伊勢街道−1



日永−神戸白子上野
いこいの広場
日本紀行
伊勢街道−2

伊勢街道は東海道と伊勢神宮を結ぶ70km余りの参詣道である。東海道四日市宿と石薬師宿のほぼ中間、日永の追分で東海道と分かれ、伊勢神宮へ向かう。名古屋、江戸方面から伊勢に向う参詣道は東海道桑名からはじまっていた。七里の渡し場跡に伊勢神宮一の鳥居が立つ。日永の追分に立つのは二の鳥居である。そこから神戸(かんべ)、白子(しろこ)、上野、津、雲出(くもず)、松坂、櫛田、小俣(おばた)の8宿を経て伊勢神宮外宮門前町山田宿に至った。さらにそこから内宮までの1里余の道は古市街道ともよばれた歓楽の道でもあった。

「伊勢にゆきたい伊勢路がみたい。せめて一生に一度でも」と伊勢音頭に歌われた「お伊勢さん」は、江戸時代およそ60年の間隔で数ヶ月間に数百万人という爆発的な「おかげ参り」集団参詣を引き起こした。日本人の原風景ともいえる巡礼道を行く。巡礼者の便宜をはかって、道標と常夜燈が充実していた。なぜか、山ノ神も多かった。



日永

国道1号が県道407号を右に分ける
日永追分。三角地帯に「右 京大坂道」「左 いせ参宮道」と深く彫られた嘉永2年(1849)の道標と伊勢神宮二の鳥居が建つ。右(県道407号)が旧東海道、左の伊勢街道はそのまま国道1号を700mほどすすんで県道103号に移る。
大治田(おばた)バス停脇に4基の道標がある。蜜蔵院への道しるべのようだ。
次ぎの路地を左に入ると大治田(おばた)神明社があり、境内に「山神」があった。

工業地帯を通り抜け、内部(うつべ)川手前の二股で右の旧道に入る。内部川に突き当たり、河原田橋で迂回する。又兵衛橋を渡ると旧道筋らしい落ち着いた河原田集落に入っていく。左手に「津市 6里32町」「宇治山田市 17里4町」などと書かれた距離標がある。

その右手の路地を入って行くと、川沿いに内部川橋から移設された天保14年(1843)の大きな常夜燈がある。品のよい常夜燈だ。前を通る道は旧采女道と呼ばれ、蛇行して西に延びている。

小学校の先を右に入ると石段を上った高台に
河原田神社がある。境内は桜祭りの只中で、幼稚園児の集団が花見から帰ってくるところだった。

神社前の堤の道を南に歩いていくと左土手の中ほどに自然石の
6基の庚申塔と常夜燈が並んでいる。いずれも自然石の素朴な石塔である。土手上からは覗き込まないと見過ごしやすい。

旧街道は県道103号を横切り、JR関西本線の踏切を渡って右折し線路に沿って進む。県道の高架とその先の工事中トンネルをくぐった右手に
寛政11年(1799)の常夜燈がある。台座には駿州府中日野屋、遠州視付穀屋、尾州宮貝屋、勢州四日市黒川、江戸新門池田屋などの名が刻まれている。幅広い地域からの寄進によるもので、もとは高岡橋北詰に建っていた。

旧道は堤防にあがり、県道が渡る鈴鹿橋より350m上流の高岡橋を渡る。嘉永6年(1853)鈴鹿川に無銭渡しの木橋が架けられた。


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神戸

鈴鹿市に入り、堤を西に歩いて旧道に降りる。堤上に文化4年(1807)建立の石階段付き常夜燈がある。但し階段は平成時代のものであった。

高岡集落をぬけると街道は古代条里制が残る田園地帯を一直線に延びる。旧十宮(とみや)村三軒屋の入口右手に、文化14年(1817)建立、大正9年再建の常夜燈が立つ。

三叉路で左にカーブした右手、橋の袂に
神戸見付跡の案内板がある。伊勢街道最初の宿場神戸宿の入口にあたり、木戸が設けられていた。街道の両側に石垣と土塁が残っている。

