今様奥の細道 10

5月14日−16日(新暦6月30日−7月2日)



一関−岩出山尿前の関
堺田笹森
いこいの広場
日本紀行

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資料27

南部道遥にみやりて、岩手の里に泊る。小黒崎・みづの小嶋を過て、なるごの湯より尿前の関にかゝりて、出羽の国に越んとす。此路旅人稀なる所なれば、関守にあやしめられて、漸として関をこす。大山をのぼつて日既暮ければ、封人の家を見かけて舎を求む。三日風雨あれて、よしなき山中に逗留す。

 蚤虱馬の尿する枕もと


元禄2年(1689)5月14日(新歴6月30日)、奥州藤原三代の栄華に想いを馳せはかなく散った悲運の英雄義経を偲んで涙した平泉を後にして、芭蕉は踵を返して南へ向かった。これより北に歌枕がないわけではない。高館を義経終焉の地として受けいれた芭蕉は、平泉以北に義経の足跡がないことを知っていた。芭蕉がこれより南に下り岩出山から西へおれて奥羽山脈を越え北陸路にでる行程は、義経がかって京から北陸路を経て平泉へ向かった道を逆にたどる旅路でもあった。奥の細道と義経紀行は大図として重なっているのである。


一関

5月14日(新暦6月30日)

旧奥州街道(国道342号)と台町で分かれ南西に延びて岩ヶ崎(栗駒町)、真坂(一迫)の宿場を経て岩出山で出羽街道中山越に合流する道を岩手では迫(はさま)街道とよぶ。芭蕉はこの道をたどって岩出山に出た。

一関宿の南はずれ、光明寺への案内標識が立つ信号丁字路のすぐ先に右斜めに出る細道(車両進入禁止)がある。ここが
迫街道の起点である。坂をあがっていくと右手に一関藩主田村家の菩提寺大慈山祥雲寺があり山門前には「松尾芭蕉行脚の道(岩出山に至る)」の標柱が立つ。

やがて「なべ倉」バス停手前の
「迫街道一里塚跡(新山)」を経て国道4号のガードをくぐった少し先に「芭蕉行脚の道」の白い標柱が立っている。奥の細道、元禄2年(1689)5月14日の行程を示すものである。

まもなく蔵主沢で道が二手に分かれ、その間に山中に入っていく山道が残っている。入口に
「日本の道百選 奥の細道(蔵王沢)」がある。これが迫街道(奥の細道)の旧道で山を越え東北自動車道の西側で刈又一里塚に続いていた。この道は途中で消失しているため、右側の県道で迂回する。

東北自動車道のガードをくぐって左折、山間の舗装道路を南に向かってしばらく行くと左手に自動車道のもう一つのガードが見えてくる。蔵主沢から山に向かった旧道が山を下りこのガード下に出ていた。車道との交差点角にいつもの
「日本の道百選 奥の細道」標柱と刈又一里塚の説明板が建っている。一見広くて整備された道の先は二股になっており旧道は右の上り坂をゆく。入口に「芭蕉行脚の道」の標識がひん曲がって倒れている。柳沢で見たきれいな白い標柱はてっきり木柱だと思っていたが、どうやらトタン製四角柱のようだ。

ぬかるみがまじる山道となり深い雑木林に入っていく。この上り坂は「ひじまがり坂」とよばれているらしい。有壁からの旧道にも「ひじまがり坂」があった。横V字形に折れる鋭角の曲がり道の呼称だが、ここまでにそんな折れ道があったか、記憶にない。

峠の気配がするあたり、右手に
「おくのほそ道」の冒頭を刻む文学碑がある。

  
月日は百代の過客にして行かふ年も又旅人也・・


その先に、お椀を伏せたような一対の丸い塚があらわれた。人も通らぬ見捨てられた山道で修験者のように毅然として長年の孤独に耐えてきた姿は神々しくもある。原形をとどめる一里塚を山中にみることじたいが稀有な例である。

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岩ヶ崎

旧道はこの先、岩手県と宮城県の県境に沿って山を下り一関CC駐車場脇に出ていた。駐車場脇から旧道が復活している。ゴルフ場への導入路を下ってゆくと、県道との交差点手前に「奥州上街道 吉目木坂(よしめきさか)」の標識と数基の石塔がある。ここはもう宮城県である。街道の呼び方も迫街道は姿を消して「奥州上街道」にかわった。

