今様奥の細道 

5月2日−8日(新暦6月18日−24日)



福島飯坂桑折・斎川・白石岩沼名取・笠島仙台

いこいの広場
日本紀行
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資料15

あくれば、しのぶもぢ摺の石を尋て、忍ぶのさとに行。遥山陰の小里に石半土に埋てあり。里の童べの来りて教ける。昔は此山の上に侍しを、往来の人の麦草をあらして、此石を試侍をにくみて、此谷につき落せば、石の面下ざまにふしたりと云。さもあるべき事にや。 

 早苗とる 手もとや昔 しのぶ摺


福島(信夫の里)文知摺観音(もじずりかんのん)


5月2日
(新暦6月18日)

芭蕉と曽良が福島に泊まったのは5月1日(新暦6月17日)。北町の松北園茶舗あたりにあったキレイな宿だったという。宿泊を記念して駅の東口に立っていた二人の像は三日前にどこかへ移ってしまっていた。
二人は翌日福島市内の観光はせずにまっすぐ岡部の渡しを経て文知摺観音へ向かった。

国道4号岩谷下交差点に「文知摺観音」のおおきな標識がでている。そこを右折して文知摺橋で阿武隈川をわたる。橋から川上の方をながめると、まだ朝もやが残る川面におおくの水鳥が群れていた。中州の両側が渡り鳥の飛来地になっていて、河原が
親水公園として整備されている。しばらく遊んでいくとにし、妻と二人で撮影競争をしていると、工事管理事務所のおじさんが「これあげな」とパンをつめた紙袋をくれた。おじさんは水鳥の特徴を捉えながら種類をおしえてくれる。
「黒羽に目だけ金色にひかっているのがキンクロ」
「あれがマガモ。地味なのがメスで、きれいな方がオス。メスのほうがきれいなのは人間だけ」
「あの灰色のハクチョーみたいのはなんですか」
「白鳥の幼鳥。白くなるには5年かかる。緑の首輪をした白鳥がいるだろう。7年前からくるようになったのだが、北海道で
アンナという名前をつけてもらったんだ。名前をよぶとこっちを向くよ」
「アンナ! アンナ!!」
少し恥ずかしかったが、妻と二人でさけびあう。アンナは声の主をさがすしぐさをみせる。妻より私の声により大きく反応したように思えた。川面をうずめるほどのカモの群れにはばまれて容易に位置がかえられない。空いていればアンナは近寄ってきたかもしれない。

文知摺観音は道がつきあたる小山のふもとにあった。いろんなものを集めた史跡公園のような一画だ。入口の前に芭蕉が立っていた。

受付のおばさんに紅葉のいろづきぐあいをたずねてみた。
「ここの紅葉の見ごろはいつでしょうか。今年はだいぶ遅れているようですね」
「写真を撮る人は石の横のモミジのことをいうし、入口の木はまだ青いけど、奥の方はもう茶色になっている木もある。木によってちがうから、ここの見頃といわれても困るのよねえ」
多くのひとに同じ質問をされて少々開き直った感じがしないでもなかったが、まことに筋の通った答ではあった。
「いやー、まったく。そりゃそうですね」

200円をうやうやしく払って中へいれてもらった。
まず近くにある芭蕉の句碑を撮る。

 
早苗とる 手もとや 昔しのぶ摺 文字摺石

石の柵に囲まれた大きな文知摺石は苔むして、白い斑点が白癬のようについている。残念ながら石に落ちている葉はまだ緑色だった。
「鏡石」ともいわれるこの石の表面については、摺り模様ができるにはでこぼこであるべきだとか、恋人の姿が写るには鏡のようになめらかであるべきだとか、だれかが崖から落として上下さかさまになっていて、上はなめらかで、下はきっとでこぼこなのだとか、意見が多い。石にまつわる複数の伝承のどれによるかによる。あまりこだわらないことにした。

