西近江路−3 



山中−駄口追分疋田道口敦賀
いこいの広場
日本紀行

西近江路−1
西近江路−2


山中 

越後の国に入ってしばらく坂を下ったところの左手に急に旧道跡が残っており、そこに
「親鸞聖人有乳(あらち)山旧跡」の碑と「愛発(あらち)山中区」と題した案内板が立っている。

山中は西近江路が越前国にはいった最初の宿場で一里塚、口留番所、高札場が設置されていた。享保12年(1727)には46戸で200人近い人が住み問屋も10軒ほどある宿場であったといわれている。江戸期に敦賀−塩津の道が開削整備され、さらには西廻り航路が開発されるると古代路をベースにした海津〜敦賀の七里半街道は徐々に衰退し、山中宿は明治初期に問屋は4軒に減り、集落も昭和46年には家数1戸となり、現在は唯一の1戸も廃家となって山中村は廃村となった。

廃家の脇にのこる草道をたどると左手に親鸞聖人御旧蹟碑が立つ。ここは廃寺光伝寺の境内で、1207年親鸞が越後へ流罪される折この地に泊まった。その時に詠んだとされる歌の碑が文化11年(1814)大坂商人播磨屋の手で建立されている。

 越路なるあらちの山に行きつかれ足もちしほに染まるばかりぞ

廃道をそのまま進んでいくと国道にもどる。

しばらく国道を下っていくと右手に「黒龍散水施設」の標識が現れ、左手に旧道らしい道が出ている。山中集落の片割れかと思って入っていくと一軒の民家があってそこからは生活の臭いが漂っていた。さらに進んだところはコンクリートの基礎だけが残る廃墟の一角だった。その基礎構造からして民家とは思われず、牛鶏舎か倉庫のような跡に見受けられる。ともかく、山中集落は先の光伝寺周辺で間違いなさそうだ。

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駄口 

国道は蛇行しながら下がっていく。ゆるやかに左に曲がるところ、大木の根元に駄口の一里塚碑がある。昭和11年に福井県が設置したものである。まもなく左手に駄口集落に入る旧道が現れる。入ってすぐ左手に日吉神社がある。

その先左手に大きな空き地があって街道沿いに思わせぶりな石柱がある。何か刻まれていそうで、単なる石柱に過ぎないようでもある。


空き地の奥まった場所から石段が密に築かれ、その上に平屋の建物が覗かれる。集会所のようでもあり地図にある清光寺という寺かも知れない。これも気になる風景であった。

駄口は冬季3ヶ月間を除く下り荷の荷継場で、問屋1軒ほかに茶屋兼宿屋が1軒あっただけの小さな宿場であった。享保12年(1727)の家数は24戸、人数134という記録が残る。住民は自分の飼っている駄馬で副業的に駄賃稼ぎを行っていたといわれる。

駄口集落をぬけ国道に戻る。

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追分 


三笠電気の先で右のガードレールに誘導されて旧道に入る。右手に五位川を見ながら進み橋を渡ったところで、塩津街道の古いルートである
深坂古道と合流する。

敦賀から来た街道はここで
七里半越えの道で海津に出る道と、深坂峠越えで塩津に出る道に分かれていた。宿場はこの追分に作られた。近世になって高低差の少ない「新道野越え」が開かれると峻険な深坂越えは使われなくなり、それに伴って追分宿も衰退していった。享保12年(1727)の記録では家数20戸、人数108とある。

追分集落を歩く。旧街道の面影を残す民家が見受けられる。道端で出会った男性に宿場の遺構を尋ねたが何もないとのことだった。ただし「昔は雲助をやっていた。最近まで駕籠が残っていたんだが」と、貴重な証言を得た。山間の静かな集落である。紫式部が父親と深坂峠の難所を越して一息ついた風景が蘇る。