交差点を直進して、牧場がみえる高原の快適な道をゆくとやがて峠を越えて平地にでる。右からきた道と合流した先で小川(金流川)を越える。橋の脇に
「芭蕉行脚の道 赤児大橋」の標識が立つ。

この先、右手にあぜ道が真直ぐにのびていて森の中に消えている。農道の途中に
「芭蕉行脚の道」の標柱が立つ。これが旧道で、森の中を1kmほど県道に沿って西南にのびて町道片馬合普賢堂線の前で崖となって断絶している。この出口にも「芭蕉行脚の道」の標識と詳しい説明板が立っていて旧道であることを示している。

一方、赤児大橋から矢待沖バス停で県道182号に出て右折していくと、まもなく右手に
八幡社、道が大きく右にまがるところに赤児塚がある。奥州藤原秀衡は歌舞を好み、そのなかで舞の上手な春風という少年を寵愛していた。他の舞童がこれを妬み、春風を殺して当地に埋めたという。里人は春風がいつも紅色の衣を身につけていたことから「赤児塚」と呼ぶようになった。

「金成野外活動センター」の案内標識が立つ町道との十字路交差点を直進して一路栗駒をめざす。なだらかな下り坂から町並が見えるようになってきた。しばらくいくと市街地にはいり県道4号と合流、その後四日町信号を左折、一筋目を右折して広い八日町の通りを西進、栗駒岩ヶ崎保育所の裏側で駅前通りに突き当たる。ジグザグの町並は宿場当時と同じ形で残っている。

保育園南の丁字路からわずかであるが右手に
松並木がのこり昔の面影を伝えている。「奥の細道 岩ヶ崎鶴丸城跡」の標柱と、「鶴丸城跡」の説明板が立っている。街道はさらに一筋南の通りにはいって六日町を通り抜け国道457号を左折、茂庭町を通って岩ヶ崎大橋で三迫川をわたる。


国道457号は真直ぐに南下し、尾松郵便局の交差点で右折して西に分かれていく。上街道は県道17・42号となって
島巡橋で二迫川を渡る。

県道はまもなく二手にわかれ、県道42号は南東方向へ、奥州上街道である県道17号は右に折れて西に向かう。700mほど行ったところに
「史跡 奥州上街道入口」標柱が立つ丁字路にさしかかる。他の側面には「真坂を経て岩出山に至る。 約1000mの地点に芭蕉衣掛の松がある」と記してある。ここを左折するとすぐに「芭蕉衣掛けの松 直進900m先」の標柱が立つ。この道が旧街道、祠堂ヶ森(志登ヶ森)への道である。

森の入口に「芭蕉衣掛けの松 ←徒歩20分」の立て札。左方向に森を入っていくと右手に雷神社参道入口に赤い鳥居がある。山道をのぼりやがて峠から車道との合流点におりていく左手に松の切り株を覆う東屋があった。ここで芭蕉は衣を松の枝に掛けて一休みしたという。この峠付近は眺望絶佳のところで、藩主の領内巡視の「お遠見場」で知られる。

車道を右に進むとすぐ左手に「奥州上街道」の標識が立つ旧道が続いている。再び山道に入って祠堂ヶ森をぬけ、広域農道大又−割山線に出る。出口に「奥州上街道」、
「奥の細道」の標柱に並んで、「祠堂ヶ森」の詳しい説明板が設けられている。

広域農道を右に折れて県道17号に出、次の宿真坂に向かう。

一迫川をわたり長崎川を渡ったところで県道17号から分かれて右の旧街道に入っていく。真坂宿は北から本町、中町、荒町、南町と続く。南町の右手に芭蕉の時雨塚が建つ秋葉神社がある。この塚は、寛政12年(1800)の建立で、地元の俳人午夕の門弟が次の句を刻んで「時雨塚」としたものである。