すぐ先右手に、今も営業している
旧旅籠屋の「可美亭」旅館がある。繊細な千本格子に2階のうだつと手すりが色気を漂わす。ほかにも連子格子やうだつのある家が見られた。

左手に染処竹野屋が「洗張」「しみぬき」などの幕を垂らして趣きある店構えを見せている。

神戸8丁目交差点を越え六郷川に架かる
大橋をわたる。桜が満開であった。このあたりは昔神戸藩士の水泳練習場であったといい、蛍の名所でもあった。

道は三叉路を左にとって曲尺手状にすぐ次ぎの三叉路を右に折れていく。最初の三叉路は
高札場跡で神戸町道路元標と距離標があった。次ぎの宿場白子まで1里22町44間とあり、日永追分と白子宿のほぼ中間にあたる。このほかに、高札場角には元禄2年(1689)に建てられ「右ニ京ミち有」「左参宮かいどう」と刻まれた道標があったそうだが、今は観音寺に保管されているという。後ほど観音寺に寄ってみたがみつからなかった。

神戸2丁目の大通りは広くて新しい。昔の面影は次ぎの信号交差点で県道8号を西に折れた一角に残っていた。右手に
近江屋菓子処、道路の反対側には白漆喰塗にうだつと虫子窓を設けた「かめだ屋」、創業元和2年(1616)の屋根看板を掲げる「檜物屋」が町屋の名残をとどめている。

道路の北側に
「石橋」の解説板があり、神戸城下の由来が述べられている。16世紀半ばころ織田信長の三男神戸信孝は、以前は神戸の東を通っていた伊勢街道を城下町を通過するようにし、父信長にならって楽市による自由営業を認め、城下の繁栄をはかった。

近くの観音寺に寄った後、神戸高校の西側にある
神戸城跡を訪ねる。道順が少々わかりにくかった。石垣がのこる公園に立つ案内板が神戸城の運命を詳しく伝えている。

伊勢平氏の子孫関氏の一族神戸氏は、南北朝時代(14世紀)飯野寺家町の地に沢城を築いたが、戦国時代の1550年には、この地に神戸城を築いて移った。 神戸氏7代目友盛は、北勢に威を振るったが、信長軍の侵攻により永禄11年(1568)その三男、信孝を養子に迎えて和睦した。 信孝は、天正8年(1580)ここに金箔の瓦も用いた五重の天守閣を築いた。しかし、本能寺の変後、岐阜城に移り、翌年秀吉と対立して知多半島で自刃し、文禄4年(1595)には天守閣も桑名城に移され、江戸時代を通して天守閣は造られず、石垣だけが残された。江戸時代、城主は一柳直盛、石川氏三代を経て享保17年(1732)本多忠統が入国する。本多氏の治世は140年間7代忠貫まで続き、 明治8年(1875)城は解体される。その後、堀は埋められ城跡は神戸高校の敷地となった。天守台や石垣に悲運の武将を偲ぶことができる。

信号交差点の街道に戻る。左手の真宗高田派神戸別院は明治2年と明治13年の巡幸の際
明治天皇行在所となった。広い通りはそこまで。細い旧道にもどり、魚次商店につきあたって左折する。隣りの立石餅売っている「あま新」は元禄2年(1689)の創業だそうだ。店は閉まっていた。

神戸3丁目の落ちついた家並みを通って信号交差点を右に折れると地子町公民館のとなりにある小公園に、古い
常夜燈と道標が保管されていた。常夜燈は、嘉永2年(1849)に幸橋木戸前に建立されていたもので、明治18年の洪水で倒れ、竿部分だけが残ってここに移設された。元の場所には昭和5年大きな常夜燈が再建されてある。道標は、やはり幸橋を渡った場所から移設されたもので元禄2年(1689)の建立、「右いなふ道」「左志ろこ道」と刻まれている。幸橋は神戸の西の見附けにあたるところで木戸が設けられていた。

