姫街道



見付-市野気賀三ヶ日崇山御油

いこいの広場
日本紀行



東海道は今切の渡しで浜名湖を渡るとその先に出女の厳しい取締りで知られる新居関が待ち受けていた。渡しと関所という二つの障害は特に女性にとって不人気で、古くから浜名湖の北側の山手を迂回する道が模索された。この脇街道を俗に「姫街道」と呼ぶ。東海道から分岐する地点が三か所あり、見付を起点とする池田道、天竜川を渡った安間から北上する本坂通、そして浜松宿から分岐して元追分で本坂通と合流する浜松道である。

最も東から分岐する池田道は最初の宿場である市野宿の手前で本坂通と合流し、さらに元追分で浜松道と合流して気賀宿に向かう。二つの峠を越えて三河の御油宿で再び東海道にもどるまで、60km余りの東海道脇往還である。



見付 


見付宿の西端で東海道が直角に南に方向を変える点で、東海道をそのまま直進する形で姫街道が分岐する。入り口に「姫街道」の看板がつつましく立てかけられている。左手に古い白壁の蔵をみてゆるい坂を上がっていくと秋葉常夜灯が建つ二股で街道は右の上がり坂を取る。

坂を上がりきったところ右手歩道に「旧一本松」の石碑がある。平成3年に見付公民館運営協議会が設置したものだが、由緒書きなどはない。右手の緑地は兜塚公園で、古墳があるようだ。

国道1号と合流したのち、磐田警察署西交差点の先の一言(ひとこと)歩道橋で再び国道と分かれて右斜めの旧道に入っていく。 細道を挟む家並みの中ほど、秋葉堂がある付近に立場があった。道は一言坂を下って丁字路に付きあたり、右にまがったところに「一言坂戦跡」と題した案内板が立っている。三箇野川の戦いで武田軍に敗れた徳川軍は、浜松城を目指して敗走したが、一言坂で追いつかれ再び合戦となった。この一言坂の戦いで徳川軍を救ったのが家康重臣の本多平八郎忠勝だった。

丁字路を左にいった国道1号への出口にも「一言坂の戦跡」の石碑と「東海道と歴史の道」の案内板がある。

姫街道にもどり、一言坂を下りきったところに「池田近道(姫街道)」と書かれた札が立っている。振り返ると下ってきた一言坂の北側の森から抜けてきたような草道が延びている。いかにも旧道らしい道であるが、遡って追及することはしなかった。見付を起点とし本坂通と合流するまでの姫街道は「池田(近)道」と呼ばれた。東海道は見付宿をでると南に大きく迂回するような道のりを経て長森から結局池田の渡し場まで北上していた。それに対して見付宿から直接ほぼ一本道で池田に至る道は確かに近道であった。

道は二股を右にとって水路をこえ、十字路を右折して広い車道を北西に向かい五差路を直進して、次の信号六差路で対角線上に北西にのびる細い道に入る。集落の真ん中にある十字路を左折し、突当りを左折・右折して皆川陣屋門を移したという知恩斎山門の前を通り過ぎる。

この後旧道の道筋は失われ、広々とした田園に直線的に整備された農道をたどることになる。知恩斎山門の西側にあたる農道をまっすぐ西に進み、道なりに弥藤太島地区を通り抜けると、豊田交番の南側で広い車道に出る。

車道を右折して国道1号磐田バイパスを潜り、その先の信号交差点を左折する。新造形創造館西側の用水路脇に「池田近道(姫街道)」標識が立っている。智恩斎の西側で消失した旧道がここで復活している。

水路沿いの旧道はすぐに左斜めに折れて上新屋集落の中を進む。十字路にすらりとした秋葉神社御神燈が建っている。

その先左手のポケットパークに、謡曲「熊野」からの熊野(ゆや)と平宗盛の逢瀬の場が描かれたモニュメントがある。

ここから北西におよそ1kmいったところの行興寺に池田庄の庄司の娘、熊野とその母の墓がある。都人と地方の長者の娘や宿場の遊女との恋は貴人の帰京とともに悲恋に終わる例が多いなか、熊野は宗盛とともに京に上がった。
行興寺には国指定天然記念物の藤が見事である。折しも藤祭りが開催中で、やや盛りを過ぎた藤の花が境内一杯に長い房を垂らしていた。

行興寺の前の道を西にたどると天竜川に突き当たる。ここに池田の渡しがあった。池田の渡船は延長5年(927)頃からあり、天正元年(1573)には一言坂の戦いで敗走する徳川家康を池田の船頭が助けた功績により池田船方十人衆に御朱印状が与えられ天竜川の渡船権利を得た。渡船場は南から下横町・中横町・上横町の3カ所があり、川の水量により使い分けられていた。堤防に天竜川渡船場跡の碑が建っている。

姫街道は対岸の西渡船場から北西へ進み、市野宿手前の下石田で本坂通姫街道と合流していたが、その道筋は失われてしまった。池田近道の旅はここまでとし、ここからは旧東海道に出て、安間を起点とする本坂通を歩くことにする。池田集落を南に通り抜け国道1号の新天竜川橋を渡る。

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市野 

橋を渡り終え、一旦右へおりてバイパスをくぐって南側の土手に出る。土手の茂みの中に明治天皇玉座迹の石碑があり、その先に舟橋と木橋跡の標柱が二本並んでいる。土手を降りたところに六所神社が、その前に旧東海道の標柱と中野町道路元標がある。そこから旧街道は西にまっすぐ延びていく。

左手に下田街道で覚えた伊豆石蔵があった。斜交葉理と言われる斜めの模様が特徴の伊豆石で造られている。瓦に刻まれた屋号から、この蔵の所有者は掛塚(磐田市天竜川河口近く)の廻船問屋であると言われる。

松井禅寺の道向かいにかやんば高札場跡の標識がある。かつての萱場(かやんば)村で、その高札場がここにあった。

やがて右手に大きな旧家が現れる。白壁板塀をめぐらせ、内側に数本の主屋の屋根をも越さんばかりの黒松がそびえたっている。先ほど土手でみた明治天皇玉座迹碑の場所で天皇に謁見した金原明善の生家である。金原明善は、この地の名主の家に生まれた、明治・大正期の実業家である。私財を投じて天竜川の治水に生涯を賭けた。

