西近江路−2 



高島−安曇川河原市(新旭町)今津海津
いこいの広場
日本紀行

西近江路−1
西近江路−3


高島 

山と琵琶湖の細い狭間をぬけると国道から右に分かれて湖岸沿いの旧道に入りびわこクラブ前を通っていく。大津市と高島市の市境手前の右手に小さな石仏があった。高島市鵜川にはいり国道に合流、すぐ右手湖畔に大きな明治100年を記念する題目碑が建ち、その隣が
白鬚神社旅所になっている。玉垣に囲まれて少祠と常夜灯があった。

左手、うかわファームマート横の道を西に入り、湖西線のガードをくぐりぬけると山に向かって
鵜川の棚田が広がっている。農道を上がっていくにつれ振り返って見る棚田の風景がその魅力を増す。琵琶湖に落ち込んでいく傾斜の風景もよし、横にながめて比良山系を背とした田植えを終えたばかりの青田も美しい。

街道にもどる。旧道はレストランレイクサイド湖西路あたりで国道をはなれて山側に逸れ、白鬚神社の裏側を通って鵜川48体仏前の古道につながっていた。今は白鬚神社の先までの道筋が失われている。

国道を進んでいくとまもなく湖中に宮島の厳島神社を思わせる
朱塗りの鳥居がたっている。湖中の鳥居はもともと陸地にあったものが、1662年に高島郡を中心に起きた大地震(琵琶湖西岸地震M7.6)によって水中に陥没したものである。この大地震による県下の被害は甚大で、朽木の朽木宣綱はこの時横死した。彦根城や膳所城も傾いたという記録があるらしい。

車が絶えない国道に面して近江最古の神社といわれる
白鬚神社がある。垂仁天皇の時代の創建といわれているから紀元前後の神話時代の話しである。祭神は猿田彦命で主に延命長寿の神で知られる。そもそも神社というものは古代朝鮮からきたものだといわれていて、白木、白子、白石、白山、白城、白髭神社などはすべて新羅神社の派生らしい。祭神によく出てくる素戔鳴命(すさのおのみこと)や天日槍(あめのひぼこ)など神話時代の神にも新羅からの渡来人が多い。

鳥居にへばりつくように拝殿と本殿がくっついて建っている。豊臣秀頼と淀君が建立したといわれている桃山建築で国の重要文化財である。

その背後には山が立ちはだかっている。山の斜面を利用して境内社や歌碑があった。

その中の一つが
紫式部の歌碑で、そばにその解説碑がある。27歳の紫式部が996年の秋、越前の国司になった父藤原為時に伴って京を出、大津から船路で湖西を通った折、高島三尾の浜辺で漁師の綱を引く見馴れぬ光景に都の生活を恋しく思い出して詠んだ歌である。

 
三尾の海に綱引く民のてまもなく 立居につけて都恋しも

一行は塩津の湊に上陸し、塩津山を越えて越前敦賀に入った。塩津山の道で目撃した庶民の苦しい生活ぶりに興味をよせて式部は歌を残している。

 
知りぬらむ往き来に馴らす塩津山 世に経る道はからきものぞと

10代で結婚するのが普通であった当時の27歳は、今では30代後半の感覚だろうか。厳格だった父のせいもあろう。彼女の内向的で気の強かった性格が男を遠ざけたのかもしれない。しかし、彼女はたどり着いた越前の武生には一年あまりいただけで、998年の春そそくさと単身京へ戻ってしまった。都で待っている中年の彼氏のもとに帰ったといわれている。いずれにしても田舎でじっとしていられる女性ではなかった。式部はその年の晩秋、またいとこにあたる藤原宣孝と結婚する。46歳の妻子ある男であった。一子をもうけた後、新婚を楽しむまもなく宣孝は当時はやっていた疫病にかかってあえなく死ぬ。式部は32歳の若さで幼児を抱える未亡人となった。その秋、式部は長編愛欲小説に着手する。

源氏物語は彼女の報われなかった青春時代と結婚生活の反動として書かかれたのではないか。気性のはげしい才女の欲求不満が見え隠れする。

芭蕉の句碑があるというので探していたら、車を止めた駐車場のすぐ側に立っていた。

 
四方より 花吹き入れて 鳰(にお)の湖

この句は膳所の医師で芭蕉門人の一人、浜田珍夕の住居「洒楽堂」に招かれて詠んだものである。

社殿の東側、手水舎のそばに
与謝野鉄幹・晶子合作の歌碑がある。大正初年参拝の二人が社前に湧き出る水の清らかさを詠んだもので、鉄幹が上の句を、晶子が下の句を詠んだ。

 
しらひげの神の御前にわくいつみ これをむすへは人の清まる
   
何の面白みもない歌である。

家並みの終わったところで左の山手に入っていく道がある。舗装された坂を上がっていくとすぐに道は山中に消えていた。これが
北陸道古道の名残で、更に国道を500mほど行ったところで改めて山腹に入っていく旧道につながっていた。

その旧道を進んでいく。先ほどの古道跡もここの旧道も、山側はしっかりした石積みで段丘を支えている。土道を進んでいくと共同墓地の前列に
鵜川四十八躰仏の石仏群がある。天文22年(1553)に観音寺城主六角義賢が亡き母の追善のため、阿弥陀48願にならって阿弥陀如来坐像を石で刻んだという。現在33体の石仏があり、不足の15体のうち13体は坂本の慈眼院に移され、残り2体は盗まれてしまった。

