神体であるから当然ととるか、公益を侵害する権利の濫用ととるか。私は後者に組みしたい。

結局標高1984mの月山頂上を見ず、本宮を外から写しただけで下山することになった。

三角点があるらしいがそれがどこかの標識はあえて設けられていない。また三角点は頂上よりも低い位置にある。国土地理院も月山神社本宮のルールを免れることは出来なかった。

芭蕉は月山神社に参詣したあと、頂上より少し下った角兵衛小屋に1泊した。笹を敷いた小屋で、いでは文化記念館に復元されていることは前に述べた。写真で見た限りでは山風に吹き飛ばされそうな粗末な小屋だった。現在は立派な山小屋が建っていて、前に「月山頂上小屋 1984m」 と書かれた標識が立っている。小屋の位置は1940mで頂上より50m近く低い。頂上の記録写真が撮れないので皆ここで列をなして撮る。

湯殿山へ下りる稜線に「雲の峯いくつ崩れて 月の山」の芭蕉句碑が建つ。芭蕉の月山登拝270年を記念して昭和33年(1958)7月に建てられた。朝方綺麗に晴れていた月山頂上付近が、昼が近づくにつれ霧が立ち込めるようになり、しばらくして晴れるとまた曇ってくる。その繰り返す様を詠んだものであろう。9合目以下は常に明るい日であった。「雲の峯いくつ崩れて」を実感することができたのは収穫である。

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6月7日(新暦7月23日)

湯殿山 

資料35

谷の傍に鍛治小屋と云有。此国の鍛治、霊水を撰て爰に潔斎して劔を打、終月山と銘を切て世に賞せらる。彼龍泉に剣を淬とかや。干将・莫耶のむかしをしたふ。道に堪能の執あさからぬ事しられたり。
岩に腰かけてしばしやすらふほど、三尺ばかりなる桜のつぼみ半ばひらけるあり。ふり積雪の下に埋て、春を忘れぬ遅ざくらの花の心わりなし。炎天の梅花爰にかほるがごとし。行尊僧正の哥の哀も爰に思ひ出て、猶まさりて覚ゆ。
惣而此山中の微細、行者の法式として他言する事を禁ず。仍て筆をとゞめて記さず。

坊に帰れば、阿闍利の需に依て、三山順礼の句々短冊に書。

涼しさやほの三か月の羽黒山
雲の峯幾つ崩て月の山
語られぬ湯殿にぬらす袂かな

湯殿山銭ふむ道の泪かな 曽良


七日 湯殿へ趣。鍛冶ヤシキ、コヤ有。本道寺へも岩根沢へも行也。 牛首コヤ有。不浄汚離、コヽニテ水アビル。少シ行テ、ハラジヌギカヱ、手繦カケナドシテ御前ニ下ル(御前よりスグニシメカケ・大日坊ヘカヽリテ鶴ケ岡へ出ル道有)。是より奥へ持タル金銀銭持テ不レ帰。惣 而取落モノ取上ル事不レ成。浄衣・法冠・シメ計ニテ行。昼時分、月山ニ帰ル。昼食シテ下向ス。強清水迄光明坊より弁当持せ、サカ迎せラル。及暮、南谷ニ帰。甚労ル。 (曽良随行日記)

芭蕉と曽良は翌朝夜明けとともに月山を下って湯殿山神社に向かう。そこから六十里街道で鶴岡に至る道があるのを承知で、二人は月山にひき返し羽黒山南谷まで帰る行程を選んだ。タフな人たちである。

頂上から西の方向を見渡すと、尾根伝いの道が細く延びている。右の谷は薄暗く雲が垂れ込めている。その谷底に湯殿山神社がある。そこまでおよそ6kmだが、下り坂だから3時間あれば十分だろうと思っていた。左、南側の斜面はなだらかで明るく雪渓が点在している。スキー場があるようだ。

険しい岩道をゆっくり降りる。

しばらくして岩で囲まれた一角に来た。石組の中に赤い鳥居と鍛冶稲荷神社がある。ここはむかし刀鍛冶が住んでいた鍛冶小屋跡である。鎌倉時代月山の霊場に住んだ鬼王丸を元祖とする刀工集団「月山」の末裔とされる。今も大坂に移住した一派が月山家を継承し日本刀匠第一人者として活躍している。

