佐藤継信公・佐藤忠信公の墓 医王寺 飯坂町 福島市
平安末期信夫の庄司佐藤基治公は大鳥城を居城とし陸奥南部の広域を治めていた。 後年基治は源平合戦に臨むため平泉の鎮守府将軍藤原秀衡公のもとから旗上げする源義経公の従臣としてその子継信公忠信公の兄弟を遣わせて義経に対する徹底した護衛を命じた。その命令通り兄継信は四国の屋島の戦いで義経を射んと放たれた能登守教経の矢を身体で受け止め盾となり主君の一命を守った。 また後に頼朝公との和を失った義経が追手に遇い危機に陥った時京都で忠信は義経を名乗って応戦し一行を無事遠ざけ自分はその場で犠牲となった。 更に故郷に残された兄弟の妻たちが気丈夫にも悲しみを抑えて兄弟武将を装って姑の乙和を慰めた孝心等数々の故事は後世の私たちに感動を与えている。  福島飯坂ライオンズクラブ  昭和61年9月