天童 

山形から県道22号で一路北上してきた旧羽州街道は天童宿手前で山形新幹線に分断され一部消失している。線路の東側は宅地開発されて旧道の痕跡はないが、旧道筋と想定される線路脇の緑地に一里塚跡が残っている。跨線橋を渡った先で右手の宅地に入りこみ、一番外側の道を山形方面に戻っていくと線路柵を背にして石標が立っていた。塚木も塚の盛り上がりもなく、ただ位置を示す石柱だけである。県道にもどり、一日町3丁目の信号を左折した左手の三角地帯に分断された旧道の復活部分がのこされており、そこに羽州街道の案内板があった。一里塚の位置はそこで知ったものである。

天童宿は一日町から始まり、南から一日町、五日町、三日町と続いていた。天童は中世の14世紀後半、天童城の城下町として発展した町である。城主天童氏は 最上家から分かれて周辺地で独立した勢力を保持していた「最上八楯」の盟主として勢力を張った。最上八楯とは天童氏、延ne 沢氏飯田尾花沢氏楯岡氏長瀞氏六田氏成生氏の8氏をいい、いずれも羽州街道沿いの宿場町乃至その近辺にある。天正12年(1584)、最上氏によって天童城が落城した後、天童は領主が転々と変わり城下町よりは羽州街道の宿場町としての性格を強めていく。

羽州街道から県道111号(現山寺街道)が分岐する交差点の北東歩道上に一日町市神がある。その北側の細道を東にたどると山寺街道の旧道三叉路に出る。少し車道にはみ出て市神の写真を撮っていると、背後を奇妙な車がノソノソと通り過ぎていった。一瞬特攻隊の人間魚雷を想像させるような円筒形の車体に消防ホースのようなものが巻きつけてある。後日調べてみると、高速薬剤散布車だと判明した。広範囲な果樹園にでも使われるのか。

歩を進めると、羽州街道沿いの一日町1丁目に蔵造りの出羽桜酒造と出羽桜美術館があり、その先にも趣のある建物が続いている。

羽州街道から芭蕉が歩いたという旧山寺街道の分岐点を探して右側歩道を注意深く歩いてみたが、標識らしきものは見当たらなかった。狙いを定めて右手の路地を入っていく。最初の十字路を左折して城山公園に寄る。旧山寺街道はここを直進して次の小松建具のある十字路を右折して南に向かい、一日町市神からの道と合流する三叉路に至る。そこに「右 若松道 左 湯殿山道」の道標がある。

城山公園は南朝時代、南朝方の北畠天童丸が城館を構た舞鶴山麓にあり、念仏寺があった跡地である。芭蕉は山寺に向かうとき、ここに立ち寄ったとされる。それを記念して建てられたという「古池や・・・」の句碑と翁塚は見当たらず、代わって「行末は誰が肌ふれむ紅の花」の句碑と、昭和61年の新しい翁塚碑があった。

公園のすぐ北に明治時代の洋風建築が建っている。旧村山郡役所で、明治天皇の行在所ともなった建物である。玄関ポーチと二階にベランダを配した三階建てで、瀟洒な佇まいを見せている。

役所前の石垣脇に「奥の細道ゆかりの地 翁塚跡」と書かれた標柱が立っていた。城山公園にあるという翁塚はここから移転されたものか。隣に立っている説明板は郡役所のもので、翁塚跡の説明はどこにもなかった。

旧役所からさらに北に歩くと、冠木門を構えた仏向寺がある。この寺は弘安元年(1278)に最上八楯の一つ、成生の荘に開基され、その後現在地に移転された。現在の本堂は文政8年(1825)に再建されたものという。境内には鎌倉時代の「大日板碑」や、仏教的宇宙観を語る「満月之碑」などがある。

街道に戻り、反対側の仲町にある三宝寺を訪ねる。ここは歴代天童織田藩主の菩提寺で、霊屋には太祖織田信長公はじめ代々の藩主や家族の位牌が安置されている。明和4年(1767)、天童は高畠藩織田氏の所領となり、その後天保元年(1830)になって織田信美(のぶかず)が天童に本拠を移して天童織田藩が誕生した。

一旦街道にでて少し北に歩くと五日町から三日町にうつる。このあたりが天童宿の中心地であったようで、三日町の鱗屋丹野伝兵衛が古本陣、竹屋栄助が新本陣、近藤新兵衛が問屋を勤めていたという。通りは近代的な商店街で、古い建物はみかけず、宿場の面影を偲ぶ標柱らしきものもない。

左手、真田眼科とたちばなや薬局の間の路地が大手門口で、そこを左に入っていくと右手民家の前に陣屋大手門跡の標柱が立ち、路地の突き当たりに陣屋があった。今は陣屋旧敷地を奥羽本線・山形新幹線が横切っており周囲は宅地化されて陣屋の遺構はなにもなく、線路の東西にわずかに曲尺手の道筋が残っているのみである。陣屋の敷地跡は公園になっていて、御陣屋の松、天童織田藩記念碑、喜太郎稲荷神社、北辰一刀流道場の調武館・稽古所跡の説明板などが設けられている。

