野田市の北部と南部は、江戸時代の初期に庄内牧とよぱれる、野馬の放牧場となっていました。庄内牧は徳川幕府により設置され、その目的は、幕府御用馬の生産や、輸送、農耕用の馬として民間の需要にこたえるものでした。 牧に隣接した村を「野付村」といい、村々の農民には野馬法度という規則が定められ、それには、@牧の外に出た馬を安全に保護すること、A年一度の野馬捕りには人足を出すこと、B風雨などで壊れた野馬土手を修復するなどの義務がおわされました。しかし、その反面、野馬を民間に払い下げる際に、付近の村ぴとは有利に入手できたようです。 江戸時代中期になると、庄内牧はその全域が新田開発の対象地となり消滅しました。しかし、現在においても、この付近にのこる野馬土手によって当時の面影をしのぶことができます。あるいは、市内の地名にみられる、牧−真木ノ地(清水)、槙の内(尾崎)、込−上野馬込(花井新田)、苅込(野田、舶形)なども庄内牧に由来する歴史の産物です。
この土手は、横内・中根・堤根・花井新田へと、日光街道に沿ってほぼ真っすぐにつながっています。庁舎前では道路の東側に、花井新田付近では西側に見ることかできますが、本来は通路の両側にあって、道路の中を往来する野馬が田畑に暴れ込まないようにと、土手と堀を造ったもので、野馬除土塁と考えられています。  庁舎前の土手を発掘調査した結果、土手の裾から堀の縁までの幅約6m50cm、堀の底から土手の頂上までの高さ約2m75cmという規模のものであることが分りました。また、堀の断面形は漏斗形で、現在の地表面からの堀の深さは約1m70cmでした。野田市内に現存するものとしては、保存状態も良好で、比較的長く連続している様子を見ることかできます。 
野馬土手 鶴奉 野田市 千葉県