旧上野宿町並 河芸町上野 津市 三重県
上野宿は、上野藩主分部光嘉が城下町として整備した約2キロメートルの町並みで、元和5年(1619)に分部氏が近江国の大溝(現在の滋賀県高島市)に転封となり、上野城が廃城となった後も、伊勢参宮街道の宿場として発展しました。 地内は北町・片町・鍛冶町・禰宜町・新田町・中町・須崎町・南町からなり、家数300余軒、本陣・脇本陣・問屋・御七里があり、宿も27軒をこえ、妓楼も7〜8軒を数えた。 当時の当宿を歌ったものに「遠くに見ゆるは上野のしるべの城の松、つかれし足も先何里、遠きも近きも旅心、大きな看板、板看板、とらやまんじゆう、茶屋の香りがぷんとたち、のれんくぐれば味がする。宿場ののれんがまねく万屋か角屋、あめや太鼓、ぎりぎり音にほだされて、後に追ふは里子たち、三味線片手のほうかい棒、あほだら経の旅ながし、いつもにぎあふくるわの華ざかり」とあり、町の繁栄の様子をうかがうことができる。なお、宿内の街道は防衛のため3か所で屈折しており、追幅は9尺であった。           (角川地名大辞典)