山陽道(西国街道)9



山中−船木厚狭市吉田小月長府下関

いこいの広場
日本紀行
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山中  

HOTEL ZOOの脇を通って旧道に入り、割木松(わりごまつ)という小さな集落を通り抜ける。割木松とは、防長の境にあった松を両国の農民が争って切り取ったことに由来するという。

右手に庚申塔がある。

三界万霊の地蔵の先で国道2号に戻る。

国道を400mほど進むと右手にHOTEL ZOOの看板が立っている。といっても看板の裏側をみているだけで、通り越して振り返らなければ何の看板かはわからない。看板の背後に人が入れるだけの獣道がある。倒木が積み重ねられていて通行を禁じているようである。無理して数メートルを踏み越えると旧道らしい山道が続いていた。旧道は山裾をたどっていて、左側には田圃の広がりが見え隠れして気分は明るい。

丸太橋を渡ってしばらくいくと農道に出、道なりに坂を上がって車道に出た。道端に「旧山陽道跡」の標柱があって約600mが昔のままで残っているとある。入り口にも同じ標識を立てておいて欲しかった。

山中上市集落への入口右手に熊野神社に通じる車道があり、その山側に白い標柱があり、「極楽寺跡」と記されている。江戸時代、ここには専念寺があり、上市宿の本陣として使用されていた。

山中市は上市と下市からなるが、その間は約1kmと離れている。永和4年(1378)に伊豆国の浪人伊藤彦四郎が一里四方の深山を切り拓いて新宿とし甲山市とした。のちに山中市と改められた。山中市は半宿であったが、宿馬15疋を備え本宿同様に扱われた。

集落に入るとすぐ右手に変則二階建ての立派な家が建つ。二階は低い中二階屋根と通常の二階屋根の部分に分かれ、低い二階壁には虫籠窓が切られている。一階と高い二階の窓には連子格子が組まれ、妻側の白壁と赤い石州屋根瓦が上品な佇まいに仕上げている。

その隣に大きな自然石の庚申塔があり、熊野神社の鳥居が建つ。石段をのぼると小振りながら唐破風付の品格ある社殿が建っていた。山中宿を開いた伊藤彦四郎が熊野権現を勧請したことにはじまる古社である。

300mほどで上市の家並みを通り抜け袂に三界地蔵がある上山中下之橋に差しかかる。旧道は橋を渡らずに右折して川沿いを進んで国道に合流する。

国道右手に伊藤彦四郎入道の墓跡の標柱がある。

山中下市は国道に分断されて道路の両側にある。右手中程に「山中本陣跡」と書かれた標柱があった。遺構はない。下市も小さな集落である。

国道は大きく左に曲がる。甲山川を渡り車地信号交差点を左折して旧道に入る。丁字路に突当った厚東川沿いに「駒の頭」と書かれた標柱が立っていて、側面に「藤本五左衛門が甲山川から木田平野に噴水式による灌漑サイホン式設備」と記されている。文が少々変で要領を得ないが、要するに甲山川の水を噴水式で吸い上げて厚東川対岸の木田地区に流したということであろう。対岸の木田村は地位が高く、厚東川の水が利用できなかった。

道は厚東川に沿って南に下る。木田橋手前に創業明治21年(1888)の「男山」醸造元永山本家酒造場がある。新旧二様の酒蔵がみえるが社屋は全体的にモダンである。

木田橋のあたりが二俣瀬の渡し跡である。橋を渡って左折、国道2号を斜めに横切って薬師堂集落に入る。右手に庚申塔を見て、丸山ダム信号で国道2号に合流した後、すぐに右斜めの旧道に入っていく。

瓜生野区公会堂の先の丁字路右手に「殿様道」と記した標柱が立っている。これが玉木坂とよばれる峠道で、向こうの吉見側では「どんだけ道」とも呼ばれている。

表示に従って右に入って行くとすぐに山道となり
大歳社の前に出た。その先丸山ダムへの舗装道路を横切って旧道は続いている。途中の二股を右にとって草道をたどって行くと送電線の鉄塔脇に出た。整備された道を進んでいくと整備道は右折し、直進する草道とに分かれる二股に出る。旧道はここを直進し、快適な山道を経て県道37号へ出た。

十字路角に「道路史蹟山陽道跡」の標柱が立ち、ここに
「どんだけ道」の名が紹介されている。

旧道はそのまま県道を横切って大坪川の橋を渡り、山裾の土道へ入っていく。「旧山陽道」の標識が入口を示して迷うことはない。この辺りに春日一里塚があった。

かつては通行不能の道になっていたが、整備が行われて問題なく歩くことができる。平坦な山道をたどって厚東中学校グランド東側に出た。ここにも「旧山陽道」の標識があった。

国道2号に合流して800mほど行った下岡信号の先で左に出ている細い道が旧道である。新幹線の高架下をくぐって、道なりに右に曲がって行く。萱曲古墳を迂回する道で萱曲道と呼ばれているらしい。川沿いの道に下りて二股を左にとって国道に戻る。