県道312号との合流点手前の丁字路が第二の姫街道本坂通の起点である。かってはここに「鳳来寺道」と刻まれた道標が建っていたが今は天竜公民館の前庭に移されている。

丁字路にはいって北に向かって歩き始める。県道を横断し国道1号をわたり高速道路のガード下を潜った右手の了解公園は旧名主安間家跡である。

柏木橋信号交差点で県道65号を斜めに横断して県道314号を進む。

下石田中信号の先左手角に「半僧坊道五里十一丁」と刻まれた道標がある。半増坊道標はこれからも度々目にすることになる。

すぐ先に大正時代建立の常夜灯が建つ。

下石田北信号交差点で街道は県道261号となり、この先二つ目の十字路辺りで右から池田近道が合流してくる。標識等はない。

街道は左にカーブして安間川を渡り、五差路を直進して次の変則十字路を左折する。ここが市野宿の東の枡形跡である。市野宿は江戸時代中頃まで大名や旗本の往来も多く、本坂通の宿場町として栄えたが、浜松宿からの姫街道(浜松道)が整備されると次第にさびれていった。宿場の名残は「東宿」、「中宿」、「新丁」などの小字名として残っている他、東西の枡形が残っている。市野宿には本陣(斉藤本陣)が一箇所置かれていたが、現存しない。

左手に古い趣を残した板壁の料理旅館、熊谷館がわずかに宿場町の面影をとどめていた。

県道45号の市野交差点をわたった右手の奥に大きな伊豆石蔵造りの建物が目をひく。入口に市野宿の案内板が立っている。さては本陣跡かと思って蔵に近づくと、花に水をやっていた夫人が話しかけてきた。本陣ではなく、当地で織布業を営んでいた商家であった。ここよりすこし東にあった屋敷を徐々に処分し、蔵だけ残してここに移転してきたという。地面を1mほど削り、蔵全体を移動させたそうで、家が建つほどの費用がかかったとか。二階部分は居住空間で本人が住んでおられる。「資料をあげましょう」と、静岡県建築士会西部ブロックまちづくり委員会がまとめた「伊豆石の蔵調査報告」をもらった。そこには中野町でみた石蔵も載せられていた。

街道はその先で県道261号と交差する。ここが西の枡形跡で、左折して右斜めの細道にはいり、すぐ県道261号にでて右折していく。

右手に熊野神社がある。境内には経塚の他、延享3年(1746)の立派な宝篋印塔がある。

その先街道は「八丁とうも」と呼ばれるまっすぐな畷道を進んで、市野GCを過ぎたところで右に大きく曲がっていく。

長福寺のすぐ先左手に日本橋から65番目の小池一里塚跡がある。

街道(県道261号)は一里塚の先で左に曲がり、五差路を二度渡って遠州鉄道の踏切を渡る。街道の右手に「姫街道」「旧秋葉街道」の標識が、左手にも古そうな道標の後ろに平成25年3月に設置されたばかりの新しい標識がある。石道標は秋葉街道に絡むものだろうと推測するが刻字を読むことはできなかった。

馬込大橋北信号五叉路で国道152号を横断、右にカーブして馬込川に向かう途中左手に、「馬乗り場跡碑」、「姫街道」、「半僧坊道」の木製標柱が立て続けに現れる。

五枚橋を渡ってすぐ左手の旧道に入る。土道の丁字路の左を覗くと川沿いに「五枚橋跡」と記された標柱が身を潜めるように立っていた。旧五枚橋の跡である。旧道はそこから西に向かって続いている。車道をよこぎり家並みの中を進んで突当りの階段を登って県道261号を横断する。

宇藤坂を上っていくと、県道との合流点手前の右側に「最古の道標」と書かれた標柱と「右きが かなさし 左庄内道」と刻まれた天保3年(1832)建立の道標が立っている。浜松市内姫街道では最古の道標とのこと。



旧街道は県道261号を右折、一里塚橋信号交差点を渡るとすぐ左側に日本橋から66里の、追分一里塚跡がある。低めの盛り土に「史跡一里塚」の石柱がたち松の木が植えられている。

道幅が広くなって元追分交差点にさしかかる。浜松宿連尺交差点で東海道から分岐した姫街道(県道257号)がここで合流する。江戸時代半ばの明和元年(1764)この浜松道が道中奉行の管轄にはいってからは浜名湖の北側を迂回する姫街道の主流はこの浜松道ルートとなった。浜松ではちょうど浜松祭りの最中で、駅前は多くの人出で賑わっていた。

交差点の北角に大小二基の道標が並んでいる。高い方は明治37年の半僧坊道標で「奥山半僧坊大権現三里」とあり、地蔵が彫られた小さな道標は慶應4年(1868)の建立で縦三行に「右みやこだ 中かなさし 左きが 道」と刻まれている。右-左が姫街道で、北進する国道257号は金指街道と呼ばれている。

交差点を越えた左側歩道に、「遠州街道」「姫街道の松並木」と書かれた行灯とその背後に巨大な絵看板が建っている。絵は松並木の遠景に湖を隔てて富士が優雅な姿を見せている。松並木を行くのは姫行列であろう、姫は駕籠を止め、降りて美しい景色を楽しんでいる様子である。銭湯のタイル絵を思わせるほほえましい風景画である。

松並木はここから花川町、大山町まで3.8kmにわたって続き、街道の南側に200本余りの松が残っている。個別の松の木にも札がつけられていて、そのひとつには「一番太い松の木」とあった。目通り3m、根回り4m、樹齢200年という。

萩の原橋を渡って右に折れ、川沿いに進んで三方原神社に寄る。旧浜松城内にあった東照宮を、大正11年ゆかりの地三方原村へ迎えて村社とした。祭神は徳川家康である。境内には三方原開墾の碑、三方原茶園開拓の恩人気賀林の顕彰碑などがある。社殿右手の祠の中にある不動尊は光背部分に「右はま松道、左いけ田道」と彫られている。

気賀林(1810~1883)は引佐郡気賀村(現引佐町気賀)の旧家竹田家に生まれ、後に気賀家の養子となった。(文政12年(1829)19歳の時に地元特産の藺草を買い集めて江戸で売る商売を始め畳表問屋として成功し財をなした。その後不毛の地三方原台地の開墾を手掛け、失職中の士族の入植を促して広大な茶園を開拓した。

道は県道65号との葵町信号交差点にさしかかる。交差点を渡った右手空き地の路傍に「三方原救貧院跡」の石碑がある。明治10年、気賀林が村の生活困窮者を救うために創設したものである。

左手、権七バス停脇に「権七店→」と記された標柱がある。→を見てもなにもない。このあたりに権七店があったのだろう。現在ある「権七商店」はそれにあやかったもので、末裔ではないらしい。うっそうとした松並木が続く寂しいところで、権七店は近隣の寄り合い所となり、また馬方の休憩所となったという。

街道の右側は三方原町が続く一方で左側は花川町から大山町に移る。そのすぐ先一里山バス停脇に日本橋より67番目の東大山一里塚がある。左右に塚の名残と思われる土盛と植木がある。右手には説明板、左は馬頭観音の祠がある。祠の名は自然石が一個置いてあるだけ。