国道にもどるとすぐ右手にJR新疋田駅がある。無人駅だが、ログハウス風の感じよい駅舎である。待合室の壁面は四方鉄道写真が張り巡らされていた。「自由に貼ってください」という。しかもどうやらこの駅で撮った写真のようだ。プラットホームに出ると「プラットホームでは三脚を使わないように」との注意書きがあった。左敦賀方面は線路が大きくカーブして、列車の全体を撮るのにふさわしい。右手、滋賀県方面はすぐに深坂トンネルの二つの穴が覗いている。右から出てくる下り列車と、左に入る上り列車を同時に撮れれば最高だろう。プラットホームに一人の若者が三脚に大きな望遠レンズを乗せて列車を待ち構えていた。三脚は線路と反対側の金網を跨ぐようにして立てていたので注意書き違反ではない。彼と同じ列車を撮って駅を離れた。

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疋田
 

JR北陸本線の高架をくぐると左手に疋田集落への旧道が分かれている。集落入口に大きな岩があって「天下和順 延享四年丁卯(1747)南無阿弥陀仏 日月晴明」と刻まれた板石が張り付けてある。岩の上には祠屋根が乗せられていてなんとも奇妙な姿である。集落の安穏と往来の安全を祈願して造られた。

その先に疋壇城跡の標識が立っている。街道を離れて奥の石段を上がりつめると広いグラウンドに出た。「西愛発小学校跡地」の標石がある。グラウンドの北側に説明板と城跡の石碑が建っていた。その後ろの高台に遺構の土塁と石組が残っている。周囲はロープが張られていて立ち入れない。個人所有の畑地になっているらしい。

疋壇城は文明年間(1469〜1486)に越前朝倉氏の家臣、疋壇対馬守久保により築かれ、以後7代約100年間疋壇氏の居城となった。この地は、柳ケ瀬越・深坂越の塩津街道と海津越の西近江路が集結する交通軍事上の要衝であるため、朝倉越前の最南端防衛拠点として築城されたものである。織田信長の二度目の越前侵攻で敦賀の金ヶ崎城と共に破壊され廃城となった。

疋田は近江と越前の境にあったとされる日本三関の一つ愛発(あらち)関が置かれていた所と考えられている。不破の関、鈴鹿の関と異なり、愛発の関の比定地は諸説あって確定していないが疋田が最有力視されている。

右手から清冽な水が走る水路が現れた。35度の猛暑を和らげるためカメラと腕時計をはずし、タオルと帽子を水につける。メガネもはずして頭から水をかぶる。昔、スイカを浸けた井戸水のように冷たかった。

この水路の原型は疋田舟川と呼ばれた運河に遡る。文化13年(1816)小浜藩は家老三浦勘解由左衛門を普請奉行に任じ、敦賀町の小屋川(児屋川)と疋田村の間に幅9尺、総延長約6.5kmの舟川が完成した。敦賀町から舟で運ばれた荷物は、疋田村から牛車で近江の大浦村へ輸送され、そこから丸子船で琵琶湖を縦走して大津や京に運ばれた。

さらに昔にさかのぼれば、平清盛は敦賀と琵琶湖を運河で結ぶ壮大な夢を持っていた。琵琶湖からは淀川を経て瀬戸内海から太平洋に出る道が確保されている。日本海と太平洋を短絡させる、パナマ運河に匹敵するような夢であった。追分から深坂古道を通って塩津に出るルートが策定されたが、深坂峠の堅固な岩盤にぶつかって断念せざるを得なかったという。その後も敦賀―琵琶湖の運河航路の計画はいくどとなく持ち上がるが、結局陸送の権益をもつ地元の反対や、北前船による西廻り航路の発達により計画は頓挫した。疋田舟川は清盛の夢の一部であった。

その舟川も荷物を奪われた馬借座の訴願により天保5年(1834)廃止された。のち安政4年(1857)になって京都町奉行の検分によって舟川は再掘されて再開されたが、慶応2年(1866)大洪水で破壊された。悲運の運河は通算27年の現役を終え親水公園と生活用水路として余生を送っている。

