旧街道は磯山集落を抜けて国道23号に合流、中ノ川を渡って最初の東千里信号交差点で国道を離れ左手の近鉄名古屋線を横断して、再び旧道に入る。
伊勢街道は水路を渡った先の二股道を右折する。ここを左に行く道は巡礼道と呼ばれ、津宿入口の追分で再び伊勢街道に合流する。追分を伊勢街道に入った右手に甕釜冠地蔵堂がある。「かめかまかぶり」といい、露盤の代わりに瓦製の竃(かま)をおき、その上に宝珠の代わりに水甕が伏せてある。この地蔵堂は、参宮道者の無事安穏を祈願し、茶を接待した休憩所だったという。
東千里集落の中ほど左手丹羽家の前庭に丹羽君碑がある。丹羽家はこの辺り十五か村の大庄屋であった。
道は変則十字路を右折して近鉄千里駅踏切りを渡り、更に国道23号を越えてから左折する。県道645号に合流して田中川を大蔵橋で渡る。大蔵橋のたもとには道標があったが、河芸町中央公民館の庭に保存されている。
道は上野宿にはいっていく。連子格子の家が多く残り古い家並みが続く。表札の脇に注連飾りを残している民家が散見される。
小学校を過ぎた左手、上野公民館前に上野宿の案内板が建っている。上野の宿場町は上野藩主分部光嘉が城下町として整備した約2kmの町並みで、元和5年(1619)に分部氏が近江国の大溝(現在の滋賀県高島市)に転封となると上野城は廃城となり、上野は伊勢参宮街道の宿場として発展した。
右手に上野神社の社碑が現れ、その先に鳥居と常夜燈が建っている。神社は更に奥の高台にある。左手に天井の高い2階に黒漆喰塗りの虫籠窓と、一階の優美な千本格子を備えた旧家がある。屋号を江戸屋といった。
左手に「江姫」の幟が立つ小堂内に弘法井戸がある。井戸は四百年前、元和年間(1615〜1623)の頃からあったといわれ、伊勢参拝の人の喉を潤した。地元の共同井戸として利用されてきたが、現在は使用されていないようである。
この先曲尺手になっているあたりは中町といい、宿場の中心街で、西側に本陣、東側に高札場・問屋・脇本陣があった。
少しいくと道の右側に上野城跡の道標が建っていた。竹林の坂道を上がっていくと公園に整備された伊勢上野城跡に出る。伊勢上野城は、元亀元年(1570)信長の弟、信包が津城の仮城として築城した。お市と三姉妹がしばらく移り住んだ城でもある。文禄3年(1594)、信包が近江に移された後、分部光嘉が城主となったが、元和5年(1619)、分部光信のとき近江国大溝に移されて上野藩は廃藩となった。大河ドラマ「江姫」所縁の地として観光客が増えた。
街道に戻る。築地塀を残す民家があった。建物は新しい。この土塀も改築時の意匠か、それとも古くからの名残か、よくわからない。
右手に旧上野村道路元標跡を示す碑と説明板がある。現物は損傷が激しく中央公民館の中庭に保管されているという。「白子町へ壹里参拾壹町九間 上野村」、「距津市元標貳里拾六町四拾参間」、「距伊勢國桑名郡長島村管轄境捨壱里捨六町四捨五間」等と書かれているようだ。
左手に魅力ある建物が二軒続いている。手前は町屋で二階の窓と一階の連子格子に意匠が凝らされ、軒下にはこの地方特有の大垂(おおだれ)とよばれる垂直の庇を備えている。道路空間を侵さず雨よけを効率化する仕組みであると同時に軒下の装飾にも寄与した。
その隣りは兜屋根の洋風建物である。廃された郵便局か役所風の建物だ。
家並みを楽しみながら歩を進めていくうち街道は国道23号に接近してきた。街道はそのまま斜めに横切っていくが、ここで反対側にある中央公民館に寄ることにする。
中学校の裏側を一両編成の伊勢鉄道電車がのどかに走る。中央公民館内の中庭に木製四角柱の道路元標が保管され、裏庭に大蔵橋のたもとにあった道標が移設されていた。道標は「右 志ろこかいたう」「左 かんへちかみち」と刻まれてた元禄3年(1690)のものだ。
朝陽中学校前信号で国道をよこぎって街道に戻る。少し歩いた先の右手に地蔵堂があり、高山地蔵尊を祀るものである。このあたり上野城時代は処刑場であったといわれ、処刑された武士の霊を慰めるために建てられた。処刑場は城下/宿場町のはずれに設けられるのが常である。ここは上野宿の南はずれにあたる。
国道23号との合流地点の左手に少し入ったところに「ぢ神社」という小社がある。もとは地の神を祀っていたものと思われるが、今では痔の神となっているそうだ。
しばらく国道23号を行き、「上小川」バス停先で右の旧道に入って行く。