松並木は途絶え、道は大谷川に向かって下っていく。浜松市西区大山町から北区細江町中川に入る。


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気賀 

県道305号と交わる「湖東」信号交差点のすこし手前、「まるたま製茶」の先に「曲がり松」がある。昭和48年までここに体をよじらせた龍のような樹齢500年の老松があった。現在2代目の松が植えられている。ここは江戸時代、気賀の領主や行列を送迎した場所だったという。 昭和天皇の巡幸を記念する碑がある。

道は305号を渡った後、「湖東西」バス停の二股で左の旧道に入って行く。すぐ先の信号交差点左手角に「左浜松方面 右大山xxxx方面」と刻まれた石標があり、交差点を渡った所に六地蔵がある。その裏の竹薮は昔、老ヶ谷(おいがや)の刑場で、六地蔵は刑死者の霊を慰めるため正徳2年(1711)に建立された。 

まっすぐな静かな道はやがて右にカーブし、文化8年(1811)の老ヶ谷秋葉山常夜燈が建つ二股で右に折れる。道の右側は鬱蒼と木が繁る谷に落ち込んでいる。

左手老ヶ谷第二集出荷場の先に千日堂がある。寛文11年(1671)呉石の近藤家下屋敷にあった観音石像を移して祀られた。また堂内には気賀近藤家二代用治、三代用由の位牌が祀られているという。

正面に姫が描かれた大きな給水タンクが見え、道が二手に分かれている。姫街道はまっすぐに進みタンクの脇から「長坂」と呼ばれる細い道を下っていく。二股に立つ石柱は「長坂改築記念」碑。タンクの手前左手に、日本橋から68里の老ヶ谷一里塚跡碑がある。

山道の旧道を進むとすぐ右手に服部小平太最期の地があり、石碑には「服部中保次様最期の地 天正十五年六月十八日」と刻まれている。桶狭間の戦いで今川義元を討った服部小平太(中保次)は後にこの地の領主になったが、長坂巡視中何者かに襲われ死亡した。

舗装された道を横断し、さらに坂道を下る。短いながら石畳や切り通しが残る山道である。まもなく集落を行く車道に出て左折する。右手、祠の傍に立つ赤紅葉が鮮やかであった。

物音一つしない静かな集落の中を歩いていくと左手に「新屋の宗安寺」の説明板が立っていた。服部小平太の霊を弔うために建てられた寺だが、明治の廃仏毀釈で廃寺となった。

石段がある土道を上がっていくと一軒の
廃屋があった。庭の一部と一部石仏が残っている、とあるが見当たらなかった。それ以上に興味を引いたのは「新屋が落合の渡しを控えた宿場であった」という記述である。渡しの対岸が気賀宿である。気賀宿との相宿か、姫街道の資料で新屋を宿場とする情報は目にしたことがない。

旧道は県道261号を突っ切り、左手の刑部(おさかべ)城跡を東側から回り込むように進んでいく。刑部城は阿王山紫城ともよばれ、戦国時代の永禄11年(1568)この地の今川方の内山党がここに城柵を築いて立てこもった。敗れた後は廃城となったという。

刑部城跡に建てられた金山神社を見ていく。刑部川に向かって道がついているようだが、すぐ草むらの湿地に消失していた。金襴の池跡であろうか。

舗装道にもどり刑部川を渡って左折し、川沿いに進んで次の橋で再び刑部川を渡る。左手川沿いにのびているのが城跡から出てきた旧道だろうか。

左手駐車場脇に「金襴の池」説明板が立っている。刑部城主の美しい姫が、敵兵にかかってはずかしめを受けることを嫌い、城内にあった金襴の池に身を沈め蛇に姿を変えて住んでいるという。駐車場の奥までいくと葦の茂みがあった。これを金襴の池跡としておこう。

街道は県道に出てUターンして落合橋を渡る。右手、橋の上流で都田川と井伊谷川が合流している。左手は刑部川が落合川に合流する場所で、ここに落合の渡船場があった。付近の家並みが新屋の宿場ということか。

落合橋を渡った右の袂に宝生地蔵菩薩がある。小さな地蔵の光背に「右はままつへ三里半、左秋葉山道宮口へ二里 二俣へ四里」と刻まれている。

信号交差点をまっすぐ進む。天竜浜名湖鉄道の高架手前の暗渠に「落合橋」が残っている。

国道362号と合流する気賀四ツ角交差点に気賀宿標識があり、浜松宿まで3里23町(14.2km)、三ヶ日宿まで2里27町(10.8km)とある。市野宿経由の本坂通でなく浜松直行の浜松道が意識されている。

気賀は天正15年(1587)本多作左衛門によって宿場と定められた。気賀関所を東の入口、西口の枡形との間約650mの宿通りに本陣と問屋場が各1軒、旅籠8軒を含め民家約100軒が町並みをつくっていた。四ツ角交差点を渡った右手の細い路地入り口に「史跡気賀関跡」碑があり、狭い建物の隙間を入っていくと右手に関屋の屋根の切妻破風と狐格子が残っている。

左手を振り向くと、こちらにはブロック造りの建物と手押しポンプがレトロな一角を演出していた。

その先右手の気賀小学校前に「気賀近藤陣屋遺木江戸椎」の説明板が立っている。この辺りは気賀領主の旗本近藤家の屋敷跡で、陣屋と呼ばれていた。当時の面影を残す椎の大木は、その実が大変大きく近藤家が毎年幕府に献上していたところから「江戸椎」と呼ばれるようになった。

学校敷地の西側を散策していると「御姫様と大工の恋」という粋な案内板が立っていた。近藤家のお姫様と出入りの大工が恋に落ちた。駆け落ちに失敗して二人の恋は成らなかった。小学生にはすこし難しいかもしれない。その後方、一段と低い土地に茅葺の民家が見えた。一階、二階は瓦屋根で、三階だけが茅葺の合掌風造りである。近づいてみたかったが学校敷地からアクセスする道がないようであった。

街道にもどる。右手に伊豆石蔵があった。窓庇の鉄装飾がモダンにみえる。

歴史民俗資料館の標識がある道を入っていくと、資料館の入口に茅葺の小屋が復元されていた。山瀬家の産屋で、明治のはじめまで、お産は母屋から離れた小屋で行われる風習であった。その前に「犬くぐり道」の案内札がある。

細江神社は明応7年(1498)の大地震による大津波で、新居の里にあった角避比古神社の神体がこの地に流れ着き、永正7年(1510)社殿を建ててこれを祀るようになったものである。

細江神社から西の方向に犬くぐり道という細い道が残っている。気賀の関所で通行が不便になった住民のために領主近藤用随が裏道を作り、道の途中にむしろ1枚を垂らしてその下をくぐりぬけさせたという。人は立っては通れないが犬ならくぐって通るだろう。それで、人もむしろをくぐって通ることにした。官僚にはできない計らいである。