下岡の南方、厚東川沿いあたりに古代山陽道の阿潭(あたみ) 駅家があったと考えられている。

国道を西進して吉見峠(標高90m)を越える。

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船木 

峠で吉見から船木に入る。道は下り坂になって左に曲がるところで、旧道は国道を右に分けて斜め左に下りて行く。左に六地蔵を見て宇部興産専用道路の高架下をくぐると三叉路左手に「山陽街道一里塚跡」の標柱が立ち、地蔵と大師堂が祀られている。終点の赤間関まで9里の地点である。

船木の家並みに入る。岡崎八幡宮の鳥居の向かいに「船木宰判御高札場跡」の標柱が立つ。

岡崎八幡宮の境内には樹齢700年、高さ20mの楠が聳えている。岡崎八幡宮は宝亀元年(770年)和気清麻呂が豊前国宇佐八幡宮の分霊を勧請したことに始まる。当社は清酒の御神酒の醸造が許可されていて、清酒醸造免許神社は他に伊勢神宮、出雲大社、莫越山(なこしやま)神社(南房総市)の三社しかない。一般販売むけではなく、神事として年一回新嘗祭に献納されるものである。岡崎八幡宮では宮司宇津見家が代々室町時代の醸造法を継承して御神酒醸造殿で造られている。

左手に願正寺がある。「史跡松下園(寺子屋)跡」と書かれた白い標柱がある。嘉永元年(1848)から明治5年(1872)まで寺子屋が開かれていた。

右手に古い門構えに赤レンガ造りの塀を囲った屋敷が建ち、大きな蔵店が連なっている。銘茶「萩しのぶ」を営む山口銘茶である。

左手の酒店も古びた趣である。

茶店の角を右に入っていくと船木ふれあいセンターと合同庁舎(旧楠町役場)があり、そこに、船木御茶屋(本陣)跡、船木宰判代官所跡、舩木宰判勘場跡の石碑がある。萩から出張する代官以下の居る役所を「代官所」といい、大庄屋以下の役人が出勤する役所を「勘場」と称した。
御茶屋は本陣として使われた。

石炭発祥の地」と書かれた大きな碑もある。船木では江戸時代の初期から石炭が採掘されていて、家庭用の明かりや調理の燃料として使用されていた。江戸時代の後期になると、石炭は塩業用の燃料や蒸気船等の船舶の燃料としても重要視され、採炭地も山陽小野田地区や宇部地区にも広がっていった。明治時代以降は、船木地区で中小の炭鉱が数多く出現し、昭和初期にはそのピークを迎えた。昭和20年代になるに従って採掘量が減少して、昭和39年(1964)にはすべての炭鉱が船木周辺から姿を消すことになった。

街道に戻り、広い車道との交差点を渡った右手に「旅人荷付場跡」の標識がある。船木は本宿で、ここには駅馬15頭と人足十数人が用意された。「旅人荷付場跡」とは問屋場のことであろう。

大通りの西側にも白壁や格子造り、うだつを設けた町屋風の建物が散在して旧街道の面影を残した家並みが見られる。

右手に水路をまたいだ石橋が現れ、玉垣、石鳥居と大きな常夜燈が建つ大木森(おおぎもり)住吉宮がある。これらは永5年(1852)8月の1650年式年祭で、整備されたものである。社殿は文化11年(1814)の建立で、比較的簡明な造りである。神功皇后が軍船を作るためにここの楠を切ったという伝承があり、「船木村」、「楠町」の地名の由来となった。

すぐ先に大きな地蔵がある。船木宿の西端は「茶屋」という信号五叉路になっている。豊臣秀吉が筑紫から帰陣の節、有帆川を渡ったこの辺りに御水茶屋を造らせたといわれる。

国道2号に合流して有帆川を船木大橋で渡る。900mほど先の新川信号で左斜めの旧道に入っていく。のどかな旧道の半ば先、右手に「長谷川玄道寺小屋跡」と書いた標柱が立つ。長谷川家は厚狭毛利家の儒医だった。跡地は草が生い茂る空き地で何の遺構もない。

国道にもどって更に1.4kmほど行った所、逢坂バス停の先で右に入る道筋が旧道である。旧道入口に案内立札があって、「県指定有形文化財(彫刻)(乳観音ともいわれ逢坂観音堂に安置)木造十一面観音菩薩立像 千林尼の石畳路(一部分) 山陽街道(残存百米)」と記されている。家並みに入ってすぐの右手民家前に長さにしてわずかに5mほどの区間であるが、石畳が露出している部分があった。慶応年間に千林尼が悪路に難渋する人々を見かねて托鉢の浄財で造成した道と言われている。石畳は土道に見るのが今までの常だった。舗装道路に保存された石畳を見るのは初めてである。