県道8号をよこぎって鈴鹿駅入口交差点手前右手に「大日如来道」「鎌倉権五郎影政舊跡塚」と書かれた道標がある。細い路地をはいって幹線道路を横切った草むらに露座の
大日如来石像と「鎌倉権五郎元塚」と書かれた円柱碑がある。円柱碑は寛治元年(1087)という古いもので、源義家の家臣鎌倉権五郎影政が後三年の役で敵に片目を射られながらその敵を射殺した。この場所にあった小池には片目の鯉がいて、その水は眼病に効くといわれていた。池は涸れてしまった。鯉は影政の化身であったのだろう。

伊勢鉄道の高架をくぐって車道を横切り再び旧道(県道553号)にはいると、肥田町の入口に山の神が祀られている。

左手に黒板塀をながくめぐらせた風情ある屋敷がある。醸造業を営む
服部家だ。

T字路左の角に低い道標があるが磨耗が激しくよくわからない。「若松道」と刻まれているらしい。その先右手に肥田町集落の終りを示す山神がある。この街道はまことに山神が多い。

旧街道は県道553号を左に分け直進、くの字に右にまがって金沢川をわたる。道路工事区間で旧道は一部消失、その先肥田町交差点で国道23号を横断し右折して北玉垣町に入っていく。

正信寺の前で
曲尺手となり角に文化4年(1807)の丸い自然石に「右さんぐう道」と刻まれた道標がある。左折角に杉野商店が古い佇まいを見せている。

道は国道に接して左に折れる。右手角に元治2年(1865)の道標があり「左さんぐう道」と刻まれている。

まもなく十字路にさしかかり左手に弥都加伎(みずかき)神社がある。右に折れて少し先に弥都加伎神社への道標がある。明治2年天皇の神宮参拝に際し勅使が当社に派遣されたのを記念して建てられた。

南玉垣町の出口を示す
山神が祀られている。
東玉垣信号で県道507号を横断しフジクラ鈴鹿工場の前を通り過ぎる。


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白子 

やがて近鉄名古屋線を横切って県道6号を右折する。左手に、鎌倉時代に作られた地蔵を祀る「
北の端の地蔵堂」が、その横には、役行者神変大菩薩がある。白子宿の入口である。

この辺りは家がギザギザに建っておりその
ノコギリ状の家並みは敷地にそった側溝によりはっきりと認めることができる。見通しを遮る工夫で町の防御を目的として考案された。家単位にまで縮小した曲尺手の極め付きといえる。

その先の曲尺手で左折して
江島若宮八幡宮による。宝殿に廻船業者が航海の安全・商売繁盛を祈願して奉納した絵馬がさりげなく展示されている。図柄には七福神・武者・馬などのほか、町絵図・廻船図などがあり、当時の白子の町や港の様子がしのばれる。

神社南側の小公園には、文政3年(1820)建立の常夜燈がある。江戸・白子の廻船問屋・積荷問屋が寄進したもので、白子港に出入りする船のために灯台の役目を果たしたという。

街道にもどる。街道沿いには切妻平入り造りで虫籠窓・連子格子を備えた町屋が軒を連ねる。左手に黒板塀に囲まれ屋根越しに松が覗く立派な屋敷が目を引く。江戸時代の豪農で明治時代には干鰯商なども商っていたという
伊達家である。

その先にも虫籠窓・千本格子の旧家がある。元廻船問屋の
河合家母屋で、裏には米倉があり敷地は海まで続いていたという。

白子は江戸のはじめは津藩領であったが、元和5年(1619)からは紀州藩領となった。伊勢参宮道の宿場町であると同時にその湊は伊勢商人の流通拠点として特産の染型紙や伊勢木綿が江戸に送り出された。