気賀駅北交差点のすぐ先右手NTT跡のところに「気賀宿本陣中村家跡」の案内板が立つ。徳川家康の次男秀康が生まれた宇布見村(現雄踏町)の中村家の次男与太夫は、本多作左衛門の世話で気賀の代官となり、これが後に代々気賀宿本陣を勤めることとなった。

すぐ先、左手に長屋門を構えた本陣前公園がある。門の隣の小祠に馬頭観音が安置されている。代官近藤家にあったものといわれている。石仏よりも両側の木像仏が威張っているように見える。門をくぐると広場に噴水が設けられ真ん中に花かんざしの姫がひとり立ちすくんでいた。

ここで街道を離れ、線路の南側に復元された気賀関所に寄っていく。途中に渡る水路は要害堀で、関所の防備のために設けられた堀である。

図書館の南側に冠木門を入口として本番所などの関所施設が復元されている。徳川家康は慶長6年(1601)「入り鉄砲と出女」の監視を中心にここに関所を置いた。新居の関所より1年後、箱根の関所より18年前のことである。気賀関所は、箱根関所・今切(新居)関所とともに、東海道の三関所といわれ明治2年まで続いた。気賀関所の関守は旗本近藤家が勤めた。

冠木門は屋根のない簡素な門と理解していたが、ここの冠木門は屋根付き、控え柱付で、高麗門ではないか。

「女改め」の部屋では女性が男性を改めていてオヤッと思った。通常「女改め」は女性の身体を改めるため関所役人の妻や母親が調べるものだと理解していた。ここの説明では「女改めは、手形の発行者や押してある印鑑、記載事項を調べ、もし違っていれば記載違いなどとし、通過を許可しなかった。関所役人の母親など姥があたった」とある。調べる役人は姥である必要はないのではないか。

門と番所の女改めに違和感をいだきながら姫様館に入る。ここは理屈抜きで楽しい。姫を乗せた駕籠、姫街道を歩いた象の絵、中村本陣の宿札、最高級の食事の見本等々。

街道に戻る。左手に板壁の民家とその先の枡形に常夜灯と石組が残っている。石垣には土を盛り矢来を組み防御としていた。ここが宿場の西出入り口であった。秋葉山常夜燈は安政4年(1857)地元の若者が願主となって建立したものである。

宿場を出てすぐ左手の石垣の上に「堀川城将士最期之地」と書かれた大きな石碑があり、その横に「獄門畷」の説明板がある。永禄3年(1560)桶狭間の戦いで今川義元が戦死した後、徳川家康の遠州侵攻を防ごうと気賀の人々は領主今川氏のために、ここから南600mの場所に堀川城を築き、最後まで戦った。永禄12年(1569)家康軍に攻められて、堀川城に立てこもった2000人の男女はなで切りにされた。その後に捕えられた700人はこの付近で首を打たれこの小川に沿った土手にさらされたという。この土手を獄門畷と呼ぶ。なんとも残忍な光景ではある。

街道は二股で国道とわかれて右の旧道に入る。

山村石材の手前の細道を右に入って坂を上っていくと行き着きの民家手前に見晴らし台のような東屋があり、その中に姫地蔵が鎮座している。天和2年(1682)に建立されたもので、気賀領主近藤家の姫が皮膚のできもので困ってこの地蔵に願をかけたら治ったという。気賀はなんでも近藤家にかかわる土地柄である。

諏訪神社の鳥居と秋葉山常夜燈を通り過ぎて長楽寺の集落を行く。

右手草地の中に趣味的な常夜燈が見えた。上部しかみえないがさざれ石風の自然石か、めずらしい石素材のように見える。

左手家並みは街道の下に沈んでいる。山手から浜名湖に落ちる斜面を横切っているようだ。長楽寺入口バス停あたりには旧会街道の風情を匂わす家並みが見られる。

道は小深田橋にさしかかり、右手に呉石学校の跡碑と、正座した人物石像がある。誰とも書いていない。二宮尊徳か。

橋を渡った先で二股になり間に道標が建っている。右に「金地院五丁」左に「三ケ日往還」と薄く刻まれている。姫街道は右を行く。

なだらかな上り坂の途中三叉路の右手に
自然石の道祖神がある。何か彫ってあるらしいが読めない。

坂を登り詰め下り始めたところ左手に二宮神社がある。南北朝時代の後醍醐天皇の皇子宗良(むねよし)親王の妃駿河姫を祭神とする。 宗良親王は、井伊谷(いいや)(引佐)の豪族井伊道政(彦根藩主井伊家の遠祖)のもとに滞在していた。親王は道政の娘駿河姫を妃とし一子尹良親王をもうけた。 京へ上がる宗良親王を見送りに来た駿河姫はこの地で急病になって亡くなったという。

小森川を渡って跡川集落にはいる手前に「吾跡川楊」の標識があったので、寄ってみることにする。左に折れて国道に出、左折してすぐ水路沿いの道に入る。柳が数本植えられていて右側に万葉歌碑があった。歌は刈られても刈られてもまた新しい芽を出す吾跡川の柳のように諦めよう諦めようとしても想いはつのるばかりという意らしい。一般に柳は再生力が強い木として有名である。

街道に戻り突き当たりを右折してすぐ先の二股を左に上って行く。ミカン畑の右側は明るい林になっていて、右手の一角に山村修理の墓がある。獄門畷でみたように堀川城が家康によって攻め落とされた時、立てこもって戦った今川家の家臣山村修理はここまで落ち延びて自刃した。

峠付近の右手に山田の一里塚跡がある。説明板に江戸川柳「くたびれたやつが見つける一里塚」が引用されている。笑えないが共感できる。

道は下り坂となり、二股を直進して舗装道路に降りる。山田集落の向こうに見える小高い山は尉ケ峰という。この山に腰かけて飯を食った巨人がいた。

集落の入口右手にその巨人の足跡といわれる池がある。一辺50mほどの小さな池だ。琵琶湖を掘った土を運んで富士山を造ったという巨人ダイダラポッチが尉ケ峰に腰をかけて弁当を食べた時にご飯の中に入っていた小石を浜名湖に捨てたら礫(つぶて)島ができたそうだ。「ダイダラポッチ」の語源を知りたい。

すぐ先の丁字路角に馬頭観音と道祖神が並んでいる。

道はゆるい坂道を上っていく。頂上手前右手に「姫街道 清水みのる 尋ねようもない幾年月の中で姫街道は今も静かに息づいている。」と書かれた石碑がある。清水みのるは浜松市出身、サトウハチロ-に師事した昭和時代の作詞家である。「森の水車」「月がとっても青いから」などがある。

