樋口一葉(本名、奈津)
1872−1896
  記念公園  旧居跡  大黒屋寮跡
明治5年
(1872) 0歳
3月25日現千代田区にあった東京府庁構内の武家屋敷にて生まれる。父則義41才、母多喜37才。
明治9年
(1876) 4歳
父本郷6丁目(現5丁目)に屋敷を購入し移転。この年官吏を退職し事業に専念する。
明治16年
(1883) 11歳
下谷区上野元黒門町にあった私立青海(せいかい)学校小学高等科第4級を主席で修了。母の「女に高等教育は不要」との強い意見で進学を断念。
明治18年
(1885) 13歳
渋谷三郎に会う。(渋谷は後に山梨県知事、早稲田大学法学部長を歴任) 渋谷はその後度々樋口家を訪問、なつの婚約者のようになっていた。
明治19年
(1886) 14歳
中島歌子の歌塾「萩の舎(はぎのや)」に入門、ここで和歌・書道(千蔭流)・古典を学ぶ。塾は華族実業家の夫人令嬢など上流階級のサロンのようなもの。
明治20年
(1887) 15歳
父警視庁を退職。長男泉太郎、肺結核のため死去、この頃より家運が傾き始める。
明治21年
(1888) 16歳
萩の舎の先輩田辺花圃が小説「藪の鶯」を発表し新進女流作家として脚光を浴びた。これが小説を志すきっかけとなる。
明治22年
(1889) 17歳
父事業失敗の心労から病状が進み58才で死去。渋谷三郎から婚約破棄が通告される。虎之助は、奈津が6歳の時に分籍になっていたこともあり、彼女が家督相続人となる。
明治23年
(1890) 18歳
9月末から、本郷区菊坂町70番地を借り、母多喜と妹くにを住まわせる。自分は中嶋歌子の家に住み込みながら、内職をして生活。
明治24年
(1891) 19歳
東京朝日新聞記者兼専属作家の半井桃水(なからいとうすい)について、小説の手ほどきを受ける。桃水に好感を持つ。この頃から、筆名「一葉」が使われはじめる。
明治25年
(1892) 20歳
『武蔵野』に小説「闇桜」がのり、次いで雑誌『都の花』に「うもれ木」を連載、これが一葉の出世作となる。一葉と桃水の間の風評が原因で、やむを得ず桃水との交際を絶つ。
明治26年
(1893) 21歳
『文學界』第3号に「雪の日」が掲載される。『文學界』によって上田敏、島崎藤村らを知る。
7月に、生活苦を打開しようと吉原遊郭の近く下谷龍泉寺町368番地へ移り、荒物雑貨・おもちゃ・駄菓子店を始める。
明治27年
(1894) 22歳
久佐賀義孝という占い師に援助を申し込むも妾契約を提案され、拒絶。約9ヵ月で龍泉寺町の店を閉じ、5月、本郷区丸山福山町へ転居。12月、「大つごもり」を発表。
明治28年
(1895) 23歳
1月から1年間にわたり、「たけくらべ」を連載。又「うつせみ」「にごりえ」「十三夜」「わかれ道」を発表。
明治29年
(1896) 24歳
4月「たけくらべ」を『文芸倶楽部』に一括掲載し森鴎外から激賞される。
11月23日、肺結核のため死去。
両親は甲斐国山梨郡中萩原村(現山梨県塩山市中萩原)の中農の家に生まれた。二人は幼馴染みでいつしか恋仲となり、母が身籠もったが、家格の違いなどで母方が結婚に反対。
安政4年二人は江戸に家出する。父27才母23才。
父は同郷の先輩を頼り幕府の蕃書調書の小使に、母は旗本の乳母に出て、勤めを替えたりして懸命に働く。
父、慶応3年八丁堀同心の株を買って幕府直参となるが、運悪く翌年(明治元年)幕府は崩壊、幕臣から東京府の下級官吏になる。


一葉は生涯で、4000首に近い和歌のほか、15歳から晩年までの日記を残した。この日記は「たけくらべ」「にごりえ」などの作品と並んで、近代文学の傑作といわれている。

一葉は一般に生涯純潔を守った女性とされているが、半井桃水や久佐賀義孝から月に15円受け取っている事実をもとにそれを疑う説もある。

「たけくらべ」は美登利が突然鬱状態になるところで終わっているが、その変化の理由として「初潮説」と「水揚説」の対立がある。

樋口家の墓は、杉並区永福1丁目8番地の築地本願寺和田堀廟所にある。