「しのぶもぢ摺り」は、もじれ乱れた模様のある石に布をあて、その上からしのぶ草などの葉や茎をすりこんで緑色に染めることで、まだら模様の絹地は都人に絶賛された。芭蕉がたずねたころにはすでに途絶えていたらしい。

一段上の通路に人肌石と
小川芋銭の歌碑がある。
人肌石は若い女性のはだのようになめらかだった。形もまるくふくよかでまなめかしくさえみえる。小川芋銭といえば水戸街道の牛久に住んで、河童の絵ばかりかいていた画家だ。
彼が明治44年(1911)にここを訪れた際に詠んだ歌だという。
 
 
若緑志のふの丘に上り見れば人肌石は雨にぬれいつ

さらに一段上がったところには放生池がモミジ葉を水面にうつして静まり返っている。わきに子規の句碑がある。

 
涼しさの 昔をかたれ しのぶずり

左にまわると観音堂とそのわきに源融の歌碑がある。

 
みちのくの しのぶもぢずり 誰ゆゑに 乱れそめにし われならなくに

源融は嵯峨天皇の皇子で、貞観6年(864)奥州按察使として多賀城に赴任してきた。文知摺石を訪ねて信夫の里にやってきた源融に長者はむすめの虎女を侍らせた。こうして二人の悲恋物語がはじまった。それはそれとして、当時地方にあって、長者が都の貴人をもてなすのは慣例で、高貴な血を受け継ぐために娘をさしだすのもまた慣わしだった。放生池の奥に二人の墓が並んでいる。


境内を出て、山すその道を右にたどると水路をへだてて石で囲われた「虎の清水」がみえた。さらに進むと三峰神社の参道をたどって山の斜面に虎の墓と、鎌倉時代の板碑がならんであった。土地柄の古さをおもわせる。


文字摺観音の前から前畑方面への道を北へ進み、リンゴ園のつづく道を阿武隈川にでる。月の輪大橋と阿武隈急行鉄橋の中間あたりに「瀬上の渡し」記念碑がたっている。ここから800m下流の「箱石瀬」に阿武隈川最後の渡し舟が月の輪大橋完成の平成7年まで運行していた。


月の輪大橋を渡った左手に「内池醸造」の社屋工場をみた。近江八幡商人、内池与十郎の分家内池三十朗が明暦元年(1655)福島に出て、文久元年(1861) 七代当主三十郎徳房が醤油・味噌の醸造を始めたものである。

芭蕉と曾良は瀬上宿を横切るように瀬上但馬屋の角を左折して県道155号で飯坂に向かった。雷神社を通り過ぎ足守藩陣屋の前を通っていったものと思われる。


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飯坂


医王寺


資料16

月の輪のわたしを越て、瀬の上と云宿に出づ。佐藤庄司が旧跡は、左の山際一里半斗に有。飯塚の里鯖野と聞て尋ね尋ね行に、丸山と云に尋あたる。是、庄司が旧館也。梺に大手の跡など、人の教ゆるにまかせて泪を落し、又かたはらの古寺に一家の石碑を残す。中にも、二人の嫁がしるし、先哀也。女なれどもかひがひしき名の世に聞えつる物かなと、袂をぬらしぬ。堕涙の石碑も遠きにあらず。寺に入て茶を乞へば、爰に義経の太刀、弁慶が笈をとゞめて什物とす。
 
 
笈も太刀も 五月にかざれ 帋幟

五月朔日の事也。


飯坂についた二人はまず佐藤家の菩提寺医王寺をたずねる。
芭蕉は義経の熱烈なファンだが、義経に劣らず、その忠臣佐藤親子にも熱い想いをいだいていた。
基治は義経が平家追討のために上洛するに際し、息子二人に忠勤を命じて差し出した。父基治はとおく旧白河関所の桜の木まで見送った。

二兄弟は父との約束を守り、それぞれ屋久島と吉野で義経のために激烈に散った。
義経はその後、兄頼朝にみはなされ平泉に落ちていく道で、佐藤兄弟を弔うため、医王寺に立ち寄っている。