栗真山善行寺の鐘楼の下に道標がある。「是よりにしい志んでん辺」と書かれているらしい。道標は街道沿いにあったもので、「一身田(いしんでん)」は伊勢別街道の窪田宿がある町で、真宗高田本山専修寺で知られている。道標の足元にかわいい双体道祖神がいた。
近くにある観音寺前には文化3年(1806)建立の常夜燈がある。街道にもどる細い路地に面して、黒板塀の長屋門があった。
近鉄の踏切を渡った先左手に逆川神社がある
街道は栗真小川町から栗真中山町に入る。ここは分部光嘉が中山城を築いたところで、今でもそれに関係する地名が残るという。
右手に入っていった所に創業安政元年(1854)の寒紅梅酒造株式会社がある。「全国新酒鑑評会.金賞受賞蔵」の金文字看板が誇らしげに掲げられている。
街道にもどる。このあたりに高札場があった。
その先道は現伊勢別街道(県道410)に突き当たり一筋左に移って旧道に入り国道23号を横切っていく。
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街道に戻り、大門商店街を南へ進む。津宿の中心街で最盛期には80軒の旅籠があって賑わっていたが、今は古い家もなく閑散としている。左手の百五銀行が本陣兼問屋跡、ニューマツザカヤが脇本陣だったというが、いずれにも跡碑はない。ただ旧中之番町を示す旧町名石柱があるのみである。
信号交差点を横切ると、宿屋(しゅくや)町、地頭領町の旧町名石柱が設置されている。
ここで街道をはなれ三重会館前交差点で国道23号を横切って津城跡によっていくことにした。津城は、戦国時代に築かれた小さな城を、永禄12年(1569)織田信包が城郭を拡充し、慶長13年(1608)藤堂高虎が入城すると城を大改修し伊勢街道を移して城下町を整備した。
現在残るのは一部の石垣と内堀のみである。西ノ丸跡である日本庭園入口には藩校有造館の入徳門が移設されている。
二ノ丸西口に設けられた伊賀口御門が伊賀街道の起点となる。現在の津市役所駐車場と津カトリック保育園が対角に向き合う信号交差点付近にあたる。
近くの高山神社をみて街道に戻る。
地頭領町をすぎ東丸之内交差点を右折する。交差点東側には「新魚町(しんぎょまち)」の旧町名石柱があった。西側の通りは旧分部町で別名「唐人の街」とよばれている。別に唐人の居住区だったわけではなく、津八幡宮の祭礼に分部町からは朝鮮通信使の風俗を真似た唐人踊りで参加したことに由来している。伊勢街道は朝鮮通信使の経路でもない。ただ分部町に朝鮮通信使の行列を見た人がいて、強烈な印象を受けて広めたらしい。
旧道は国道のひとすじ手前の通りを左折して岩田川に突き当たり、岩田橋を渡る。岩田橋を渡って、国道の左側歩道が旧道筋である。岩田交差点を渡ったところで国道23号と分かれて斜め左に入る。旧立合町を通って県道114号を斜めにわたり、五叉路交差点にでる。このあたりはえんま前と呼ばれ、立場になっていて蕎麦屋や茶店が賑わっていた。
左手に延命子安地蔵尊、閻魔堂、市杵島姫神社(通称弁財さん)が並んである。閻魔堂は、当時この辺りが町のはずれで、角町の守護として建てられた。市杵島姫神社境内には文化10年(1813)の常夜燈と戦災から神社を守ったという樹齢4〜500年のイチョウの大木がある。
五叉路を右におれて阿漕町に入る。ここから東に800mほどで伊勢湾阿漕浦に出る。関西弁で「えげつない」の意である阿漕の語源にかかわる伝説が伝わっている。昔、阿漕浦は神宮御用の禁漁区であった。そこに病気の母親をかかえた平治という漁夫がいて、病に効くという魚の矢柄(やがら)を密漁して、母親に食べさせていた。ある日平治と書いてある笠を浜に置き忘れたために役人に捕らえられて、平治は簀巻きにされて阿漕浦沖合いに投げ込まれた。孝行の美徳と密漁の悪徳が並存しているが、人民は平治に好意的である。
東海村の中世古道を歩いていたとき「阿漕浦」があった。その説明板には、津市の本家にならってここも禁漁になっているとあった。
阿漕町の狭い道沿いには、連子格子・大垂・うだつを備えた古い家が軒を連ね、風情ある景観を見せている。
その家並みの狭間に小さな神明神社があった。祭日なのか、その御堂に人が出入りしている。
右手に黒々とした板壁蔵がつづき、やがて赤レンガ煙突が見えてきた。明治20年創業の山二造酢である。その佇まいはすっかり阿漕の町並みに溶け込んでいる。