   今日ばかり人も年寄れ初時雨 ばせを  
   野は仕付けたる麦の新土    許六   
   春も時にとりてやしぐれ塚    午夕


曽良随行日記に「真坂ニテ雷雨ス」とある。時雨塚を、この時の芭蕉雨宿りの場所と結び付けたいが、付近にそれを暗示するものは見当たらなかった。

真坂宿をでた街道は再び県道17号に合流しやがて二股で県道59号を左に分岐して、自らは南西に向かう。街道は栗原市一迫から大崎市岩出山にはいる。

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岩出山

街道は堂の沢から天王寺一里塚まで、県道17号の北方に旧道が断続的に残っている。旧岩出山町はこれらの旧道を昭和53年(1978)から4年にわたり「歴史の道」として整備・保存事業を行なった。

真山御上バス停付近に「歴史の道」の全体像を示した案内板がある。石畳で整備された入口から杉木立の山中にはいり県道に沿って1.2kmの山道をいく。杉木立の中を歩いていくと県道とをつなぐ丁字路をすぎたあたりに
「潜り松古墳群」の案内板がある。石段をおりて県道に出る。

丁字路を右折してしばらくいくと千本松長根入口に臨時駐車場が用意されている。民家の軒先を通って石畳を上がっていくと、見事な赤松並木が現れる。杉のように真直ぐに伸びた姿勢のよい松木立だ。この道は源頼朝も通ったという古道である。

並木道の中間地点に
東屋が設けられそばに「南部道遥にみやりて、岩手の里に泊る」と刻まれた「おくのほそ道」碑が建っている。平成元年に「おくのほそ道」紀行300年を記念して建立された。

松並木の終わりに「歴史の道上街道案内図」と、
磯良神社(オカッパサマ)への案内標識が立っている。矢印に従って「鼻こくり坂」とよばれる急な坂を下ると林道にでる。左折してしばらくいくと蛇行する林道を端折る形で150mほどの短い山道が残っている。山から出てくると農道の十字路があって、直進すると再び200mほどの旧道を経て県道に出る。

県道17号を西に歩いていくと、町道との丁字路にさしかかる。西:岩出山、東:一迫、北:上街道の道路標識が立つ。右折して町道に入る。このあたり、岩出山葛岡には
古代東山道の駅家玉造駅があったと考えられている。葛岡高田の集落から南に下る舗装道をたどると小松川にかかる高見橋の手前に「上街道」の標石がある。橋をわたって「葛岡第一生活センター」の前を右折する。

山に入って行き、二股の左の草道が古道である。約500mほどいったところ、右手に
狼塚がある。かってはここにお堂があって、毎年3月3日に狼祭りが行なわれていたという。

古道は牧場経営主の敷地を通り抜けて県道17号十文字丁字路交差点に出る。
「歴史の道上街道」もおわりに近づき、まもなく
天王寺一里塚に至る。一里塚は左右共に保存するため、県道改修の際には一方通行単線道路を二本つけた。

一里塚からほどなく天王山に残る逆くの字形の旧道を経て、県道を横切って右斜めの坂を下っていくと、上街道の終点天王寺追分に出て出羽街道中山越に合流する。

分岐点には道標を兼ねた山神塔のほか、
「おくのほそ道」の案内板、上街道の石柱などが建てられている。ここで「奥州」でなくて「陸奥」上街道となっている。ここには大正初期まで「たまを茶屋」という茶店があって、鳴子温泉に往来する旅人で賑わっていたという。

出羽街道の北西方向を眺めてみる。芭蕉一行はここから小黒崎・美豆の小島に寄ろうとすこし鳴子方面に歩をすすめたが日が暮れて引き返し、岩出山に泊まることにした。ここから岩出山の市街地まで、芭蕉がどのようにたどっていたのか、わからない。

とりあえず今回は県道17号で国道47号の要害交差点をわたり県道226号をたどって街中に入ろうと思う。町の中央を縦走する広い通りが県道226号で、出羽街道の道筋であろう。仲町、本町の区間が一段と幅広く整備されている。

仲町交差点北東角の交番あたりに旅籠石崎屋があり、元禄2年(1689)5月14日芭蕉と曽良が一泊した。一筋北の右手ポケットパークに芭蕉像と奥の細道案内板、岩出山町道路元標などが建っている。芭蕉は当初岩出山から出羽街道を南に下り中新田(現加美町)迄戻り、そこから中羽前街道(銀山街道)(国道347号)をたどって小野田経由で尾花沢にでる計画だった。しかし、その行程は遠回りになるだけでなく難所があることを知らされて急遽鳴子経由に変更した。翌朝芭蕉は岩出山のどこにも寄らずそそくさと出羽越えに発った。

