1.船の成り立ち  
江戸時代、大坂など上方の人達は北国地方の廻船を北前船とよんでいました。はじめは、「北国船」と呼ばれて、筵を帆に用い、風がないときは櫓で漕ぐためにたくさんの水主(かこ)(船員)が必要でした。次に、「ハガセ船」といわれる船は、船尾が鳥の「羽交(はがい)」に似ていることからその名前がつけられましたがこの船も櫓で漕ぐため、水主たちは大変疲れました。ところが、「弁才船(べざいせん)」と呼ばれる船は木綿の帆で風の力を最大限に利用しているので、水主もあまり多く必要としないことと、荷物も多く積めるということで北前船として多く用いられるようになりました。
2.航路と荷物の輸送
寛文12年(1672)河村瑞軒によって開かれた西廻り航路によって、その後、蝦夷地(北海道)と上方(大坂)との間を往復することができました。酒・紙・米・木綿・塩・筵などを船に積み、5月下旬に蝦夷地へ着き、帰りには鯡・昆布・数の子・白子などの海産物を積んで11月に大坂へ帰るという交易を行っていました。
3.敦賀との関係
約600年前から、京都の商人によって蝦夷地の昆布を敦賀まで運んで、琵琶湖を渡って京都へ運ばれたのが始まりで、江戸時代に入ると近江商人の活躍によって敦賀が大切な港町として発展しました。伊勢茶・美濃茶・近江茶が大量に港から運び出されて活気づき、「茶町」が誕生し、海産物を輸送するのに筵の需要が高まり、沓見では筵の生産に追われました。また、船の安定と移出で釘を多く必要とする為、港近くの町には釘作りの鍛冶職人が集まりました。船に用いられた船箪笥・机などの唐木細工では名人・名工が輩出し、現在、敦賀まつりで曳かれる山車もその工芸品の名残といえるでしょう。
主な寄港地
江差、函館、深浦、能代、秋田・土崎、酒田、佐渡・小木、新潟、輪島、三国、敦賀、小浜、但馬・竹野、鳥取、境港・美保関、浜田、下関、杵築、丸亀、淡路島、大坂
「北前船とは」きらめきみなと館 桜町 敦賀市 福井県