雲出 


次の交差点で阿漕町から八幡町津に入る。左手に瓦屋根の門と黒板塀がある。中は空き地で、奥に「薬師如来庵跡地」を記す石碑が、平成18年に焼失した、と記している。

「八幡神社」社号標を通りすぎ、左手の
長谷川宅は黒漆喰壁のうだつを上げ、上品な大垂を挟んで上下の階には様々な種類の格子を設えた見事な佇まいを見せている。

右手、民家の前に
「明治天皇八幡町御小休所址」の石碑が建っていた。

小さな鍵の手の角に隠れるように「八幡神社」の社標が立つ。ここから藤枝町に入る。このあたりは昔
遊郭があった。町並みからはそれを窺うことはできないが、すぐ先にその手がかりがあった。

道は小川の前で二つに分かれる。水路に沿って左に入って行く道が
香良洲(からす)道で、香良洲神社への参道であった。「お伊勢詣らば可良須に詣れ、可良須詣らな片参宮」といわれ、伊勢参宮の際には寄っていくのがきまりだったという。小川にかかる思案橋を前に、参宮者は香良洲に詣でようか、そのまま行こうか思案した。香良洲に参詣しない旅人はここから遥拝した、という。橋の欄干の下側面には、松、扇、梅が浮彫されていて小橋にしては情緒ある造りである。親柱には「山半」「文政六年(1823)」と刻まれている。山半は藤枝にあった遊郭の名前である。

思案橋をこえて垂水に入る。国道23号とJR紀勢本線踏切を渡る。道はほそくなって右から寛永9年(1632)以前の古道が合流してくる。信号に「交互通行式」と書かれ、時間制一方通行のシステムになっている。

交互通行がおわる交差点角に「大日如来出現所香水道是従四丁」と書かれた
道標があり、短い石段をあがると成就寺がある。西行法師ゆかりの「さる稚児桜」が満開だった。

昔、西行法師がお伊勢参りの途中、ここ垂水の成就寺に立ち寄った時、境内で一人遊んでいた子供が西行法師の姿に気づくと側の桜の木にスルスルと登り、高い木に腰掛けた。そのあまりの見事さに西行法師が「さるちごとみるより早く木にのぼり」と上の句を口ずさんだ。すると木の上の子供がすかさず「犬のようなる法師来たれば」と下の句を返したという。その後この桜は「さる稚児桜」と呼ばれ成就寺の名木となった。今は孫の木になっている。

垂水の集落をいく。街道の名残の松を偲ばせる木立がある。

その先右手に「式内加良比之神社」と書かれた石標と明和元年(1764)の美しい銅製の常夜燈がある。

次ぎの十字路を右に入って行くと小さいながら清々しい
加良比之神社があった。「片樋宮」と刻まれた石標がある。垂仁天皇の時代、皇女倭姫命が天照大神を奉戴し、御遷座の時ここに神殿を建設し鎮座したが、宮中は水利不便であるため、樋を以って通したことから片樋宮と称した。

この辺りは中世から近世にかけて製塩が行われていた所で、現地区名藤方は藤潟と書かれていた。気のせいか、広々とした景色の中に潮風を感じる。浜まで1kmもない所を歩いている。

相川に架かる相川橋を渡ると高茶屋に入る。浄誓寺を右に見て次ぎの十字路を右に入った所、公園風の高台に
文政8年(1825)の常夜燈がある。近づこうと思ったら野生の猿が一匹こちらを睨んだままで去る気配がない。しかたなく鉄線の外側から記録写真を撮るにとどめた。

街道に戻る。この辺り高茶屋は津宿と雲津宿の中間にあたり、桜茶屋と呼ばれる
立場茶屋があった。昭和20年頃まで茶店が数軒残っていたという。

天神橋を渡ってすぐ右手称念寺前に十社森常夜燈と薬師堂があり、石段の途中にも小さな常夜燈がある。十社森とはすぐ先にある高茶屋神社のこと。

高茶屋神社の鳥居前に文久3年(1863)建立、「十三社」と刻まれた常夜燈がある。高茶屋神社は十社の森と称され、街道の勅使休泊所として使われた。

街道の両側は瓦をのせた堅固な塀をめぐらせ松の庭木がのぞく重厚な家が建ち並ぶ屋敷町の景観を呈している。 

国道165号をくぐり、JR紀勢本線の高茶屋踏切を渡り旧道の延長線に戻る。約2kmにわたる長い高茶屋地区を出てここから雲出島貫町に入る。街

道風景は一変し、のどかな田園が広がる中を進んで島貫集落に入っていく。左手に「史蹟 明治天皇島貫御小休所阯」と書かれた碑がある。明治期まで
雲出宿本陣を勤めた柏屋があった。

左の小路を入っていくと槙の大木とその根元に山ノ神2基がある。
その先左手にと刻まれた道標がある。

道は雲出川の堤防に突き当る。津市と松阪市を分ける雲出川はまた北勢と南勢の境をなし、南北朝の時代には南朝と北朝の境界になったため橋は架られず、
小野古江の渡しと呼ばれる船渡しによった。

堤防下の道を橋に向う右手に一軒の廃屋と石標があり、その奥空き地には三十三箇所観世音分身が整然と安置されている一見異様な空間があった。
毘沙門堂があった境内である。

その一角に
「島貫の松」と書かれた石標が立っている。根回り2.6mもある大木で出雲川の渡し場にあって旅人の目を和ませていたというが、伊勢湾台風で枯れてしまった。

現在の雲出橋の北詰に、天保5年(1835)の常夜燈が建ち、そばにある説明板が雲出宿を詳しく案内していた。島貫の松も毘沙門堂跡も柏屋本陣も渡し場のことも、ここまできて始めて分かった次第である。

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松阪 

橋をわたると右手に
「小野古江渡趾(おののふるえのわたりあと)」の石碑が、左手には寛政12年(1800)の常夜燈がある。昭和19年東南海地震で崩壊し、再建された。