山門をくぐると右手に本堂、左手に鐘楼と宝仏殿がならんでいる。
本堂の左側に芭蕉の句碑があった。

  
笈も太刀も 五月にかざれ 帋幟(かみのぼり)

杉並木の参道の奥に、薬師堂をかこむように佐藤基治・乙和夫妻と、右側には息子兄弟である
継信・忠信の墓がある。
父基治も、義経なきあとまもなく、頼朝鎌倉軍との奥州合戦で存分のに戦って息子のあとを追った。

墓地の左隅に大きな椿の老木が茂っている。一人残された乙和の悲しみを察して、その椿のつぼみはけっして開くことなく落ちていくという。人はいつしか「乙和の椿」と呼ぶようになった。

二人の嫁は健気にも、鎧姿の男装をして、姑乙和を慰めたという。
佐藤兄弟の嫁の像をここでみて、芭蕉は涙を流したというが、見たのはどうやら斎川の甲冑堂であったのを勘違いしたらしい。あるいはそれを承知で、よりふさわしい医王寺に場所をもってきたのかもしれない。

大鳥城址のある館山公園によっていく。大手門跡に旧道入口のサインがでている。二筋の轍があるので車でもいけそうだと入っていったがまもなく、勾配のきつい砂利道をタイヤがかまなくなった。白河の関山登山の体験がよぎって、入口まで退却した。舗装道路は頂上までつづく快適なドライブウェイだ。頂の台地に佐藤基治の居住した
大鳥城があった。今は土塁と石碑があるのみで、モミジがちょうど見ごろだった。


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飯塚温泉

資料17

其夜飯塚にとまる。温泉あれば湯に入て宿をかるに、土坐に筵を敷て、あやしき貧家也。灯もなければ、ゐろりの火かげに寝所をまうけて臥す。夜に入て雷鳴、雨しきりに降て、臥る上よりもり、蚤・蚊にせゝられて眠らず。持病さへおこりて、消入斗になん。短夜の空もやうやう明れば、又旅立ぬ。猶、夜の余波心すゝまず、馬かりて桑折の駅に出る。遥なる行末をかゝえて、斯る病覚束なしといへど、羇旅辺土の行脚、捨身無常の観念、道路にしなん、是天の命なりと、気力聊とり直し、路縦横に踏で伊達の大木戸をこす。

飯坂温泉の宿には早く着いた。泊まる宿は蔵造りの
老舗旅館「中村屋」である。
中村屋の初代阿部與右衛門は、土湯村で旅籠を営んでいたが明治23年(1890)飯坂に進出して当時の花菱屋(現在の花水館の前身)を買受けた。その後旧館(江戸館)に新館(明治館)を増築して現在7代目に至っている。

明治のころは鯖湖湯のまわりに十数軒の旅館があったのみだという。バブル期は旅館の数は100を越え東北でも最大級の歓楽温泉街として栄えた。現在旅館組合に登録している旅館の数は60余り、200人以上の綺麗どころが健在とのこと。

玄関には帳場格子、大福帳など、いろりのまわりに創業以来の備品がそのままおいてあり町屋の帳場と変わらない風景だ。のれんに白抜きされた「みちのくの芭蕉の跡をしのぶ宿」のキャッチフレーズがこころよく目にとびこんでくる。

玄関がある江戸館は、江戸時代末期のもので、赤瓦、白壁土藏造り3館だての珍しい建物である。L字型に増築された明治館は総けやきで書院造りの床の間は香木黒壇の細工がほどこされ上品な風格を感じさせる。階段の踊り場に日本橋三越呉服店からの増築竣工祝いの品が飾られている。明治時代の町屋に泊まっている感じだ。

古い和洋建物の最大の弱点がプライバシーとセキュリティの欠如。ふすま一枚で出入り自由の部屋続きでも安心して泊まってもらえるようにと、各フロア一組、一日5組限定というポリシーを頑固に守る。宴会おことわりというのもうれしかった。子供の声もきこえない。
この夜は明治館の最上階三間を二人占めしたのだった。食事に一間、寝床に一間、あとの一間は使わずの間。