街道は、郵便局の所で曲尺手になっており、右折してすぐ左折する。その左折する所の右角に
高札場跡の説明札がある。角に建つ家も大きな構えである。

伊勢街道白子町東公園前に「旧河藝(かわげ)郡役所跡」の案内板がある。その先右に出ている細い路地を入って
伊勢型紙資料館に立ち寄る。白子屈指の型紙問屋だった寺尾家の建物が資料館として公開されている。

街道にもどって先に進む。
繊細な格子造りの
よこた材木店はまちかど博物館となっている。
建物はモダンだが大徳屋長久は享保元年(1716)創業の老舗菓子処。

つぎの交差点で県道は右折していく。街道は直進。そこを左折して掘切川河口にある白子港に行ってみる。紅屋橋の先に海浜公園があり、そこに海に向って
大黒屋光太夫の碑が建っていた。大黒屋光太夫は伊勢国若松の船頭で天明2年(1782)白子港から出航して遠州灘で遭難してロシアに漂着した。10年後帝都サンクトペテルブルクで女帝エカテリーナ2世に謁見して帰国を願い出、寛政4年(1792)に根室港に帰国を果たした。

街道に戻り、和田橋を渡って鉤型に折れると中二階の旧街道風家並みが続く中、右手に式内久留真神社がある。その先の曲尺手角に黒板壁の趣きある旧家が構えている。
老舗墨屋「和田栄寿堂」で、その墨は多くの著名日本画家に愛用されてきた。角にはその和田家当主が建てた指差し道標が立ち、「さんぐう道」「神戸四日市道」と刻まれている。数回倒され、現在の道標は昭和12年に建てられたものだが、それも倒されて昭和30年代に建て直したので、もとより1m低くなっているそうである。

白子二丁目も格子造りの家が多く落ちついた家並みを見せている。ところどころの民家の軒先に正月でもないのに注連飾りが掛けられている。当地の風習では一年中飾るのだそうだ。伊勢神宮と関係のある風習なのかどうか。 

右手に
目付役所跡の案内板があった。目付とは上級旗本が就任する上級役人で、旗本・御家人・幕府役人の監察を行う。このあたりには同心屋敷があった。

道は白子から寺家に入る。江島・白子・寺家が白子宿を形成していた。釜屋川を渡って左手にある
鈴鹿市伝統産業会館に立ち寄った。館内には伊勢型紙と鈴鹿墨に関する展示が大半を占める。

型紙とは型染めに用いる染色用具のひとつで、型地紙に、さまざまな手彫りの技法で模様を彫り抜いたものである。体験室ではおじさんが独りしおり大の型地紙に印刷された図案相手にカッターで格闘していた。

煤と膠(にかわ)を混ぜ合わせて作られる墨は、奈良墨と鈴鹿墨が日本二大産地だそうである。

旧道は子安観音寺前を通るのだが、入口がわかりにくかった。電柱にかかったミラーと「しまむら」の広告が目印である。右に入ると路地の正面奥に子安観音寺の楼門がのぞいている。

楼門(仁王門)は元禄16年(1703)の築、境内に寛文10年(1670)の銅燈籠がある。この寺は、真言宗高野山派の寺で、聖武天皇の天平勝宝年間(749〜756)開山と伝わる古刹で、本尊は日本三大観音の一つといわれる白衣観音である。

境内にはまた、国指定天然記念物の
不断桜が満開であった。四季を通じて葉が絶えず、夏を除いて春秋冬に花が咲くという。わが家にある十月桜も4月と11月から2月にかけて細々とさき続けるが、落葉しない桜はみたことがない。

この近くに住んでいた久太夫という老人がこの不断桜の虫食いの葉を見て伊勢型紙を思いついたと伝えられている。

旧道はこの先細い路地を右、左と折れていく。その
角ごとに道標があって迷わないような心配りが見られる。最初の角の道標は、弘化4年(1847)のもので「左くわんおん道」「右さんくう道」と刻まれ、2番目の角の道標は、「左いせみち」「右くわんおんみち」と刻まれ、ともに伊勢に向う方向と観音道への道筋を示している。2番目の道標の頂上部分と北面のすりへったくぼみは、型彫りに使う砥石をならした跡といわれている。