堤防を下流にすこしいったところに旧道が復活している。先程の常夜燈は、昔はここにあった。小野江町(旧須川村)の家並は一軒ごとに屋号札が懸けられ見事な格子造りのオンパレードである。須川村には渡海屋、樽屋など六軒の旅籠があり、雲出川が増水した時には、旅人が多く逗留した。今も煙草屋、本家亀屋、ふろ屋といった屋号にであう。

その中に
松浦武四郎の生家があった。妻入りで立派な大垂(説明板では「がんぎ」とよんでいる)を設けた総板張りの旧家である。街道に面して駒寄せ、門、黒板塀がつづく。松浦家は肥前松浦水軍の出で、南北朝時代にここに移住してきた。武四郎は蝦夷地から択捉島や樺太まで探検した人物で、伊勢街道をゆくおかげ参りの旅人に刺激されて探検家になったという。

金剛寺十字路に文政7年(1824)の常夜燈がある。

肥留町にはいると家並みは新しくなるが、それでも源之助、猿屋といった屋号札が見られた。
左手民家の庭に「享保3年」と読める自然石碑を見つけた。刻字は読めない。

家並みが途切れ、県道697号を横断し水路に沿って小村縄手を行くと、やがて
月本追分にさしかかる。右に行くのは、伊賀越え奈良街道である。伊賀と伊勢街道を結ぶ伊賀街道の脇道として古くから利用された。右角に伊勢街道最大の道標がある。天保13年(1842)の建立で、四面に「月本おひわけ」「右いがご江なら道」「右さんぐうみち」「左やまと七在所順道」と刻まれている。傍に道標を兼ねた小ぶりの変形宮立形燈籠があり、竿石に「右 大和七在所道 ならはせこうやいがごゑ道」と刻まれている。大和七在所がどこを意味するのか、後から調べてもわからなかった。

十字路の左角には大きな
常夜燈と案内板がある。月本は当時の地名で、月読社のもとの集落という意味と伝わる。ここには立場茶屋があり、旅人の休憩所として賑わっていた。道標の後ろに建つ家は常夜灯の寄進者の一人、「角屋」であろう。

旧道が水路と合流した先の丁字路は香良洲道との合流点で、角に「右からす道」と刻まれた道標がある。

香良洲道を少し入った所に天保3年(1832)の常夜燈と大正8年建立の
勅使塚がある。源氏追討の祈願のために伊勢神宮に向かった勅使大中臣定隆が壱志駅家で急死し埋葬された場所だという。

その先、変則十字路を左折する所に、「左さんぐう道」「右津みち」と刻まれた道標と、常夜燈、山ノ神が並んでいる。第61回神宮遷宮(1993年)を記念して地元の人が建てたものである。ちなみに62回遷宮が20年後の来年2013年に行われる。

道はすぐ先の十字路を右折するが、その角に、竿長の常夜燈、「右さんぐう道」の道標がある。その先にも「左からす道」と刻まれた小さな道標がある。このあたり、「こわめし」「でんがく」「さざえのつぼ焼き」などを売る曽原茶屋があった。

その先で国道23号バイパスのガードをくぐる。左手に
小津一里塚跡の碑がある。碑は昭和54年に立てられた新しいもので、伊勢街道ではじめての一里塚跡である。簡単な解説板でも欲しいところだ。

JR参宮線六軒駅に通じる丁字路に竿長の
常夜燈と道標がある。道標には「右松阪及山田道」「左津及香良洲道」と刻まれている。常夜灯は明治45年、道標は大正3年の建立である。鉄道参宮線の開通を記念して建立されたようで、鉄道ができても六軒駅で降りてここから伊勢街道を歩いて参宮した旅人がいた証となっている。

街道は県道580号を横断して
三渡(みわたり)川を渡る。中世に渡し口が三ヶ所あったため三渡の名が付いた。

橋を渡った所が
初瀬街道追分で、右手に大きな道標があり、「い加ごへ追分 六けん茶や」「右いせみち 六軒茶屋」「大和七在所順道」「やまとめぐり加うや道」と書かれている。「大和七在所」は月本追分道標にも記されていた場所である。当時庶民には理解されていた所であろう。

左手には文政元年(1818)の常夜燈がある。台石に「大坂」「せ」などの文字が読める。大阪の商人が二反の田を付けて寄進したという。

集落入り口左手の空き地に
「屋号 磯部屋」と書かれた木札が立っている。かっての旅籠で多数の参宮道者の講看板を保管していたらしい。

ここから六軒町と市場庄町にかけて、東海道関宿にも匹敵するすばらしい家並みが続いている。切妻・連子格子造りに庇を大垂で隠した古い家並には屋号札が掛けられて、昔の街道風情が感じられる。

切妻造り平入りの
「大阪屋」、一方では妻入りの「大清」と、対照をなして建つ。ともに総板壁、格子造りで、関宿に典型な、漆喰壁に虫小窓の京風町屋つくりとは異なった清楚なたたずまいである。この地域に特有の大垂がいっそう奥ゆかしさを醸している。

藤音
天満屋と屋号を探しながら家並み鑑賞が続く。注連飾りをつけた屋号「北出」は市場庄集落の北端を意味するそうで、もう一方の「南出」も後ほど見ることになる。

赤錆びたトタンで覆われた土蔵には「米銀(よねぎん)跡」の屋号札が掛かっている。米問屋の蔵跡であろうか。

屋号「道十」の堂々とした切妻入り住宅向かいの路地角に宝暦元年(1751)の「忘井之道」と刻まれた道標がある。ここを100m程入って行くと、忘れ井と山ノ神がある。井戸は埋まっていて石が置いてあるだけのものである。そばの自然石に斎王群行に従った女官の歌が刻まれている。

  別れゆく都のかたの恋しきにいざ結びみむ忘井の水


左手に建つ市場庄公会堂は大正7年築の建物で、玄関屋根は、その中程が盛り上がり滑らかな曲線を持つ勾配をつけた起(むく)り屋根の見本を見せている。

右手に、
「南出」を確認して、魅力的な市場庄集落を出る。

近鉄山田線のガードをくぐったところに「格子戸の町並み案内 伊勢街道 久米 市場庄 六軒」と書かれた案内板が立っている。ここまでの六軒、市場庄につづき久米町にも格子戸の町並みを期待させる。参宮者の立場からすればこれが六軒の入り口(北端)にあればよかったと思う。

