戸田渡船場跡碑 川岸1丁目 戸田市 埼玉県
中山道は木曽街道・木曽路とよばれ、山々の間を縫う街道として、京と江戸を結んでいました。街道として整備されたのは、慶長7年(1602)のことです。宿駅は67、越える川は大小10以上を数え、荒川は江戸を出る所に位置していました。この荒川には江戸防衛の意から橋が架けられず、人々はここを越えるには船による渡しに頼らざるを得ませんでした。これが中山道「戸田の渡し」です。江戸日本橋を出て最初の宿駅である板橋宿と、次の蕨宿の間にあり、交通の要衝でもありました。この渡しは、資料によると天正年中(1573〜91)よりあったとされ、その重要性は近世を通じて変わらなかったといいます。渡船場の管理は下戸田村が行っており、天保13年(1842)では家数46軒、人口226人でした。そのなかには、組頭(渡船場の支配人)1人、船頭8人、小揚げ人足31人がいました。船の数は、寛保2年(1742)に3艘だったものが、中山道の交通量の増加に伴って天保13年には13艘と増えています。また、渡船場は荒川を利用した舟運の一大拠点としての機能も有し、戸田河岸場として安永元年(1772)には幕府公認の河岸となっています。天保3年(1832)には5軒の河岸問屋があり、近在の商人と手広く取引を行っていました。これらの渡船場の風景は、渓斎英泉の「木曽街道六拾九次」の錦絵に描かれ、当時の様子を偲ぶことができます。やがて、明治になり中山道の交通量も増え、明治8年(1875)5月に木橋の戸田橋がついに完成。ここに長い歴史をもつ戸田の渡しが廃止となりました。 平成5年3月  戸田市教育委員会