林を抜け国道にもどる手前に万葉歌碑がある。

 
思いつつ来れど来かねて水尾が崎 真長の浦をまだかへり見つ 「万葉集」巻9−1733

作者が北陸から都に帰る船旅の徒次に、真長の浦の風光に心をひかれて詠んだ歌である。

国道に戻ってまもなく、再び左の旧道にはいる。乙女ヶ池の東側を通って高島駅に通じる道である。左に
住吉神社をみて打下集落をいく。旧道の右手を併走する国道は波打ち際を走っており、所々に国道をくぐって湖岸に出る道がついている。浜辺は国道の擁壁が続くのみで昔の面影はない。

左手に出ている
乙女ヶ池に通じる道をたどっていくと、風情ある木造りの橋が池の中央を横切っている。乙女ヶ池はかって琵琶湖につながっていた入江である。天平宝字8年(764)、恵美押勝の乱の戦場となり、敗れた押勝(藤原仲麻呂)とその一族朗党が捕らえられて処刑された「勝野の鬼江」の地と推定されている。

池の西側にわたり、北によったところに
万葉歌碑がある。
 
 
大船の香取の海に碇おろし いかなる人か物思はざらむ

万葉の時代、このあたり一帯は琵琶湖が山麓に向かって深く湾入し、大きな入江をつくっていた。香取の海は現在の乙女ヶ池水域を指し、香取海の北端にあった勝野津の港は現在の高島漁港付近と考えられている。古くから大和と北陸を結ぶ水陸交通の要衝にあったこの地には三尾駅、勝野津が置かれ、旅人の往来が盛んであった。

旧道にもどる。森林管理所前バス停の先左手に郷社日吉神社旅所が、その道向かいにはスラリとした山王大権現常夜灯が立っている。 

道は高島市街地に入っていく。旧道は乙女ヶ池と
高島漁港をつなぐ水路を渡りすぐ右折、左折して町屋が残る長刀町を行く。右手漁港はかっての勝野津である。琵琶湖から細長くいりこんでいて長刀の形をしていることから長刀町の名がついた。湖上水運の盛んなころは運漕屋・旅籠などが軒を連ねていた。美しい弁柄連子格子をみせる家は元旅籠の風情を漂わせる。

港の奥にある小公園に
万葉歌碑がある。湖東の蒲生野に劣らず高島には万葉歌碑が多い。
近江の土地の古さを思う。
 
 
大御船泊ててさもらふ高島の 三尾の勝野の渚し思ほゆ 万葉集巻7 1171

この歌は近江の大津に都(667−672)があった頃に詠まれたものである。天智天皇一行がこの高島の勝野津に御舟を停泊し風の静まるのを待っていた時の渚の情景を回想し詠んだものである。

道は船入町、江戸屋町の旧町名碑をみながらジグザグに進み県道300号に出る。ここを右折して高島の中心街を北上するのが旧近江路である。交差点の角に
指差し道標があり、「近藤翁道」「藤樹神社道」と刻まれている。前者は交差点を直進する道で、瑞雪禅院の近藤重蔵の墓所に至り、後者は右折する西近江路の道筋である。

ここですこし寄り道をする。最初に、交差点を左に折れて近江高島駅口交差点に出る。角地にポケットパークがあって、大溝城の詳しい説明が示されている。

道向かいにある高島総合病院の西側に
分部神社がある。江戸時代の大溝城下の発展に貢献した分部氏を祀る神社だが、境内に入ってみると小ぶりの石鳥居に御堂のような社殿があるだけで、期待を裏切られた感じであった。

病院の東側にある小路の入り口に「大溝城三の丸跡」の石柱と「大溝城跡」の案内標識が立っている。この付近に藩主の邸や藩の役所が建っていた。

小路を入り病院の脇を通って
大溝城跡を訪ねる。竹やぶの中に城跡の石垣が見えてきた。草むらを回りこんで石垣にたどり着く。説明板や石碑が整備され、石段を上がっていくと大きな切石が無造作に置かれた天守台跡があった。織田信長が安土に壮大な城を築いたころ対岸の高島の地に明智光秀の縄張(設計)で大溝城が築かれた。高島郡一円を委ねられていた新庄(新旭町)城主磯野員昌が信長に背いて突然出奔したため、信長は天正6年(1578)その跡地を甥(弟信行の長男)の織田信澄にあてがい大溝城主とした。ところが、天正10年明智光秀が本能寺に謀反を起こすと、光秀の娘を妻としている信澄に嫌疑がかかり、たまたま四国遠征途上にあった信澄は大阪城内に攻め込まれ自害して果てた。大溝城は、やがて解体されて甲賀郡水口の岡山城に移された。

大溝の城下町はその後、天正15年(1587)京極高次が一万石の城主として入封する。お市の方の三人娘は秀吉にたのまれて京極高次が大溝にて預かっていた。後におはつは京極高次の正室となって生涯を全うする。京極高次は近江八幡城主に栄転するまでの5年間大溝城主として君臨した。その後大溝には伊賀上野の城主分部光信が転封して、明治維新まで12代分部氏が大溝を治めた。その割りには分部氏を祀る神社が貧素だったということである。