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小黒崎美豆(みづ)の小島

5月15日(新暦7月1日)

昨夜来た道筋を逆にたどり岩出山大橋で江合川(えあいがわ)を渡る。橋を渡って左折、上野目深山の後藤酒店前を右折して国道47号要害信号を横断して県道17号に移る。角に奥の細道、上街道(迫街道)の案内標識が建っている。


下鎌集落の手前で左に直角に折れ西に進んでいくと右手に追分の名前となった
天王寺がある。推古天皇の時代(593)に、我が国の四か所に建立された四天王寺の一つと伝えられている。三度の火災にあって七堂伽藍も運慶作の聖観音像と聖徳太子像も焼失した。 

天王寺追分に戻ってきた。ここから本日の行程である。出羽街道中山越は天王寺追分をそのまま真っ直ぐに進み、鳴子を目指す。街道は右手に延びる丘陵の麓に沿ってのどかな集落を縫っている。

左手にトタンで一部補修した茅葺屋根の農家をみて
一栗城跡に差し掛かる。室町時代末期、大崎氏家臣の居城だった。

芭蕉は岩出山に一泊する前日、天王寺追分から小黒ヶ崎をめざしてこのあたりまで来ていたのだが、日が暮れて前進を断念、岩出山に泊ることにしたものである。

池月小学校前に街道碑がある。学校の前の道が出羽街道中山越と考えそうだが、旧道はもうすこし手前で斜めに南下し、池月駅の東方で線路を横切って駅前集落を通り抜け国道47号の池月信号交差点に出ていたようである。その跡をさぐってみると、それらし道が線路まで残っていた。誰も通らない廃道である。民家の間を縫って駅前通りを斜めにぬける道が残っている。これが旧道跡かどうか定かではない。

下宮宿は国道池月信号を右折してJR線路までの短い区間に作られた。古い家が残っていない池月駅周辺だが、この通りだけは昔を偲ばせる家並をみることができた。この旧宿場通りは小僧街道とよばれている。踏み切りをわたったところで右から池月小学校前の道が合流してくる。

旧道は踏切りから小僧街道をすこし北に進み、花岳院の参道入り口で左折する。寺を回りこむようにして西に方向を転じてのびていく道は惚れ惚れするような街道である。時々孤立した人家があるだけで集落すら通らない。

2kmほどいくと小黒ヶ崎に至る。観光センター駐車場で芭蕉がまぶしそうに空を見上げている。小黒ヶ崎山を至近距離から眺めていたのであろう。

そばに大きな案内板があって、奥の細道本文と曽良随行日記からの抜粋が記されている。池月からはなだらかな丘陵に見えていた山が国道のすぐ傍まで迫ってくると、木々の一本一本が明瞭に眺められて秋の錦が織りなす小黒ヶ崎山は美しい迫力を見せていた。暖色に混じって純緑色の松の木がその存在を目立たせている。どこでも名勝は春か秋にすぐる季節はないが、特に小黒ヶ崎山はその季節に限るといわれる。芭蕉がたずねたときは梅雨が明けようかという蒸し暑い日。山はただ緑一色という単調な装いであった。

そこから僅か行ったところで左に入る細道がある。道なりにたどっていくと江合川の川原にもうひとつの歌枕がある。
美豆の小島といって、川中島に巨岩がありその上に生えている松が風情ひとしおであると愛でられた。

川原の駐車スペースに
歌碑がある。

   をぐろ崎 みつの小島の 人ならば  都のつとに いざといはましを

「小黒崎美津の小島が人ならば、都の土産に、共に参ろういざと言うだろうに 」という意味らしい。現代訳されてもまだわからない。

水流の変遷によって岩の相対的位置は岸辺であったり川中であったりと変わった。今曽良によれば、当時小島は向こう岸に接していた様である。生えている松は勿論新しい。そんなことを勘案しても現代の美豆の小島は昔に劣らず趣きあるように見えた。