左手に高い石積みの上に塀をめぐらし門を構えた立派な屋敷がある。疋田宿には小浜藩の本陣があったというから、それにふさわしい佇まいである。中にはいると古い建物が残っていた。六地蔵や五重石塔などもあってどうやら寺(定広院?)のようだ。

石垣脇に「船溜跡」の説明板があった。疋田総蔵屋敷に船溜りを作って川舟を回転させ、米・海産物の上り荷を降ろし、茶などの下り荷を積みこんだ。先の屋敷は蔵屋敷跡であり、小浜藩は本陣としても使っていたのではないかと想像する。

疋田は享保12年の記録では家数84戸、人数411人とあって、中山宿の2倍、追分宿の4倍の規模を誇り小浜藩の本陣が置かれて郡内最大の宿場であった。しかし、西廻り航路が開かれて以降、敦賀湊から琵琶湖経由の輸送が減少し、西近江路の他宿とともに衰退の道をたどらざるをえなくなった。

疋田の集落を出るあたりに不釣り合いなほど大きな祠に小ぶりの光明不動明王が納まっている。

旧道の道筋について他の資料では疋田の中央あたりで右折、疋田診療所前を左折する曲尺手を経るルートが示されている。後日知ったため、そこを通る機会がなかった。古い家並みが残っていたかもしれない。

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道口  

集落を出て排水施設の先で国道を横切り、笙の川を渡って市橋集落に入る。

集落中央あたり右手に日吉神社、集落の北はずれで自然石に掘られた小さな大日如来が祠に安置されていた。

旧街道は山と笙の川に挟まれた道を行く。山側の崖は切り立っており、かなり切り通した跡がうかがえる。昔は川に向かって山塊がおちこむ険しい道であったのだろう。

旧道はそのまま小河口(おごぐち)集落に入っていく。笙の川は国道の西側に去って、土地は平らである。ここにも日吉神社があった。廃村になった山中を除き、駄口・追分・疋田・市橋・小河口と、すべての集落で日吉神社をみてきた。なにか謂れがありそうな気がする。

小河口集落をぬけると旧道は川の手前で失われていた。その先、国道の導入路、バイパスなどが入り混じって複雑である。

国道8号に出て敦賀市内に向かう。

北陸本線のガードをくぐり鳩原で農兵隊の鳩原水害記念碑を右にみて、道口への旧道に入る。

道口は笙ノ川が敦賀平野に向かって開ける扇状地に位置し、古くは三口ともよばれ若狭・敦賀・越前の三方にわかれる分岐点であった。交通の要所にあたり、江戸初期には宿駅と女留番所が置かれていた。

集落の上空に見上げるようなコンクリートの塊が聳えている。北陸自動車道の笙の川架橋工事であるらしい。もう少し低い所を通ればいいのにと思う。

夏の風物詩であるノウゼンカズラが満開であった。軽トラックが側溝に前輪を嵌めている。JAFを呼び出し中だろうか。

集落のほぼ中央に三口の分岐点があった。東に出ていく道が古代の北陸道で、木の芽峠を越える険しい道であった。本来の西近江路の延長でもある。

海津と敦賀を結ぶ西近江路、七里半街道はここを直進して敦賀市街地にはいっていく。どこが終点とは決まっていない。軍事的には敦賀城があった結城町であろうし、経済的には敦賀湊がふさわしいであろう。地理的には古代北陸道の松原駅家があったという気比の松原が適当であろう。奥の細道をたどる者にとっては気比神社か敦賀での滞在先出雲屋跡(現相生町)がお勧めである。この旅を締めくくるに当たり、それらすべてを訪れてみたい。

