日光街道:日本橋から千住、草加、幸手、小山、宇都宮を経て日光・鉢石宿に至る。 日光街道の他に、日光(実際には今市まで)に至る街道として6つの日光脇街道があった。 1.日光御成街道(岩城街道) 江戸城大手門を出て、筋違見付けで中山道に合流し、しばらく中山道をたどったあと、本郷追分でわかれ、ひとり本郷通り−北本通り(国道122号線)を北上し、赤羽岩淵で荒川をわたって川口宿にはいり、鳩ヶ谷、大門、岩槻、幸手を経て日光街道に乗った。本郷追分から幸手までを「御成道」あるいは「御成街道」とよぶ。岩槻城に通じる道であるため岩槻街道ともよばれた。 2.壬生通(日光西街道) 日光街道の小山の先、喜沢で西に折れて壬生を通り楡木で例幣使街道に合流する。芭蕉は室の八島によるためにこの街道を選んだ。 3.日光例幣使(れいへいし)街道 家康を祭る東照社が宮となった翌々年の正保4年(1647)から慶応3年(1867)まで、日光に例幣使(朝廷が毎年神への捧げ物−幣帛(へいはく)−を奉献するための勅使)が派遣された。一行は50人ほどの行列を組んで4月1日に京都を出発し、中山道を進んで、倉賀野(群馬県高崎市)から例幣使街道に入った。復路は日光街道−東海道が使われた。楡木で壬生通りと合流し、今市で日光街道に合流する。 4.日光東往還 水戸街道の向小金新田を起点に、山崎から関宿を通り利根川を渡って境から結城を経て雀宮で正式の日光街道に合流する。宿場は山崎、中里、関宿、境、谷貝、仁連、諸川、武井、結城、多功と10ヶ所設けられた。 5.会津西街道 会津西街道は、会津藩が藩用道路として整備した街道で、会津若松、大町札の辻から大内峠、山王峠を越えて三依水生植物園、鬼怒川温泉地帯を通り、藤原、大原、高徳、大桑を経て今市に至る。約130kmの街道で現在の国道121号にあたる。別名「南山通り」ともいう。今市−大桑間には杉の二重並木が残る。また、10の宿駅の1つ大内(福島県下郷町)には、当時の家並みや屋敷割がそのまま残っており、国の伝統的建造物群保存地区に選定され、観光地として名高い。 6.日光北街道 日光北街道は、奥州街道の大田原から分かれ、矢板−玉生−船生−(鬼怒川)−大渡−轟を経て、今市で日光街道に合流する。奥州から日光に入るに、宇都宮経由に比べかなりの近道となった。芭蕉は日光から奥州街道に戻るのに、大渡からこの日光北街道に入って大田原を目指した。 |
徳川家康公江戸開府に際し御伝馬役支配であった馬込勘解由が名主としてこの地に住し以後大伝馬町と称された。 |
江戸名所図絵や広重の錦絵に画かれて著名なこの地は将軍御成道として繁華な本街道であり木綿問屋が軒を連ねて殷賑を極めた。 |
![]() |
![]() |
![]() |
![]() 6月のある朝、花菖蒲の写真を撮りたくてやってくると、大勢の人だかりだ。6時半になると突如ラジオの音楽が放送され、朝もやの土手でラジオ体操が始まった。 なお、葛西用水は相模町で3方に分流され、元荒川は用水の一部を引き継いで、中島で中川に流れ込む。 |