道は丁字路で左折する。そこに庚申堂、嘉永5年(1852)の竿長常夜燈、行者堂、山ノ神、いおちかんのん道標がずらりと集められて並んでいる。

すぐに右折して久米の武家屋敷町風情の凛々しい町並みを歩いていくと、左に白壁黒板塀をめぐらせた
舟木家の屋敷が現れる。南端の小路を覗くとなまこ壁の立派な長屋門があった。鉄鋲をつけた門扉には笑門の注連飾りが掛けられている。門の東側にも通り面と同じ塀が続いている。屋敷の四方を囲んでいるのだろう。この長屋門は、寛政6年(1794)に建てられたものだという。舟木家は南北朝時代から続く旧家だそうだ。

道は近鉄山田線松ヶ崎駅近くで鍵形におれていく。

県道756号手前左手に
古川水神があり、火袋から下がない万延2年(1861)の常夜燈がある。入母屋造りの美しい笠である。

百々川を渡った左手に嘉永5年(1852)の常夜燈がある。

JR紀勢本線の踏切を渡った右手に
薬師寺がある。本堂は承応2年築で、簡素ながら古さを感じさせる。同じく古い仁王門の横には築地塀の一部が残っていた。境内の芭蕉句碑は元禄7年(1694)51歳芭蕉晩年の作である。この土地とは関係ないようだ。.


いよいよ松阪市街地に入ってきた。うだつ、大垂、格子造りの町屋が残る家並みははっきりわかる
ノコギリ状に連なっている。鍵形をすぎると川井町である。松阪宿の北の入口で、多くの茶屋や娼家があって賑わったところである。町名標識にもそのことが記されている。

「宝暦咄し」には「小松屋といふ遊女や」を記し、「常木屋芝居始メ・・・大当り」というように、本川井町辺りは賑やかな遊所であった。

県道59号を横断して県道24号をまっすぐに進む。西町の大橋手前左手に昔の面影を残す
須川屋がある。うだつを上げ土壁に虫小窓をあしらった町屋建築で金物を商っている。

阪内川に架かる松阪大橋をわたり松阪宿に入っていく。すぐ左側に江戸時代、松阪の御三家の一つに数えられた紙問屋、小津清左衛門家の邸宅が
松阪商人の館として公開されている。この日は宣長祭りの日とあって入場無料だった。うだつ、虫小窓、犬矢来、連子格子に加えこの地方特有の大垂を備えて申し分ない商家の威容である。小津家は、天保年間の全国長者番付に同じ松坂の三井、大和屋(長井家)、長谷川家と並んで掲載された豪商であった。中に入ると大きな土間が印象的だった。小津家は現在も日本橋から奥州街道に入ったばかりの大伝馬町1丁目で、紙卸業を中心として活躍している。

その先左手の白い壁に囲まれた立派な門は、
越後屋、三越の祖三井高利の生家跡である。鉄柵が設けられ公開されていない。邸内には、初代三井高安と二代高俊の墓碑などが残っているという。

大通りを右折して一筋西の魚町へ移動する。途中にある松阪もめん手織りセンターは三井家創業の祖、三井高利が最初に店を構えたところである。

魚町に入ると、まるで江戸時代がそのまま居座ったような町並みがある。北に向かって左手には松阪御三家の一つ
長谷川家住宅である。創業の祖とされる3代政幸は、延宝3年(1675)30歳で独立し、「丹波屋次郎兵衛」を名乗って江戸大伝馬町1丁目で木綿仲買商を始めた。小津家も出店した大伝馬町1丁目には松阪木綿を商う店が集中していた。塀越しに見える松などの庭木が邸内の広さを物語っているようである。

その北側に隣接する建物は本居宣長の親友で医者だった
小泉見庵が住んでいた家である。

その向かいが本居宣長の旧宅跡である。宣長は、12才から72才で生涯を閉じるまで、この家で過ごした。宣長の旧宅「鈴屋(すずのや)」は松阪城内に移設されていて、ここには長男春庭の家と本居家の土蔵が保存されている。

「鈴屋」を追って
松阪城跡に寄る。松阪城は、近江国日野城から移ってきた蒲生氏郷が天正16年(1588)に築いたものである。石垣は近江国から穴太衆を呼び寄せて築かせた。穴太衆は高度な石積み技術を有する渡来人の末裔である。
松坂城は蒲生氏郷が会津の地を与えられた後、元和5年(1619)には紀州藩領となって、勢州(松坂・田丸・白子等)18万石を統括する城代が置かれてきた。

城内は桜祭りを兼ねた宣長まつりの最中で、はなやかな気分に満ち溢れていた。かっては三層の天守をはじめ金ノ間・月見・太鼓等の櫓がそびえていたが今は石垣が残るのみである。魚町から移設されてきた
本居宣長旧宅、鈴屋を訪ねる。2階が書斎で、宣長はここに36個の鈴を付けた緒を掛け、その音を楽しんだことから「鈴屋」の名がついた。

宣長まつりで、正午には城内で松坂クイーンが選ばれることになっているが未練を捨てて城を下りる。途中、高い石垣を背にして安永9年(1780)の
太神宮常夜燈が二基建つ。江戸干鰯(ほしか)問屋の寄進で、櫛田川の渡し場付近にあったものである。 

道をへだてて
御城番屋敷がある。生垣に囲まれた平屋の建物が延びている。数棟に分かれた家並みか、あるいは長大な長屋か判然としない。松阪城を警護していた紀州藩士の住居として文久3年(1863)に建てられたもので、国指定重要文化財になっている。