峠から姫街道は左の小路を下りていく。浜名湖の展望が開けてきた。この辺りは小引佐(こいなさ)と呼ばれ、姫街道の中でも引佐細江の景勝地として知られれている。地名「細江」の意味が今わかった。浜名湖の北部は東から庄内湖、細江湖(引佐細江)、猪鼻湖、松見ヶ浦と4つの入江水域を持ち、細江が最も大きい。小引佐はその入り江の奥を真下に見下ろす位置にある。

ミカン畑に囲まれた下り道は明るい石畳道である。やがて左に曲がると林に入り、石畳も丸みをおびて古めかしく感じられる。坂を下りきったところで車道に合流し、岩根集落に入って行く。右手に薬師堂、その横に文化2年(1805)建立の秋葉山常夜燈がある。

道は岩根川を渡った突当りを左折して右折する。登り坂道の家並みがつきるころ、左手に新しく整備されたばかりの石畳道が出ている。これが引佐峠に通じる旧姫街道である。ここまで随所に「姫街道」の標識が設置されていて道に迷うことがない。整備状況は今まであるいた街道のなかで最良といえるだろう。

石畳の新しい装いは入口だけで、すぐに旧道の情緒あふれる山道となった。

左手に赤い服を着せられた小さな地蔵が現れる。テルテル坊主のような風貌だ。

その先右手に八畳ほどの大きな平岩が横たわっている。当時はここから眼下に浜名湖が見渡せたようで、駕籠に揺られる姫たちもここでは降りて一休みしたという。平岩はいつしか姫岩とよばれるようになった。「お姫様、お駕籠からお降りくだされ」「まあ、よい景色」と、台詞調の説明文が臨場感を与えて愉快だ。

石畳は姫岩の先で舗装された農道に出る。その先Y字二俣が三度出てくるがいずれも右にとって高度を上げていく。左手の見晴らしが開け浜名湖が見えてくる。姫岩からの眺望と同じであろう。

道は再び石畳のある山道となる。石畳は一段と古めかしい。山道はしばらくして階段を上って車道(7号支線農道)を横切る。車道はすぐ右手で奥浜名オレンジロードに通じている。ツーリングのバイクの爆音が通り過ぎる。

車道を横切って再び石畳の道に入ってきた。入り口に姫街道の案内板があり、「姫街道を散策すると、江戸時代に多くのお姫様が石畳を歩いた音が聞こえてきそうです」とある。お姫様は景色の良いところでなければ歩いていないと思う。足音は「シャリシャリ」か「コツコツ」か、ついそんなことを考えた。

まもなく標識が見え、旧引佐峠に到達した。やさしい峠である。石畳の峠はめずらしい。ここで長かった細江町を出て三ヶ日町に入る。

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三ヶ日 

下り坂も心地よい石畳の道である。適度に木漏れ日が落ち、恐しげさがなく快適である。ただし傾斜は上りよりも急であった。

象鳴き坂にさしかかる。右、左に急カーブしながら急な坂道を降りる。足元はなめらかで滑りやすい。享保14年(1729)広南国(ベトナム)から献上された象が将軍お目見えのため、京都から江戸へ下る途中、船で渡る今切を避けて、姫街道を通った。象はこの急坂に悲鳴をあげたという。

険しかった峠道はようやくなだらかになり石畳も密になって縁石が設けられ整備された様子がうかがえる。左手にさざれ岩のような大きな岩がある。石投げ岩といわれ、旅人がこの岩に石を投げて無事を祈ったという。岩は道のすぐそばで手が届く距離にあり、旅人は石を置いたのだろう。投げて岩の上に石を乗せることは至難の業と思われる。

前方が急に開けて明るくなった。みかん畑が延々と広がっている。土は赤茶けた山土で、砂漠の荒地にも見える土地にミカンの苗が整然と植えられていた。私の庭に植えた柑橘類が一向に育ってこないのは養分過多なのかと疑った。桐生砂を混ぜてみよう。

民家が見え始めたころ左手に大谷一里塚跡の板碑があった。江戸日本橋より70番目の一里塚である。

和田牧場の端を通り過ぎる。みかん畑の斜面が続き、谷間に牧舎が建ちならぶ広大な牧場である。右手民家のオオデマリが見事な花を咲かせている。丸くふくよかで薄頬紅をぬった初々しい花だ。

平地に降りたところで車道と合流する手前左手に「六部様」の立札がある。黒坂の森とよばれる木立の一角に、大谷村と都筑村との村境で行き倒れになった六部の忠道円心を祀っている。小さな石祠が墓だろうか。ほかにも木の根まわりに石仏が散在していた。

県道308号に合流して大谷橋を渡ったすぐ右手に大谷代官屋敷大野家がある。江戸にいる領主大谷近藤家に代わって事実上領内を支配した大野家の屋敷で現在も子孫が居住している。土地の人々は今も大野家を「お代官様」、この屋敷を「代官屋敷」と呼んでいるそうな。

大野家の西側の道を北に進んでいくと小屋を過ぎた左手に旗本近藤家陣屋跡」の説明板が立っている。1629年気賀近藤家から分かれた大谷近藤家がこの地方を支配した。今は一面のみかん畑だが、この案内板がある場所が井戸跡、そのやや後ろに一本の大木がそびえるところは屋敷内にあった池の跡だという。近寄ってみると木の周辺が確かに窪地になっていた。

街道に戻り、県道沿いの右手少し高くなった空き地に安形伊賀守屋敷跡の表札が立っている。

街道はその先で県道と分かれて右に曲がっていく。右手駒場公民館の横に滋眼寺がある。境内にある庚申堂は立派なもので、堂内の格天井には石川晶斎、福田半香、林棕林、伊東盧水の描いた96枚の花鳥画があるという。

街道はその先東名高速道路で分断され、ガード下をくぐりぬけて復活地点にもどる。田畑の農道からミカン畑の中をたどって再び東名高速に近づく。十字路を直進し、次の丁字路で右折して東名高速道路をくぐる。旧道は丁字路を直進するがその先高速道路の建設時に消失した。

ガードをくぐって左折、東名沿いに緩やかな坂を上って行く。峠あたりに「大里(おおり)峠」の立札がある。その右手に旧道が残っている。少し入ってみたが、まもなく山中に消えているようであった。この峠道は雨天には川となって「わる坂」と呼ばれていたという。

道はその先の陸橋で東名高速道路をまたぎ旧道にもどる。赤土のミカン畑の中を下りていくと遠くに三ケ日の町並みが見えてきた。 十字路を直進し道なりに左にまがって宇志川に下っていく。橋をわたって坂を上がった十字路左手に宇志の茶屋跡、高札場跡の立札がつづいて現れる。