坂道を登りつめた右手に小さな逢坂観音堂(乳観音)がある。一見集会所のようで観音堂とはとても思えない。その中に木造十一面観音菩薩立像があるそうだ。

観音堂の先は山道となって入口に「史跡山陽街道の一部(残存)」の案内標識がある。旧道を楽しむ間もなく国道に戻った。

逢坂信号で国道と分かれ、右側の県道225号にはいり、西見峠(標高57m)を越える。宇部市と山陽小野田市の市境である。


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厚狭市 

峠から数メートル先の右手、法面に半円形の出っ張りがある。覗いてみると奥に小さな地蔵がすくんでいた。山裾にあったものが、法面をコンクリートで固めた時、地蔵を土管で覆ったものだろう。

その先左斜めに下りて行く旧道があり、分岐点に「左旧山陽道」と刻まれた新しい道標がある。右手の藪に一里塚があったらしい。

右手に埴生田堤という池を見下ろしながら旧道はその池を回り込むようにして下りていく。池のほとりから坂を上がってPDK山陽工場の正門を通り過ぎて右に下りて行くと厚狭の町が見えてくる。

右手に文化6年(1809)の大きな庚申塔があり、その後ろに祠ばかりの雑賀神社がある。

街道の両側に鳥居が向かい合っている。左が護国社、右は県道225号を渡った先にある鴨神社の鳥居である。街道をはなれて鴨神社に寄ってみると小さいながら彫刻がほどこされた立派な社殿であった。縁起によると、延暦7年(778)に百済の聖明王妃を祀ったのが起源と言われている。寛治4年(1090)に厚狭庄公田30町歩が京都の加茂社へ寄進され、その時に加茂御祖社を勧請して厚狭に鴨神社が創建された。厚狭駅の北側に「鴨庄」の地名が残る。

国道316号との交差点辺りに高札場があった。

白壁に「男山」と書いた酒蔵は永山酒造のもの、「どくけし茶」の看板を立てた茶店は二階に海鼠壁と虫籠窓を配した町屋造りである。

国道から一筋西の路地を南に入っていくと厚狭高南校舎があるが、その辺りに
厚狭郡家があったと考えられている。北側の空き地に門と白壁土塀が残されているが何の遺構だろうか、廃寺跡の雰囲気であった。ちなみにここの地名は「郡」で郡衙跡を推定させるにふさわしい。

厚狭は古代山陽道の厚狭駅家が置かれた所でもあり、この先では条里制の遺構も発見されたなど、ともかく厚狭は古い土地柄であることに間違いない。街道に戻りまもなく厚狭川に突き当たる。厚狭の宿場は500mほどと小さかった。

鴨橋を渡って左折、川沿いに南下して山陽本線と新幹線の手前で右折するが、その先は山陽本線の線路で道が分断されている。ガード下をくぐって迂回し線路脇の旧道延長線に戻る。西に向かって二股の左側の道が旧道である。そこからおよそ1.3km真直ぐな一本道が延びている。このあたり一帯に条里制の名残がみられるという。

石丸橋で大正川を渡ると石丸に入り、道は細くなってくねくねと集落を継いでいく。

石丸集落中程の二股を左にとり、集落を出たところの二股を右にとって直椎する。

田園と林を縫いながらのどかな道をたどって七日町の集落を抜けていく。

家並みがほぼ尽きたあたりで二股に差しかかり分岐点に道標がある。「右吉田道」「左はぶ道」「明治十年」と刻まれている。左手の埴生に向かう細道との追分である。「はぶ道」は中世の山陽道で、山越えの吉田宿を避けて海側の埴生を経て小月宿に至る近道であった。古代山陽道は厚狭駅家から埴生駅家を経て小月の宅賀(たか)駅家へと続いていた。

近世山陽道は右の吉田道を行く。

川の手前の十字路に「幸神」と刻まれた自然石がある。「庚申」と同じか。

250mほど行った先の二股で右にとって橋を渡って左折する。右手の森に山野井神社がある。街道は山野井神社を回り込むようにして進み、県道225号を横断する。

山里の長友集落を抜けると、山道に入る。左手に小さな祠があるあたりに駕籠立場があった。

すぐ先左手に猿田彦大神の石塔がある。集落出入り口に建てられる賽の神であろう。

旧道は二股を右にとって金錆第2踏切を渡り左折、すぐに石炭跨線橋を渡って線路の南側にもどる。

山陽国際GCの北端を線路に沿って西進、山陽本線の福田トンネルの入口手前でその上を越えて山陽本線の北側に出て、二股を左にとってトンネルの出口の上で再び山陽本線の南側にもどる。短い区間で線路をわたったり、跨いだり複雑な道筋になっている。このあたりを石炭(いしずみ)という。船木は石炭発祥の地であった。このあたりにも炭鉱があったのか。

トンネル出口の上を渡っているとき、西に向かって大勢の中高年男性が三脚を立てて手持無沙汰だった。遠くから一本の線路が延びてきて二手に分かれてトンネルに入っていく。電車が来るのを待っている鉄道写真愛好家であった。5分くらいなら私も仲間に入れてもらって一枚撮ろうかと思いながら「次の電車はいつですか」と尋ねると「1時間半くらい」とのことだった。この人たち一日ここにいて数回の出会いを待つのである。