街道の本町交差点まで戻り、中町から日野町にかけての松坂宿中心街を歩いていく。
左手柳屋奉善は、天正3年(1575)創業の老舗菓子処である。

右手、松崎屋食堂から山作餅店にかけて
本陣があった。小さな標石がたってある。
 
同じく右側歩道を進んでいくと「馬問屋跡」、ついで日野町交差点近くに
新上屋跡の石柱がある。新上屋とは、宝暦13年(1763)5月25日、宣長(34歳)がここに宿泊した賀茂真淵(67歳)を訪ねて、国学の指導を受けた宿屋である。宣長のその後の人生を決定付けた二人の出会いは「松阪の一夜」と呼ばれる史実となった。

道向かいにこの界隈で唯一といってよい古い佇まいがあった。創業220年の老舗旅館
鯛屋旅館である。一、二階とも連子格子が美しい。

日野町交差点は
日野の追分といわれ、右に和歌山街道が出ていた。南西角に「右わかやま道 左さんぐう道」と深く刻まれた道標がある。松坂は紀州藩の藩領だったこともあって和歌山との往来が頻繁であり、街道は藩道として整備された。蛇足ながら和歌山側からはこの道を伊勢街道と呼ぶ。

蒲生氏郷が城下町を整備するとき、多くの商人、職人を日野から移り住ませた。同様の現象が奥州街道宇都宮にも見られる。そこでは宇都宮城初代城主となった蒲生氏郷の子、蒲生秀行が日野商人たちを連れてきたのだった。

氏郷が松坂から移った会津若松でも日野町が作られたが、「火の町」と読まれるのを嫌って、そこでは「甲賀町」に変更された。

交差点を過ぎると海岸線から離れているのに湊町がある。城下町建設の際、伊勢大湊から商人を誘致して形成された町である。その中の商人に廻船業者角谷七郎次郎がおり、家康から安南(ベトナム)貿易の許可を与えられ、御朱印旗を高々とかかげ海外貿易に活躍した。鎖国になって故国に帰ることなく生涯を終えた話は近江商人の西村太郎右衛門を思い起こさせる。

国道42号を左折して
龍泉寺に立ち寄る。龍泉寺は境内の一角にある愛宕神社の別当寺であった古刹である。周辺の愛宕町の地名はこの神社にちなむ。山門は、室町時代建立の薬医門で県指定文化財となっている。

街道に戻り少しいった右手に
小津安二郎青春館がある。彼は多感な青春時代の約10年間をこの土地で過ごした。ここで小津安二郎監督の作品が上映されているのかと思ったら、映画館は外観だけで、内は博物館的なもののようだ。

道は左からくる道と合流した後二股を右にとって細い旧道に入る。名古須川を渡って右手に閻魔堂と
信楽寺がある。山門前には天明5年(1785)の仏足石がある。左手に鬱蒼とした神戸神社の森をみて歩を進める。


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櫛田 

徳和坂を上った左手の土手に庚申塔がある。坂を下って金剛川を金剛橋で渡り、まっすぐな道を行く。金剛橋から獄門橋までの直線道を徳和畷と呼び、白酒を名物とする茶店が数軒立ち並んでいた。

獄門橋を渡った右手に常夜燈がある。文政12年(1829)の建立で、松坂城でみた常夜灯と同じく江戸の干鰯問屋の寄進によるものである。

道は県道756号の東側を併走して下村町集落を通り抜ける。JR紀勢本線線徳和駅の踏切を越え、水路に架かる加茂川橋の左手に天保2年(1836)の常夜燈がある。右手には、「片岡山大日如来是より三丁」と刻まれた小さな道標があった。

その先、左手の水路脇に明治13年建立の女人供養塔がある。読めないが多くの名前が細かく刻まれていた。すべて女性なのであろう。

上川西信号を過ぎた右手に小さな常夜燈と、「禁酒の神沖玉夫婦石」と書かれた石碑がある。なんでもこの石に酒をかけ、酒を預かって頂くようお祈りをすると禁酒が出来るとある。夫婦石というが一個しかなかったように思う。

右手、
八柱神社の鳥居脇に明和5年(1768)の常夜燈と青面金剛の石像を祀った庚申堂がある。

連子格子の家が残る上川町の町並みを進むうち、ついに伊勢神宮に近づいた気配を感ずるものに出会った。弘化3年(1846)建立の道標で、そこには
「従是外宮四里」と刻まれている。いわば外宮までの一里塚である。この先一里ごとに刻んでいってくれるのであろう。私の足ではまだ一日かかる。

豊原町に入ってきた。松坂と小俣の間の宿で櫛田宿として知られた。美しい連子格子の家を眺めながら歩いていくと右手に妻入り、白壁、虫籠窓の家がある。むかし「へんぱ餅」を売っていた
「おもん茶屋」の跡である。

左手の民家の玄関前に櫛田橋の親柱のようなものが置かれている。旧櫛田橋のものを貰い受けたのだろうか。普通の人にはできないことだ。

豊原南信号で県道701号を横切る。豊原本陣を勤めた奥田家がこの付近にあったといわれるが、その場所は確認できなかった。もしかすれば、櫛田橋の親柱があった家かな。

櫛田交差点を横切って道なりに進むと左手に赤い鳥居が並ぶ豊養稲荷大明神があり、その右側に式内大櫛神社と櫛田大市の石碑が並んで建っている。

左手に間口の広い切妻平入り、黒漆喰壁の二階に一階は格子造りの古い家がある。旧櫛田宿で古い家はこの一軒だけだった。

突き当りを左折して次の角を右折し櫛田川の堤防に突き当たる。堤防に上がる道との角に文政2年(1819)の道標があり、
「左さんくうみち」「右け加うみち」と深く刻まれている。ここに渡し場があった。

櫛田川は、春・冬の渇水期には仮橋が架けられ、夏・秋の増水期には舟で旅人を渡し、それぞれ橋銭、舟銭を徴収していた。櫛田川の名は、神宮に向う斎王が櫛を落としてしまい、流されたという故事に由来する。

櫛田橋を渡り左折してすぐ県道428号に降りていく。旧道復活点に大正3年の
距離標が立つ。松阪元標まで1里29町34間、宇治山田元標まで3里20町41間、津元標まで6里12町□8間と、詳しい。