下りはじめて約半時間、急坂が一段落したところで「牛首(標高1692m)」とよばれる分岐点に来た。左は月山スキー場の姥沢小屋へ下っていく。右は尾根まで上がって湯殿山へ向かう道である。「前 月山山頂1.1km 前方 湯殿山神社 4.5km」とある。頂上から前後して一緒に降りてきた登山客の過半数は左の道に消えて行った。

牛首からさらに半時間ほど姥ヶ岳に向かう尾根道を進んでいくと「金姥(かなうば)」追分(標高1622m)に来る。真直ぐいけば姥ヶ岳(標高1670m)までは500mほど。殆どの人が真直ぐ歩いて行った。湯殿山神社へは右に折れて北斜面を下る道になる。雲が谷に向かって不気味に下りていく。斜面は急で足元が不安になる。前後に人気が途絶えて孤独な気分が襲ってきた。

斜面中腹の細道をしばらくたどって、道は左の山中に入っていった。谷筋を下っていく。正面に見えるのが湯殿山(標高1504m)で、その500mほど下の谷底に本宮がある。

「清め川」と呼ばれる沢を渡る。石跳川の源流である。曽良が水を浴びたのがここだ。

ここから装束場まで清め川に沿って下りていく。比較的歩きやすい道であった。途中湿地帯には池塘も見られる。

やがて
「装束場」といわれる丁字路に出た。金姥から1.4km、月山頂上から2.5kmの地点、標高は1300m位である。ここで湯殿山神社参詣者は草鞋を履き替え、衣服を改めた。また、真言宗である湯殿山と天台宗の月山では宗派が異なるのでここで衣装を着替えて行き来したとも言われている。数年前まではここに薬湯を飲ませる施薬小屋があったらしいが、今は使えないトイレのようなものがあるだけである。説明板もない。

標識に従ってここを右折して、最大の難所といわれている月光坂に挑む。

垂直に近い崖道を目の前にしてため息がでた。谷底に道路がみえる。湯殿山神社はそこにあるのだ。300mの標高差を一気に下ることになる。両手を使って岩場を一歩ずつ降りる。首にぶら下げたカメラが左右前後に揺れるが支える手がない。岩にぶつけないようにするのがせいぜいだった。

まもなく鉄梯子が設けられた坂に来た。月光坂の金月光という。「金」は鉄梯子のことか。新旧混ざった計4連の鉄梯子で250mを下る。腹ばいの格好で一歩一歩慎重に段を確かめる。カメラが時々梯子に当たる。

最後の金梯子を下りて一息つく。膝が体重を支え切れなくなって来た。岩に腰かけて休んでいると同じくらいの年配者が追い越していった。「きついですね」と愛想を振り向けると「おいくつですか?」と唐突に聞いてきた。「68です」「私と同じくらいですね。まだまだ若いですよ」といって健脚ぶりをみせた。よけいなお世話だ。

金月光についで水月光の急坂がつづく。傍を流れる山水が、雨天の時には滝水となって坂道を流れていくことから名づけられた。梯子はいらなくても足元は相変わらずきつい。月山の行者返しを下りていく恰好である。

小刻みに休みながらようやく谷底にたどりついた。砂防ダムを右手に梵字川沿いの道をすこし歩いたところで本宮参拝口に到着した。疲れでそばに芭蕉の句碑があることに気付かなかった。

ここから裸足になってお祓いを受け湯殿山神社の神体を拝む。湯殿山神社は、もともと鉄分を含む温泉が湧き出ている大きな岩を神体とし、社殿はない。巨岩は鉄分で赤くそまり、色形が女陰を思わせる。しかも宗教的には月山で死に湯殿山で生まれ変わるという。色合いや姿だけでなくその意味合いも込めて、神体は女性器を象徴しているのである。そしてこのことは「語るなかれ」「聞くなかれ」と戒められている。