JR小浜線の道ノ口踏切をこえるといよいよ敦賀市内である。旧道はこの先国道8号に合流して北上し、国道27号を越えた先で左の旧道にはいっていく。道はまもなく東洋紡の広大な工場で途絶している。工場北側の旧道復活点はあきらかでない。地図をながめる限りでは、津内緑地から敦賀漁港に至る道筋に近い。漁港のすこし手前を西にはいったところにある真願寺が敦賀城跡である。

私は国道8号にもどってそのまま気比神社に向かうことにした。そこから金ヶ崎城まで足を伸ばし、西に向きをかえて海岸沿いに敦賀港、敦賀漁港、敦賀城跡、相生町界隈を見た後、気比の松原で打ち上げようと思う。

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敦賀 

国道8号を市内に進む。敦賀駅前通りとの交差点白銀信号を越え、本町を通り抜けると大きな交差点の北東角に越前国一之宮
気比神社がある。芭蕉が奥の細道の旅で敦賀に着いてまず訪れたのがこの神社だった。

高さ11mの赤い大鳥居は正保2年(1645)の建造といわれ、春日大社、厳島神社と並ぶ日本三大木造鳥居の一つである。大宝2年(702)建立の古社で、北陸道の総鎮守・越前国一之宮、明治時代に官幣大社となった。

参道をすすむと境内右手に松尾芭蕉の像と句碑がある。

芭蕉は気比神社に詣でるにあたり、逗留先の出雲屋の主人から、砂持ち神事の故事を教えられた。気比神社交差点の向かいにそのモニュメントがある。

承安3年(1301)、時宗2代遊行上人他阿真教が諸国巡錫の砌、敦賀に滞在中、氣比社の西門前の参道とその周辺が沼地で参拝者が難儀しているのを知り、浜から砂を運んで道を造ろうと上人自らが先頭に立ち、神官、僧侶、多くの信者とともに改修にあたったという。

月下の社頭で故事に深く感じた芭蕉は一句を詠んだ。

  なみだしくや 遊行のもてる砂の露

のち推敲を重ねて「奥の細道」には次の句を採用した。

  月清し遊行のもてる砂の上

国道8号にもどり、一つ先の曙信号交差点を左折、一つ目の信号を右折して山に向かって進む。廃線となった貨物線路踏切をこえると山裾に金前寺がある。泰澄大師が天平8年(736)に開創したという古刹である。元禄2年(1689) 8月芭蕉が訪れ、「月いづこ 鐘は沈る うみのそこ」と詠んだ。芭蕉の思いは南北朝時代にある。その句を刻んだ鐘塚が本堂の南西側に建てられた。

南北朝時代の延元元年(1336)、新田義貞らの南朝軍は後醍醐天皇の皇子恒良親王と尊良親王を奉じて北陸に下り、金ヶ崎城に入った。しかし、足利軍との戦いに破れ義貞の子で大将の義顕は陣鐘を海に沈めた。のちに国守が海に海士を入れて探らせたが、陣鐘は逆さに沈み、龍頭が海底の泥に埋まって引き上げることができなかった。

後醍醐天皇の二皇子、尊良親王と恒良親王を祀ったのが金ヶ崎城の域内に建てられた金崎宮である。

金ヶ崎城跡は新田義貞が足利軍と戦って敗れた古戦場であり、戦国時代にも織田信長と朝倉義景が覇権を争った場所でもある。近江浅井氏の裏切りに遭って信長が窮地に陥った時、金ヶ崎城でしんがりを努めて信長の退却を助けたのが木下籐吉郎(豊臣秀吉)であった。

敦賀の町を見下ろす天筒山(てづつやま)の西端を登って行くと月見御殿に至る。南北朝時代の金ヶ崎城の本丸跡といわれ、戦国時代などにも武将が月見をしたと伝えている。見晴らしは西と北に限られ、北は右手に敦賀火力発電所の巨大な施設が広がっていて、月見の風情は期待できない。