先の道標があった交差点まで戻る。交差点を西に少し入ったところに分部時代に築かれた惣門の遺構である
長屋門が現存している。石橋は今は暗渠となった水路の存在を示している。幟に記された丸の内に三引のマークは分部氏の定紋である。長屋門に郵便受けがあって門の奥は一般の民家であった。

交差点から西近江路にもどる。沿道には古い町屋が軒を連ねていて情緒ある通りになっている。惣門があった通りの一筋北の道を入ると中央に水路が流れる
十四軒町である。水路は町割用水とよばれるもので、城下町の町割を整備するとき飲用・防火用の生活用水路が作られた。水が豊かな湖西地方を象徴する施設である。昔はこの用水路に琵琶湖の魚が上ってきたという。

右手にある空き地に、江戸末期から明治初期にかけて三井財閥と覇権を争った
小野組の総本家があった。五個荘、八幡、日野の湖東近江商人に対して、湖西にあって高島商人を代表する存在であった。

高島商人は古代北陸道の駅家があった和邇の小野氏にはじまる。その遠い末裔に小野正則がいて、長男は村井家となり次男則秀が大溝十四軒町に井筒屋を開き初代小野家当主となった。則秀の次男主元(しゅげん)が
小野権兵衛で、寛文2年(1662)盛岡本町(京町)で近江屋を開いていた同郷の村井新七宅に草鞋を脱いだ。村井新七は南部藩にやってきた最初の近江商人で、はじめは遠野の砂金集めが目的だったようである。3年後に盛岡城下に定着、近江屋は高島商人の面倒をみる草鞋脱ぎ場となった。

小野権兵衛はその後村井と改姓し、盛岡から南の志和に移って近江屋と号し木綿・小間物の商いを始めた。さらに村井権兵衛は上方の「すみ酒」(それまでこの地方は濁酒を飲んでいた)製造技術を生かして酒造りを始めた。延宝5年(1677)のことである。これを初めとして志和、郡山、盛岡に近江商人による酒造ラッシュが始まった。

村井権兵衛は故郷大溝から甥の善助を呼びよせて、盛岡に井筒屋善助店を開かせた。井筒屋は木綿、古手などの雑品を南部にもたらし、砂金、紅花、生糸などを持ち下り、次第に各地に支店を出していった。その後享保8年(1723)善助は京都に移住して和糸・生絹・紅花・古手問屋ならびに両替業を開業、
京都小野本家を開く。

7代目善助(1831〜1887)の時、三井、嶋田、とならんで出納所御為替御用達となり、明治維新には莫大な御用金などで新政府に加担した。明治6年には、三井組と第一国立銀行を創設したが、明治7年、政略などに抗しきれず破産に追い込まれた。悲運の商人である。

ついでに高島商人としてもう一人の人物を紹介してこう。百貨店高島屋の創業者、
飯田新七である。江戸時代の終わり頃、高島郡南新保村(現高島市今津町南新保)出身の飯田儀兵衛は京都に出て「高島屋飯田儀兵衛」と称して米穀店を営んでいた。そのころ越前敦賀の出身で、京都の呉服屋に奉公していた中野新七の勤勉ぶりを気に入って婿養子にした。飯田新七は京都烏丸松原で古手木綿商を始め、屋号を「高島屋飯田呉服店」と称した。これが、高島屋百貨店の始まりである。

街道にもどり古い商家が立ち並ぶ町並みを散策する。
右手に巴組山蔵が建つ。隣の二階建て町屋よりも高い。日吉神社の春の大祭である大溝祭りで曳山の巡行が行われる。大溝城下町商人の経済力と心意気を誇示するために始まったもので300年以上の伝統を持つ。

数軒が
「びれっじ」と称して景観保全に協力している。なかでも江戸後期の醤油醸造元2号館は町内最古の商家で、うだつを屋根以上に上げた誇らしげな佇まいである。通りを歩いていてオヤッと思ったことがある。所々で道路の端がほんのり赤みがかっていて、道の中央には丸い平らなキャップが並んでいるではないか。これは三国街道を歩いたとき、雪国の象徴として強く印象に残った風景だった。消雪管が埋まっている。湖西は雪国なのである。

右手に黒板基調の商家造りを見せるのは「萩の露」の造り酒屋
福井弥平商店である。寛延年間(1748〜51)創業の老舗蔵元である。西近江路に面して板塀をめぐらした広大な屋敷を構えている。手前の福井市之進商店も連子出格子が目をひく古い町屋である。こちらは福井弥平商店製造の酒販売のほか米も商う福井弥平商店の分家ではないかと思われる。

本来ならびれっじを一軒ずつ立ち寄って見たいところだが、高島町は見所が多く、次の寄り道を急ぐことにした。一ヶ所は湖岸の萩の浜、他は線路の西側に移って三ヶ所、そして車で15分西の山間にある「畑の棚田」である。

寶組山蔵の先の交差点を右折して国道161号萩の浜信号を横切って湖周道路に入っていくと右手の桜の木の傍に
「四高桜」と刻まれた石碑が建っている。昭和15年(1940年)に旧制第四高等学校(現金沢大学)のボート部員11名が萩の浜沖で比良おろしのために遭難した慰霊碑である。それを悼んで「琵琶湖哀歌」が作られた。