芭蕉は、「惣て、この山中の微細、行者の法式として他言することを禁ず。よって筆をとどめて記さず。」と書き、

語られぬ湯殿にぬらす袂かな と詠んだ。語れないことへの無念さがにじんでいる。

さて、芭蕉はここから月山に引き返した。昼ごろに頂上に着き昼食をとってすぐに下山した。4合目の強清水まで南谷の使いが弁当を持参して迎えに出ていた。南谷に帰り着いたときは日が暮れていた。曾良は、この日の日記に、「甚(はなはだ)労(つか)ル」と書いている。そりゃそうだろう。私は湯殿神社から4時半の最終バスに乗って鶴岡までもどった。一時間余りのバスの中で死んだように座席に沈んでいた。往復4時間以上の山登りはもう止める。

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6月10日
(新暦7月26日)−6月13日(新暦7月29日)

鶴岡 

資料36

羽黒を立て、鶴が岡の城下、長山氏重行と云物のふの家にむかへられて、俳諧一巻有。左吉も共に送りぬ。川舟に乗て、酒田の湊に下る。淵庵不玉と云医師の許を宿とす。

あつみ山や吹浦かけて夕すヾみ
暑き日を海にいれたり最上川


7日に南谷に戻った二人は8日、9日と別院で休養した後、10日の午後、芭蕉は呂丸宅から馬に乗り、鶴岡に向かった。荒川、黒瀬、三橋の集落を経て鶴岡城下まで約12kmの道で羽黒街道とよばれている。

三日に通った手向の三叉路をまっすぐに進む。県道47号線を斜めに渡って旧道の延長を進み、羽黒高校の手前で県道に合流する。真直ぐな下り坂の先に朱色の大鳥居が道を跨いで建っている。街道は羽黒山の丘陵から広々とした庄内平野に降りていく。

野荒町集落の羽前泉局のすこし手前右手に皇大神社があり、境内に大きな古峰神社、出羽三山碑、庚申塔の石塔が並んである。

荒川集落で羽黒庁舎を通り過ぎ今野川を渡った先で県道47号と分かれて、右の旧道に入る。古い石橋や白壁土蔵などの家並みが見られる懐かしい景色が残っている。

県道に戻るとすぐに黒瀬川を渡る。橋の手前右手に船着き場跡の標柱が立っていた。

三ツ橋地区にも右手に旧道が残っており、入ったすぐ右手に赤い鳥居が鮮明な山神社がある。

同じ旧道の先、熊坂集落には左手に出窓を設けた板壁土蔵をもった民家が目に付いた。趣ある佇まいである。

旧道は県道を斜めによこぎって赤川に突き当たる。右手の公園風緑地に「北白川親王停車記念碑」が建っている。明治14年明治天皇巡幸の際、代理として北白川親王が松ヶ岡開墾場を視察したときに、ここで休憩した場所だという。松ヶ岡開墾場は明治維新後に旧庄内藩士3,000人によって開墾され桑園を完成、明治10年には大蚕室10棟が建設されてその後製糸工場と絹織物工場が創設された国指定史跡である。

赤川羽黒橋でわたると鶴岡市街に入る。羽黒街道はそのまま県道47号を鶴ケ岡城跡の鶴岡公園に向かって進むが、奥の細道は内川に架かる鶴園橋の二つ手前の信号交差点を右折して銀座通りを北上する。右手に三井家蔵屋敷がある。このあたりは旧下肴町で、繁華な商店街だった。

銀座通りは内川に突き当たって終わる。右手川沿いにも海鼠壁の土蔵が残っていて往時の面影を伝えている。

今泉橋で川端通と合流して山王通が北に続く。今泉橋を渡ってすぐ右折し、山王通より一筋東の小路が芭蕉が通った奥の細道である。内川縁に「奥の細道内川乗船地跡」の説明板があり、小路の入口には「松尾芭蕉翁滞留の地 長山重行宅跡  この先100m右折2軒目」と記した標柱が立っている。特段古い家並みがあるわけではないが、何となく嬉しい。