早馬瀬神社に文化13年(1816)の道標がある。元は渡し場付近にあったものを移設したもので
「右けかう□□」「左さんくう□」と書かれている。対岸の渡し場跡にあった道標と同じ表記である。「左さんくう」とは伊勢方面、それに対し「右けかう」は松坂方面だが、けかうとはどのことか知らない。

かっては茶屋や旅籠屋が点在していたという稲木集落には切妻平入りの家が多く残っている。神宮に遠慮して切妻入りが多いという伊勢地方の風潮を気にしない家並みである。

漕代駅近くの街道左手に六字名号碑がある。文化14年(1817)の建立で、6文字は梵字で判読不能。

祓川手前の漕代駅に通じる道で松阪市をはなれて多気郡明和町に入る。
祓川は、古代の斎王群行の際ここでお祓いをして斎王宮に入ったことに由来する。江戸時代には、渇水期は仮板橋が架けられた、増水期は舟渡しだったこと、櫛田川と同様である。

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小俣 

一里道標「従是外宮三里」がやってきた。弘化4年(1847)の建立で、四里石柱よりも1年新しい。

竹川地区はかっての立場茶屋跡で駕籠屋の溜まり場、馬の取次ぎ場となっていたところである。魅力ある連子格子の家が見られる。特に背の高い板張
り二階建ての家が目を引いた。二階の軒下に瓦葺きの庇を付けて欄干を庇っている姿は妖艶で色香が漂ってくるほどである。一階は玄関の起り屋根が見えるだけで、立派な門塀で目隠しされている。塀の上部は黒漆喰壁で固め虫小窓を切っている珍しい意匠である。門の細やかな格子戸も澄ました風情である。なんだろう、この家は。

長い駒寄と千本格子、大垂の中二階町屋風の平入り建物も、美しい姿だ。

斎宮の町にやってきた。古代、天皇が即位する度に皇族の未婚女性の中から選ばれた斎王が伊勢に派遣されて伊勢神宮に仕えた。といっても平常は斎宮に滞在して、伊勢神宮に参宮したのは年に3回しかなかったという。斎王制度は天武3年(674)に始まり建武3年(1336)後醍醐天皇が廃止するまで約660年間の間に63人の斎王が選ばれた。それに随行した多数の女官の中には、望郷の涙に暮れたものも多かった。

斎宮駅北側に渡って斎宮跡と伝わる
「斎王の森」をたずねる。その途中の発掘跡地には斎宮を10分の1に縮小した全体像が再現されている。敷地全体を高床式の建物がいくつも配置され、当時の衣装をまとった人の姿も見られる。

街道にもどりすぐ先左手に
竹神社がある。垂仁天皇の時代、多気の連の祖先を祀る。多気郡、竹神社の名前の由来となった。本殿は白木の清楚な切妻屋根である。毎年6月に行われる「斎王まつり」の斎王行列がここから出発する。

その先左手、中町公民館の駐車場(元笛川地蔵院の空き地)に三棟の庚申堂とすらりとした
六地蔵石憧、そのそばに5基の小さな山ノ神石塔が並んでいる。六地蔵石憧は永正10年(1513)のもので、宝珠や笠や竿のあるもので、灯篭の火袋にあたる龕部(がんぶ)は六角形になっていてそれぞれの面に地蔵が刻まれている。美しい姿だ。

左手路地入り口に二基の道標がある。「斎王隆子女王御墓従是拾五丁」と刻まれた道標は天延2年(974)病気のため斎宮で亡くなった斎王隆子女王の墓への案内である。手前の道標には「斎宮旧蹟蛭澤之花園」と刻まれ、天然記念物どんど花(野生菖蒲)群生地への案内である。ともに斎王・斎宮にかかわる史跡らしい。

勝見交差点角に三基の小さな山神が並んでいる。

笛川を渡って上野集落に入る。左手に
安養寺がある。本瓦葺きの山門脇に地蔵と五輪塔がある。安養寺は、永仁5年(1297)の創建と伝えられる古刹で、江戸時代門前に明星茶屋が造られ、参宮客に湯茶の接待が行われたため人気を呼び、門前が大変賑わったという。境内奥に日本三霊水の一つと言われる「明星井(あけぼののい)」がある。この水で参宮客に「浄めの茶」の接待が行われた。

小川をわたると、妻入り・平入りの家が入り混じる明星集落に入る。街道は緩やかな上りにさしかかり、右に
「そうめん坂」と書かれた標柱が立つ。昔この辺りで参宮客相手にそうめんを売る店があった。

左手に板張りの
長屋門がある。その先にも白壁土蔵に平入りと妻入りの棟を続けた大きな旧家が建つ。

小川を渡ると新茶屋である。江戸時代、参宮客が増えるにつれ明星茶屋に続いてこの辺りにも茶屋が出来、新茶屋と呼ばれるようになった。

「新茶屋中」バス停付近左手に嘉永6年(1853)建立の
「従是二里外宮」道標が現れた。いよいよ伊勢街道も第4コーナーを廻った。

伊勢街道右手に総板張り妻入り造りの趣ある家が建つ。二階の欄干付出窓、大垂、一階の連子格子はいかにも旧茶屋場にふさわしいたたずまいである。

家並みがすこし途切れたころ、プロパンガス店の横に目立たない弘法大師堂がある。どういう由緒があるのか知らないが江戸時代から信仰を集めていたらしい。
この先で伊勢市に入る。

「明野庚申前」信号交差点角に庚申堂と二基の石塔がある。メインは
徳浄上人千日祈願の塔で天保7年(1836)に建立された。ここの庚申堂を霊場として修行していた徳浄上人は天保の大飢饉に見舞われた村民の窮状救済のため、伊勢両宮に千日間素足で日参したという。
 