鍵つきの貸しきり風呂にゆっくり使った後、和机一面にひろがった夕食の皿を前にして大きな縁のメガネをした女将が旅館の歴史や料理の内容、共同浴場鯖湖湯(さばこゆ)の案内などを流れるような口調で話してくれた。ポンポンとシャレとも冗談ともつかない言葉がとびだす気さくな女将である。

温泉街を散策する。中村屋の正面に湯元鯖湖湯ゆかりの碑や神社がならびその隣に大きな白木の共同浴場鯖湖湯の建物が飯坂温泉町の中心地を陣取っている。建物は1993年に改築されて新しいが明治時代の原型をとどめる造りである。

鯖湖湯から紅葉したつたがからまる石垣の坂道をたどると飯坂の名士、
堀切家の旧家の前にでる。福井県の農民であった梅山太郎左衛門治嘉は、戦国時代末期の天正6年(1578)飯坂に移住してきた。しばしば氾濫を繰り返していた赤川の流れを変えて、摺上川に流れ込む治水工事を主導して世間から認められるようになり、誰と言うこともなく「堀切」という姓で呼ばれるようになった。明和元年(1764)白河藩から、「堀切」という姓を公式に許され、3年後、庄屋をつとめる大地主となる。
明治になって堀切三兄弟を輩出した名家である。末弟は近江商人内池家を継い人物である。

長男:堀切善兵衛
明治36年(1903)に慶応大学を卒業。ハーバード大学、オックスフォード大学に留学後、慶応大学の財政学の教授となった。その後政界入り。衆議院議長を経て1940年にイタリア大使となり、日独伊三国同盟に調印した。
次男:堀切善次郎
東京市長、内務大臣を務める。
三男:内池久五郎
衆議院議員。内池家に養子に入り、福島市「内池醸造」の前身、「内池商店」の社長に就任。

薬医門をくぐると左に明治14年に再建された和風住宅の主屋で、敷地内には4棟の土蔵が現存している。特に十間蔵は安永4年(1775)に建てられ、県内最古の土蔵だそうだ。軒下のつるし柿、実をたわわにつけた柿の木、白や土色の土壁、緑の井戸ポンプ、横にさしいる夕日が晩秋の落ちついたたたずまいを醸している。

花水館の横の路地をはいり、情緒あふれる石段をおりていくと右の浴場から人の甲高いひびき声がもれてくる。温泉街の風情がただよう小路だ。摺上川河原に奥の細道の記念碑がたっていた。色とりどりの川端の草が川面に映えてうつくしい隠れ場だ。伝承によればどうやら芭蕉が泊まったという「土坐に筵を敷て、あやしき貧家」はここに建っていた「滝の湯」の湯番小屋だったという。残念ながらそのあやしき小屋は昭和12年の火災で焼失し、今となっては検証のしようがない。

飯坂は鳴子、秋保とともに「奥州三名湯」に数えられる東北屈指の温泉地で、かっては歓楽街として名をはせた温泉町だが、バブル崩壊後宿の半分は閉鎖したという。社内旅行や接待旅行の浴衣姿にかわって、トレパン姿の女子高校生が散歩している。合宿か卒業記念だろうか。高校生が温泉町に来てなにが楽しいのだろうかとふと思った。

飯坂の町には与謝野晶子の歌碑が目立つ。彼女は大の温泉好きだったらしく北海道から九州まで70ヶ所以上の温泉地をたずねては歌を残している。飯坂でも二つの歌を詠んでいる。
十綱橋麓と愛宕山公園の入口に、十綱橋の歌碑がある。