500mほど線路に沿って下っていき、右折して境国第2踏切を渡って県道232号に出て左折する。正面に福田八幡宮がある。

県道を西にすすみ、左に折れる三叉路角に「右吉田 左埴生 道」と刻んだ道標がある。ここで県道と分かれて右折、家並みの最初の二股を左に入っていく。その先の二股との中間に「旧山陽道 左吉田へ 福田茶屋」と書いた立札があった。手前の二股なのか、その先のことか位置が中途半端で紛らわしい。

いよいよ山陽道最後の難所蓮台寺峠道への入口である。家並みをぬけると左に棚田が連なる農道となる。ひと際高い段の前で左折して山沿いの道を上がっていく。棚田の最上段にきたところで、左の山道に入る。振り返ると田植えを待つ棚田と上福田の集落が見下ろせるすばらしい眺めである。

林はすぐにぬけて右折、左に下福田集落の棚田が広がっている。旧道は田と山裾の間を上がっていく。右手に地蔵をみて歩いて行くとぬかるみの箇所にきた。幸い数日晴天が続いた後だったからか、靴をほとんど汚すことなく渡った。路肩に砂や砂利が置かれて整備の備えも怠りない。二カ所目の湿地区間には石畳よろしく石ころが埋められていた。

その先下福田から上がってきた農道と合流、その先は深い草道で「路肩注意」の杭とロープ伝いに進んでいく。そのうち送電線の下辺りに来たところで右手の山道に入り、藪や倒木と戦いながら500mほどの悪路を進んでいくとようやく道が開けて丁字路に出た。右手角に二基の石塔がある。この地区を開拓した伊藤初五郎の顕彰碑と庚申塔である。

丁字路を右折するとまもなく蓮台寺峠である。ここで山陽小野田市から下関に入る。



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吉田 

峠をこえると下関市吉田地方(じかた)に入る。村の一部が町として起立すると、残された区域を町方に対して地方(じかた)と呼んだ。そのまま地名として取り入れられているのは珍しい。

下り坂は枯葉に埋もれた道だが舗装道路である。登り道とは天と地の違いだ。快適に下って行くと右から「哲学の道」とよばれる石畳の蓮台寺参道と合流した。蓮台寺は花山天皇(984〜986)を開祖とする古刹である。観音堂に安置されている木造十一面観音座像は、下関市文化財第1号に指定された。石畳の参道を数段登ったところで引き返した。

吉田の町方へと急ぐ。

右からの車道と合流する。合流点に道標があり、「右蓮台寺」「左川久保」と刻まれている。傍に「←常閑寺(五百羅漢) 蓮台寺(十一面観音)→」と記した立札がある。常閑寺へは川久保方面の車道を行く。

街道は車道に移って山陽自動車道をくぐり、900mほど田畑の中をたどって吉田の家並みに入っていく。集落の手前、小川縁に自然石の庚申と猿田彦大神がある。猿田彦大神は道祖神・賽の神と同じと考えられている。

集落に入り、両側に立派な家を見て丁字路に突き当たる。右手に新旧の道標が並んでいる。古い道標には「右上方道」「左萩道」と、新しい道標には「吉田旧街道」と刻まれている。

突き当たり正面に蛭子神社が建っており、高札場の説明札がある。ここを左折し旧宿場街に入る。

吉田は萩藩の
吉田宰判(さいばん)が置かれ厚狭郡一帯の政治経済の中心であった。宿場として本陣も置かれ、その繁栄ぶりを示す上水道の名残が今でも街の両側に残っている。宰判は萩藩独特の行政区分で、郡にあたる。萩藩は18の宰判に分けられ、それぞれに代官所と勘場とよばれた役所が置かれた。

左手に長慶寺がある。永禄10年(1567)、三好長慶の子、信之が廃寺であった香積寺を再興して、浄土真宗に改宗し香積山長慶寺の開祖となった。幕末時には奇兵隊の屯所や病院としても利用された。

左手理容たむらの角を左に入り、二つ目の丁字路を右に行った所左手に崩れかかった土塀が残っている。ここに吉田宰判の勘場と御茶屋があった。春秋冬の三季には代官が出張して租税の決定、貢米の完納、土木工事の検分などの民生を統括した。隣接して建てられた御茶屋は本陣として使われた。幕末には奇兵隊の屯所としても使われたという。

街道にもどる。すぐ西の県道260号との交差点角に三界萬霊地蔵、道標、一里塚跡碑などが集められている。旧山陽道は交差点を直進するのだが、ここを南に折れて東行庵に寄って行くことにした。

東行(とうぎょう)とは高杉晋作の号である。山縣有朋の草庵「無隣庵」があったこの地に東行は葬られた。愛人うのは梅処尼として墓守を勤めた。東行庵は山縣有朋がうのに無隣庵を贈ったものである。晋作の銅像があった。面長で鋭い目つきの男であった。

