はじめ、船木宰判代官所は、「厚東郡宰判」と称し、吉見村中村(現宇部市)付近にありましたが、元禄2年(1689)船木御茶屋(毛利氏公館・本陣)の建設と共にこの地に移転しました。船木では、萩から出張する代官の居い役所を「代官所」大庄屋ほか村役人等の出勤する役所を「勘場」といい、代官は、春秋冬の三回出向き、平素は「勘場三役」といわれた大庄屋・恵米方・算用師が中心で政務についていました。幕末の元治元年(1864)8月、当時の代官が高杉晋作と伊藤俊輔に金子を与えて、有帆大休へ逃がしたという史実に残る場所です。 明治3年(1870)厚狭郡役所が勘場跡に設けられて郡政が始まり、大正15年(1926)に廃止されるまで、船木は旧厚狭郡全体の政治・経済・教育・文化の中心地として栄えました。 明治6年(1873)4月、旧勘場東側(現庁舎)に県下で始めての「女児小学」が開始され、厚狭毛利家の勅子夫人か女教師となられました。明治12年(1879)「徳基学舎」と改称、のち徳基高等女学校、さらに県立へと昇格し近郷からたくさんの子女が勉学にきましたが、明治42年厚狭へ移転しました(現厚狭高校)。ここは、山口県の近代女子教育発祥の由緒ある地です。 平成7年3月 宇部市教育委員会

船木宰判代官所跡・厚狭郡役所跡・徳基学舎跡 船木 宇部市 山口県