国道にもどて次ぎの宿、鍛冶谷沢を目指す。川渡駅前通りの商店街を通り抜け、県道253号を越えて200mほどいったところの三叉路
「鍛冶谷宿駅跡」と東北大学付属農場が併記された矢印標識が立っている。その三叉路をUターン気味に折れて坂を登っていく。「第一羽後街道踏切」を渡って、なおゆるやかな坂を上がったところが旧鍛冶谷沢宿である。

手民家の生垣の隙間に立派な湯殿山碑にならんで、「鍛冶谷澤駅跡」の碑があった。どのあたりから宿場が始まっていたのか、よくわからない。
踏切までもどり線路の南側についている細道を西に進んだ。鍛冶谷澤集会所を通り過ぎて鳴子中学校前で広い車道に出た。宿場跡からこの地点への近道があったのが鉄道の敷設で消失したのだろうと思われる。

沿道にちらほらと旅館が目に付くようになってきた。

旧街道は江合川左岸に出てくる。東北電力池月ダム取水口をすぎた辺りに民家に向って右斜めに上がる細道がある。これが旧道だろう。民家の玄関先をすぎると杉並木の峠道さながらの情緒ある場所を通る。道は車道におりて川とホテル紫雲峡のために途絶している。左におれて堤防道を進み、市民病院鳴子温泉分院病院脇の道にはいって病院裏手の敷地を西に進む。紫雲峡で消失した道筋の延長線上に当る。

職員宿舎第3号棟前を通ってパイプ手摺の橋をわたると
洞川院の前に出る。寺の入り口に奥の細道標柱があって、旧道であることを確認できる。旧道は裏通り風情の道を進んで国道108号に突き当たる。この国道108号が、鳴子大橋の南詰で国道47号と分かれてきた羽後街道である。出羽街道の旧道は国道108号をよこぎって建物の隙間を通り抜け、左にまがって村本旅館の手前で舗装された堤防道に出る。

まもなく道は砂利道となり中屋敷で二股にさしかかる。前方右手にジャンボの里右にとって堤防からおりる。草むらの中で道が二つにわかれているが、右にまがって岩淵前集落に向う。車道につきあたり左折し小さな集落を通り抜けると道は江合川につきあたる。道は左にまがって再び堤防道になる。

道なりに南にくだり左に曲がると右手河川敷にかかるように二軒の人家がある。犬がうるさく吠えた。人家の先で右におりる道があり、草道をたどっていくと深い草むらの空き地に出た。わずかに畑が耕されている様子である。樹木と草にさえぎられて前方の様子がよく見えないが、この先が渡し場になっていて対岸に尿前の関所があったはずだ。芭蕉はここから綱渡しで江合川を渡っていった。


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尿前の関
・中山越え

対岸へは鳴子大橋までもどらなくても、数ヶ所に設けられている釣客用の歩道橋で渡ることができる。二股近くから川に下る細道にはいっていくと水面まで1mほどもない低さに架けられた橋があった。鳴子温泉自体は出羽街道沿いになく、芭蕉も寄っていかなかった。

国道47号で大谷川を渡った先で国道と分かれて右に下りていくと林の中に尿前の
番所跡にたどり着く。芭蕉は対岸から船でここへ渡ってきた。ここで二人はトラブる。通行手形を所持していなかったのだ。関所通過に手形が要るのは常識である。岩出山で急遽軽井沢越えをやめて中山越えにしたのだが、そのとき尿前関用の手形を用意しなかった。

芭蕉は本文で「関守にあやしめられて、漸として関をこす。」と記し、曽良は「断六ヶ敷也。出手形ノ用意可有之也。(説明しただけでは通行はむずかしい。出手形を用意するべきだった」と、当たり前のことを書いて悔いている。袖の下を払って通してもらったのだろう。

尿前番所は関守遊佐氏の屋敷内に造られ、出羽街道はこの屋敷の中を通っていた。屋敷は土塀がめぐらされ、長屋門、役宅など10棟もの建物でなっていた。復元された門をくぐるとこけむした石段がつづき、奥に芭蕉立像と文学碑が立つ。跡地の左手に石畳の道があって数軒の民家が立ち並んでいる。

家並みがつきたところにも関所跡の標識がある。石畳の道を引き返す。大根や垣を吊るした軒下が秋色の深まりを感じさせる。

やっとの思い出関所を出て芭蕉と曽良は急な尿前坂に向かう。左方にある薬師神社前に自然石の芭蕉句碑があった。表には「芭蕉翁」と大きく刻まれているだけで、「蚤虱馬の尿する枕元」の句は裏面にある。明和5年の古い句碑である。