来た道をもどる。金前寺の手前右手、一段下ったところに敦賀港駅のランプ小屋が保存されている。敦賀港駅は1882年(明治15年)金ケ崎駅として出発した。敦賀は日本海側で最初に鉄道が敷かれた町である。港の荷物を直接取り扱うのが金ケ崎駅だった。その後、1912年(明治45年)新橋〜金ケ崎間に欧亜国際連絡列車(新橋〜敦賀〜ウラジオストック〜シベリア鉄道経由ヨーロッパ)が週3往復走るようになり、国際港敦賀は多くの人と荷物で賑わった。列車を誘導する時に用いられたカンテラ用の灯油貯蔵庫がランプ小屋である。

踏切を渡った先を海岸に向かって歩くと左手に2棟の赤レンガ造り倉庫が並んでいる。敦賀港は明治32年(1899)に外国貿易港に指定された。 これを受け紐育(ニューヨーク)スタンダード石油会社が明治38年(1905)に石油の輸入を開始したときに石油貯蔵庫として建設されたものである。 数年前までは昆布貯蔵庫としても使用されていた。

日本海に出る。海は湖のように静かである。敦賀港に商船は見かけず県警と海上保安庁の巡視船だけが目についた。

海岸に海を背にして旧敦賀港駅舎が復元されている。国際列車といえばオリエント急行を連想するが、敦賀駅を発着した欧亜国際連絡列車はシベリア横断鉄道をその一部としユーラシア大陸と日本海をまたぐ壮大なスケールの国際列車であった。日本が東のターミナル駅だったとは夢のような話ではないか。

きらめきみなと館北前船の展示があった。いつか北海道に渡って函館から江差まで松前街道を行きたいと思っている。北前船は近江商人が深くかかわっていることもあって以前から関心があった。寄港地として北海道ではまさに函館と江差が示されている。敦賀は西廻り航路が開かれる以前から、琵琶湖経由で蝦夷地と京、大坂を結ぶ重要な中継地であった。西近江路や塩津街道が賑わっていた時代である。

海岸に沿って快適に歩道を走るとまたたくまに漁港に着いた。魚市場はすでに水揚げが終わったようで人影はほとんどなく、裏では遅刻気味の買い付け業者が魚問屋から荷を軽トラックに積み込んであわただしく走り去っていった。

港の西側に灯台のようなものが見える。近くに寄ってみると瀟洒な石塔の頂に火袋を乗せた高燈籠であった。享和2年(1802)に地元の回漕業者が建てたものである。

魚港の南側を東西に走る大きな通りに出て東におれると「あみや」の看板が目に付く。その敷地の東側を回りこんだ駐車場の片隅に「天屋玄流旧居跡」の碑が立っている。天屋玄流は北前船主で、敦賀の俳壇では中心的な存在であった。芭蕉の敦賀滞在3日目の8月16日に、奥の細道最後の歌枕の地、色の浜に案内した。天屋家は平成14年まで煉瓦造の洋館を残していた。

大通りにもどって一筋東の路地を右にはいると市立博物館を越えた先左手に晴明神社がある。社殿は小さいながら立派な茅の輪が設けられている。元は保食神(食物を守護する神)を祀っていたが、陰陽師安倍晴明が近くに住んでいた誼で彼も合祀された。安倍晴明がなぜ敦賀にいたかについては、敦賀が大陸にもっとも近い情報伝播の地であったからと言われている。確かに敦賀は朝鮮半島からの渡来人の上陸地点であった。

そこから二筋東に移った大通りの東側にレストランうめだがあり、店先に「芭蕉翁逗留出雲屋跡」の石柱が建っている。 芭蕉は敦賀に着いた当日この出雲屋にチェックインし、その日の夕方、主人の弥一郎に付き添われて気比神社に詣でた。芭蕉はここに笠と杖を残している。