街道にもどり北に進むと本町にはいり、天童駅前を通り過ぎる。ここはもはや天童宿の北はずれに位置する。

ところで天童と言えば将棋の駒作りで知られ全国生産量の95%を占める。江戸時代後期、織田信長の二男信雄を祖とする織田氏が、高畠から石高わずか2万石で天童に入部したのが天保の大飢饉が始まる2年前であった。少ない石高に加え、天保の大飢饉で藩財政は窮乏を極めた。こうした中、困窮する武士の内職として始まったのが将棋の駒作りだった。探せば昔ながらの工房があるのだろうが、街道沿いの商店街にそれらしき店をみかけることはなかった。

天童宿の先、久野本の1丁目と2丁目の境の交差点を西に向かって分かれていく道(県道22号から110号になる)は谷地街道で、2kmほど行ったところが最上八楯のひとつ成生である。

次の十字路の先右手に熊野神社がある。大名の通行がある時は村役人等がこの熊野神社まで出迎えた。境内には推定樹齢600年、樹高20mの大ケヤキが立っている。集落ができたころの大自然林の名残だそうだ。

乱川駅前を通過し、万代橋の手前右手の空き地に嘉永6年(1853)の草木供養塔が立っている。自然の草木の命を尊ぶ供養塔であるが、国内に160基以上ある中でなぜか約9割が山形県内に分布し、しかも県内4地域のうち置賜地方に集中して存在するという独特な石造物文化である。

街道は乱川を渡り国道13号をくぐると県道120号となって天童市から東根市神町に入る。

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六田・宮崎 

左手神町幼稚園の先に5本の街道名残の松並木が残っている。

神町小学校入り口信号の右手、公民館前に明治天皇駐輦記念碑が立っている。ここは宿場でも景勝地でもなく、なんだろうか。説明板もなく由緒がわからない。

左手に千羽鶴に飾られた地蔵堂があり中に3体の地蔵尊が安置されている。

県道122号と交差する信号の先左手に「天然記念物 東根の松並木跡」の石碑が立ち、一本の松が残っている。地元では「相生の松」と呼ばれているそうだが、かっては雌雄二本寄り添って生えていたものか、あるいは見上げてみると上部が大きく二つに枝分かれしているからか。

さくらんぼ東根駅前を通過してすぐ先四ッ家1丁目に與次郎荷稲神社の案内看板が立っている。秋田藩佐竹義宣の飛脚那河与次郎が江戸−秋田を往復する途上故あってこの地で殺され、のちに四ツ家の鎮守八幡と共に与次郎稲荷として祀られた。今も秋田からの参詣者が多いという。赤鳥居の先頭に建つずんぐりむっくりした石鳥居が何とも愛嬌があって可愛い。六田の石鳥居として親しまれ、室町時代前期の建立とされ、最上三鳥居の一つに数えられている古いものだ。

真っ直ぐな街道は六田に入ってくる。街道の左右に焼き麩工場が目につく。その一つ、大山やき麩製造所の前には小さな稲荷があって、そばに「六田宿大山油揚屋 名水稲荷の水」がある。奥羽の山脈を源として流れる乱川・野川・白水川は日本でも有数な複河扇状地をつくり、最上川近くになると湧水群として噴出していた。その一つがここ六田の地にもあり、昔は宿場町六田の佐竹井戸とよばれ、秋田の佐竹藩主が参勤交代のおりにここで休んで湧水井戸の水を飲んだといわれている。

その先山口宅はかっての立派な茅葺屋根を偲ばせる旧家の佇まいである。門塀を構えた大きな屋敷は山口清次郎家で、六田を興した六人衆の一人と伝わり、名主、宿場問屋などの村役を務めてきた名家である。近年まで酒造業を営んできた。

礼徳寺の北側にある斎藤本店焼麩工場前庭に芭蕉句碑「もがみにて紅粉の花のわたるをみて 眉はきをおもかけにして紅粉の花 はせを」がある。芭蕉が山寺に向かう途中で詠んだとされる一句で、芭蕉の旅から300年を記念して平成元年7月13日に斎藤重雄氏が建てたものである。碑の前には「六田宿元祖斎藤本店 名水芭蕉の水」と銘打って竹樋で湧水を引いている。先に大山宅で見たものと同類のものである。

名水よりも六田宿元祖のことが気になって広い前庭をはいりこんで本宅に近づいていくと中からおばさんが出てきて事務所内にまねかれた。「斎藤さんは六田宿の名主か本陣だったのですか」と尋ねると、宿場の役人ではなく最初にこの地に移住して麩作りをはじめた農民だったという。 東根は江戸時代より県内有数の小麦産地であり、良質な水にもめぐまれて農家の内職として六田で麩作りが始まった。宿場になる以前の話のようである。斎藤家はその元祖であるが、今年の6月で麩作りを止めたそうだ。

話を芭蕉にもっていくと、斎藤家が芭蕉をもてなした六田宿の内蔵だったという。そういう話も聞くが他方で高橋家だという説もあるようですが、と向けると、「高橋さんは芭蕉のことには関心がなくて。御主人は脳出血で寝たきりになられました」と、句碑を建てた当家が内蔵ゆかりの家だと主張して譲らなかった。句碑建立時に作成された「羽州街道六田宿」のパンフレットをいただいた。それによれば、山形県内にある羽州街道17宿のうち、黒沢・松原、六田・宮崎、本飯田・土生田はそれぞれ相宿で1ヶ月のうち松原、六田、土生田が1日から20日まで、その他は21日から晦日まで人馬継立にあたった。

