松浦武四郎誕生地 小野江町  松阪市 三重県
四日市の「日永の追分」で東海道と分かれて伊勢神宮ヘと続く伊勢街道に沿ってたたずむ。 伊勢街道に特有の妻入りづくり、格子窓の付く家で、軒には「がんぎ」と呼ばれるひさし(目隠しを兼ねる)が付く。 幕末の北方探検家で、北海道の名付け親といわれる松浦武四郎は、16歳までこの地で育ち、17歳から全国各地へと旅立ったが、武四郎にとっては生涯を通じてふるさとの我が家であった。 言い伝えでは築1 7 0年以上は経つといわれる生家の瓦屋根は、部分的に交換されてきたのか、瓦の色の違いに歴史を感じることができる。 松浦家の祖先は、肥前国松浦地方を本拠として活躍した水軍「松浦党」(まつらとう)の出で、南北朝時代に南朝方の武将北畠氏が伊勢国司として美杉村(生家の北を流れる雲出川の上流にある)にやって来る際、その家臣として従い、この地に住むようになったとされる。 江戸時代のこの地は、伊勢街道を重視した紀州和歌山藩の白子領となり、松浦家は和歌山藩の地士(郷士)として代々仕え、苗字・帯刀を許され、この地をまとめてきた。 裕福な家庭に生まれ、しかも四番目の男の子であった武四郎が旅を志したきっかけは、家の前を通るおかげ参りの旅人たちの姿であったとされる。 当時の日本の人口は約3千万人であったが、文政13年のおかげ参りは、たった一年で約500万人の人びとが全国各地から押し寄せるという、今では想像できないほどのにぎわいであった。 このあたりには6軒の旅寵が営まれ、雨が降り、川が増水すれば、雲出川を渡ることができない多くの旅人が泊まり、武四郎もいろいろな話を聞き、旅へのあこがれを強くしたものと思われる。