道はやがて県道713号に突き当り丁字路を右に折れる。この三叉路には椎の大木があったことから「しいの辻」と呼ばれている。明野の家並みが途切れる辺り、左手に安永4年(1775)創業の
老舗「へんばや」がある。連子格子が美しい情緒ある町屋である。元は宮川の渡し付近で渡舟待ちの旅人を相手に茶店を商っていた。参宮客はここで駕籠や馬を降り渡しで伊勢に向かった。この茶店で客を降ろした馬が引き返したところから「へんば(返馬)餅」と呼ばれるようになったという。土産に買おうと思ったが、「生菓子なので今日中に召し上がってください」と言われ、あきらめた。店内に「三宝荒神」という馬具が展示してあった。

相合川を渡る。新出信号手前の二股で県道428号とわかれ右の旧道にはいる。新出(しんで)集落の入り口に
庚申堂がある。

外城田(ときた)川に架かる惣之橋を渡ると小俣町元町である。この橋は小俣宿の江戸寄りにあるので江戸橋とも呼ばれた。小俣小学校を通過し、県道428号に乗って参宮線宮川駅前通りを横切り、次の三叉路を左に折れる。この三叉路が「札の辻」で、角に
「紀州藩高札場」の石標がある。

ここで街道を離れて札の辻をそのまま直進し、踏切の向こうにある
離宮院跡に立ち寄る。延暦16年(797)、斎王が伊勢へ向かう際宿泊する離宮として造営され、一時は斎宮となった。承和6年(839)焼失し常斎宮は多気に戻ったが、離宮としては鎌倉時代まで続いた。わずかながら当時の土塁が現存している。敷地の一番奥に官舎神社があった。

札の辻まで戻り小俣宿に入っていく。すぐ先左手に黒壁虫籠窓の二階に一階を荒格子でそろえた町家がある。玄関に「笑門」の注連飾りがある。
奥山家で屋号を「丸吉」といい、かつては煙草入れ、薬等を商っていた。

その先の連子格子と大垂を備えた家には大きな
月当番の木札が垂直に掛けられ、ここの注連飾りも「笑門」であった。格子の縦線とあいまって生真面目なたたずまいに感じられる。

その先やや大きな鍵の手を経て東に進む。その先の十字路で紀州藩から鳥羽藩に入る。同一宿場内に藩境があるのは珍しい。 ブロック塀だけが残った空き地が本陣跡で、ここには「鳥羽藩本陣跡」と書かれた石柱があった。

小さな鍵形の最初の角に
「坂田の橋跡」という標柱があり、次の曲がり角には「鳥羽藩高札場跡」の標柱がある。小俣には藩ごとの高札場があった。住民にはややこしかったろう。

汁谷(しるたに)川に架かる宮古橋の左手袂に「参宮人見附」の石柱がある。ここが小俣宿の出口だった。

宮古橋を渡ると宮川の堤防に突き当たる。土手に上がると川に向かって石畳が続き
桜(宮川)の渡し場が再現されている。堤防の桜並木は満開であった。渡し場には常夜灯が鉄心をあらわにしてひん曲がっている。宮川の渡し場の案内碑は要領を得た解説文が記されていた。「へんば(返馬)餅」の由緒を裏付けるものである。おかげ参りの仕掛け人、御師の出迎え看板が林立していたとは、今で言う観光業者の歓迎幟であろう。臨場感があって面白い。

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山田 

橋を渡った土手の左側下に桜の渡しの解説と広重の浮世絵が描かれている。内容は小俣側の案内碑と同じだ。

道は急に狭くなった感じがして、沿道の家もそれにともなって間口がせまく込み合った家並みである。神域に近づいたせいなのか、圧倒的に妻入り家屋が目立つ。

二股を直進して右に曲がるところで左手に
道標がある。文5年(1822)の建立で、「すく外宮江 十三丁半、内宮江 壱里三十三丁半」「左 二見浦 二里十五丁」「右宮川渉場 六丁三十九間」と刻まれている。外宮まで1km余りだ。「従是外宮一里」の道標を見ていない気がするが、見逃したかな。

伊勢市街にはいってきた。県道37号にでて旧道は途絶える。少し東に移動して浦口交差点を右折し、二筋目を左に入った三叉路で旧道が復活する。その先に
筋向橋があった。今は暗渠になっている清川に架かっていた橋の欄干が残っている。ここは大和方面からの伊勢本街道と伊勢街道との合流点で、説明板には当時の賑わいを描いた浮世絵が載せられている。

ここで街道を離れて伊勢市立図書館の方へ寄り道する。街道筋である県道22号を伊勢本街道の方にはいって浦口南交差点を南にはいった左手にかさもり稲荷法住院があり、その境内に地蔵と並んで蘇鉄塚と呼ばれる
芭蕉句碑がある。寛政5年(1793)の芭蕉百年忌の折に門人達によって建立された。

   
門に入れば蘇鉄に蘭のにほひかな  松尾芭蕉

この句は元禄2年(1689)、芭蕉が岐阜の大垣で「奥の細道」の旅を終えた後伊勢に詣でた折に名高き蘇鉄があるという守栄院を訪ねて詠んだものである。守栄院は明治13(1880)年に廃寺となり、蘇鉄塚は法住院に移された。句碑だけが移され、蘇鉄は見なかった。

すこし行った左手に
「村山砦跡」と記された標柱があった。中世の時代に宇治と山田が戦った際、山田側の大将村山が築いた砦跡だという。村山とは神宮に仕える御師だったというから面白い。ちなみに外宮のある町が山田で、内宮は宇治にある。

信号交差点を左折して市立図書館前にある
二基の道標を撮る。一基は「右さんぐう道」、もう一基は「左斎宮道」と刻まれている。

道向かいの坂社境内にも道標があり、こちらは街道沿い有文堂近くにあったものが移設されたものである。「西 すぐ 右さんくう 左ふた見 道」
「南 京 江戸 大坂 ならはせ 大和めぐり 紀州くまの 道」と刻まれている。南方面の行き先がずいぶん欲張った書き方で、これではどこへでもいける道に思えてしまう。伊勢街道を筋向橋方面にもどる方向なら理解できるが、それは南方向ではなくむしろ北である。道標の南面からみて、そのまま前方にいけば筋向橋にでてそこから大和でも京大阪でも江戸でも好きなところに行けるといったことか。