斎藤家を辞して街道を進む。信号交差点の角に小さな芭蕉のブロンズ像があった。地域おこし活動10周年記念として3か月前に建てられたばかりである。碑文には「内蔵(高橋内蔵介)」と明記している。「高橋内蔵」が地域のコンセンサスであるようだ。

街道左手に山口東右衛門家がある。最近になって屋敷は取り壊され、門だけを残して、奥は空地になっている。先に見た山口清次郎家の7代目が隠居して起こした学者肌の分家で、こちらの2代目も名主を勤めている。

その先に春日神社があり、その奥が高橋家である。新しい建物で内蔵ゆかりの家を偲ばせるものはない。斎藤さんの話を思いうかべながらひっそりとした佇まいを眺めるだけだった。

白水川の手前の路地を右に少し入ったところに白水川観音堂がある。 元禄の頃(1700年代)白水川の上流から流れ着いた石仏を祀り、六田村の氏神として白水川観音堂を建立した。六田公民館による説明板の最後の一文に「最近は信心深い老人の往生を見て、コロリ観音とも言われている」とあった。観音様の目の前でお参りに来た老人が突然コロリと逝ったのか。ここに来ると年老いて苦しまずに往生できるということか。恐れる言葉か、喜びの言葉か、よくわからない一文だ。

宮崎

白水川を越えた宮崎は六田宿との相宿で、月の21日から晦日までを担当していた。

左手に煙り出しを設けた大きな平屋建て民家がある。今はトタン葺きだが明らかにかっては豪壮な茅葺屋根だった風情を保っている。

右手すこし入ったところに宮崎若宮八幡神社と地蔵を安置した祠が二つ並んでいる。八幡神社の前の道は1.5kmほど北西にある長瀞(最上八楯の一つ)とを結ぶ古道である。長瀞城は二重に水堀、土塁をめぐらし本丸は一町四方ほどの小さな城であった。地図でみるだけだが正方形に囲まれた堀の内部に一回り小さな方形の道と十字に貫く道が示されていて計画された城郭都市の跡が残されているようだ。寄っていくべきであった。

東根駅前を通りすぎ、温泉町の大きな交差点にさしかかる。ここからは長瀞城が国道13号をはさんでほぼ対照位置にある。右手、北村山公立病院の南側に大塚古墳があるが寄らなかった。

村山駅が近づき、東根から村山市に入る。

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楯岡 

村山駅前を通過し、このあたりから楯岡宿に入る。まず目を引いたのが道路の中央に融雪施設が埋設されていることだった。普段は白い中央線が酸化鉄の赤みを帯びて、それだけで沿道に寒々とした趣を与えるのである。天童以来ここまで目にしてこなかっただけに村山地方でも楯岡以北は雪国にはいるのかと感慨がこみ上げてきた。

楯岡は村山市の中心地で、中世、楯岡城の城下町として発展した。元和8年(1622)に最上家が改易になると楯岡城は廃城となり、楯岡も城下町から羽州街道の宿場町へ変貌していく。天童から土生田までの村山六宿のうち本陣が置かれたのは天童宿とここ楯岡宿だけである。南から新町、五日町、十日町と続き、笠原本陣は十日町の現村山郵便局あたりにあった。

本陣跡を中心としてあたりの商店街には蔵造りの店など往時の面影を残す家並みが見られる。

すぐ先、右へ入ったところに本覚寺がある。天正元年(1573)に開山された古刹で、本堂は文化元年(1804)に再建されたものである。境内の庭いっぱいに枝を広げた臥龍型のアカマツは樹齢400年を越え県指定天然記念物になっている。天明年間(1781〜1789)に俳人左右が献じたことから「左右のマツ」と呼ばれている。

街道を北に進み、晦日町から二日町にかけて、両側を岩山に挟まれた峠道を越えていく。

東方にある楯山(210m)が西に張り出たところに切通しを改作して街道がつくられた。今もその開削工事の跡を残している。

左手の愛宕神社があるケヤキ林には樹齢110年と推定されている「三島けやき」がある。これはもともと石割けやきであったものが、開削工事の際、岩の片側が持ち去られたため、根が肥大して巨岩を抱きかかえ、双頭の龍のような姿になったものである。

道を挟んだ反対側の岩山には文化2年(1805)の大きな湯殿山碑が建っている。峠を越えたあたり、街道に面して大市姫神がある。

楯岡宿を後にして大旦川(おおだんがわ)を渡ると地区に入る。長い塀をめぐらせた屋敷があって鬱蒼とした植え込み樹木が圧倒している。家並みは総じて落ち着いた雰囲気を醸している。

左手少し入ったところに竹駒稲荷神社があり、文政13年(1830)の石碑が立っている。

その右手に熊野神社・居合神社がある。由緒・沿革書きによると、この神社は大同2年(807)に林崎地区の東方に熊野権現が祀られたのが始まりで、永承年中(1046)から正安2年(1300)の間に当地に遷座され、熊野明神と改められたとある。天文16年(1547)に居合流の始祖林崎甚助重信が坂上主膳に暗殺された父親の仇を討つため、熊野明神に祈願参篭して修行に励み、永禄4年(1561)重信20歳の時京都で主膳を討ち本懐を遂げた。後世、重信公を神格化して「居合神社」を創建、熊野明神の一角に祀った。明治10年に明治政府に公認され「熊野・居合神社」なったという。