ロープを手繰りながら階段を上がる。国道47号を横切ってやや左によったところから第二段の石階段坂を上がる。この坂は薬師坂とよばれて、尿前の坂よりもさらに急で長い。東屋のある平地に出た。きれいに整備された道を右に100mほどいくと、右手に芭蕉に思いを寄せた斎藤茂吉の歌碑があり、さらにその奥に宝珠の頭だけを地上に置いた薬師堂跡がある。

道はすぐ先で二つに分かれ、出羽街道・奥の細道は右であるとの標識がある。旧道は鳴子トンネルの上を跨ぐ恰好で、鳴子スキー場の裾を通って山道を下り、先にわかれた町道の延長線に出る。小深沢入口の標識がある。

右におれて車道をたどっていくと右手に内山伊右衛門の墓を通り過ぎて一旦国道に出る。すぐに鳴子こけしを乗せた「奥の細道入口」の標識が立ち、となりには小深沢0.2kmの案内標識があった。小深沢までの200mの道は難所のイメージにほど遠いなだらかな下り道である。すでに国道は沢に近い位置に来ていたからであろう。「おくのほそ道」遊歩道として大々的に整備されただけあって、快適な道である。

小深沢の橋を渡ってから本格的な難所がはじまる。つぎの大深沢までにきつい山登りがある。九十九折の道を登る。振り返ると色とりどりに染まった木々の合間から下方に赤い橋脚の橋が見えた。

息が切れたところからしばらく平坦な道が続き錦秋の山道歩きを楽しむ余裕が出てきた。このあたり「ふるさとの森」とよばれて、一角に前田夕暮の歌碑が説明抜きでぽつねんとある。
「大深沢1.0km」の表示がある。
「ふるさとの森 奥の細道 大深沢入り口まで7分」の表示がでてくる。
7分ほど歩いて入り口にやってきた。白塗りのパイプで柵が設けてある。

しばらく歩いてようやく下り坂が始まった。道は落ち葉で埋まって心地よい。
下り道も九十九折で、階段を慎重に下りて橋がみえる沢にたどり着いた。水の流れは小深沢よりも小さいくらいである。休む間もなく上り始める。二山越える難所ということである。小深沢からの上りに比べればいくらか楽に思えた。

上り坂はやがて峠道となりまもなく山中を抜けて集落に出る。出口右手に自然石の「青面金剛童子碑」があった。車道をたどると道は二手に分かれる。車道脇に赤い鳥居があって水子地蔵の祠がある。旧街道はその道を行かずに、右側の
民家脇を通り抜ける。下に国道47号が見えてきた。

国道を次ぎの宿場中山に向う。沿道には中山平温泉の旅館が点在して、湯煙があちこちで気まぐれに立ちゆれている。硫黄の臭いが漂ってくる気がする。

中山平温泉駅前から1kmほどいったところに国道47号「仙台から81km」の標識が立つ。宿の沢をわたったところを右に折れると集落入り口に「中山宿駅の跡」、「奥の細道 中山宿」の二つの標識が立っている。中山宿は玉造郡5宿のなかで最も遅くに設けられた宿場である。設立に当っては鳴子村の肝入遊佐氏が大きな貢献をした。

標識の先を左にまがるともう家並みが終わる。山道への入り口に石碑が二基ある。右側が嘉永6年(1853)建立の遊佐大明神碑である。鳴子村尿前の肝入・検断遊佐平左衛門の偉業を讃えるものである。

すぐ先には鳥居の奥に山神社がある。鳥居の足元に青面金剛碑、すこしはなれた小祠には立派な金精神が祀られている。ここからふりかえると旧中山宿集落が一望できる。両手ですくいあげられそうなこじんまりとした集落である。


間伐されてすずしげな杉木立の中を行く。鳴子の深沢遊歩道と同じくこの道も
奥の細道遊歩道として整備された道であるが、鳴子からここまで足を延ばす人はそう多くはなさそうで、深閑とした空気に包まれている。杉林をぬけると景色はひろがりを見せて、砂利道を進んでいくうち道沿いに別荘かペンション風の明るい人家が建っていた。平坦な道が続いて、開けた右方に対して左側にまとまった林が現れる。やがて農道を右に分けて軽井沢に下る山道の入り口にたどり着いた。

