史跡 疋壇城跡     昭和29年12月9日福井県指定
この疋壇城は、文明年間(室町時代 1469〜1487)に、朝倉氏の将疋壇対馬守久保が築いたものである。 この地は、柳ケ瀬越・塩津越・海津越の主要江州路が集まる交通軍事上の要衝であるので、朝倉越前の最南端防衛拠点として築城されたものであり、本城の東・南・西の三方には、それぞれ出城も設けられていたと思われる。 しかし、この城が栄えたのは100年間ぐらいで元亀元年(1570)織田信長が天筒山城を攻略した際に金ヶ崎城jと共にこの城も破壊された。信長軍の撤収後に一旦は修復されたらしく朝倉の臣栂野三郎右衛門尉景仍等が布陣した記録もあるが、天正元年(1573)8月、信長再度の越前進撃に依り城主疋壇六郎三郎は討死し城は完全に破却された。それからここに400有余年、今も遣る石塁塹壕跡が名残をとどめ、そこかしこに遺る小字名と共に往時を物語っている。  (幻雲文集・西福寺文書・信長記その他) 
疋壇城跡 疋田 敦賀市 福井県