この居合神社の境内に、村山地方を代表する江戸期の俳人で坂部壷中(こちゅう)が詠んだ「御鏡や笑へハ笑ふ花の影」の句碑がある。壷中は本名坂部九内といい、林崎の素封家で大地主でもあったらしい。宝暦元年(1751)、壷中は俳諧仲間とともに、山寺立石寺に芭蕉が書いた短冊を埋めて「蝉塚」を建てた。

街道は林埼集落をあとにして左に折れていく県道120号と分かれて直進し、国道13号の東側脇道をたどって本飯田に入っていく。

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寄り道(最上川三難所)

街道を南にもどり十日町の大きな交差点を西に折れ県道25号を最上川に向かって進む。途中で県道294号となって碁点橋で最上川をわたり北側の堤防に下りる。そこに船着き場があって、最上川三難所の案内板が立っている。ここ碁点を起点とし三ヶ瀬、隼まで三か所の難所を訪ねる。

碁点橋たもとの船着き場まで降りて行った。岩礁が水面間際まで迫り出している。「碁点」の名は川床に碁石を並べたような岩の突起があることに由来している。これらの岩を避けて深場をつなぐように航行するのは難しかろう。橋の下で岩に腰かけて釣り糸を垂らす人がいた。

堤防を下流に向かって歩いていく。川面の展望が開けた場所を探して川をみおろすと共栄橋に向かって川幅の半分が岩礁で占められている風景がみられた。

国道347号にでて三ヶ瀬橋まで直行する。橋の上流付近が二つ目の難所、三ヶ瀬である。藪を漕いで川岸まで降りられる道があるようだが、橋の上から眺めるにとどめた。細長い岩礁が縦にならび、船はその間の狭い流れに乗らなければならない。碁点に比べれば行くべき深みが判明しているだけ、楽かもしれない。

三ヶ瀬橋からヘアピン状に蛇行する川を端折って、長島橋を渡ったところが、難所めぐりの船着き場である。そこから国道をおりて川沿いの道を東に約2kmほど進み、富並川を渡った先の十字路を右折して川にちかづくと、隼の瀬望公園の標識にしたがて岸辺の公園に至る。整備された遊歩道をたどって水際まで降りると、川幅いっぱいにひろがる岩底の浅瀬を白波をたてて最上川が流れている。深みは渦が巻き流れは早そうだ。多くの船がここで難破し、隼は三難所の中でも最も危険な場所として恐れられてきた。

たっぷり時間をかけてカメラで遊んで、難所めぐりを終えた。先の十字路までもどり、一路東にむかって県道36号に出る。右折して昭和橋で最上川を渡り、新幹線をくぐり国道13号をよこぎると、林崎の北はずれにある旧羽州街道Y字路に戻ってくる。ここで県道とわかれて旧道を北上し、国道13号に沿った東側脇道にもどる。

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本飯田・土生田 

まもなく右手に二本の松が見えてくる。頂上部が笠状に垂れている松が樹齢600年と推定される「尾上の松」である。もとは左右二株の相生の松として街道の目印になっていた。雌株は大正時代に雪で折れ現在は2代目(樹高10m)、背の高いのが雄松(樹高20m)である。

歩道東側の脇道は国道と分かれて運転教習所の入り口をかすめてそのまま旧羽州街道として本飯田集落にはいっていく。

左手に杉の大木がそびえる民家がある。杉のうしろには漆喰の土蔵があった。

バス停あたりが宿の中心だろうか。本飯田宿は土生田宿との相宿で、本飯田は21日から月末までを担当し、安達家問屋を勤めていたという。地図でみると安達姓の建物が3軒あった。どれかが末裔であろう。

右手には姿の良い茅葺屋根の佐藤家住宅がある。窓の下半分を板で覆ってあるのは雪除けのためか、舟板風にもみえて風情が感じられる建物である。

その先で街道はなだらかな峠をこえ長い下り坂に入る。

左手に石碑群があり、とりわけ六角柱の石塔について「六面幢」の説明板があった。ほかは摩耗が激しい双体祖神、地蔵菩薩、象頭山(金刀比羅宮)、湯殿山など様々である。

袖埼駅前通りとの交差点あたりが土生田宿の中心だろうか。街道に沿って細長くのびた集落で、どこが中心地なのかはっきりしない。郵便局が一つの目安である。交差点を越えた左に袖埼局がある。土生田と袖崎という二つの地名が混在しているのもわかりにくい一因だ。通りのおばさんに聞いてみたら、ここは昔の袖崎村大字土生田だといわれてはっきりした。郵便局や学校など未だに村名をひきつぐ施設や地名が残っているのである。

土生田は本飯田宿との相宿で、月初から20日までを担当した。

旧宿場通りを歩いていくと左手に茅葺の魅力的な家屋が現れた。路地をはいっていくと裏にはやはり茅葺屋根で土壁造りの小屋があった。二台の乗用車があるのも興味深い。写真を撮っていると主人と思われる男性が帰宅してきた。八鍬家である。宿場の役人でもしていたのか聞いたが、そうではないらしかった。

