六義園給水用 道水門バルブ 千川上水分配堰跡
千川上水調整池跡 所在地 西巣鴨2−39−5千川上水は元禄9(1696)年、小石川白山御殿・湯島聖堂・上野寛永寺・浅草寺御殿と、下谷・浅草方面の江戸市民の飲料水を確保するために、玉川上水を分水した上水です。(中略)上水は、ここにつくられた溜池(沈殿池)で、砂やごみなどを沈殿させた後、木樋や竹樋の暗渠となって江戸市中へ供給されました。なお、この付近を「堀割」と呼んでいますが、これは、慶応元(1865)年に、幕府が滝野川村に建設した反射炉の水車利用のため、王子方面への分水(王子分水)を開削する際に堀をつくったことに由来しています。明治13(1880)年、岩崎弥太郎らが設立した千川水道株式会社によって、本郷・小石川・下谷・神田方面への給水が再開されると、王子分水との分配堰が設けられました。明治通りの向かい側(北区滝野川6−9)には、水利関係が刻まれた「千川上水分配堰」の碑(明治15年建立)が残されています。一方、公園側には分配堰の落し口があり、沈殿槽からの水量調節を行っていました。公園内には、駒込六義園方面への送水に使用していたバルブ(巻揚器)が現在も残っています。  平成16年3月   豊島区教育委員会
 千川上水  北区掘割 明治通り