 
飯坂のはりかねばしに雫するあづまの山の水色の風

この歌は明治44年(1911)夏、音与謝野鉄幹とともに飯坂温泉に来遊したとき、与謝野晶子の十綱橋を詠んだ歌である。当時晶子は33歳であった。

鯖湖神社のそばには子規の句とともに晶子の別の歌を書いた標柱がたっていた。
 
 
夕立や 人声こもる 温泉のけむり 正岡子規
 
 
わがひたる 寒水石の湯槽にも 月のさしいる飯坂の里 与謝野晶子

橋げたに真っ赤にそまったツタがはいつたう。秋の日が雲のあいまに出るたびに明るく輝いて美しい。ここから桑折までが湯野街道で、芭蕉は疲労と持病をおしてこの道をいった。湯治には程遠いみじめな一夜をすごしたみたい。
芭蕉が十綱橋のたもとに立っている。顔の表情がやや下膨れで、深川芭蕉庵史跡展望公園でみた芭蕉に似ている。

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桑折斎川−白石

5月3日(新暦6月19日)

芭蕉は飯坂温泉から湯野街道をたどって桑折寺の前に入ってきた。旧伊達郡役所の前庭に杖を手にした芭蕉が立っていた。足元の巨石には『奥の細道』から、「月の輪から飯坂温泉にとまり、桑折に出て伊達の大木戸まで」の抜粋を刻んだ大きな文学碑がはめ込まれている。


宿場の中ほど左側に
法円寺がある。芭蕉が奥の細道行脚の時、須賀川の等躬宅で詠んだ「風流のはじめやおくの田植え唄」の句を当地の俳人「馬耳」が享保4年(1719)ここに埋め塚を築き田植え塚とした。須賀川のように、当時桑折には大勢の俳人がおり俳句が盛んであった。時代は異なるが、桑折の馬耳は須賀川の等躬のような存在である。塚のむかいにまだ作られて新しい芭蕉の坐像がおかれていた。

藤田宿から伊達の大木戸までの間に「弁慶の硯石」「義経腰掛松」という、芭蕉なら飛びつきそうな義経ゆかりのスポットがあるのだが、芭蕉も曾良もふれていない。当時はまだ江戸に聞こえるほどの名所にはなっていなかったのか。二人は阿津賀志山の大木戸に急いで、はやく白石で休みたかったようだ。なにしろ飯坂での夜以来、芭蕉は体調がよくないらしかった。

厚樫山は文治5年(1189)源頼朝率いる鎌倉の大軍と藤原国衡の奥州平泉勢が大攻防を展開したところである。ここをこえると宮城の国境が近い。峠付近に旧道がのこっていて、そこに芭蕉翁碑がある。刻まれた文字からも芭蕉のしんどそうな声が聞こえてくる。

遥なる行末をかゝえて、斯る病覚束なしといへど、羇旅辺土の行脚、捨身無常の観念、道路にしなん、是天の命なりと、気力聊とり直し、路縦横に踏で伊達の大木戸をこす。

貝田宿が福島県最北の奥州街道宿場町で、白河からはじまった「(福島県)奥の細道自然遊歩道」は最禅寺が終点となっていて、そのことを示す標柱が立っていた。

一行は越河の番所を無事通過して、斎川で馬牛沼鐙摺、甲冑堂をみて白石宿で泊まった。芭蕉はそのまま岩沼までいったとあるがウソだ。田村神社甲冑堂の「二人の嫁」をみて芭蕉は感動の涙をながした。そのことは医王寺の章で書いているので、ここではあたかも通り過ぎたかのように触れていない。

白石には知人はいなかったもようで、どんな宿に泊まったかの情報もない。曾良がなにもふれていないところをみると、良くも悪くもなかったのだろう。

彼の宿泊とは直接関係がないと思われるが、白石城の二の丸跡遊歩道脇に芭蕉の句碑が立っている。

 かげろうふの我肩に立かみこかな

奥の細道出発直前の元禄2年2月7日にひらかれた七吟歌仙の発句。紙子は梶の木からとった和紙を布に織ったもの。白石は紙子の一大産地である。

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資料18

鐙摺・白石の城を過、笠嶋の郡に入れば、藤中将実方の塚はいづくのほどならんと人にとへば、是より遥右に見ゆる山際の里をみのわ・笠嶋と云、道祖神の社・かた見の薄今にありと教ゆ。此比の五月雨に道いとあしく、身つかれ侍れば、よそながら眺やりて過るに、蓑輪・笠嶋も五月雨の折にふれたりと、