そのさきには門塀と見越しの松を配した旧家らしい屋敷がある。

右手には二階に手摺窓を設けた旅籠風の建物があった。

まばらではあるが、村山六宿のなかでは最も旧街道筋の家並みがのこる宿場に思われた。

集落の北端右手に渓永寺がある。境内には白壁土蔵があり、またここにも寛永4年(1708)の古い六面幢があった。一列に立ち並ぶ石仏は丸みを帯びた穏やかな姿がほのぼのとしてすがすがしい。

この先、旧街道は国道バイパスに分断されている。地下道で反対側に出て、右に折れて県道120号にもどる。その先の二股で左斜めに分かれていく道が大石田に通じる脇往還で、山形城主最上義光によって開削された。芭蕉が山寺からの帰り道、この道を通って大石田を目指していった。かって追分には約六尺余の道標があった。戦後国道の改修工事により、その道標が跡形もなく取り壊されたが、平成11年に道標の中程の部分が発見されたという。説明札には残念ながらその道標が今どこに保管されているのか記されていない。かって追分茶屋だったという森宅のおばさんに聞いてみたが用を得なかった。

旧羽州街道はその追分を直進する。街道の左手、ちょうど森宅の裏側に辻大明神を中央にして5基の石碑がある。辻大明神とは農民の見方をして暗殺された代官辻六郎左衛門のことらしい。

羽州街道は県道120号を北上し国道13号と合流して村山市から尾花沢市に入る。

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尾花沢 

右から県道302号が合流してくる地点から国道東側に旧道が復活しており、北にたどると、五十沢川をわたって横内集落に入る。集落入口に「熊出没注意」の立札があって驚かされた。

旧道は国道への導入路を逆走して旧道筋の県道120号に合流し、尾花沢市街地に向かっていく。合流地点右側にみちのく風土記の丘資料館があり、前に尾花沢市地域文化振興会による奥の細道文学碑が建てられていた。

朧気川から500mほど進んだ右側に空き地(観音堂境内)があって、路傍に村川素英の生前墓があり、その奥に上町観音堂がある。村川素英は本名村川伊左衛門といい、伊勢国の武家の出で、後に清風と交わりを持つようになる。芭蕉が清風を訪ねてきたときも紅花商売で多忙の清風を助けて芭蕉の世話役を引き受けた。晩年になって楯岡にいる実子のもとに身を移す時、尾花沢に自身の墓碑を残すため、上町の観音堂境内に石像観音を造り、その基石に辞世の歌を彫り遺したものである。今は土中に埋もれかけた角柱がそれである。

道向かいにあった常信寺はどこかへ移転していた。

十字路をこえると左逆斜めにでている道との三叉路にでる。左に分岐している道(現西部街道)は羽州街道と最上川舟運の基地、大石田とを結んだ「大石田道」である。

尾花沢宿は上町(かんまち)、中町、梺町(ふもとまち)の3町が駅役を分担した。梺町は最初「下町」とする予定だったが、陣屋がある所が下町では具合が悪いとなって「下」に「林」を加えて「梺」としたという話が伝わっている。

上町と中町の境をなす十字路を左に入ったところに念通寺がある。念通寺は寛永7(1630)に創建されたお寺で、本堂は元禄10年(1697)鈴木清風の独力寄進によって建立された。芭蕉の来訪より8年後のことであった。山門と鐘楼も鈴木一族三家の共同寄進によって元禄12年に建立されている。

羽州街道に県道301号が合流する中町交差点が宿場の中心で、高札場があった。当時は本陣は豪雪地のため維持管理の負担が大きく、世襲ではなく交代された。元文元年(1736)には大雪のため本陣が倒壊し20年間再建されずに、その間の大名行列は大石田経由となったという。

宿場は羽州街道に沿って中町十字路から西に折れて町が続いていた。今は角に山形銀行があって、その北に芭蕉清風歴史資料館があり、西隣には清風邸跡がある。

芭蕉清風歴史資料館は鈴木弥兵衛家住宅を移築したもので、江戸時代末期に建てられた町屋造りの宅邸である。木造2階建て、切妻、平入り、漆喰塗の二階部分には大きな格子虫籠窓を切っている。外観では古さを感じさせないが、展示室になっている内部は町屋の内装がよく保存されている。前庭には芭蕉像が立っている。

「清風邸跡」の標識を右手に見て街道を西に向かう。三つ目の十字路(直進する細道あり)を右折し、そのまま直進すると代官所(陣屋)跡の小学校につきあたり、途中の路地を左におれると下り坂の上に養泉寺がある。

尾花沢は寛永13年(1636)に幕府領となり代官所が置かれた。この尾花沢代官陣屋は日本最北端の幕府代官所だけでなくその重要性から出羽国の幕領を統治する中心として重きをなした。

養泉寺慈覚大師の創建と伝えられ、江戸時代まで上野寛永寺の直系寺院として格式を誇った。元禄元年(1688)に旧堂が再建されたが明治28年に消失し、明治30年に現堂が再建された。養泉寺は松尾芭蕉が滞在した寺としても知られ、尾花沢の豪商鈴木清風の依頼を受けて尾花沢滞在10泊のうち7夜を受け持った。境内には宝暦12年(1762)に建立された涼し塚や昭和63年建立の「芭蕉、清風」連句碑などがある。