茶屋跡の十字路を右に行くと墓地の最前列奥に文化10年(1827)に建てられた片山竹茂の墓がある。江戸時代後期の俳人である。墓石は句碑を兼ね六角柱の珍しい形をしている。

街道にもどり道なりに三ケ日の集落を入って行くと、姿の良い火の見櫓が立つ二股にさしかかる。火の見櫓の下に日本橋から71番目の三ケ日一里塚址がある。「旧姫街道 一里塚」とある板碑のような一里塚跡碑はすでにどこかで見たような気がする。

右手三ヶ日郵便局の前に三ヶ日宿標柱があり、気賀宿境まで2里20町(10km)、崇山(すせ)宿境まで2里18町(9.7km)と示している。このあたりが宿場の東口であろう。

十字路手前の石川接骨院の前に「三ケ日宿伝馬問屋跡」の立札がある。 石川家は滋眼寺庚申堂の天井画を描いた画家の一人石川晶斎の生家である。

十字路を渡った左側には旧浜名郡の郡家があったといわれている。空き地となっていて何もない。

左手日野屋酒店は近江商人関係の店であろう。全国に散らばった日野商人で酒屋を営む商人は出身地によって日野屋か十一屋のいずれかの屋号を用いるのが常だった。その脇の路地をはいると金網の中に「杜香の井戸」がある。日野屋は江戸時代から酒造りをしていたとみられ、その際に使用した井戸であるらしい。なお、杜香は当主の俳号という。

信号交差点をこえた左手、岡田医院前に「三ヶ日宿本陣跡」の標識が立っている。ここに酒造りを営んでいた小池家本陣があった。文化2年(1805)に伊能忠敬が泊まっている。小池家の末裔は現在梅原家であるという。

その向かいの建物は古そうな雰囲気をもった家で、これが本陣跡かと思ったほどである。ここは石川脇本陣跡であるという。郵便箱にはなんと「小池」と書いた紙が貼ってあった。石川といえば問屋も石川家だった。どうなっているのかついていけない。

ここまで三ヶ日の町内で旧街道らしい家並みに出あえなかったが、宿場を出るあたりに中二階建てのなつかしい家をみつけてほっとした。

道は下り坂になって正面に本坂峠の山並みが見えてきた。心配するほど高そうではない。あの少し低くなった鞍部が峠ではないかと勝手に想像する。

国道301号を横切って釣橋川と宇利山川を立て続けに渡る。橋のすぐ下流で二つの川が合流している。

街道右側に巨大な姫街道の絵地図看板があった。本坂道、浜松道が南北に直線に描かれていて全体図を把握するのにはわかりやすい。浜名湖の西側では同様に南北の道が和田辻と吉田宿を結んでいる。この図を冒頭に使わせてもらった。

三ヶ日高校の角で左に折れ右に曲がっていくと釣集落である。釣のバス停の先右手に秋葉常夜燈ある。鞘堂は明治14年、中の石燈籠は大正5年の建立である。浜松市は秋葉山の本場だけあって秋葉山常夜燈が多い。格子窓に板袴の鞘堂を伴うのも秋葉山常夜燈の特徴であろうか。

道は国道362号に合流して三ヶ日日比沢の集落に入る。この辺りを「駄荷野」(だんのー)と呼び本坂峠を通行する人馬が積荷を下した所という。「みかんの里日比沢」の大きな看板が出迎える。子どもの頃正月休みに毎日食べていた箱詰めみかんは三ヶ日みかんだったと思う。

右手に2本の鯉幟が風薫る五月の空に翩翻と翻り、街道の風景に色を添えている。

本坂村と日比沢村の住民が入会権をめぐって直訴をして処刑された犠牲者を弔う「山論犠牲者供養塔」がある道が分からず通り過ぎてしまった。

日比沢集落センターの前に常夜燈がある。堂内を覗いてみると木製の常夜灯が納められている。木製の常夜灯は珍しい。

右手、平安末期にはあったという古刹華蔵寺(けぞうじ)には25年に一度開帳される三体の秘仏が安置されている。見るには2024年まで待たねばならない。入口右手に小さな道標があるが、まったく読めない。

道が右に大きく曲がる左手に板築駅(ほうづきえき)跡がある。古代東海道の猪鼻駅(現湖西市新居町浜名橋本地区)が天長10年(833)の大地震により崩壊したため、三河国府付近から浜名湖北岸の迂回道が官道として整備されたとき設けられた古代の駅家である。10年後の承和10年(843)、猪鼻駅家の復活に伴い板築駅は廃止された。この迂回道はほぼ旧姫街道池田道をたどって、遠江国府付近で浜名橋経由の本道に合流していた。なお、板築駅の廃止1年前の承和9年(842)、橘逸勢が謀反により伊豆に配流される途次、板築駅で病死している。

車もあまり通らないのんびりとした国道を歩いていく。前方の山並みに鞍部が二カ所見えてくる。本坂峠はどちらだろうと考えているうちに本坂橋バス停を通り過ぎる。森川橋で日比沢川を渡った先で右上に分かれる旧道を上がって行くと、すぐに左右一対の本坂一里塚が現存している。江戸日本橋より72番目の一里塚である。

右側の塚の根元に7体の馬頭観音像がある。真中の高い石像は文久3年(1863)の造立である。

旧道は国道にもどるがすぐ左に分かれて本坂集落に入っていく。

右手に本坂関所跡がある。戦国時代よりこの地には関所が設置され、地頭の後藤氏が管掌していた。慶長5年(1600)、幕府は新居関所とともに施設を整備した。後、元和5年(1619)後藤氏が紀州に移ってからは気賀近藤氏の管掌となり、寛永元年(1624)気賀関所の設置に伴い廃止された。

右手国道沿いの高台に橘神社がある。平安時代の初期三筆の一人橘逸勢を祀っている。橘逸勢は、承和9年(842)伴健岑(とものこわみね)等と皇太子恒貞親王を奉じて謀反を謀ったとのことで伊豆に配流の途中板築駅で病没しここに埋葬された。境内には逸勢自筆の「伊都内親王願文」の石碑が横たわっている。

街道にもどると丁字路右手に高札場跡と文化4年(1807)に建立の秋葉山常夜燈が並んである。高札場跡には土台の石垣が残っている。

丁字路を左に入って川の手前右手に梅藤家茶屋本陣跡がある。川に面して立派な長屋門が残っている。本坂峠の麓にあって立場の機能を果たしていたのであろう。

国道を避けて旧道の面影を偲ばせる本坂集落の家並みが残っている。

右手の情緒ある民家を最後に旧道は国道に上がる。

斜めに横切ったところに朱色の
弘法堂がある。明治時代の建立で、説明板には中に金銅製と御影石の大師像2体が祀られているというが、二体とも石像に見えた。金銅製の仏像をこんなところに置いておくのは危険であろう。