一里塚跡の交差点にもどり、西に進み小川橋を渡って県道33号に合流、吉田大橋を渡って、木屋川右岸を一路南下する。

右手には満々と水を張った田圃が燻し銀の光沢を放って美しい。



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小月 

旧道は新幹線の手前で右斜め前に上って行く道があり、そこに駕籠立場があったとされるが、新幹線とその先の小月製鋼所の工場で道は消失した。

新幹線をくぐって600mほど先で右に入っていく。
右に本照寺、左に池をみながら行くと小学校の北側に「旧国道」と刻まれた標柱が立っていて、この道が参勤交代で往来した道だと、旧山陽道であることが記されている。明治になって国道となり、昭和に現国道2号が開通してからは、旧国道となった。

十字路を右折して小月神社の前に出る。若宮八幡宮と上の宮八幡宮を併合して小月神社と改名した。大内義隆が献納した太刀一腰や旧清末藩毛利元平寄進の社名額などがある。むくり屋根の向拝が愛らしい

道は神社前の三叉路を左に折れ国道491号を渡る。小川手前、玉垣に囲まれた小月神社旅所に巨大な自然石の庚申塚が建っている。説明板は「高さ2.63m、重量7トンの大きさで日本一とも言うべき」と、誇らしげである。刻まれた文字の中には米2斗(20升、36リットル)入るそうだ。文字の大きさだけでなく刻みの深さも秀でたものだ。刻字の容量を米で測る発想が楽しい。石を倒して米を入れたのかな、立てたままで入れたのかな。

小川を渡って広い本町通りにでる。この丁字路に高札場があった。ここを左折して小月宿に入って行く。

すぐ左手に「騎兵隊宿営地跡←」の立札があった。狭い路地を入ったところに立派な石碑が建てられている。民家の前だが、ここに菊永という旅館でもあったのか、ここに奇兵隊のメンバー4人が宿営したという。

本町通りの西側歩道に移る。

一里塚の碑がある。普通見る石柱ではなく、御影石の西洋墓石風一里塚碑だ。赤間関まで4里、終点まで一日の行程となった。

「本町通り」の石標がある。本町は下市とも呼ばれた小月宿の中心だが、長さは300m余りの小さな宿場であった。近代山陽道の半宿場であった小月は、また古代山陽道の宅賀(たか)駅家が置かれた所でもある。古代山陽道は厚狭駅家から吉田を経ずに埴生駅家を経て小月の宅賀駅家へと続いていた。その場所は現在の日清食品工場当たりと推定されている。

街道はその先の信号十字路を右折する。歩道に道標があり、「右かみがた道」「左とよた道」と刻まれている。説明板にはこの辺りは旅籠のタテ場で、明治時代には人力車のたまり場だったという。本宿でいう問屋場だったのだろう。半宿の小月に本陣はなかった。

右に入ると旧街道らしい雰囲気の細い道となる。右手に「見廻り通り」と書かれた石標が立つ。宿場街である下市と、この先にある歓楽街の茶屋町との間の区間で、武士が治安を見て廻ったとある。治安を心配するほど人通りの多い場所だったのだろう。

小月本町から小月茶屋に入る。右手に「見廻り通り」と書かれた石標がある。見廻り通りの西端である。歓楽街そのものは見廻らなかった。宿場街と茶屋町は自治に任せたか。

小月駅前を通過し、右手下関福祉専門学校入口の角に「旧国道」の石標がある。小学校前にあったものと同じである。

清末鞍馬4丁目の二股手前右手の孝行塚に明治7年に建てられた孝女政の碑がある。政は幼くして父を失い、長く母だけと暮らしていた。結婚してからも母にも夫にもよく仕えたので殿様から度々褒められていたという。明治4年に病死した。清末では政の孝行を讃える者が多く、募金をしてこの碑を建てた。清末では今でも政の命日の5月1日を敬老の日と定めているという。これで徳山のお米・防府岩淵のお石・そして小月のお政と、周防三孝女が出揃った。

二股を左にとり、その先の十字路で街道を離れて右折し坂道を上って行くと、東部中学校の南西端に清末藩邸跡がある。清末藩は承応2年(1653)、長府藩初代藩主であった毛利秀元の二男毛利元知がその領地の一部を与えられ、長府の支藩として清末藩を始めることを許された。神田川と木屋川を東西の境とする地域で、今の小月、清末、菊川町の大部分を含んだ石高一万石の領地だった。

藩邸跡の石碑の傍には
「六角池」と呼ばれた井戸の井側が移設されている。当時庶民の家に井戸はなく大地主石井家の井戸を使っていた。池の清水が清末の地名の起源となった。

県道40号を渡って清末西町から清末千房に入り、のどかな田園地帯が広がる。右手に長大な赤レンガ塀をめぐらせた橋本家屋敷が現れる。手入れさた柘植の植木が綺麗である。赤レンガに赤瓦と、赤づくめの蔵が続き、その向こうに堂々とした長屋門が構えている。この門は、清末藩邸の第一裏門だったもので、明治6年の藩邸処分の折に買い取られここに移築された。