養泉寺の前を下って水田地帯に出るのが羽州街道の旧道である。目の前に広がる水田と遠く月山、鳥海山を望める風景はすばらしい。



旧道は県道120号を斜めに横切ったところで国道347号に分断されている。そのまま国道を横切って延長上につづく農道をたどるとそのまま丹生川堤防につきあたった。昔はここに渡しがあったという。県道120号で丹生川橋を渡る。

一直線にのびる県道120号を北に進む。萩袋集落を通り抜け、野黒沢の野尻川橋手前右手に地蔵堂と3基の庚申塔が立っており、それを巻くように旧道が川に下りている。
対岸にもその延長古道が短く残っていた。

国道13号を越えてJR芦沢踏切を横断する手前左手に自然石の庚申塔が立っている。

踏切から600mほど行ったところで大石田道(県道305号)と合流する。追分に石道標が立っていて正面に是大石田道」と刻まれているのが読み取れた。

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名木沢 

追分のすぐ右手に種林寺がある。白鳥義守公が開基し、寛延2年(1749)に再建された。街道沿いに花で飾られた文化8年(1811)の三界万霊塔がある。赤いトタン屋根に覆われた本堂は無人のようだ。本堂前に「学校教育発祥の地 芦沢小学校跡」の石碑があった。

集落の中央あたり十字路角に芦沢折部邸宅跡地」と書かれた標柱が立っている。芦沢楯(毛倉楯)の城館跡であろう。明和5年(1768年)その系統は途絶した。

芦沢集落を出て坂を下った左手に大きな沼があらわれ、その北端に小さな赤い鳥居が見えた。県道からはずれて鳥居をめざす。芦沢集落の鎮守として明和5年10月(1768年)に創建された稲荷神社である。建立には名木沢を支配していた国分織部氏がかかわっている。明和5年とは奇しく芦沢折部氏が途絶えた年である。

坂を下りきった左手には林がとぎれて水田が広がっている。この場所の西方では芦沢から舟形にかけて最上川が二度にわたって円弧をえがくような猛烈な蛇行を見せる場所で、その両岸は恒常的に氾濫を繰り返す氾濫原で、太海(おおみ)と呼ばれた低湿地帯であった。

低地から街道は再び段丘上に上がり、地名も上ノ原という集落に入る。集落手前、左手の林の中に 明治天皇行在所碑があった。街道沿いには白塗りに大海の坂のその上にいとも尊き名所あり 明治の御代の大帝憩はせ給ふ行在所」と書かれた標柱があるだけで、その脇にかすかに認められる獣道を100mほど入り込んでいかねばならない。ここに御仮屋が設営された。今は樹林で展望はできないが当時は真下を雄大に蛇行する最上川が眺められた景勝地だったのだろう。天皇を迎えて川では通常使わない帆前船を浮かべ、また鮎捕り網打ちなどのパフォーマンスが行われた。

この場所は羽州街道が通っていたところでもあり、その古道は後ほど見る織部坂に通じていた。行在所跡碑から200mほど進んだ上ノ原集落の中央左手にその説明板だけが設けてある。

集落をぬけるとラブホテルを横目に見て坂を下り国道13号に合流する。左に折れて名木沢川に向かって下っていく。橋の手前に左に出ている細道を入ったところに織部館跡」の標識が立っていた。芦沢稲荷の説明板に書かれていた名木沢の支配者織部氏の館跡である。林の中に延びている古道は、明治天皇行在所に通じている旧羽州街道の跡である。名木沢川にいたる下り路を織部坂と呼んでいた。

古道を入り込んでいくと左手に織部家の墓所が設けられていた。その先の古道はシダに覆われ藪化しているが、木立の中には道筋をおもわせる空間が見通せた。

国道に戻り名木沢橋をわたり、名木沢宿に入っていく。国道に沿って宿場はあったが、建物は新しくそこに昔の面影はない。

左の路地を入ったところに長泉寺がある。入り口に文政9年(1826)の百万遍供養塔や嘉永7年(1854)の庚申塔、文化3年(1806)の三界万霊他など古い石塔が並んでいる。国道からはずれたこの通りが旧道かと思ったが、やはり旧羽州街道は国道そのものだった。

右手に佐竹氏が定宿とした名木沢宿本陣織部氏の住宅がある。今はモダンな一軒家で、わずかにつるべ井戸が昔を偲ぶ便となっている。内から主人がでてこられ、いろいろ話を聞くことができた。織部氏は親方様と呼ばれ、名木沢宿の本陣、問屋、名主、番所など名木沢のすべての要職を一手に引き受けていた。屋敷の一角は関所で、山形藩最北の番所として重要視された。現在の本宅を中心にしてまわりには数十の蔵があったのだが、農地改革ですべて使用人の物になったと苦笑いされた。織部坂・織部館跡の場所はここで教えてもらって引き返したものである。

国道をすこし進んで左斜めにはいっていくと長泉寺からの道と合流する。すぐ左手の家が脇本陣矢作藤兵衛家である。新庄藩主戸沢氏の休泊に利用された。

集落の北はずれ左手に「一本杉」が立っている。第15代応神天皇の第二王子大山守の命にまつわる伝承が説明されている。杉は途中から七本の枝に分かれてそびえ立つ大木である。

国道から県道187号が分岐する毒沢交差点で、国道を離れて右に出ている細道に入る。これが明治天皇行幸に備えて造られた明治新道(旧国道)である。入り口に腐りかけた木の標識が残っていた。一面には「至猿羽根地蔵尊2.3km」、他面には「至舟形町 至尾花沢市」と記されている。