街道に戻り、外宮に向かう。交差点右角に有文堂がある。この角に坂社に移された道標があったという。改めて道標の位置を考え直したが、すっきりしなかった。

左手に情緒ある家が現れた。市街地にはいってからはじめて見かける古い建物である。中庭にそびえる一本の松を取り囲んで板壁の蔵と重厚な切妻起り屋根の店舗と高塀が連なっている。塀は屋根つきでよくみるとそれも丸みを帯びた起り屋根である。店は漢方薬を売る
「小西万金丹薬舗」で、延宝4年(1676)創業という古さを誇っている。

NTTの辺りから旧道は北御門広場に向かって延びていたが今はなくなっており、車道をそのまま進んで「月よみの宮さんけい道」の道標が立つ交差点を右折。そのまま北御門口から外宮へ入っていった。

外宮は正式には豊受大神宮という。内宮に祀られている天照大神が食べる食事の守護神である豊受大神を祀っている。内宮鎮座の500年後に丹波の国から迎えられ、以来お米をはじめ衣食住の恵みを与る産業の守護神として崇敬されてきた。

火除橋を渡る。深い森に幾分荘厳な気分となる。斎館で御札をかって正宮に向かう。杉木立がそびえる中、高い板垣に囲まれて社殿がほとんど見えない。正面に鳥居があって、その中も外玉垣南御門にさえぎられ入り口は白い幌が下がり中を窺うことは出来なかった。その前で人々は礼拝をする。鳥居より中は撮影禁止になっていて守衛が必死に監視していた。内側の外玉垣越にようやく正殿を垣間見た。一人の一般男性が若い神職に引率されて外玉垣内をしずしずと進み正殿を正面にして祝詞を受け拝礼していた。そのような手段があるということだ。

正宮の奥に空き地が用意され来年の式年遷宮を控えて工事が行われていた。20年で社殿が傷むわけではなく、ずいぶんともったいない気がする。塗装していない白木を地中に埋め立てただけの掘立柱は老朽化が早いからだといわれるが、柱の基礎部分のためだけに社殿全体を建て替えるとは、合理性を超えた宗教の部分であろう。

江戸時代の庶民を駆り立てた熱情を追体験することなく、表参道を通って第一鳥居口に出てきた。

伊勢街道は外宮前交差点から県道32号をすすみ、岡本1丁目信号の手前で左の細い路地にはいる。角に小田橋への標柱が立っている。旧道はすぐに車道を横切って直進するが、その前に県道32号沿いにある
豊宮ア文庫跡をみていくことにした。

江戸時代に外宮の神主の学校と図書館を兼ねた施設があった場所で国指定史跡となっている。門と築地塀の内側に多くの桜の木が満開の花を競っていた。そのどれを指すのかしらないが、神宮の屋根に芽吹いた桜が移されたものといわれ、
お屋根桜と呼ばれている。

旧道にもどる。岡本1丁目交差点の東角地、霊祭講社の敷地内に
芭蕉句碑があった。何木塚と呼ばれ碑には「何の木の花とはしらすにほいかな」と刻まれている。貞享5年(1688)2月、笈の小文の旅で帰郷した芭蕉が伊勢に詣でた折に西行の歌「何事のおはしますかは知らねども添なさに涙こぼるる」を想い詠んだ句である。

静かな旧道を道なりに進んで近鉄鳥羽線のガードをくぐった先に
小田橋がある。橋の手前右手に絵図入りの案内板がある。江戸時代までは、本橋の横に小橋(仮屋橋)が架けられており、忌服の人や生理中の婦人は小橋を通ることになっていたという。外宮参拝を終えて内宮へ向かう古市街道の起点で、山田宿の西出口といえる。

小田橋を渡って、左手に設けられた小公園に「古市街道」の案内板がある。外宮と内宮を結ぶ旧街道のほぼ中間点にある古市は江戸の吉原・京の島原と並ぶ三大遊廓で知られ、全盛期には妓楼70軒、遊女1,000人を数えたという。特に油屋・備前屋・杉本屋が古市の三大妓楼として有名だった。内宮参拝を目前に遊んだ不届き者もいただろうが、多くは参拝を済ませた精進明けの楽しみだった。

奥のほうに弘化4年(1847)の
簀子橋道標がある。簀子橋は小田橋より一つ下流の橋。旧二見道沿いの簀子橋前に建立されたものが移設されてきた。「すぐ御さんぐう道」「すぐ二見 道」などと刻まれている。勢田川沿いに下っていくのが二見道で夫婦岩で知られる二見浦に至る。さんぐう道とは古市街道のことである。

その古市街道をすすむと切妻造り板張りの蔵と民家が並んでいる。その先上り坂が次第にきつくなっていく。尾部(おべ)坂という。右手民家の門脇に
「間の山お杉・お玉」と彫られた石柱がある。両宮の間の山ということで江戸時代、この辺りに三味線や胡弓をかき鳴らし、旅人に投銭を乞うことで有名だった芸人、お杉・お玉がいた。

坂は急で、若者でも自転車を押し上げて上って行く。峠近く、「テニスコート前」のバス停を過ぎた右手、金網の後ろに「備前屋跡」がある。油屋、杉本屋とともに古市の三大妓楼の一つとして有名だった。

古市歌舞伎の芝居跡の碑をみて、古市郵便局の先の路地を右にはいっていくと大林寺がある。江戸時代この寺の近くにあった遊郭油屋でおこった刃傷沙汰「油屋騒動」の中心人物、お紺と孫福斎の
比翼塚がある。比翼塚は通常相愛の二人に起こった悲劇を慰めるものである。油屋騒動はどちらかというと、若い医者の一人相撲であった。

寛政8年(1796)5月4日のこと、27歳の町
医者・孫福斎(まごふくいつき)という男が、古市随一の遊郭「油屋」でなじみの遊女お紺(16歳)がほかの座敷に呼ばれたことに嫉妬狂いして、数人を殺傷する事件となった。斉は後に自殺(27歳)。お紺は無事で、49才で病死したという。その事件が全国に知れて、油屋とお紺はますます有名になった。

