この内湖は、天平宝字8年(764)「恵美押勝の乱」の戦場となり、敗れた押勝(藤原仲麻呂)とその一族朗党が捕らえられて処刑された「勝野の鬼江」はこの地と推定されている。又、背後の山中には「壬申の乱(672)」の際、近江朝(大友皇子軍)の基地であった三尾城の存在が考えられるなど、日本の古代史上の二大戦乱の場となった所である。 またこの水域は、古代、びわ湖舟運に欠くことのできない天然の良津であった。今も近くに続く勝野・三尾(水尾)崎・真長浦・香取浦が歌枕として『万葉集』に詠まれている。 中世の戦乱期には、当地の武将たちはこの山中に城や砦を築いて領国の護りとした。近世に入ると、軍事上この地を重視した織田信長は、甥の信澄に大溝城を築かせて城主として配した。ここは又、びわ湖に通じる大溝城の外濠としての務めを果たしたのである。 昔は洞海と呼んでいたが、昭和初期、淡水真珠の養殖場として利用された頃から「乙女ヶ池」と呼ぶようになった。 この池は、県有施設として平成3年度から平成5年度の3ヵ年で水景整備され、釣りを楽しむ人や、歴史とロマンを求めてここを訪ねる人が多い。  平成9年3月   高島町観光協会
 乙女ヶ池 勝野 高島市 滋賀県