そこから敦賀城跡の真願寺にむかうのだが、道順を確かめなかったせいで随分苦労した。分かりやすい道順は、相生町の大通りを北にもどり信号交差点を左折してあみや旅館前にもどることである。漁港の橋をわたって左折し一筋南の通りを西に水路に沿って行くと、左手に真願寺の山門が「大谷吉継 敦賀城跡」の碑を建てて待ち受けている。敦賀城は天正11年(1583)羽柴秀吉の家臣だった蜂屋頼隆が築城した。その後大谷吉継が入城してきたが、元和2年(1616)一国一城の定めで取り壊された。

中門は来迎寺に移築されている。

真願寺から西にむかって笙の川堤防に上がる。上流に見える赤い橋を渡る。ここから来迎寺、武田耕耘雲斎の墓に至る道が更にややこしかった。住宅地の中は迷路である。丁字路の白線をたよりに路地を入って行くと民家の入口につきあたって止まるのだ。袋小路が多いのは小規模造成地をパッチワークで縫い合わせた結果であろうと思われる。

来迎寺山門は敦賀城の中門を移築したものである。この寺の境内でこれから見る水戸天狗党の志士353名が斬首された。

来迎寺の西方、松原公民館の傍に武田耕雲斎以下水戸藩士の墓がある。元治元年(1864)10月水戸藩士武田耕雲斎率いる天狗党は尊攘の大義を唱え上洛の途次、越前に入り12月敦賀郡新保宿にて加賀藩の軍門に降った。翌年2月幕府は耕雲斎以下353名を来迎寺にて斬首した。

道路をはさんで向かいに彼ら水戸尊攘の志士を祀った松原神社がある。もとは墓近くに建てられた小祠が、大正4年に現在地に新造営された。境内には処刑まで収容されていたニシン倉が保存されている。

ところで古い時代、敦賀湾の入り江はこのあたりまで入り込んでいた。京都を発し、琵琶湖西岸を北上して若狭にはいった古代北陸道はこのあたりで東に向きを変えた。松原にその駅家があったと推定されている。北陸道は近江の靹結駅から直線的に越前国にはいり、敦賀湊に突当って、ここから北東に向きを変えて次の駅家今庄に向かったとされる。また、ここには渤海使の来航に備えて、松原客館が造営された。延喜19年(919)には、若狭丹生浦に着いた105名の渤海使が「松原駅館」へ移されたという記録がある。松原駅に松原客館が併設されていたとも考えられている。いずれにしても敦賀は古代ロマンの匂いに満ちた土地柄である。

松原神社から大通りを松島町交差点に出る。通りの北側は広大な赤松林である。三保の松原(静岡県)、虹の松原(佐賀県)とともに日本三大松原の一つ、気比の松原である。東西1km、南北400mの範囲に約13000本の樹木が生い茂っている。黒松が典型な海岸林にあって気比の松原はその85%が赤松である特質をもつ。

車道を海岸に向かって進むと松原海水浴場に出た。海開きまでまだ1週間ある。浜辺と駐車場は開店準備の最中であった。

右手の駐車場を横切ったところに立派な明治天皇駐輦の石碑が建っている。碑に刻まれているのは明治天皇駐輦の文字でなくて、勝海舟の漢詩である。もちろん読めない。説明板をみても読めない。勝海舟は明治天皇の巡幸におくれること13年の明治24年、この地に来て天皇と同じ気分になったのではないか。感慨にふけって漢詩を一作したためた。

松原公園の東出入り口付近に高浜虚子の句碑があった。

帰路、漁港に向かう途中で、初めて宿場の趣を残す家並みに出合った。敦賀の受けた空襲は壊滅的で、古い家並みは残っていないと聞かされていたので、昭和の匂いのする家並みでも貴重に思える。

敦賀は西近江路の終点ではなくあくまで七里半街道の終点である。古代の北陸道を基にした西近江路は、道口から木の芽峠を越えて今庄で北国街道(東近江路)と合流する。木の芽峠は芭蕉が歩いた道であるから、奥の細道を踏破するにはいつか歩かなければならない。西近江路の旅はその時完結する。

(2013年7月)
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