ながい下り坂だが、大深沢のような急な勾配ではなく、難所という険しさを感じさせなかった。紅葉の山道を楽しみながら下りていくと、谷川のせせらぎが聞こえてきて
軽井沢にかかる短い橋が見えてきた。水流は豊かで清冽である。橋の上流に小規模な淵が形成されて、緻密な水平の岩相が露出している。清水の流れを見つめながらしばらく休んだ。

ここから先、義経所縁の甘酒地蔵と三界万霊塔などをみて比較的平坦で歩きやすい道を進む。道は幅広く落葉を敷きつめた絨毯の上を歩いているような心地よさである。

やがて左手に一軒の家が見え、その先の小川をわたる。この小川は大谷川で、江戸時代新庄藩と伊達藩の藩境をなしていた。

出羽街道中山越の最大の難所である尿前坂からここまでの山越えについて芭蕉も曽良もほとんど記録に残していない。芭蕉は「
大山をのぼつて日既暮ければ」と極めて冷静で、曽良にいたっては「一リ半、中山」とまるで書き捨てるような冷めかたである。関所でいじめられ、3回、4回の険しい上り下りで心身ともに疲労困憊し、かなりやる気をなくしていた。

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堺田

5月15日(新暦7月1日)−5月17日(新暦7月3日)


細道は国道47号を横切って再び山道に続いている。足元をよくみると落葉の下に石畳が敷かれていた。石の古さからみて遊歩道で整備されたものだろう。

国道に沿って北上し、まもなく合流する。堺田集落の家並みがはじまるとすぐ右手に大きな茅葺の建物がどっしりと構えていた。堺田村の庄屋、
有路(ありじ)家の住宅である。有路家は藩境の守役(封人)を勤める傍ら宿場の問屋も兼ねていた。二人はここに泊めてもらった。

中へ入ると愛想のよい管理人のおじさんが早速お茶を出してくれた。ほどなくご婦人の一団が囲炉裏に仲間入りしたのを機に座を離れて屋内を一周する。昭和46年に解体・復元されたという大型農家の建物はつかわれている木材が太くて黒光りした光沢を放ち、重厚な趣のある建築物である。芭蕉が休んだのは中座敷だったらしい。土間をへだてて馬屋があり、その一つによくできた張子の馬が首を出していた。馬の放尿が強烈な勢いであることは知っている。臭いもそれに劣らず強烈であったのだろう。馬が目の前にいると錯覚するほどだった。芭蕉一流の誇張で一句を詠んだ。家の西側に句碑がある。

   蚤虱馬の尿する枕もと

あくる日は大雨でもう一晩ここに泊り三日目の17日(新暦7月3日)に堺田を発った。

笹森は国道から山側の高台にかけて集落がある。入り口に大きな屋根の民家がある。右手高台の一角に
国分大明神があり、その隣りに笹森の口留番所があった。番所跡の標識などは見当たらない。

口留番所は旅人の通行や荷物の取り調べを行うところで、村人が武器を所持して自宅でその任に当たっていた。笹森では佐藤家が世襲で番人を勤めたという。二人はここを
無事通過した。

集落の中ほどで芭蕉は南に折れて明神川を渡る。渡ったところに追分標識があって、
「笹森口留番所跡・堺田」方面と、「新屋・明神」方面の二方向を示している。「新屋・明神」方面は明神川に沿って田圃の中を通っていく。雑草が深いあぜ道をしばらくいくと道は二手にわかれる。川沿いの道は前方で通行不能状態のようで、左の道を選んで進む。

曲折しながら小さな水路にかかる橋をわたり、右折左折するうち明神橋がみえるところまできた。

ちょっとした十字路があって右は国道につながっている。その十字路を左にたどっていくと杉木立の下に
新屋聖観音があった。新屋の守り神として信仰されていたが、今となっては新屋の集落自体がなくなって、廃村の象徴となってしまった。この前を通っているのが旧道なのか定かではない。明神集落へ通じているのであればこれが奥の細道なのかも知れない。

(2010年10月)
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