道は小さな川を渡って右折する。蓬来橋北詰に「右いせみち」とはっきり彫られた道標がある。近鉄名古屋線の踏切を横切って、国道23号で横堀川を渡る。すぐ右折して堀切川堤防から
磯山の集落に降りていく。

車一台分の道幅に連子格子の家が連なるいかにも旧街道風情豊かな町並みである。
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上野  

旧街道は磯山集落を抜けて国道23号に合流、中ノ川を渡って最初の東千里信号交差点で国道を離れ左手の近鉄名古屋線を横断して、再び旧道に入る。

伊勢街道は水路を渡った先の二股道を右折する。ここを左に行く道は巡礼道と呼ばれ、津宿入口の追分で再び伊勢街道に合流する。追分を伊勢街道に入った右手に
甕釜冠地蔵堂がある。「かめかまかぶり」といい、露盤の代わりに瓦製の竃(かま)をおき、その上に宝珠の代わりに水甕が伏せてある。この地蔵堂は、参宮道者の無事安穏を祈願し、茶を接待した休憩所だったという。

東千里集落の中ほど左手丹羽家の前庭に丹羽君碑がある。丹羽家はこの辺り十五か村の大庄屋であった。

道は変則十字路を右折して近鉄千里駅踏切りを渡り、更に国道23号を越えてから左折する。県道645号に合流して田中川を大蔵橋で渡る。大蔵橋のたもとには道標があったが、河芸町中央公民館の庭に保存されている。

道は上野宿にはいっていく。連子格子の家が多く残り古い家並みが続く。表札の脇に注連飾りを残している民家が散見される。

小学校を過ぎた左手、上野公民館前に上野宿の案内板が建っている。上野の宿場町は上野藩主分部光嘉が城下町として整備した約2kmの町並みで、元和5年(1619)に分部氏が近江国の大溝(現在の滋賀県高島市)に転封となると上野城は廃城となり、上野は伊勢参宮街道の宿場として発展した。

右手に上野神社の社碑が現れ、その先に鳥居と常夜燈が建っている。神社は更に奥の高台にある。左手に天井の高い2階に黒漆喰塗りの虫籠窓と、一階の優美な千本格子を備えた旧家がある。屋号を
江戸屋といった。 

左手に「江姫」の幟が立つ小堂内に
弘法井戸がある。井戸は四百年前、元和年間(1615〜1623)の頃からあったといわれ、伊勢参拝の人の喉を潤した。地元の共同井戸として利用されてきたが、現在は使用されていないようである。

この先曲尺手になっているあたりは中町といい、宿場の中心街で、西側に本陣、東側に高札場・問屋・脇本陣があった。

少しいくと道の右側に
上野城跡の道標が建っていた。竹林の坂道を上がっていくと公園に整備された伊勢上野城跡に出る。伊勢上野城は、元亀元年(1570)信長の弟、信包が津城の仮城として築城した。お市と三姉妹がしばらく移り住んだ城でもある。文禄3年(1594)、信包が近江に移された後、分部光嘉が城主となったが、元和5年(1619)、分部光信のとき近江国大溝に移されて上野藩は廃藩となった。大河ドラマ「江姫」所縁の地として観光客が増えた。

街道に戻る。
築地塀を残す民家があった。建物は新しい。この土塀も改築時の意匠か、それとも古くからの名残か、よくわからない。

右手に
旧上野村道路元標跡を示す碑と説明板がある。現物は損傷が激しく中央公民館の中庭に保管されているという。「白子町へ壹里参拾壹町九間 上野村」、「距津市元標貳里拾六町四拾参間」、「距伊勢國桑名郡長島村管轄境捨壱里捨六町四捨五間」等と書かれているようだ。