その
油屋跡碑が近鉄鳥羽線をまたぐ切り通しの崖淵にある。後に見る麻吉とおなじく崖造りで戦前まで残っていたが空襲で焼失した。今は中華料理店が建つ。

左手に
長峰神社がある。社名は外宮と内宮を結ぶ長い尾根伝いの地形に由来している。主祭神天鈿女命は天照大神が天の岩屋にこもったとき天岩戸の前で舞をまったとされる女神で、伊勢音頭の遊女や古市歌舞伎の役者の祖神としてまつられてきた。いつしかこの地の産土神として、また芸能の神として今も広く信仰を集めている。白木の清楚な社である。

その先左手の小路を入って行くと、
旧旅籠「麻吉旅館」がある。寄棟懸崖造りの木造建築で国登録有形文化財になっている。芸妓30人を抱える大料理店で崖下から六層階競り上がり、それぞれの建物が複雑に渡り廊下でつながっている。

その中心を石段が縫っている。どこにいても三味線の音や嬌声がもれ聞こえてきたことであろう。このような建築物は今まで見たことがなかった。別世界の風情である。今でも現役の旅館として営業している。1泊2食で13,000円ほど。一度は泊まってみたいものだ。古市の面影を残す唯一の遺構である。

麻吉旅館の前には天保年間建立と思われる道標がある。「此おく つづらいし」「左 あさま 二見 へちか道」と刻まれている。石段を下りきった右手、
浅香つづら稲荷の祠前にある石である。麻吉の石段はつづら石道と呼ばれている。

桜色に染まった艶やかな麻吉旅館を後にして街道にもどる。すぐ左手に
寂照寺がある。徳川家康の孫で豊臣秀頼に嫁いだ千姫の菩提を弔うために延宝5年(1677)に建てられた。薬医門の山門は寛政9年(1797)の建立で国指定登録文化財である。

牛谷坂の上に2基の巨大な
常夜燈がある。大正3年に建立された新しいものだ。東京神田旭町富樫文治の寄進によるもので油屋旅館が管理者として刻されている。

牛谷坂を下りきった右手に
「宇治惣門跡」の標石がある。旧街道の牛谷坂と宇治の町並みとの間に設けられ俗に黒門と呼ばれ明治維新までここに番屋があった。
黒門橋を渡って県道32号に突き当たり左折する。

左に
猿田彦神社がある。天孫降臨の際道案内をつとめた猿田彦大神を祀る。境内にある佐瑠女(さるめ)神社に参る人のほうが多い気がした。佐瑠女とは天の岩戸前で踊ったアメノウズメノミコトのことで、「さるめ」という姓をもらった。猿女とも、戯(さ)る女ともいう。朝廷での芸能を担当する巫女として勤めた。

いよいよ内宮への最終参道に入る。県道32号で国道バイパスをこえ、右斜め前に出ているおはらい町通りに入る。両側には店が建ち並び、行き帰りの参詣客がそれぞれのペースで散策している。

ここまでくれば建物はすべて妻入りだろうという予測は外れて、平入り町屋も健在であった。

通行人の混み方は京都の京極、浅草の仲見世通りに匹敵するが、ここは歩行者天国になっていない。最徐行しながらも車が遠慮がちに通る。

右手に構える広大な屋敷は
神宮祭主職舎(旧慶光院客殿)である。秀吉が造らせた。公開されていない。
 
その先、郵便局や銀行も景観に溶け込んだ建て方にしている。

おはらい町通りの中ほどに十字路があり右におかげ横丁が広がっている。左にいけば五十鈴川に出られる。特にこの日は桜祭りで
五十鈴川堤防には多くの花見客が出ていた。

その角の一等地を創業宝永4年(1707)の老舗、
赤福本店が占める。もう不祥事は過去となり、できたばかりの赤福餅を買い求める客が列をなしていた。こんなに高い回転率を見ている限り売れ残りは考えられない。私も一箱買った。東京であけてみたら柔らかい10個の餅が箱の一方に寄り固まって一つの塊になっていた。

赤福の向かいは横丁棋院である。こんなところで時間をかけて碁を打つ人もいるのだ。

左手には小西萬金丹の店がある。松阪に本店がある。

右手
岩戸屋の看板娘はおたふくだ。彼女の祖先がアメノウズメノミコトといわれている。岩戸屋の名はそこからきている。

おはらい町通りを通り抜け明るい駐車場に出てきた。高さ7.44mの大鳥居がたち、その後ろに
宇治橋が架かる。宇治橋の両側の鳥居は再活用され、式年遷宮時に外の鳥居は桑名の七里の渡しへ、内の鳥居は東海道の関の追分の鳥居になるという。

長さ102m総檜造りの宇治橋を渡って右手にまわって
五十鈴川御手洗場で手を洗う。神楽殿の前を通り、30余りの石段を上って天照大御神を祀る正宮に参拝する。ここも幌のかけられた外玉垣南御門前で礼拝する。みな玉垣越に正殿を覗き込んでいる。おかげ参りのフィナーレとしては物足りない。

精進落としではないが私にはこの後一仕事が残っていた。芭蕉を追って
西行谷神照寺跡をたずねることである。芭蕉は常に西行を意識していた。西行コンプレックスといってもいい。 
野ざらし紀行で江戸から直接伊勢までやってきた芭蕉は両宮に参拝した後、ここにやってきて一句を詠んだ。

  
西行谷の麓に流あり。 をんなどもの芋をあらふを見るに、

   
芋洗ふ女西行ならば歌よまむ

彼はここを最後に故郷伊賀に帰った。私は日永より5日間の旅を終えてこれから東京に帰る。私のおかげ参りは道標と常夜灯と切妻起り屋根・大垂・連子格子の古い家並みと、山ノ神をたずねる旅であった。小学校6年の修学旅行で伊勢に来た感慨を思い起こすことができないでいる。あったとすれば、それは伊勢神宮でなく二見浦での感傷であったろう。

(2012年4月)

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