この地は清水山と称し幕末の頃奇兵隊軍監山縣狂介(有朋)は麓に草庵を建て無隣庵と名付けていた。慶応3年(1867)4月、高杉晋作(東行)の遺言により遺骸を奇兵隊の本拠に近いこの地に葬った。晋作に仕えていた愛人うの(後に谷梅処)は黒髪を断って出家したので、山縣は明治2年(1869無隣庵を梅処に贈り欧州に旅立った。現在の庵は明治17年伊藤博文・山縣有朋・井上馨等全国諸名士の寄付により建立されたもので、梅処は明治42年にその生涯を閉じるまで東行の菩提を弔った。昭和41年東行の百年祭を機に庵の原型をとどめるため大修理を行った。

東行庵(とうぎようあん) 吉田 下関市 山口県