左手に魅力ある建物が二軒続いている。手前は町屋で二階の窓と一階の連子格子に意匠が凝らされ、軒下にはこの地方特有の
大垂(おおだれ)とよばれる垂直の庇を備えている。道路空間を侵さず雨よけを効率化する仕組みであると同時に軒下の装飾にも寄与した。
その隣りは兜屋根の洋風建物である。廃された郵便局か役所風の建物だ。

家並みを楽しみながら歩を進めていくうち街道は国道23号に接近してきた。街道はそのまま斜めに横切っていくが、ここで反対側にある中央公民館に寄ることにする。

中学校の裏側を一両編成の
伊勢鉄道電車がのどかに走る。中央公民館内の中庭に木製四角柱の道路元標が保管され、裏庭に大蔵橋のたもとにあった道標が移設されていた。道標は「右 志ろこかいたう」「左 かんへちかみち」と刻まれてた元禄3年(1690)のものだ。
 
朝陽中学校前信号で国道をよこぎって街道に戻る。少し歩いた先の右手に地蔵堂があり、
高山地蔵尊を祀るものである。このあたり上野城時代は処刑場であったといわれ、処刑された武士の霊を慰めるために建てられた。処刑場は城下/宿場町のはずれに設けられるのが常である。ここは上野宿の南はずれにあたる。

国道23号との合流地点の左手に少し入ったところに「ぢ神社」という小社がある。もとは地の神を祀っていたものと思われるが、今では痔の神となっているそうだ。

しばらく国道23号を行き、「上小川」バス停先で右の旧道に入って行く。

栗真山善行寺の鐘楼の下に道標がある。「是よりにしい志んでん辺」と書かれているらしい。道標は街道沿いにあったもので、「一身田(いしんでん)」は
伊勢別街道の窪田宿がある町で、真宗高田本山専修寺で知られている。道標の足元にかわいい双体道祖神がいた。

近くにある観音寺前には文化3年(1806)建立の
常夜燈がある。街道にもどる細い路地に面して、黒板塀の長屋門があった。

近鉄の踏切を渡った先左手に逆川神社がある

街道は栗真小川町から栗真中山町に入る。ここは分部光嘉が中山城を築いたところで、今でもそれに関係する地名が残るという。
 
右手に入っていった所に創業安政元年(1854)の
寒紅梅酒造株式会社がある。「全国新酒鑑評会.金賞受賞蔵」の金文字看板が誇らしげに掲げられている。

街道にもどる。このあたりに高札場があった。

その先道は現伊勢別街道(県道410)に突き当たり一筋左に移って旧道に入り国道23号を横切っていく。

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伊勢街道は甕釜冠地蔵堂前の二股で左に分かれた巡礼道と合流する。この
合流点に、追分道標、名残松、常夜燈が集まっており、振り返ってながめると絵に描いたような追分である。道標には、「右 白塚豊津道」「左 上野白子神戸四日市道」と刻まれている。

その先左手に、嘉永4年(1851)の自然石に荒く刻まれた常夜燈がある。銘文に、「両宮常夜燈 嘉永四年辛亥孟夏 五穀成就 津領」と刻まれている。ながく続いた飢饉から一息ついた感謝の気持で建てられたという。

道は三重大学前で国道23号と合流した後まもなく国道を左に分けて
江戸橋を渡る。江戸に向かう藩主をこの橋で見送った。津宿の北端である。

江戸橋を渡ると十字路の右手に、津市最古の安永6年(1777)の
常夜燈がある。ここは、右から来る伊勢別街道との合流点にあたる。

伊勢別街道の終着点付近をすこし覗き込むと古めいた家並みが残っていた。古い建物ながら二階の手摺、一階軒の大垂、一階の連子格子、それにうだつと揃っていて町屋か旅籠の名残をとどめている。伊勢別街道は、関宿で東海道から分かれてここに至る。京都方面からの伊勢参宮には鈴鹿峠をこえてこの道をやってきた。

