金ヶ崎城は「大平記」に「かの城の有様、三方は海によって岸高く巌なめらかなり」とあり、この城が天然の要害の地であったことがわかる。 南北朝時代の延元元年(1336)10月、後醍醐天皇の命を受けた新田義貞が尊良親王・恒良親王を奉じて当時気比氏冶の居城であったここ金ヶ崎城に入城、約半年間足利勢と戦い翌2年3月6日遂に落城、尊良親王、新田義顕(義貞嫡子)以下将士300余名が亡くなったと伝えられる。 戦国晴代の元亀元年(1570)4月には、織田信長が朝倉義景討伐の軍を起して徳川家康、木下藤吉郎(豊臣秀吉)等が敦賀に進軍、天筒城、金ヶ崎城を落とし越前に攻め入ろうとした時、近江浅井氏が朝倉氏に味方するとの報告、信長は朝倉氏と浅井氏との間に挟まれ窮地に陥り急遽総退却、この時金ヶ崎城に残り澱(しんがり)を務めてこの難関を救ったのが秀吉でその活躍で無事帰京できたと伝えられる。(中略) 現在は三つの城戸跡などを残し、急峻な斜面は当時の面影を偲ばせる。また、最高地(86m)を月見御殿といい、近くには金ヶ崎城の碑があり、この辺り一帯の平地が本丸の跡といわれる。以下略
国史跡金ヶ崎城跡 金ヶ崎町 敦賀市 福井県