国道の脇からいよいよ本坂峠道に入って行く。石畳の気持ち良い山道である。傾斜は引佐峠道よりも険しい。

まもなく車道を横切る。「弘法堂0.3km 鏡岩0.5km」の姫街道標識がある。

再び石畳道を標識通りに500mほど上がって行くと左手に「鏡岩」と呼ばれる大きな岩が現れた。昔は岩の表面が光っていて、女性がここで岩を鏡として化粧直しをしたという。

深い切通しのつづら道を上って再び車道を横切る。斜め前の峠道延長入り口に「椿の原生林」「姫街道 鏡岩10分 本坂峠15分」の標識が立っている。側溝が設けられた石畳の道を百数十メートルにわたって椿の並木が続く。1~3月には素晴らしい街道の風景を演出するのだろう。

三度車道に出る。姫街道標識が「椿原生林8分 本坂峠8分」と示している。前の車道から峠までの中間点に来た。そのまま車道を歩きかけて、右に石段があるのに気付いた。これが旧道である。

道は落ち葉に埋まった砂利道となる。その下に石畳が埋もれているのかわからない。やがて上空が明るくなったところで「本坂峠」の標識がさりげなく現れた。クライマックスの達成感がない峠越えである。標高328mではそんなもんだろう。静岡県から愛知県に入る

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崇山 

急な下り坂をおり始めるとすぐ左手に弘法水がある。弘法大師がこの地を訪れた時、この湧水で喉をうるおしたという。水はたまっているが湧き出しているようには見えない。

道は小石が散らばっていて歩きにくい。それらを集めて道の中央に積んである。また石投げ岩のように、路傍の岩に小石を積み上げている。

真直ぐにのびる杉林の中を下りていくと沢に木橋がかかった水場に来た。「崇山七曲り」と書いた立札がある。橋を渡りそうになったが、渡らずそのまま右に折れて下っていくのが正しい。これまでも、その先もつづら折りを重ねて、どこが七曲がりかわかりかねる。

道はいよいよ細くなる。シダが茂る曲がり角に「茶屋場跡」の札が落ちている。そのような空間がありそうでもない場所だ。

こんどは大きな岩が道を塞ぐように座っている。傍に「坐禅岩」の標石がある。上部が平らで座り心地はようさそうだ。腰かけてしばし休むことにした。

道の傾斜が次第になだらかになって平らな石畳道になる。「茶旧川橋」を渡ると小さな「姫街道」と刻んだ石標がある。姫街道を守る会が平成17年に建てた新しいものだ。

すぐに林道に出る。これで山道は終わったものと車道を歩き始めたが様子がおかしいのに気づき後戻りする。舗道に出てきたすこし右手のガードレールの端に旧道の続きが口を開けていたのだ。山道の傾斜はむしろ急になっている。

杉木立の中を下りていくと左手に崇山一里塚の標識が立っていて「御油ヨリ4里」、「江戸ヨリ73里」と記されている。その後ろの木立に塚状のふくらみがある。

道は開けた場所に出て石畳は固められて車も通れるようになっている。道が左にまがるところに幟と絵看板が建っている。素朴な姫行列の絵だ。

右手からの山道との合流点に「左ふどうさまと刻まれた道標がある。

道は舗道となって建物が見えるようになってきた。崇山集落の入口に姫街道の道標がある。正面に「姫街道 西嵩山宿 東本坂峠」とあり、側面に「ましらなく 杉のむらだち 下にみて 幾重のぼりぬ すせの大ざか」と江戸期の歌人香川景樹が文政元年(1818)崇山七曲り辺りで詠んだ歌が刻まれている。

左に白壁の土蔵、右は石垣に門を構えた立派な家があり、山麓の静かな家並みをつくっている。

右手、鯉幟がひるがえる民家の前に姫街道の案内板が立つ。嵩山宿本陣の夏目家である。案内板によると幕末の嵩山宿には本陣の他旅籠が11軒あったという。嵩山宿は宿場道標があった狭石川からこの先の秋葉山常夜燈まで600mほどの小さな宿場であった。

御十四川にかかる大日橋の手前に土蔵の白壁がまぶしい大きな屋敷がある。本陣前の案内板では、ここに旅籠萬屋があった。道向かいも白壁の塀に蔵をもった立派な家である。旅籠中島屋があった場所である。この辺りは宿場の西端にあたるが往時の面影を残している。

すぐ右手に立派な秋葉山常夜燈がある。遠州側でよく見てきた鞘堂に納まった常夜灯でなく、ここは赤レンガ塀に囲まれた石垣の上に堂々として建っている。文政10年(1827)の建立である。これほど厚遇された常夜灯は見たことがない。

旧街道は国道362号に合流する。右手は新興住宅地自由ケ丘が広がっているが、この辺りに永禄5年(1562)今川氏によって落城した市場城があった。

案内板にあった地図によると、この先の天神川東側に観音堂や高札場があって、街道は川の東岸に沿って南に折れていた。今それらは見当たらず川の西岸にそって道がある。

100mほどで丁字路に突当り右折すると間もなく国道に戻る。

右手にみえる山肌が削れた長楽(ながら)鉱山への入口標識のある十字路を左に入って行くと、長楽の檜がある。落雷にあって幹は空洞になって痛々しい姿である。樹齢300年以上の古木である。この前を鎌倉街道の古道が通っていたようで、そばに石祠にはいった二体の地蔵と、「いにしへの鎌倉道の跡所 とはにつたへよ ひのきと地蔵」と刻まれた歌碑がある。

街道にもどり国道を西に進むと交番の前、長楽寺への入口に文政3年(1820)の秋葉山常夜燈と、「右豊川 左豊橋」と刻まれた大きな自然石の道標がある。「左豊橋」は東海道吉田宿を指し、吉田宿と姫街道を結ぶ道は浜名湖の東方で浜松宿から姫街道にでる浜松道に対応している。

すぐ先の竹藪前に「姫街道長楽一里塚」の碑がある。「右京より53里 左江戸より74里」と添えられている。

沿道に飲食店や商店が現れ賑やかになってきた。県道31号との交差点は和田辻とよばれ、左にいくと豊橋吉田宿に至る。

姫街道は和田辻を直進し坂を下っていく。小倉橋の手前右手に馬の頭を浮き彫りにした大きな馬頭観世音石碑がある。大正13年(1924)の建立である。

左手に水路に沿って小高い丘陵が延びている。南北朝時代南朝の忠臣高井主膳正が築いた高井城跡である。

街道は田園地帯の中を進み、国道が左斜めに折れていく二俣でまっすぐの旧道に入る。旧道は豊川の堤防に突き当たる。車道から右に下って河川敷の藪道をぬけると川辺に出た。当古橋から100mほど上流にあたる。昭和9年に当古橋ができるまでここに当古の渡し場があった。「茶屋」という地名が渡し場跡を偲ばせる

