旧奥州上街道 北沢上大又 一迫 栗原市 宮城県
上街道旧道と広域農道大又−割山線との合流点
志堂(志登)が森
元禄2年(1689)5月14日(陽暦6月30日)、「おくのほそ道」の旅の芭蕉と曽良は、一関からこの街道(当時一里塚の設けられた藩道)を過ぎて真坂(一迫町)経由、岩出山へと向かったのである。「曽良旅日記」には、その折のことを、
 一 十四日天気吉・・・真坂ニテ雷雨ス 乃晴、頓テ又曇リテ折々小雨スル也
としるしている。江戸時代の街道は、雷神社や志堂(志登)が森を中心に稜線づたいにつづいていた。また峠付近は、御遠見場と称して、仙台藩主がこの街道を通行する際は、必ず休息して領内を遠望する場所とされていた。
後年、この街道は廃道となったが、反面このことは、旧道を保存する結果となった。現在頂上には「芭蕉衣がけの松」と伝える巨松がそびえているが、この松を中心に、当時の自然の環境がよく保たれている。
栗原郡のこの一帯は平安時代には姫松荘といわれ、藤原氏の荘園であた。江戸時代は、各村に分かれていたが、明治以降は姫松村となり、現在は栗原郡栗駒町・一迫町・築館町に含まれている。志堂(志登)が森は、栗駒町と一迫町の境にあたっている。元禄2年当時、真坂(一迫町)は、冨塚出雲重長(城は、上真坂上台)の所領であったが、享保3年(1718)領地没収となり、その後白河氏(千石余)の所領となり幕末まで続いた。現在の真坂と岩ヶ崎(栗駒町)を結ぶ街道は、この地方では「往還」と呼ばれている。