明治43年(1910)逗子開成中学のボートが七里ヶ浜沖合いで転覆、小学生一人を
含む12名の少年が溺死した事件を歌った
「七里が浜の哀歌」の関西版とでも言おうか。共に悲しくも美しい哀歌である。

その
萩の浜に出てみた。静かな遠浅の浜辺であった。 

近江高島駅の北西にある高島小学校の正面の路地を線路に向かってはいっていくと左手に
武家屋敷跡(笠井家)が現存している。残念ながら茅葺屋根はトタンに覆われているが入母屋の美しい姿は武家屋敷の面影を十分に残している。玄関から突き出している部分は長屋門の一部だという。「取ってつけた」とはこういう形をいうのだろうか。

小学校の南側の路地を山手に入ったところに円光禅寺と瑞雪禅院がある。円光禅寺は
大溝藩主分部氏の菩提寺で、墓地の奥に11代にわたる歴代藩主と関係者の墓石が整然と配置されている。分部神社の扱いに比べこの立派な墓所をみて安心した。

すぐ近くにある瑞雪禅院の裏手高台に石垣に囲まれた立派な
近藤重蔵の墓所がある。近藤重蔵は明和8年(1771)江戸町奉行配下の与力の家に生まれた。8歳にて「孝経」をそらんじ神童とよばれた秀才である。25歳で長崎奉行の役人になった。28歳の時「松前蝦夷地御用」を命ぜられ、寛政10年(1798)最上徳内と共に択捉島に上陸し、丹根萌に「大日本恵登呂府」の標柱を建て、日本の領土であることを明らかにした。今はロシアに領有されている北方領土の開拓者である。札幌を北海道の首都とするよう建言したのも重蔵である。その後重蔵の長子富蔵が起こした殺傷事件の監督不行届責任を問われて大溝藩にお預けの身となった。大溝藩は重蔵を丁重にもてなしたが、2年余りの後病に倒れ、文政12年(1829)59歳で死亡しこの地に葬られた。

さてここから県道296号に乗り、ひたすら西南に向かって車をすすめる。途中で山深くなり道はくねりだす。ガリバー青少年旅行村へ行く道を左に分けて県道296号が尽きるところが
畑集落である。入り口の二股でどちらに行くべきか迷ったが左を取った。どちらでも棚田の風景は楽しめるのだろうと思う。上り坂をあがって琳明寺の先を左に曲がったところで車を止めた。十段にも降りていく棚田を見下ろすことはできるが勾配が十分でなくて迫力に欠ける。向こうから三脚をかかえた年配の男性が歩いてきた。「いいところありましたか」と聞くと軽く頭をふって「夕日か朝日でないと平べったくて」と、曇り空を恨んでいた。更に上って車でいけるところまで行き着く。小さな駐車スペースがあった。あぜ道を登って振り返るとようやく十分な高みに達した。草を燃やす煙がたなびくのも一興である。しばらく棚田の風景を楽しんだ。平成11年に滋賀県内で唯一日本の棚田百選に選ばれた。標高差100mの斜面に石積みの畦畔で360枚の田が積み上げられている。

萩の浜へ向かった交差点にもどる。県道は左斜めにまがっていくが、ここには鍵の手の旧道が残っている。交差点で県道からはずれて左に直角におれると
紺屋(こや)町の旧町名碑がある。このあたりに紺染屋があったという。虫小窓をもった町屋風の家があたかもそうであったかのように建っている。

直角に右折して県道と合流する。左手の民家には格子窓とバッタリが設けてある。町屋の街道の雰囲気を残す町並みをぬけ、右手に三島稲荷神社、左手に供養塔などをみながら県道558号を北進する。

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安曇川 

鴨川の土手に常夜灯と
藤樹神社への道標が建っている。堤防の道は県道306号で、西近江路から分かれて東に向かい鴨川をわたって直接藤樹書院に通じる道である。これを藤樹道というのであろう。

安曇川町は西近江路の宿場でもない。専ら近江聖人と称される陽明学者中江藤樹の故郷として知られている。私は藤樹道をとらず、西近江路で鴨川をわたり小川口交差点を右折して藤樹村を訪ねることにした。国道161号をよこぎった次の交差点の左手が藤樹神社の森で、交差点を右折して400mほど道なりに南にすすむと国指定史跡
藤樹書院跡に着く。付近は古風な高級住宅地を思わせる静かで落ち着いた家並みである。道の溝には色とりどりの鯉が放たれていた。

藤樹が四国大洲藩を脱藩して帰郷した5年後の32歳の時に屋敷内に簡素な講堂が建てられた。村人を集めて学問を教え、近代私塾の祖といわれる場所がここ藤樹書院である。現在の建物は明治15年官学朱子学に反発し陽明学に真理を見出した。日本の陽明学の始祖と呼ばれている。人の道の根本を「孝」とし「知行合一」を説き、人々はその徳をたたえ「近江聖人」と称した。その流れは大塩平八郎、佐久間象山、吉田松陰へと続いていく。

近江人という国民性(滋賀県民性)に対して、近江商人という実利主義的イメージを思索的雰囲気で中和した貢献は大きい。

藤樹神杜へ向う。大正11年藤樹を慕う人々によって建立された。すがすがしい社殿である。創建にあたってはすべて寄付でまかなわれ、中国や朝鮮からも寄付が寄せられたという。