当古橋を渡って豊橋市から豊川市に入る。

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御油 

当古橋を渡って右折し堤防道を100mほどいったところから当古町西船渡の集落に降りていく。格子造りや商家風の板壁の家並みが見られる。対岸に「茶屋」があったようにこちらにも渡しの客が休む茶屋があったのだろう。


右手に文政2年(1819)建立の
秋葉山常夜燈がある。後ろのブロック塀に囲われた石段上に堂がある。鞘堂ではなくて秋葉山神社そのものか。

総板張りの民家を見ながら本郷集落をぬけて国道に戻る。

左に大きくカーブする右手に三谷原神社がある。狐格子で閉められた拝殿の裏側はトタンの廊下でトタン張りの本殿に繋がっている。何とも変わった造りである。

馬場町交差点で姫街道は国道から県道5号に変わる。交差点を渡ったすぐ右手に熊野神社がある。

姫街道踏切を渡る。古宿、新宿という町名がのこる豊川は豊川稲荷の門前町として栄えた町で、姫街道沿いであることもあって参詣客相手の旅籠があったのだろう。

その稲荷に寄っていく。GWとあって大勢の人で賑わっていた。表参道は「なつかし青春商店街」として土産店、飲食店が軒を連ねている。うなぎ屋、いなり寿司店が多かった。

重厚な総門をくぐって境内に入る。現在の門は明治17年(1884)に改築されたものである。門扉及び両袖の扉は一千有余年の樹齢を重ねた高さ4.5m、幅1.8m、厚さ15cmの欅の一枚板で如鱗のような木目は類い稀な木材として知られている。又諸処に使用されている唐金手彫の金具は優れた技法を示している。

伽藍と出店が混然一体となって庶民的な空気に包まれ、境内中がお祭り気分である。

豊川稲荷は境内の一番奥にあった。豊川稲荷は妙厳寺の境内に祀られた「豊川吒枳尼真天(だきにしんてん)」の通称で嘉吉元年(1441)に東海義易禅師によって開創された。いわゆる狐をまつる稲荷神社ではないが、商売繁盛の神として全国に信仰が広がった。日本三大稲荷の一つである。

街道に戻って先を急ぐ。

豊川市役所、諏訪神社を通り過ぎ、野口町に入る。右手の空き地に3棟の廃家があった。

亀ヶ坪信号交差点を右折して三河国分寺跡と国分尼寺跡に寄っていく。

500mほど歩いて左手に国分寺跡がある。現在の国分寺は16世紀に再興された曹洞宗の寺院だが、その本堂がかっての国分寺の金堂跡地であることが判明した。寺域は180m四方で周囲は築地塀で囲まれていた。

鐘楼には奈良時代の鋳造といわれる銅鐘が国の重要文化財として保存されている。80個あった乳も20数個を残すだけとなっている。弁慶がひきずった為だという伝説がつたわるそうだ。近江三井寺にも弁慶引摺鐘がある。おなじく奈良時代のもので、弁慶が三井寺から略奪して比叡山まで引き摺りあげたという鐘だが、傷はついても乳は失われていない。

南大門跡、講堂跡、基壇や礎石が残る塔跡などを散策。

その西方に八幡宮がある。天武天皇の白鳳年間(7世紀)に宇佐八幡宮から勧請したといわれ、天平13年(741)の国分寺よりも古い。本殿は三間社流れ造りの桧皮葺、文明9年(1477)の建造で国の重要文化財に指定されている。社殿は清楚で品格がある。

鳥居を入った右側に高い土塀が建ちその裏側は塀の屋根までとどきそうな高さから地面まで、巨大なお椀状のすべり台のような土盛がある。矢場といい、ここに向かって弓を射る練習をしたそうだ。

付近の案内板にしたがってここから国分尼寺跡に向かう。

すこし北に移動し県道377号をわたって住宅地をぬけると広い空間に朱塗りの中門と回廊が復元されている。手前の広場に珍しいナンジャモンジャ(ヒトツバタゴ)の花が満開だった。

南大門跡から中門をくぐって礎石跡が点在する広い敷地を北に歩いていく。一段と高いところは金堂跡で、その規模は全国最大で唐招提寺の金堂に匹敵するという。

その北に講堂跡、横長の尼僧居住地であった尼房跡、北方建物跡、そして掘立柱塀跡とつづく。そこから振りかえった風景もよい。

帰り際に三河天平の里資料館によった。出土品の他、これから訪れる予定の国庁関係資料もあった。館長らしき人と話している中で、尼寺跡に礎石としてあるのは復元時に調達してきたもので、出土した原石はすべて埋め戻したのだという。実に多くの礎石候補岩石を探してきたものである。史跡そのものでなく史跡公園であることに納得した。

街道に戻り、筋違橋交差点の先左手の森の中に三河国総社がある。平安時代、新たに赴任した国司はまず任国の一ノ宮に参拝し、それから国内の神社を順に参拝して廻るのが習わしだった。その後も毎月一日にかけても巡拝し幣帛を奉ることが恒例であった。三河国の場合その数は59社に及んだ。この過大な負担をなくすために一計を案じ、国衙の近くに総社を建てて国内の神社の祭神をひとまとめに勧請し、これを参拝することにしたものである。古代においてこの発案者はきわめて合理主義者だったに違いない。

総社の東に隣接して三河国府の政庁(国庁)があった。曹源寺を北端とし、その現参道の両側にある民家群が国庁の敷地であったとされる。

街道に戻る。上宿信号の手前右側の小高い山は船山古墳である。5世紀の築造と考えられ、全長94mで三河地方最大の前方後円墳である。前方頂上には石室、後円部分の頂上には上宿(うえじゅく)神社の小祠と賽銭箱があった。

上宿信号の先で県道は名鉄線路をまたぐ高架に上がる。右の側道に入った右手の西明寺参道入口に芭蕉句碑がある。高台になっていてよじ登ると奥の方にコンクリート壁に保護された石柱があった。寛保3年(1743)芭蕉没後50回忌を記念して建てられたものである。さっぱり読めない句碑だが「かげろふの 我が肩に立 紙子哉」と刻まれているらしい。

側道を進んでいくと県道陸橋の下をくぐったところで名鉄の線路にぶつかった。その先の階段を上って線路を跨ぐ。その先でこんどは国道1号に分断される。右手の追分信号交差点を迂回してもどり、旧街道の延長線をすすむと行力交差点にでる。ここを左折してまもなくやっと旧東海道との追分にたどり着いた。見覚えのある常夜灯と道標、そして「姫街道」とい書かれた小さな板切れがあった。


(2013年5月)

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