利根運河のいわれ
徳川家康が江戸に入府して最初に手がけた事業は利根川、江戸川の大改修であった。この二つの河川は、関宿を分水点とIて銚子と江戸へ流れを変えたので航路として重視された。この川筋の町々は、物資の集散地として一躍脚光をあびるようになった。江戸末期になると利根川中流の野田−関宿間に中州ができたため、柏から流山の間は陸送となり、ここに運河を開さくする気運が芽生えていった。 明治になると、運河開削の運動は具体化し茨城県会の廣瀬誠一郎と茨城県令(知事)人見寧の二人が中心となって活躍した。時の政府や千葉県庁にも強い要請が行われ、政府はオランダ人技師ムルデルを派遣して運河の設計にあたらせた。明治21年5月、事業は株式を公募して民間事業の方法で工事が始まった。総工費57万円、実に220万人の労働者を動員して、明治23六6月全工区が竣エした。ムルデルは西深井の民家を宿舎として全工事を監督したという。総延長8km余、河底幅18m、平均水深は、1.6mであった。 利根運河が完成すると水運は益々活発になり、ピークには、年間3万7千余隻一日平均103隻もの船がここを利用した。。しかし、大正の頃になると運輸の花形は貨車輸送となり栄華をきわめた利根運河は、時の流れにとり残されていった。昭和16年の大洪水によって運河は国に買収され、治水及び利水上重要な役割を果たしながら、四季折々に縁豊かで静かなたたずまいを見せている。その栄光の歴史は明治41年河ロに建てられた1基の石碑が教えてくれた。利根運河のあゆみを振り返り、後世にその”あかし“を伝える為この石碑は昭和56年3月、運河橋のたもとに移された。 その後、利根運河が大公爾園として見直され風光明媚な公園として整備されたいま、その景勝を楽しむと共に、運河の歴史をより多くの人に知ってもらうため、石碑をこの地に移設し、解説板を設置した。 昭和62年3月吉日 建設省江戸川工事々務所長 小宮山克治  流山市長  秋元大吉郎
利根運河 東深井 流山市 千葉県