家並みが途切れ、神田川を神田橋で渡る。神田川が清末藩と長府藩の境を成していた。川の長州側に文化8年(1811)の石橋が保存されている。



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長府  

街道は道なりに南下して国道491号を斜めに渡って、国道と山陽本線に挟まれた地区を行く。王司上町5丁目の山陽本線が接近している十字路南東角に宇部一里塚跡の新しい碑がある。赤間関まで三里の地点である。

一里塚から1km余り行った所で才川踏切を渡って長府才川に入り、道なりに右折し国道道491号の高架下をくぐる。まっすぐな一本道を一路南西に進む。長府松小田本町に入り、長府駅前を通り過ぎる。長府江下町にはいると門や土塀のある古い家を見かけるようになり、風情ある家並みが残っている。赤茶けた土壁の土蔵のある屋敷は印象的である。

長府八幡町にはいり右手に忌宮神社の八幡御旅所がある。空き地に大きな石碑がある他何もない。

この辺りにも赤い土塀の旧家が多い。土塀の多くは漆喰がはげ落ち土壁の凸凹が露わになって古代の家並みをみる思いである。

国道2号を横断して印内川を渡ると長府藩の城下町にはいり、沿道の様子は一変して人出の多い観光地となる。商店街の両側は駐車する車で占拠されて狭苦しい。この通りは金屋町と呼ばれ、長府国府の鋳物師が住んでいた区域である。長府に長門国の国府が置かれた。

賑やかな商店街をぬけ県道247号との交差点で、しばらく山陽道を離れて城下町を散策することにする。交差点を右折するとすぐ右手に忌宮(いみのみや)神社がある。長門国二ノ宮である忌宮神社は、仲哀天皇が西国平定の折に豊浦宮を建てて7年間都とした土地といわれ、「仲哀天皇豊浦宮皇居趾」の碑が建てられている。社殿は明治10年の造営でそれほど大きくない。ちなみに長門国一之宮は住吉神社で、内陸を行く国道2号沿いにあり、山陽道から寄ることはできない。

この辺りは、また律令時代の長門の国衙跡であったと考えられている。国府跡に毛利氏による城下町が築かれたため、国衙の遺構は残されず位置は特定されていない。長府図書館の敷地内に、「長門国衙跡」の立札があるそうだが見逃した。

図書館の西側の路地を北にすすんだ突当り左手に乃木神社がある。大正8年に創建され、明治天皇に殉死した乃木希典(まれすけ)を祀る。乃木将軍は東京麻布の生れだが、10歳から16歳まで長府で過した。境内にその旧宅が復元されている。

乃木神社の南の路地は横枕小路と呼ばれ、濃いベージュ色の練塀に囲まれた小路で、別世界に迷い込んだ気分にさせる。

横枕小路の途中左手にある梶山家の表門を入ると松嘯(しょうしゅう)館とよばれる旧松岡家の屋敷跡が公園化されている。松岡家は長府藩医を務めた旧家で、シーボルトとも交流があった。公園の南端、県道247号に面して江戸時代後期に建てられた長屋門が保存されている。

梶山家表門から横枕小路にもどり、西に突当って右折すると、十字路角に国分寺跡の標石がある。遺構は残っていないが、ここから北にかけて方1町の寺域だったと考えられている。周防国分寺が、東西に約1町、南北に2町の寺域を持っていることに比べれば、長門国国分寺はその半分の規模であった。

その十字路を左折して長府藩3代藩主毛利綱元が建てた毛利家の菩提寺覚苑(かくおん)寺に寄っていく。練塀が似つかわしい名刹である。境内には本堂の他に見るものが多い。まず長府生まれの狩野芳崖の銅像がある。長府藩狩野派の御用絵師だった狩野晴皐の家に生まれ、狩野家8代目に当たる。御用絵師として江戸と長府を往復する生活を送った。

本堂前に和銅開珎長門鋳銭所跡の碑がある。和同開珎銅銭やその鋳型、坩堝、鞴羽口などの銭貨鋳造用具が出土し、和同開珎の鋳造場所として国史蹟に指定された。

覚苑寺はまた和銅焼窯元としても知られ、境内の隅、練塀に穿たれた門をくぐった先に現役の登り窯がある。文禄・慶長の役(1592〜98)の際に朝鮮から陶工を招聘して開いた。

覚苑寺を最後に、県道247号をたどって山陽道に戻る。旧道は二つ目の交差点を右折して下関に向かうが、ここで直進してすぐ先の壇具川畔に移築された長府藩侍屋敷長屋を見ることにした。長府藩家老職であった西家の分家の建物である。

旧道を西に向かうと左に曲がる右手に長府毛利邸がある。入口右手に惣社跡がある。長門の国衙に着任した国司がすべての官社を廻る代わりに、ここにすべての官社を集めて巡拝にかえた合理主義の産物である。昭和40年まで、長門国総社の一部を見ることができたという。傍の空堀遺構はその一部か、説明はない。

長府毛利邸は明治36年長府毛利家14代元敏公によって建てられた。大正8年(1919)まで長府毛利家の邸宅として使用され、明治35年には明治天皇の行在所として使われている。中には入らなかった。