指示通りに歩いて無事目的地にたどり着いた。鶴岡まちなかキネマの広い駐車場の北西角にあたる。遺構はなにもなく、説明板と芭蕉句碑があった。

めづらしや山をいで羽の初なすび 

同じ句碑は山王町日枝神社境内の弁天島にもある。

長山重行は、呂丸と共に蕉門の俳人として、鶴岡俳壇に重きをなした人物である。 芭蕉は三山巡礼の疲れがひどくすぐに休息したが、夜になって曽良・重行・呂丸と歌仙を巻いた。「めずらしや山をいで羽の初茄子」はそのときの翁の発句で、食膳に供されたこの地方の名産一口なす(民田なす)が目にとまったものであろう。丸くて小さなナスである。道の駅や直販所で尋ねたが、8月が収穫時期で今はどこにも売っていなかった。酒田からの帰路寄った大山では漬物処本長で民田ナスの漬物を買うことができる。ただし、芭蕉が食べたであろう浅漬けとは違って、この時期に並べられている漬物は色といい形といい原形を留めていない。

芭蕉は重行宅に3日間滞在し、13日に内川船着き場から川船で酒田に向った。疲れが残って鶴ヶ岡城下の見物はしていない。鶴岡は洒井家14万石の城下町であった。藩内の商都酒田に対し、鶴岡は主として武士中心の政治の町であった。私は鶴岡公園致道博物館庄内藩校致道館を始め豪商風間家の丙申堂など市街地中心周辺を見て回った。すべて内川の西側に位置して奥の細道からは離れた所にある。それらの見聞は、六十里街道や出羽街道の終着点としての鶴岡を紹介する機会にゆずることにしよう。

13日、内川を船で下る。私はその川岸をできるだけ離れずに追っていくことにした。

川が大きく左に曲がるところに禅中橋が架かっている。その袂に禅中和尚の石碑がある。禅中は寛政のはじめ(1790年代)荒町で米商を営んでいた商人だが、出家して日頃不便を感じていたこの渡しに橋を架けた人物である。

すぐ先左手に「庄内柿の原木」という案内板が目に止り、興味につられて路地を入っていった。民家に囲まれた畑の一角にその木がまだ青い柿の実を鈴なりに付けていた。明治18年、鳥居町に住む鈴木重光が越後からきた行商人から何本かの柿の苗木を購入し、そのなかの一本だけが他のものとは形の違う実をつけたのだった。その実は形が偏平で四角ばっていて、しかも種がなかった。その後酒井調良が普及させ全国的にしられる柿となった。但しこれは渋柿で、焼酎ヘタに塗って渋抜きせねばならない。

内川は流れを北に向け赤川と合流する。

文下集落の洞雲院の先で細い路地を堤防方向に入っていくと左手五十嵐氏の宅地内に八坂神社の神木となっているケヤキの巨木が聳えている。
文下のケヤキとして知られる国指定天然記念物で樹齢は800年以上、高さは28mに及ぶ。路地の突当りから赤川堤防に上がってみると、川を行き交う船からもひときわ目立った存在で、さぞかし芭蕉も眺めたのではないかと思われる。

文下集落を通り抜けて県道333号を右折して蛾眉橋で赤川を渡る。赤川右岸は東田川郡三川町である。押切新田集落内の旧道沿い右手に宇賀神社があり祠の隣に藁を円錐形に積み上げた「にお」がある。約200ほど昔、赤川の大洪水の際小さな「藁にお」がこの場所に流れついた。「にお」の中から双頭の蛇が現れたと伝えられ、その後神の使者である蛇の住み家として祀られているという。

押切新田の県道沿いに
山の神ケヤキが聳えている。高さは25mもあり文下のケヤキに遜色ない。山の神神社境内は昔赤川の川岸で、船をつないだ場所だったという。芭蕉は文下だけでなく、このケヤキの大木にも目を魅かれたのではないか。

荘内自動車検査登録事務所の手前で水路に架かる橋の名が
「歌枕橋」とある。ここの地名自体が「押切新田歌枕」であった。何かしら由緒ありげな名前ではあるが、見渡しても歌に詠むような景色は見当たらなかった。