藤樹の郷を離れて、今度は湖西線の西側に移る。安曇川は近代の西近江路の宿場ではなかったが、
古代北陸道の三尾駅があったところである。場所は現在の安曇川町三尾里に比定されている。その拠り所となる道標が県道23号の南市交差点にある。西南角地に、「中江藤樹生誕の地」と書かれた標柱と共に「石敢当」と刻まれた石柱がある。この左右両面に「すぐ北国街道」、「すぐ京大津道」と刻まれているのだ。北国街道も、京大津道も北陸道の南北を示しているに過ぎない。

交差点に立って、県道23号の南側を望んでみた。まっすぐな道がのびていて、その先に三尾里があるはずである。そこまで行くべきであった。

私は南市交差点からそのまま西に直進して
彦主人王御陵を訪ねることにした。伝承では、彦主人王は越前国より振媛(ふりひめ)を娶り、その子が後の継体天皇となったとされる。武烈天皇が跡継ぎを残さずに死んだあと畿内から遠く離れた近江・越前を拠点とする人物が皇位を継承したことについては天皇史上さまざまな議論を生んでいる。近江と越前を結ぶ古代北陸道と近世西近江路は古代のロマンと謎に満ちた街道であった。

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河原市(新旭町) 


県道297号を東に引き返し、街道筋の県道558号西万木(にしゆるぎ)交差点から北に進む。旧道は安曇川スポーツセンターの手前辺りから左斜めのほぼ真北方向にのびて川を渡り、川原市宿に直結する形でついていたらしい。現在その間の道筋は失われている。

そのまま県道で県下第二の大河である安曇川をわたる。
安曇川大橋は元汽車が通っていた鉄橋である。旧街道にはもったいないくらいの魅力がある。

県道を進んで湖西線をくぐった先で左から復活してくる旧道が残っていた。念のため復活地点を確認する。土手に向かって消えているようである。

そこから旧道に移って新旭町安井川に入る。ここに西近江路の
川原市宿があった。北小松宿からおよそ15kmと間隔が長い。高島(大溝城下)がほぼ中間で、間宿として機能していたのであろう。

旧道は川原市区会議所脇で県道558号に合流し、北に向かう。家並みは概して新しく、かって宿場であった面影を見つけるのは難しい。

安井川交差点で西に折れて1kmあまり行ったところにある
大荒比古神社に寄る。参道入り口には堂々たる常夜灯が両脇に立ち、夜間に光る野獣の眼のように薄暗い森の中で火袋だけが明るかった。石鳥居をくぐると参道は開放された空間に長々と延びている。社殿近くになって改めて森に入った。大荒比古神社の創建は13世紀前半と古く、南北朝時代から室町時代にかけては、近江の国主、佐々木一族の絶大な崇敬を受けた。社名は荒れ狂う安曇川の水に由来するという。社殿は式内社の品格を漂わせて凛としている。5月に行われる大祭での奴振りは県無形民俗文化財である。

安井川交差点に戻り北に向かう。交差点の北西角に
「馬方又左衛門宅址」の碑が建っている。正直者の馬子の話だ。ただ、馬方を生業とする中西又左衛門は川原市の庄屋だったという記述に違和感がある。

右手に蔵、ベンガラ格子、門塀をそろえた立派な屋敷が目を引いた。
その先に安養寺子安地蔵尊を祀る御堂がある。由緒ある地蔵尊のようで、年二回開帳されるという。

旧道は平井信号をこえて、右手三つ目の路地を入り、すぐ左折して
今市集落を通り抜ける。

川をわたり県道に出る手前に
旧北国海道を示す道標がある。ここから熊野本交差点で県道588号にもどるのが旧道筋であるが、反対側の東に向かって生水(しょうず)の郷針江を訪ねることにした。

大分昔だがNHKで「映像詩 里山 命めぐる水辺」という番組をみた。滋賀県の湖北と湖西が舞台になっているすばらしい番組で、そこに針江の
川端(かばた)が映し出された。川が民家の台所の一部に取り入れられ、そこで米や野菜を洗い、食べ残しは鯉が片付ける。スイカを冷やすのも川端で行われる。同じ仕組みは他地にもあって、川戸とよばれることもある。そんな予備知識を備えて現場に赴いた。

湧き水だから清らかで、一年を通しておよそ15度前後で、夏冷たく冬暖かい。
川端には、地下水が湧き出る「元池」と、その周りに「坪池」「端池」があり、それぞれを使い分ける。元池の水は、飲み水や炊事用に使い、坪池では野菜や顔などを洗い、端池では食器を洗う。私が歩いたところでは鯉は見かけなかった。苔むした水車がまわり、観光案内所も設けられている。演出し凝縮し編集されたNHKの映像詩から受けた感動は見出せなかったが、しばし街道歩きを忘れるひと時だった。

慶応元年(1865)創業の蔵元、川島酒造の建物を見学して生水の郷を後にした。

熊野本交差点にもどり辻沢集落の中を行く。左手に趣ある蔵と長屋門を持った家がある。蔵の戸袋には鏝(こて)絵が施されているようだ。

その先、饗庭地区にはいって、小学校の敷地角に「元三大師」と刻まれた石標がたっている。元三大師とは慈恵大師良源のこと。大泉寺への道標であった。

五十川(いかがわ)神社を左に見て、一路県道を今津へ急ぐ。国道161号と湖西線を越え
今川の手前で県道からわかれて民家脇の狭い路地を左に入る。すぐに右折して手すりのある橋をわたると旧街道の趣をたたえた旧道が延びている。