毛利邸手前の十字路を右折して古江小路を覗いてみる。横枕小路と同様に左右に土塀が続く小路である。ただ、古江小路のほうが石垣が高い。長府江下町から始まって古江小路まで、長府は実に土塀が多い町である。

長府毛利邸の前で左に曲がって行くと、右手に功山寺がある。由緒ある古刹のようで見ておこうと思ったが、参道から押し出てくる大勢の女子高生に圧倒されて、そのまま通り過ぎた。功山寺の敷地内に下関市立長府博物館がある為であろう。

街道は野久留米街道と呼ばれる山裾の旧道らしいのどかな山道になる。

右手に太い縄で飾り付けた変わった庚申塔を見て前田集落に入る。


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下関
 

坂を下ってくると前方に瀬戸内の海が見えてきた。向こう岸は九州だ。竜飛岬や大間からながめたぼんやり霞んだ北海道の姿に比べ、九州はなんと近いことか。それほどに関門海峡は狭いのである。

旧道が国道9号に合流する手前辺りに古代山陽道最後の臨門駅家があった。この施設は外国の賓客を接待する役割も兼ねており、穴門館、後に臨海館とも呼ばれていた。

また、幕末には前田御茶屋台場が築かれた場所でもある。元治元年(1864)四か国連合艦隊が前田に上陸、前田砲台を占領し、すべての家が焼き払われた。

旧道は国道9号の信号に出る直前で、右手の細い坂道を上がっていく。短いつづら折りの険しい勾配である。一本道ならいいが曲がるたびに三叉路になっていて、間違って民家の玄関先に突き当たること一回ならず、迷路のような急坂である。急な斜面に目いっぱい住宅開発した結果であろう。この間の旧道は当然ながら失われてしまった。

なんとか旧道筋に戻ることができた。この先は関門海峡を見下ろしながら山裾の道をたどり、火の山公園の中を通り抜ける。左下に見える国道9号におりるのだが、なかなか道がない。結局公園内の道を迂回しながら広い車道(国道2号、住吉神社に通じる道)を海側におりて国道9号みもすそ川交差点に出た。平家滅亡の地壇ノ浦である。

国道の北側は駐車場になっていて、関門トンネルの人道入口がある。780mの海底トンネル人道は国道2号である。歩道に道標が建てられていて、「左 すみよし道」 「右 上方道」と深く刻まれている。「住吉道」とは今下りてきた道である。

暗渠となった御裳(みもすそ)川の河口が公園化され、御裳川碑、海峡に向けて設置された5門の長州砲のレプリカがある。ここに幕末の下関戦争時に活躍した長州藩の砲台が築かれた。5門のうち中央の大砲は、硬貨を入れると砲撃音と煙がでる仕掛けになっている。幸いにカメラを構えていたとき一組のカプルが100円玉を入れてくれた。

関門橋近くに壇ノ浦古戦場関係のモニュメントが集まっている。「安徳帝入水之処」碑には、安徳天皇を抱いて入水した二位の尼辞世の句が刻まれている。

「今ぞ知るみもすそ川の御ながれ波の下にもみやこありとは」 
一瞬関門トンネルを思った。

八艘飛びの源義経像と、碇を担いで入水する平知盛の像がある。山陽道を歩き始めてまもなく須磨浦で相対する平敦盛と熊谷次郎直実の像をみた。山陽道の旅は兵庫湊、須磨浦、厳島、そして壇ノ浦と、平家の盛衰の跡を訪ねる旅でもあったような気がしている。

国道9号を1kmほど西に進むと右手高台に竜宮城のような赤間神宮が壇ノ浦を見下ろして建っている。地名「阿弥陀寺町」にあるように、赤間神宮はもと阿弥陀寺で、建久2年(1191)後白河法皇の勅により安徳天皇の御影堂を建立したのが始まりである。明治8年、阿弥陀寺を廃し明治天皇の勅により赤間宮を創建、昭和15年に神宮の称号を宣下された。大戦で焼失した社殿は昭和40年に再建された。その優美壮麗な社殿は陸の竜宮城と讃えられる。

社殿の新しさもあるが、太鼓楼を潜って目にする拝殿の明るい美しさは目を奪うものがある。社殿前に「八咫鏡(やたのかがみ)奉鎮」の碑があって、「第10代崇神天皇より第81代安徳天皇まで1276年間歴代皇位継承の三種の神器」と添書きがある。この辺になると私の理解を越える。

社殿の左手に平氏一門の墓が、更に太鼓楼の外側左手に安徳天皇御陵がある。ここが阿弥陀寺跡か。

赤間神宮から国道を横切って海辺におりると一対の常夜燈の間に船着き場があって鎖を付けた碇が置いてある。本物のようだ。平家の大将平知盛は自軍の最期を見納めた後碇を背に負い安徳天皇の後を追って入水した。その姿は古戦場公園の銅像で見た通りである。

