小野組は、明治維新期に三井組(三井財閥)と共に政府の御為替方として日本の経済界に重きをなした異色の近江商人である。明治六年に三井組と第一国立銀行を創設したほか、最盛期には全国に為替支店を四十有余持っていた上、その他、製糸事業・鉱山経営・生糸取引なども手広く手がけていた。 みちのくの岩手においても、寛文二年(1662)以来、盛岡を中心に高島の地から小野一族が進出し、造酒業・質商・雑貨商などを手がけて成功し、盛岡財界に重きをなした。その後、小野組は京都へ進出したのであるが、今でも盛岡を中心とする岩手で先祖が高島出身の末裔の人が多く活躍しているのは、小野一族の実績によるところが大きかった。 不幸にして明治初期に京都・江戸で活躍した小野組は明治7年に閉店したが、小野組の名は日本経済史に刻されている。その小野組の出身母胎は湖酉高島であり、この宅地に小野組総本家の建物があったのである。平成6年10月1日 高島町教育委員会
 小野総本家の宅地跡 勝野 高島市 滋賀県