すぐの二股を右にとって国道13号バイパスをくぐったところで左に折れて山道に入っていく。かっては整っていた舗装も荒れて草深い道になっていた。崩落箇所が発生したのか通行禁止の立札が倒れていた。

約2kmほどの山道を上がっていくと猿羽根峠下の駐車場に出た。そこからは土道をたどって旧峠に登る。

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舟形
 

旧峠は休憩所やなぜか土俵もあって、史跡公園として整備されており、一帯には斎藤茂吉文学碑、芭蕉句碑、「(従是北)新荘領」と刻まれた領界碑猿羽根地蔵堂一里塚などがそろっている。地面は概して平らで峠としての頂上感がない。しいていえば領界石碑のそばに立つ「奥の細道猿羽根峠」の標識のある場所が街道の最高地点だろうか。猿羽根峠は最上郡(新庄藩)と村山郡(尾花沢天領)を分ける峠であった。領界石の奥のほうまで進んでいくと下り坂になった古道の一部が残っている。

元禄2年(1689)6月1日(陽暦7月17日)芭蕉と曽良は大石田からこの峠をこえて新庄の渋谷風流宅を訪ねている。句碑に刻まれた「風の香も南に近し最上川一句はこの峠から望んだ最上川の風景だったと考えられている。今見える風景には山が視界を狭めていてわずかに水面の光が見えるのみであった。

猿羽根一里塚は峠から舟形方面に下りる所にある。この一里塚の位置は郷土研究会のメンバーによって新庄市鳥越一里塚から間縄をもって計測され、紫山地内の一里塚と共に判明したものだという。実証的手法に拍手を送りたい。

下り坂の左手に舟形町歴史民俗資料館がある。ここに舟形街道筋で発見された八頭身美人土偶のレプリカが保管されているという。付近に「うるおいの森 遊歩道」として羽州街道古道の一部が保存されている。

下り坂の途中右手に明治天皇御召換所跡」の石碑が立っている。「御召換所跡」の碑は珍しく甲州街道大月宿でみかけたことがあったが、その時は本陣を意味していた。ここは小休するための仮屋でも設けられたのか。

明治新道は現羽州街道である国道13号の猿羽根トンネル出口に合流した。旧道の入り口(出口)に猿羽根神社の石の鳥居が建っている。旧道は国道を横切ってさらに下っている。 左の山際に乾いた「舟形の清水」があった。羽州街道の旧道は新幹線の線路で分断されていたが、線路の反対側で国道から分岐する形で復活している。

国道に引き換えし、その復活した旧道に入る。

すぐ左手に「寛喜元年創設猿羽根地蔵山地蔵尊御本尊 普賢院」の札を掲げた合祀殿がある。峠にあった地蔵尊とどんな関係にあるのか知らない。堂内は空のようであった。

道向かいの山の中腹には神社がある。

街道は舟形宿に入る。新庄藩と尾花沢幕府領とが接する猿羽根峠の麓にある舟形宿には新庄藩の番所が置かれて通行が厳しく監視されていた。右手に「本陣商店」とある家が舟形宿本陣だった伊藤家である。文政以降は、年代によって宿役人が異なっていた。尾花沢と同じ事情によるものか。

宿場の中央あたりに舟形駅前通りとの交差点がある。ここで右から中山越え出羽街道が合流している。他方、最上川に向かう舟形街道がここから西に分岐していた。

羽州街道はそのまま直進して県道56号を横切ったところで小国川に突き当たる。旧道はここから小国川の渡しを経て新庄へ向かっていた。橋がなかったため大雨で川止めとなるたびに舟形宿は賑わったという。

一旦国道13号に合流して舟形橋をわたると右手に旧道の跡らしき道が残っている。川辺まで降りていくと渡し場跡らしい雰囲気が感じられ、対岸の舟形側にもそれらしき場所を偲ぶことができた。

羽州街道は国道から左斜めへ分岐して欅坂へと進む。このあたりは新庄藩が小国川渡しの休み所として4戸の家を移し四ツ屋ともよばれていた。欅坂から柴山、そして鳥越にかけては並木が続いていたという。今もそのなごりの欅並木が峠の両側を挟んで残っている。

羽州街道踏切でJR陸羽東線を横断、その先柴山で国道13号に合流する。左手に陸羽東線と山形新幹線が接近してきて国道と並走する。まもなく陸羽東線の線路との間に紫山一里塚跡があった。猿羽根一里塚と同様、ここも鳥越一里塚から実測した結果、塚跡と判定したものである。


一里塚からおよそ200m国道を進んで最上郡舟形町から新庄市鳥越に入る。

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新庄 

街道は国道を北上、南新庄駅を通り過ぎ左に大きくカーブするところで、旧道は国道を左に分けてまっすぐ北に進む。一本道が家並みをつらぬき、やがて左手如法寺の100mほど先の社標が建つ丁字路を右に入り山に向かって進んでいくと夫婦杉に代表されるうっそうとした杉木立に囲まれて鳥越八幡神社がある。