右手に「朝鮮通信使上陸淹留之地」のモニュメントがある。2001年8月、下関商工会議所や山口県日韓親善協会連合会などでつくる建立期成会が建立した。慶長12年(1607)から文化8年(1811)に至るまでの間、12回来日その内、最後の対馬での対応に止った回を除き、明和元年(1764)までの11回において本土最初の地として赤間関(下関)に上陸淹留、また復路においても立ち寄るのを常としていた。朝鮮通信使は釜山から海路、対馬を経て赤間関(下関)に滞在した後瀬戸内海にはいり、室津などによりつつ、大坂から淀川を遡上して京に入った。京からは陸路、中山道・美濃路・東海道をついで江戸に至ったのである。近江では中山道を避けて琵琶湖寄りの別道を行った。その道筋は「朝鮮人街道」として今もたどることができる。

赤間神宮の西隣に建つ春帆楼は日清戦争の講和会議の舞台となった所。その西麓に赤間宿本陣伊藤邸があった。伊藤家は鎌倉時代から続いた名家で、江戸期には大年寄として町政を司り、幕末期には吉田松陰や坂本龍馬らの志士と交流をもった。なかでも龍馬には屋敷の一部を貸して夫婦を住まわせた。

なお下関には二軒の本陣があり、伊藤家は東の本陣とよばれ、西の本陣であった佐甲邸は南部町の「アドバンス21ベイスクエア」マンションの建つ地がその跡地である。

伊藤本陣跡のある通り(国道9号の一筋北の通り)を西に歩くと亀山八幡宮の裏通りとなってその辺りに下関の宿場があった。旧道の道筋は失われているが右手の引接寺前から西方面につづく町並みには旧道宿場町の臭いが漂っている。県道57号の一筋東の通りは旧北浦街道で、日本海側を廻って山陰道に接続している。

旧道は県道57号の大きな五差路交差点を左斜めに渡って下関市役所の南側の道を行く。

ここで街道を離れて亀山八幡宮に寄って行くことにした。鳥居の脇に「山陽道」の石碑があって、説明板には「ここは山陽道の基点九州渡航の起地なり山陽道第一番塚なり(長門国志)」とある。石段を上がって振り返ると唐津市場と港が見渡せる。ここが九州門司とを結ぶ船渡し場で、山陽道の起終点としてふさわしい。

東側の鳥居脇にはなぜか「床屋発祥の地」のモニュメントがある。右側に日本剃刀、左に櫛をかたどった石碑が建ち、真ん中に置かれた大きな球は頭である。鎌倉時代、亀山天皇に仕えていた藤原基晴は訳あって長門国下関に下り、新羅人から髪結の技術を学び往来の武士を客として髪結所を開いた。店の床の間には亀山天皇と藤原家の先祖を祭る祭壇があったので人はいつとはなしに「床の間のある店」転じて「床場」さらに「床屋」という屋号で呼ぶようになったという。

亀山八幡宮は平安時代貞観元年(859)、宇佐八幡宮から勧請された。祭神は応神天皇、仲哀天皇、神功皇后、仁徳天皇である。朝廷、大内、毛利藩主の崇敬が厚く、下関60ヶ町の氏神として尊崇された。昔この場所は亀の形をした島だった。江戸の記録では波打ち際に鳥居が建っていたという。

市役所前の旧道に戻って西に進む。左手「アドバンス21ベイスクエア」マンションが西の本陣佐甲邸跡地である。

右手の寿公園に20歳の金子みすゞの写真をはめ込んだ記念碑がある。金子みすゞは大正12年(1923)、母の再婚先である下関市西南部町の上山文英堂書店に移り住み、支店で働きながら、「金子みすゞ」のペンネームで優しさあふれる童謡を創作し、雑誌に投稿を始めた。記念碑の別面には詩「はちと神さま」が記されている。最近では「非破壊検査(株)」のコマーシャルでおなじみである。
子どもが子すずめつかまえた。その子のかあさんわらってた。すずめのかあさんそれみてた。お屋根で鳴かずにそれ見てた。

結婚ののち、昭和5年(1930)3月10日、26歳の若さで亡くなった。

その先歩道に「馬関越荷方役所跡」の碑がある。江戸時代、馬関は西国一の大湊だった。越荷とは越後方面から北前船で回送してくる米、昆布、数の子など積荷のこと。萩本藩は天保11年(1840)ここに役所を開設、運搬された荷を担保に保管・金融業及び販売を営み莫大な収益を上げ、洋式銃、軍艦購入に充てた。

右手に大正7年のコンクリート造り洋館が建つ。三井銀行下関支店として建てられその後山口銀行の本店となった。イタリアルネッサンス様式の端正な建物である。

その西隣に永福寺参道の石段が出ている。ここに山陽道最後の一里塚があって、終点とされた。山陽道終点を示す標識の一つもない。奥州街道終点、竜飛岬の石川さゆり絶唱に比べれば山陽道の終点はあまりに静かでさびしかった。


九州へは結局亀山八幡宮前の港から門司へ船で渡ることになる。

北海道札幌から下関まで、街道を次いできた。日本紀行も第三コーナーを回ったところか。

完 
(2015年5月)
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