この橋の手前で旧道が斜めに交差している。また、県道はこの先で国道7号に合流して赤川から離れていくようなので、川に沿っていく旧道をいくことにした。すぐ先の東洋食品のところで酒田市に入る。


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6月13日(新暦7月29日)−6月15日(新暦7月31日)

酒田 

堤防下の農道を進んで、
三本柳といういかにも旧街道風情の集落に入ったとき、図らずも奥の細道の文字が目に飛び込んできた。立札に紙を貼っただけのものだが、説明板の文字が消えてしまった応急処置であろう。

「芭蕉船下りの赤川  元禄2年奥の細道芭蕉と曽良は鶴岡の内川で乗船 赤川を下って6月13日夕方酒田に到着、医師の伊東不玉氏を尋ねた。 不玉宅跡に記念の石碑が立っている。  酒田市 三本柳

と印刷されていた。陸路で芭蕉の船旅を追う道筋として認知された歓びを感じた。

さて、明治以前の赤川はこの先で大山川と合流して北に方向を変え、現県道38号の西側を黒森、坂野辺新田を経て飯森山の北東で京田川と合流して現出羽大橋の手前付近で最上川に注いでいた。最上川河口付近の恒常的な氾濫要因となっていた赤川を、庄内砂丘を横切って赤川を日本海に放流する付け替え工事は大正10年(1921)に開始され昭和11年(1927)に完成した。旧赤川は昭和18年(1952)になって完全に締め切られ、河床は田畑や住宅地に変わってしまった。

堤防道を進んで新川橋北詰で県道38号を横切り、100mほど行ったところで黒森集落に降りていく道がついている。旧新川橋が架かっていた場所で、位置は赤川と大山川の合流地点に当たる。ここから赤川の流路方向を維持して西に直進させ、日本海に注ぎ出る赤川新川が開削された。芭蕉の時代はここで舟先を右に旋回させて北に下っていったのである。

黒森集落入口に大きな石碑が建ってある。鶴岡で内川船下りをはじめた早々に寄り道して見てきた、庄内柿の育苗、普及に努めた功労者、酒井調良(好菓翁)の顕彰碑である。酒井調良(弘化5(1848)〜大正15(1926))は庄内藩の家老を勤めた酒井了明の次男として鶴岡に生まれた。明治になって帰農し松岡開墾に従事、蚕糸業に力を注ぐ傍ら果樹栽培にも目を向け明治26年には黒森に農場「好菓園」を経営して庄内柿原木から新品種核無(たねなし)柿の栽培に成功した。「調良柿」、後に「平核無」(ひらたねなし)と命名され、以来盛んにこれの育苗、普及に努めた。平核無柿は現在では「庄内柿」の名が用いられ、庄内の代表的な名産品となっている。

日本海東北自動車道をくぐり坂野辺集落を北上する。江戸中期、荘内砂丘と赤川流域の狭間に開発された集落で、芭蕉が赤川を下っていった当時はまだ、原生林が延々と続く地域ではなかったかと思われる。そのような歴史を刻む石碑が八幡神社の入口に建っていた。

旧赤川流路をたどる旅もこの先は砂丘と森林が混在する地域にはいり、土地区画整理と開発が混在して昔の道筋があいまいになってきた。三叉路を右折して県道38号に出、すぐの大きな交差点を左折して県道355号に乗り、飯盛山公園の西端を進む。この公園に写真家土門拳の記念館がある。指紋や毛穴までみえそうな精密クローズアップ人物や仏像写真で知られる。時間の都合で寄らなかった。

国道112号にでて出羽大橋を渡る。宮野浦地区である。最上川河口は氾濫の度にその流路を変え、それに伴って渡し場や船着き場が頻繁に変わった。残念ながら芭蕉が赤川から最上川に出て船を上がった場所はひろくこの辺りという他ない。曽良の日記には「船の上七里」とある。本合海から清川までの最上川下りが五里だったから、それを上回る船旅であった。