ここは中世、鳥越九右工門の楯があったところで、その大手口にあたる場所に、寛永15年(1638)新庄藩初代藩主戸沢政盛が社殿を建てた。本殿は一間社流造りで華麗な彫刻を施し、拝殿は梁行2間、桁行3間の入母屋造り、銅板葺きで本殿とは異なり素木造りである。拝殿は元禄4年(1691)になって二代目政誠によって造営された。鳥越八幡神社は最上地方の最古の建物の1つで昭和61年に国重要文化財に指定されている。

新田川を渡り国道13号を斜めに横切ると右手鳥越一里塚のブナがそびえている。その根元に一里塚碑と「新庄城下南入口」の標柱がある。新庄城下ではここと上茶屋町に一里塚が設けられた。この一里塚から測って柴山、猿羽根の両一里塚が判明した。

一里塚からすぐの路地を右に入ると左手に「奥の細道 氷室の句碑と柳の清水」の標識が立っている。大きな柳の木があって清水と芭蕉の句碑があった。

  水の奥 氷室尋ぬる 柳かな

元禄2年(1689)陽暦7月17日の暑いさなか、芭蕉は新庄の富豪渋谷風流邸(渋谷甚兵衛邸)を訪ねていった。そこで開かれた句会での挨拶句である。城下に入るにあたってここで一息つき、この清水で喉を潤し汗をぬぐったことであろう。

旧街道はこの先線路で分断され、県道310号の地下道をくぐって反対側に出る。その先は旧道との変則十字路と県道34号との三叉路が重なって複雑な道筋になっているが、結局県道34号に乗って上金沢町に入っていく。

芭蕉が旅装を解いた豪商渋谷風流(甚兵衛)の家は、南本町の森金物店の場所と言われているが、他方で上金沢町5−33の佐藤義国氏宅だったとする説もある。佐藤宅地には「奥の細道風流亭跡」の標識があるとのことだったが、該当番地の家(ヘアメイクcecilの向かい)には標識らしきものは見かけなかった。

下金沢町に旧町名標識がある。それによれば「金沢町(現下金沢町)は新庄城下町の南入り口の町で、多くの寺や神社がおかれ、裏町には足軽組が配置されていた。本通りには酒屋、茶屋などが並んでいた。」

升形川の手前左手に渋谷家菩提寺接引寺があり、入り口にかまど地蔵がある。この地蔵は宝暦5年(1755)の大飢饉の餓死者を供養するため造立された。飢えないようにぼた餅を食べさせられるためいつも口元が汚れているという。確認のため覗き込むと確かに墨で塗ったように口周りが黒かった。となりの六地蔵もおこぼれにあずかって全員口の周りを黒く汚しているのがおかしい。

接引寺の道向かいに茅葺の民家が残っている。板塀も古びていて風情のある佇まいを見せている。

川をわたると鉄砲町。鉄砲町から中ノ橋をわたる手前右手に蔵王堂がある。川をこえたところ、大門町には城下南口の大門があった。

県道32号と交わる落合町角を右に折れると大町通りである。雪国らしく雁木付の商店街が続く。城下随一の繁華街で、蔵店が並んでいた通りも往時を偲ばせる店はみあたらない。

街道は駅前通りとの交差点を渡って、新庄城大手口となる大町十字路を境に南本町と北本町に分かれる。この両町が宿場の中心地で、本陣、問屋は南北両町にあった。南本陣は伊東弥左衛門家、北本陣は中島宗内家が勤めた。

芭蕉が2泊した豪商渋谷風流(甚兵衛)の家は、南本町の森金物店の敷地付近にあったとされ、店先に「芭蕉遺跡風流亭跡」の石柱が立っている。

風流の兄渋谷盛信宅は風流宅の斜向いの駐車場敷地にあった。歩道上に「芭蕉遺蹟盛信亭跡」の標柱が立つ。渋谷本家九郎兵衛盛信は問屋業を営む城下一の豪商だった。

大手口を左折すると鈎型の道沿いに市民プラザがある。町奉行所跡・明治天皇行在所跡・藩校明倫堂跡など城下行政の中心地をなしていた。

プラザには芭蕉句碑もある。

風の香も南に近し最上川 

この句は盛信亭に招かれた時の挨拶吟である。

猿羽根峠にも同句の碑があって、解説では峠からの眺めたときの印象を詠んだものだろうと言っていた。

ここから西に二筋移動すると新庄城址のある最上公園に出る。堀を渡ると戸沢神社があって右に日本庭園、左は広場を経て天満神社がある。新庄城は、寛永2年(1625)、新庄藩初代藩主戸沢政盛が築いた城である。創建時の新庄城は本丸中央に3層の天守閣、3隅に隅櫓、表御門、裏御門を備え、二の丸は役所や米倉、大手門・北御門を有し、三の丸には多数の侍屋敷を区画した堂々たる近世城郭であった。

戦国時代に出羽国仙北郡(秋田県内陸中部)を支配していた戸沢政盛は、関ケ原の功により常陸松岡に4万石を賜り、元和8年(1622)山形最上氏の改易で新庄6万8千石に封ぜられた。戸沢氏は以後明治初年まで、11代250年にわたり、この城を拠点として藩政を展開した。

左にすすむと表門跡の石垣をみて天満神社にたどり着く。拝殿、本殿ともに重厚な茅葺屋根で温かみを感じさせる。本殿は切り妻、拝殿は入母屋造りであるのは鳥越神社と同様である。一種の定型か。

(2012年10月)

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羽州街道(3)



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