 笠嶋は いづこ五月の ぬかり道



笠島(名取)

5月4日(新暦6月20日)

奥州街道の宿場で言えば白石から、宮・金ヶ瀬・大河原・船迫・槻木の5宿を見向きもせずに素通りした。曾良の日記にも、「白石をたって」次に来る言葉は「岩沼の竹駒神社」だ。
芭蕉は岩沼を後回しにして、笠嶋にいかなかったことをずいぶん未練がましく書いているが、曾良は「行き過ぎてみず」と、あっさりしたものだ。

作家としての芭蕉が必死に創造力をたくましくして文学にしたてようとしている側から、記録係に徹した曾良が虚飾を排して舞台裏をのぞかせる。このふたりのコンビは絶妙でおもしろい。

二人が飛ばした宿場にも奥の細道の印や芭蕉の句碑がのこされている所があるので、それらだけは忘れないでおきたい。

大河原から船迫へいく途中、国道4号の西側に、
韮神山の麓を削った一角をかりて、観音像と石碑の一群がみえる。そこに多くの細道の標柱と芭蕉の句碑がある。芭蕉は元禄2年の旧5月4日にここを通っていった。句碑にある句はこの場所と関係なく、伊賀上野で詠まれたものである。
  
  
うぐいすの 笠おとしたる 椿かな

船迫宿の川向いにある船岡は『樅の木は残った』で一躍有名になった原田、柴田家の城下町である。柴田家菩提寺である
大光寺の庭に芭蕉句碑があった。俳句好きな和尚が建立したものだそうだ。

  
名月や池をめぐりて終夜(よもすがら)

この池は蛙が飛び込んだ古池とおなじもので芭蕉庵にあったそうだ。

ところで、芭蕉がたずねたかった笠島は岩沼宿と増田宿の中間、西に約4kmほどいった
東街道という古道が通っているところにある。平安朝時代の長徳4年(998)陸奥守に任ぜられた藤原実方中将朝臣が、赴任途中道祖神社の前を通りすぎた時、地元民の意見をきかずに神の怒りに触れて、あるいは単なる不注意で、落馬して死んでしまった。色恋に満ちた貴公子にしては、ひとにみられたくないようなはずかしい死に方だったので、墓も目立たない形で人目につかないところにつくられてある。

実方の死から188年後芭蕉の深く敬愛する西行が実方の墓に立ち寄り、孤独に霜枯れたすすきに心を寄せて一首を残している。芭蕉はその
「かたみのすすき」のことも承知していたのだろう。芭蕉はぜひともたずねてみたいと考えていた。雨に降られ日も暮れて、仙台への道を急いでいた都合もあって断腸のおもいで寄るのをあきらめたのである。曾良がいうように、たんに行き過ぎてしまったのではないのだよ。

    朽ちもせぬその名ばかりをとどめおきて枯野のすすき形見にぞみる   西行

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岩沼

資料19

岩沼に宿る。武隈の松にこそ、め覚る心地はすれ。根は土際より二木にわかれて、昔の姿うしなはずとしらる。先能因法師思ひ出。往昔むつのかみにて下りし人、此木を伐て、名取川の橋杭にせられたる事などあればにや、「松は此たび跡もなし」とは詠たり。代々、あるは伐、あるひは植継などせしと聞に、今将、千歳のかたちとゝのほひて、めでたき松のけしきになん侍し。「武隈の松みせ申せ遅桜」と挙白と云ものゝ餞別したりければ、


 
桜より松は二木を三月越し


日本三稲荷の一つである
竹駒神社は承和9年(842)陸奥の国守であった小野篁が奥州鎮護を祈願して創建された。平泉藤原家や伊達家からも手厚い庇護を受けている。入り口に芭蕉の「二木の松」の句碑と、その句碑を建てた東龍斎謙阿の「朧より松は二夜の月にこそ」の句碑が相並んで立っている。大きな鳥居を三つくぐり、狐像を囲った瑞身門と、浅草雷門なみの巨大な赤提灯をつるした唐波風造りの唐門をくぐりぬけて、清楚な社殿の前にでる。大きさは仰々しくなく、薄化粧をほどこした品のある女性を思わせる社だ。