追分角には「高田本山道」と彫られた
道標がある。伊勢別街道は、津から一身田にある真宗高田派本山専修(せんじゅ)寺への参詣道でもある。

津は、慶長十三年(1608)、藤堂高虎が藩主のとき、津城の大改修に併せて城下町を整備し、海岸近くを通っていた伊勢街道を城下に引き込んで宿場町として発展させた。

左手に黒板塀に黒の漆喰壁、見越しの松、蔵、店と思われる軒には大垂があった。

右手には蔵が2棟並ぶ豪勢な屋敷が構えている。
冨田家住宅である。蔵の先を右にはいってみると路地に面して瓦屋根付きのうだつを黒漆喰壁が繋いでいる珍しい門があった。塀は黒板に黒漆喰で統一され、門前の格子柵までが優雅で風情ある佇まいである。

街道に戻ってその先右手は
酢屋阿部商店である。白壁、卯建、千本格子と荒格子の対比、七間半の間口一杯に通した大垂の幕板は数本の柱に支えられて軒先は雪国の雁木に見える。

その先も大垂を備えた古い家が多い。
江戸橋以来の古い家並みは津駅に近づくにつれ疎となり、駅前はまるで空き地である。区画整理事業が行われているらしいが、県庁所在地駅前にしてはさびしい風景だった。

旧街道は駅前通りを素通りしていく。津宿はもっと先だとわかって少し安心した。

駅の反対側に渡て津偕楽公園にある
常夜燈を訪ねる。塔世橋南詰にあったものが移された。偕楽公園はもと下部田山といって津藩主の鷹狩りの場であったが、安政6年(1859)藩主藤堂高猷が江戸染井の別荘から木や石をうつして別荘を造り、これを御山荘と呼ぶようになった。公園はちょうど桜祭りの当日で開園準備の最中であった。

街道にもどり安濃川に近づくあたり右手に聖徳太子ゆかりの
四天王寺がある。寛永18年(1641)、津藩主二代目藤堂高次の時、再建された山門(総門)をくぐると中雀門、本堂が一直線に続く。山門は装飾的な彫刻がすくなく、均整のとれた美しい四脚門である。本堂は戦後の再建で新しい。鐘楼の前には、小さなお堂に北向地蔵尊と多くの石仏が祀られていた。その近くに芭蕉翁文塚がある。芭蕉翁文塚は、芭蕉300回忌を記念して元文2年(1737)、津の俳人菊池二日坊が翁を偲んで建てたもの。

伊勢街道は安濃川に突き当たり
塔世橋を渡る。当初は橋がなかったが、延宝2年(1675)に土橋が架けられた。木橋になったのは幕末のことである。橋の南西詰に平成元年まで使われていた旧塔世橋の高欄の一部が保存されている。赤味がかった美しい御影石に戦災で被爆した傷跡が残っているという。

国道23号の東側を歩き、万町交差点の先の歩道橋南側で、左の小路に入り、一筋目を右折して県道561号を横切る。「旧町名 立町 現町名 大門」の石柱が建ち旧町名の由来が記されている。「観音寺門前の町筋と直交して、西隣りは京口御門まで通じる町筋であったことから立町と称した」このあたりは城下町の中心的市街を形成しており豪商が住んでいたという。

国道の大門西信号に通じる道を左折して大門商店街のアーケードに入る。
十字路の左角に「右さんぐう道 左こうのあみだ」と刻まれた道標がある。ここを左へ行くと、「津の観音さん」と親しまれている
観音堂がある。和銅2年(709)開山という古刹で、東京の浅草観音名古屋の大須観音とならび日本三大観音の一つといわれている。本尊は阿漕浦の漁夫の網にかかったといわれる聖観世音菩薩で、浅草観音と同じいわれだ。

仁王門を入ると、元和3年(1617)の銅鐘や寛永5年(1628)の銅燈籠、本堂の両脇には嘉永6年(1853)の
鉄製樋受などの文化財がある。樋受の寄進者の中に2名の日野屋をみつけた。近江商人であろう。