十字路の右角にポケットパークが設けられていて、そこに常夜灯と
「旧北国海道(西近江路)改修記念碑」があるではないか。ここからの旧道の道筋が示されていて、わが意を得た気がした。

波布谷川の手前右手に
一里塚の跡まであるではないか。茂みの足元はすこし盛り上がっているように思えた。塚跡の説明札がなければまず見過ごしていただろう。一里塚跡は河原市にもあるという。家が建て込む県道沿いに立て札でもあったろうか、気づかなかった。

記念碑の案内通り、突き当たりの角に郷社波爾布神社社標と
道標があった。ポケットパークにあった常夜灯も元はここにあったものである。すでに幾つか見てきたように、道標の表記には「京(大津)道」と「北国(海)道」と刻まれていることが多い。北も南も北国海道であるはずだが、この地域では「北国海道」をもって「若狭」ないし「北陸」地方を意味しているようである。

波布谷川にそって湖岸に向かう。遠い沖合いに竹生島の影が浮かんでいる。このあたりからかっては竹生島巡礼の船が出ていた。地名は木津(こうつ)といい、ここに今津よりも古い港があった。

旧街道である湖岸自転車道路脇に
竹生島遥拝所跡の碑が立つ。

水際を今津方面に歩いていくと、小さな石鳥居が建っていて、脇に自然石の常夜灯、前に大きな二つの石が並べ置いてある。ここで毎年雨乞いの神事が行われるという。ここにある二つの石は代役であって本来の
二つ石は沖合い100mのところにあって普段は湖底に沈んでいる。

旧道は県道333号としばらく並んだ後、再び分かれて湖岸の道にはいる。松並木が続く心地よい道である。新旭町という馴染めなかった町名と分かれて今津町に入る。


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今津 

松並木が終わる頃左手に式内大水別(おおみくまり)神社がある。創祀年代は不明で縁起・由緒等の案内板もない。社殿は水別神社とともに日枝神社を併せ祀っている。

今津町の町並みに入ってきた。川を渡った右手に今津港があり、桟橋の袂に
琵琶湖周航歌碑がある。今津町をかたどった自然石に、琵琶湖の美しい景観を歌った叙情歌が刻まれている。大正6年三高ボート部が今津に宿泊した際、その一員だった小口太郎が作詞した。このときメンバーの一人が当時寮ではやっていた「ひつじぐさ」の曲に詩が合うことに気づき、これに合わせて皆で合唱したら、ぴったり合った。「ひつじぐさ」の作曲者については長年不詳だったが、平成になって新潟市出身の吉田千秋(明治28年―大正8年)であったことが判明。吉田は自分が作った曲が別の形で全国的に歌われるようになったことを知らなかった。

今津漁港の北側が
旧今津桟橋跡地である。中川河口にあってその左岸に桟橋が造られた。三高ボート部員が上陸したのはこの桟橋であった。あたりには鮮魚店が多い。早朝からウナギを焼く香ばしい匂いが漂ってきた。

右手の
丁子屋はもと旅籠で、今も旅館を経営している。一階の連子格子に二階の欄干、窓の部分はいずれもすだれで隠されている。風情ある佇まいである。

白漆喰壁に虫小窓を切った町屋風の家がある。

その先に
金沢藩今津代官所跡の案内板があった。今津の地は金沢藩の領地で河原林甚右衛門が代官としてやってきた。2代目になって今津姓をゆるされ、以降代々今津甚右衛門を名乗ってこの地を治めた。

旧道は日吉神社の先で左に曲がる。この三叉路が今津と小浜を結ぶ
九里半街道の起点である。近江側では「若狭海道」とか「大杉越」、若狭側では「今津海道」などとも呼ばれた。九里半街道は、ここから西へ辻川通りを抜けて、弘川の阿志都弥神社行過天満宮の南端で北上する北国海道と分かれ、西に向い保坂で京都から来る鯖街道と合流して熊川宿を経て小浜に至った。
 
左手民家の軒下に小さな道標がある。丁稚羊羹の宣伝碑と共にあってどうやら個人の設置した置物のようだ。とはいえ、道標は「左京」「右わかさ」と、わかりやすい。

県道333号を渡って湖西線高架までの街道を別名
「ヴォーリズ通り」という。ウィリアム・メレル・ヴォーリズ (1880〜1964)はアメリカ人宣教師で、明治38年(1905)滋賀県立商業学校(現八幡商業高校)の英語教師として来日した。本来の目的は布教活動であり、現在の近江兄弟社の前身となるミッションを結成した。

ヴォーリズは建築家としても優れ、明治43年(1910)に建築設計事務所を開き、大阪心斎橋の大丸デパート、関西学院、神戸女学院、東京駿河台の山の上ホテルなど数々の優れた建築物を残した。それに止まらず、大正9年(1920)に会社を設立して家庭常備薬の輸入販売をはじめた。子供の看護婦さんの絵で知られたメンソレータムがそれである。その後ロート製薬がメンソレータム社を買収、近江兄弟社はメンタームとして同様の商品を販売している。