竹駒神社から北西に200m程行った二木2町目の歩道脇に
「二木の松」が道路側に傾いてのびている。根本が一つで幹が二本に分かれた松で、歌枕「武隈の松」として親しまれている。「武隈」は「岩沼」の古称で、「竹駒」は「武隈」からきた。芭蕉は岩沼にきて、竹駒神社よりもこの有名な松をみることを楽しみにしていた。「武隈の松にこそめ覚むる心地はすれ・・」と高揚し、「桜より松は二木を三月越し」と一句詠んだ。芭蕉が見たのは5代目の松で、現在の松は江戸時代末期に植えられた7代目といわれている。

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仙台

5月5日(新暦6月21日
〜5月8日(新暦6月24日)

資料20

名取川を渡て仙台に入。あやめふく日也。旅宿をもとめて四五日逗留す。爰に画工加右衛門と云ものあり。聊心ある者と聞て知る人になる。この者、年比さだかならぬ名どころを考置侍ればとて、一日案内す。宮城野の萩茂りあひて、秋の景色思ひやらるゝ。玉田・よこ野・つゝじが岡はあせび咲ころ也。日影ももらぬ松の林に入て、爰を木の下と云とぞ。昔もかく露ふかければこそ、「みさぶらひみかさ」とはよみたれ。薬師堂・天神の御社など拝て、其日はくれぬ。猶、松嶋・塩がまの所々、画に書て送る。且、紺の染緒つけたる草鞋二足餞す。さればこそ風流のしれもの、爰に至りて其実を顕す。
 

 あやめ草足に結ん草鞋の緒

かの画図にまかせてたどり行ば、おくの細道の山際に十符の菅有。今も年々十符の菅菰を調て国守に献ずと云り。

5月5日

4日の夜に岩沼に泊まったというのも嘘で、白石から強行軍で仙台までやってきた。国道里程標でも47kmの遠距離だ。時速4kmとして12時間??? 笠島へいけなかったのも無理はない。どうしてそんなに急ぐのだろうと思う。夜もおそかったのでとりあえず国分町の旅籠に泊まった。
芭蕉の辻のちかくで、一番にぎやかなところだ。

翌日、旅宿を当てにしていた二三の人脈にあたってみたが、断られたり本人が旅行中であったりして、結局一日を宿探しで棒に振ってしまった。全国的な有名人である芭蕉にとっては、かなり傷ついた経験であったろうと思う。東海道沿道や関西ではこんなことは絶対アリエナイことだった。
やむなく仙台は旅籠で通すことにした。

5月6日

今日は伊達氏の祖、朝宗以来の伊達家の守護神を祀る
亀岡八幡宮へ詣でることにした。場所は仙台城の西方にあり、道は一旦大手門から仙台城の敷地をとおりぬけるようについている。

5月7日

俳人門下で絵画職人でもある加右衛門が親切にしてくれて、一日市内観光に付き合ってくれた。名所をよくしっているボランティアガイドみたいな男だ。東照宮をみたあと宮城野方面に向かい、榴ヶ岡天満宮と陸奥国分寺薬師堂をみてまわった。薬師堂は慶長12年(1607)、伊達政宗が陸奥国分寺跡に仁王門や鐘楼などとともに建立したものである。榴ヶ岡天満宮準胝観音堂の傍に私の句碑がある。

  
あかあかと日はつれなくも秋の風   あやめ草足に結ばん草鞋の緒

5月8日

正味二日の仙台観光をおえて、芭蕉の辻から東へ向かい多賀城・塩釜へ行くことにした。
「芭蕉の辻」の名は私が通ったから付けてくれたわけではないらしい。宿を断られるようではまだまだ私も人気不足だ。

(2005年11月)
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