孝女阿米顕彰碑 速玉町 周南市 山口県

お米は寛政3年徳山市橋本町に生まれました。父は日傭で金左衛門と云い母は河内村の農家茂左ヱ門の息女でありました。寛政8年「お米」が6才の時母親を喪いましたので父の足手まといとなるため母親の実家である茂左ヱ門方に引取られて養育されたのであります。享和2年「お米」が12才の時父親が病にかかり、その看護のため「お米」は帰宅したのでありますが天性純孝なので労苦をいとわず、父親が満足するのを自分の楽しみとし、数々の人の真似の出来ないことを行い父親の孝養にその一生をつくしたのであります。当時この立派な行いを見る者、聞く人、皆感嘆してその心がけを賞めぬ者はありませんでした。その時徳山藩主よりは数回ご褒美として米穀や恩賞を賜ったのであります。斯くの如く父親に孝養を尽すこと31年間「お米」が42才の時、父親の病いよいよ篤く、遂に68才にて父親はこの世を去ったのであります。「お米」の哀慕啼哭は人々の感動するところでありました。後年「お米」は病にかかり、重くなるや近所の人々に多年の厚恩を、くり返し拝謝し、次に骨は父母の墓の傍に埋める様に頼み、後の世までも、父親に孝養を尽さんとする気持ちがしのばれ孝養の至誠に胸うたれたのであります。 時に嘉永5年12月4日「お米」は62才を以て逝去し法名を慈順と謐し遺骨は川端町徳応寺境内に葬られたのであります。この至徳の行いに感激し万延元年浦石に立派な碑文が建立せられ碑文は江戸昌平校の安積艮斎氏の手になり書者は書道の大家徳山藩中村春秀が書かれたのであります。 孝女お米百五十年忌を記念して  平成14年4月 孝女阿米顕彰会