県道をこえた右手に
旧百三十三銀行(現在の滋賀銀行)今津支店として建てられたヴォーリズ資料館がある。ほぼ立方体で銀行にふさわしく律儀で頑丈な造りである。 

道向かいにベンガラと白壁のコントラストが美しい
町屋建物がある。

右手に、ヴォーリズによる
今津教会会堂、その先に旧今津郵便局がある。ヴォーリズは短い距離に3軒もの建物を建設した。

道の左手に珍しい造りの家があった。一階の屋根が水平でなく斜めにつけてある。別に坂道に建っているわけでもなく、二階の屋根はきっちりと水平なのだ。
変わった家だ。

湖西線を潜り抜けると本来の
辻川通りの名称にもどる。商店街は今も健在の様子である。街道は音楽が流れる辻川商店街を通り抜ける。栄町交差点も越えていくと忠魂碑が立つ緑地に突き当たる。その三叉路を右折するとすぐ道が二股に分かれる。直進するのが西近江路で、左に分かれていくのが若狭街道九(里半街道)である。若狭街道は国道161号で分断されるがいずれ現在の若狭街道である国道303号に合流する。

一方、西近江路は阿志都弥神社の東側を通って弘川口交差点で県道335号となって一路マキノに向かって北上する。日置、桂、深清水の集落を通り抜けると、マキノ町大沼に入った。依然として高島市である。福井県に入るまで高島市である。

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海津
 

西近江路を車で走りながら考えた。高島、安曇川、今津、海津など近江にふさわしい名前に比べて新旭町に対しては違和感がぬぐえない。昭和30年(1955)に新儀村と饗庭村が合併して新旭町となった由。「旭」はどこから来たのか。
同じく昭和30年、海津村、剣熊村、西庄村、百瀬村が合併してマキノ町となった。マキノ町は住民の公募で決まった。牧野にあったマキノスキー場から来たらしい。全国で初めて町名にカタカナを用いた。今はひらがなが流行っていて、現在カタカナ町名はマキノの他北海道にニセコ町があるのみである。アイヌ語に発するニセコと違って牧野は純粋すぎるくらいの和名である。牧野町でよかったではないか。

そんなことを考えているうちに国道161号バイパスを渡って百瀬川をこえたところで県道を左にわけて直進する旧道に移る。沢集落に市役所支所がある。風景からはそこがマキノ町の中心とも思えない。大きく右にカーブする角に塀をめぐらせた
旧家らしい屋敷があった。地区名は蛭口である。ここは比較的大きな集落である。

どこがマキノ町の中心なのかと迷っているうちに、街道は国道161号に合流、海津の町に入ってきた。旧道は
知内川の支流に沿って東進していたらしいが今は断片跡がのこるだけで線でたどることはできない。西浜交差点をまたいで旧道が復活している。

交差点を浜側にわたると二つの道筋がある。国道の延長線上に続くのが旧国道、
旧街道は固周道路(県道54号)と直角に湖岸に向かう。浜辺に出る一筋手前の路地を左におれると旧国道が斜めに合流してくる。

そこから湖岸に出て北に向かう。西浜地区の案内板がたっている。砂浜に下りてみた。まず目に付くのが海津の海岸全長に亘って、民家がしっかり組まれた
石積みの上に乗っていることである。砂浜は野菜や花を植えるそれぞれの裏庭であり、水辺はプライヴェートビーチである。針江が川端(かばた)なら海津は湖端とでもいえそうだ。

多様な海浜植物が花を咲かせている中で老夫婦が裏庭の手入れをしていた。大きな木が一本、可憐な花を一杯に咲かせている。名を聞いたが二人は知らなかった。「根をはってあちこちに芽がでてくるのですよ」と、奥さんが言った。何の木だろう。

街道にもどり町並みを楽しむ。左手蓮光寺に海津代官だった
西与一左衛門の墓がある。彼が海津石積みを発議し完成させた立役者である。

道の右手は
海津漁港である。太平洋岸の漁港に比べれば琵琶湖の漁船は小さくてボートを少し大きくした程度である。港もそれに比例してかわいい。

湖魚店、旅館、飲食店などが並ぶ町並みが小さな鍵の手を経ると地区名が西浜から海津に変わる。ここからが西近江路の
海津宿である。左手福善寺にお金という遊女の墓がある。遊女にして怪力女であったお金の美談が伝わっている。

その向かいには宿場の本陣かと思わせる豪壮な門構えをした建物がある。近づいてみると鉄鋲を打った扉に
「海津迎賓館」とあった。案内板類は見当たらず、それ以上の情報はない。迎賓館だから明治政府の公館の類だろうと写真だけ撮っておいた。後で調べると民間企業の所有物で、現在も経営をつづける象牙専門取り扱い店であった。蒸気船を購入し大津―海津間の航路を開いた豪商井花伊兵衛の御殿である。

その先に創業200年の
老舗鮒寿司製造元魚治(うおじ)とその離れで鮒寿司懐石料理を出す湖里庵が向かい合っている。湖里庵は遠藤周作が狐狸庵にちなんで名づけたもの。

鮒ずしは子持ちのニゴロブナを飯につけ1年ほどねかせて発酵させたもので、日本最古のすしといわれている。独特の異臭を放ち最初は近寄りがたいが、熱いご飯にのせ醤油を少し滴らし更にご飯をかぶせて熱湯をかけると、鮒の骨やひれまでもがやわらかくなりこのうえなくうまい。飯の発酵した臭いと新鮮な淡水魚の生臭さの合成臭である。私の一番好きな食べ物だが、値段が高くて普段は買えない。店に入ってまず値札を見ると、100g当たりの値段で1600円から2000円とあった。中ぐらいの大きさのものを一匹買った。3600円であった。200gほどだから大事に食べないといけない。