芭蕉が酒田に到着したのは6月13日(陽暦7月29日)の夕刻。二人は伊東玄順宅に草鞋を脱いだ。玄順は藩主の侍医であり、不玉(ふぎょく)と号して酒田俳壇の中心的存在であった。酒田市役所前の交差点に立つ大きな案内標識にしたがって、旭ビルと本立ビルの間の通りを北に入った二つ目の十字路手前左手の駐車場空地に「芭蕉逗留の地 不玉宅址」の記念碑がある。芭蕉はこの家に6月13日に到着し、象潟への往復3泊4日間をはさんで、25日(陽暦8月10日)まで、都合9泊をこの不玉宅で過ごした。

酒田は最上川河口に発達した湊町で、古くから北陸道と奥州街道を結ぶ最上川水運の拠点として、また江戸時代には蝦夷地と上方を往復する北前船の寄港地として殷賑を極めた。酒田36人衆とよばれる豪商たちが自治組織をもち、「西の堺、東の酒田」と呼ばれた。36人衆の筆頭格が鐙(あぶみ)屋である。市役所から本町通りを挟んだ真向かいに旧鐙屋の屋敷が国指定史跡として保存されている。石置杉皮葺屋根が特徴の町家造りとなっている建物は、弘化2年(1845)に再建されたものである。鐙屋は酒田を代表する廻船問屋で、その繁栄ぶりは井原西鶴の「日本永代蔵」にも紹介されたほどだった。

鐙屋が店を構える本町通りは豪商が軒を連ねる商都酒田の中心街であった。一筋東に行くと庄内証券前の歩道に「奥の細道 玉志近江屋三郎兵衛宅跡」の標柱が立っている。近江屋三郎兵衛(俳号「玉志」)も廻船問屋を営む36人衆の1人で俳諧に造詣があった。芭蕉は象潟から帰ってきて23日の夜に玉志宅に招かれ、曽良、不玉と共に即興の句会に興じている。

  初まくわ 四つにや断たん輪に切らん    芭蕉

近江屋三郎兵衛宅跡の東の信号交差点北東角に酒田市道路元標を見つけた。ここが酒田市の中心であったらしい。

その交差点をそのまま東に進むと次の交差点手前左手に本間家旧本邸がある。本間家も酒田36人衆の一人である。北前船によるのこぎり商法で財をなし、利益を不動産投資につぎ込んだ。酒田市の田畑の半分にも及ぶ土地を所有して日本一の大地主となり、「本間様には及びもせぬが、せめてなりたや殿様に」と唄われたものである。

本間家旧本邸は、三代光丘が幕府巡検使一行の本陣宿として明和5年(1768)に建築し庄内藩主洒井家に献上した。その後拝領し昭和20年まで本間家住宅として使用していた。建物は瓦葺平屋書院造で、表は長屋門構えの武家屋敷造りで、奥のほうは商家造りとなっている。

翌日6月14日(陽暦7月30日)には寺島彦助亭に招かれ連句を興行している。寺島彦助宅は本町通りを西に進んで、国道112号を横断、一筋越えた本町郵便局向かいの駐車場にあった。歩道沿いに「奥の細道安種亭令堂寺島彦助宅跡」の標柱がある。寺島彦助は酒田湊の浦役人で、幕府米置場の管理にあたっていた。安種と号する俳人でもあり、芭蕉が酒田に入った翌日、36人衆の仲間と共に芭蕉を招いて句会を催した。

そのときの芭蕉の発句は「涼しさや海に入りたる最上川」だったが、「奥の細道」では、「暑き日を海に入れたり最上川」に変えられている。

芭蕉と曽良は翌15日、象潟をめざして発った。本町通りから羽州浜街道(国道112号)に出て右折、道なりに国道を進んで光が丘地区を通り抜けたところで右折する国道と分かれて直進、高砂・古湊集落を抜けていく。昔はここから宮海の海岸沿いに続いていたが、今は酒田北港と工業団地で分断された形になっていて旧道筋は消失している。

国道7号に出て、宮海海岸口信号を左折して旧道復活地点にでる。丁字路を右折、宮海集落で大物忌神社を通り過ぎる。林道を北上すると日向川にでるが、栄橋は老朽のため通行止め。やむなく国道に出て宮海橋を渡る。対岸は鮑海郡遊佐町である。

(2014年9月)
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