観音堂の西側の大宝院には、芭蕉句碑がある。民家風の門が閉まっていて公開されていないようだ。格子越に撮った画像はピンボケであった。

街道に戻り、大門商店街を南へ進む。津宿の中心街で最盛期には80軒の旅籠があって賑わっていたが、今は古い家もなく閑散としている。左手の百五銀行が本陣兼問屋跡、ニューマツザカヤが脇本陣だったというが、いずれにも跡碑はない。ただ旧中之番町を示す旧町名石柱があるのみである。

信号交差点を横切ると、宿屋(しゅくや)町、地頭領町の旧町名石柱が設置されている。

ここで街道をはなれ三重会館前交差点で国道23号を横切って
津城跡によっていくことにした。津城は、戦国時代に築かれた小さな城を、永禄12年(1569)織田信包が城郭を拡充し、慶長13年(1608)藤堂高虎が入城すると城を大改修し伊勢街道を移して城下町を整備した。

現在残るのは一部の石垣と内堀のみである。西ノ丸跡である日本庭園入口には藩校有造館の入徳門が移設されている。

二ノ丸西口に設けられた伊賀口御門が伊賀街道の起点となる。現在の津市役所駐車場と津カトリック保育園が対角に向き合う信号交差点付近にあたる。

近くの高山神社をみて街道に戻る。

地頭領町をすぎ東丸之内交差点を右折する。交差点東側には「新魚町(しんぎょまち)」の旧町名石柱があった。西側の通りは旧分部町で別名
「唐人の街」とよばれている。別に唐人の居住区だったわけではなく、津八幡宮の祭礼に分部町からは朝鮮通信使の風俗を真似た唐人踊りで参加したことに由来している。伊勢街道は朝鮮通信使の経路でもない。ただ分部町に朝鮮通信使の行列を見た人がいて、強烈な印象を受けて広めたらしい。

旧道は国道のひとすじ手前の通りを左折して岩田川に突き当たり、岩田橋を渡る。岩田橋を渡って、国道の左側歩道が旧道筋である。岩田交差点を渡ったところで国道23号と分かれて斜め左に入る。旧立合町を通って県道114号を斜めにわたり、五叉路交差点にでる。このあたりはえんま前と呼ばれ、立場になっていて蕎麦屋や茶店が賑わっていた。

左手に延命子安地蔵尊、
閻魔堂、市杵島姫神社(通称弁財さん)が並んである。閻魔堂は、当時この辺りが町のはずれで、角町の守護として建てられた。市杵島姫神社境内には文化10年(1813)の常夜燈と戦災から神社を守ったという樹齢4〜500年のイチョウの大木がある。

五叉路を右におれて阿漕町に入る。ここから東に800mほどで伊勢湾阿漕浦に出る。関西弁で「えげつない」の意である阿漕の語源にかかわる伝説が伝わっている。昔、阿漕浦は神宮御用の禁漁区であった。そこに病気の母親をかかえた平治という漁夫がいて、病に効くという魚の矢柄(やがら)を密漁して、母親に食べさせていた。ある日平治と書いてある笠を浜に置き忘れたために役人に捕らえられて、平治は簀巻きにされて阿漕浦沖合いに投げ込まれた。孝行の美徳と密漁の悪徳が並存しているが、人民は平治に好意的である。

東海村の中世古道を歩いていたとき「阿漕浦」があった。その説明板には、津市の本家にならってここも禁漁になっているとあった。

阿漕町の狭い道沿いには、連子格子・大垂・うだつを備えた古い家が軒を連ね、風情ある景観を見せている。

その家並みの狭間に小さな神明神社があった。祭日なのか、その御堂に人が出入りしている。

右手に黒々とした板壁蔵がつづき、やがて赤レンガ煙突が見えてきた。明治20年創業の
山二造酢である。その佇まいはすっかり阿漕の町並みに溶け込んでいる。



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