ブルーギルやブラックバスなどの外来魚が琵琶湖の固有種を激減させたためにこれほどの高価になった。

旧海津港跡には桟橋の杭が残っている。海津の港は平安時代には存在していたというから古い港である。今津の木津の港も奈良時代にはあったという。律令時代の古道が通っていた土地柄だからうなづける。

宿場街をぬけると大きな商家の家並みが続いている。
地酒竹生島蔵元吉田酒造は大きな酒樽を横に寝かせ中に花を飾った粋な軒先を演出している。

家並みのトリを取るのは
中村醤油店だ。船板塀に囲まれて姿のよい松がのぞいている。飾り気のない大きな屋根が楚々として美しい。

その先で道は二手に分かれる。右に取ると湖岸沿いに海津大崎に至る。左に折れるのが西近江路で、海津を起点として終点敦賀まで、
七里半街道と呼ばれた。若狭の海産物が七里半の陸路を経て海津で船積みされ、大津まで丸子船で湖上輸送されていった。


三叉路を左に折れて県道54号を北に向かう。途中、右手に名刹
願慶寺がある。門をはいったすぐ左手に一本の梅の木がある。木曾義仲の側室山吹御前が義仲の死後ここに逃れ落ちてこの梅を愛したという。江戸時代には加賀・越前の諸侯が上洛の際に泊まったという本陣でもあった。

道は海津交差点で国道161号をわたり反対側の旧道に入る。草地の中をのんびりとした道が続く。まもなく国道に出るがすぐに離れて舗装された道が国道に付かず離れずに続いていく。

ほどなく桜の大樹のほとりに泉が流れ出ていた。
清水(しょうず)の桜とよばれる樹齢300年を越える名木である。水上勉の小説「桜守」にも登場した。

林道とも農道とも区別しがたい舗装道がつづき一つ目の二股を右にとって進んでいくとやがて道は途絶えた。階段で国道にもどる。目の前に道の駅マキノ追坂(おうさか)峠がある。案内板に西近江路のことが若干述べられていた。この先の野口も宿駅だったという。準備段階では知らなかった情報である。

ソバを食べたあと、食堂のおばさんに
旧峠を聞いてみた。奥から店長らしい若者が建物の裏側まで案内してくれて「親父からこれが国道ができる以前の道だと聞いています」と、山の急斜面を上っている10mほどの舗装道の残骸を示した。さらにこの道が建物の南側をくだり国道を斜めに横ぎって反対側に続いていたという。おそらく先の途絶点からここにつながっていたのだろう。

舗装道がきれるといつもの峠の山道である。適当に木々を縫って深い切通しの崖ふちにでると道の駅の広い駐車場の真上だった。指標も立て札もない峠を越えて向こう側に降りると小洗路(こあらじ)集落をつらぬく旧道につながっていた。

小洗路集落のおわるころ、街道に向かって立つ六地蔵の後ろに、金色にあやしく光る観音像が背をむけて立っている。
長善禅寺という。境内をのぞくと本堂の両脇には仁王が立ち、大きな蛙の石像がいくつも配置されている。高い石塔や仏像もあった。山門につづく塀の茅葺屋根は半ば崩れている。奇妙な趣味の寺だ。

田谷集落には左手に白壁の土蔵、その先に天保年間の常夜灯がある。西近江路を通して、道標や常夜灯の類が少ない。絶え間なく現れた伊勢街道と対照的である。道の中央を走る
消雪施設がはっきり認められる。マキノスキー場から遠くはない場所だからさぞかし雪深い地帯なのだろう。

上山集落をぬけると一旦国道にでてすぐ野口信号で旧道に戻る。20軒ほどの小さな集落だが、よくまとまった感じを受ける。駅の道での案内板によれば、ここも海津に次ぐ宿場だった。野口には専ら女人の出入を監視する関所が置かれ、その格は東海道の新居関に相当するものであった。関所跡には
「剣熊関之跡」と書かれた石碑があるとのことだが、残念ながら見逃してしまったようだ。「剣熊」の名は鎌倉時代この地に嶮熊野荘(けんくまの)という荘園ができたことに由来する。その頃に野口集落もできたのであろう。関所は「野口御番所」ともよばれていた。関守は三上氏の一族三上喜兵衛が勤め、関所跡地には、明治維新後も三上家の役宅が残っていたと伝えられる。野口集落をぬけると沿道の風景はいよいよ山の気配が濃くなってくる。

国道に合流して道路は勾配を徐々に高めていく。近江側の最後の集落は
「国境」で、峠の直前まで人家が連なっている。民宿があるのは近くにスキー場があるからだろう。

右手、
願力寺をのぞいてみるとトタンをかぶせた入母屋造りで、軒先には民芸品めいたものがさまざまに並べられている。店を兼ねているのか、ここも変わった寺ではあった。

国道の
はなだらかで、切り通しはほとんどない。穏やかに若狭の国に入る。




(2012年6月)

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