川越街道

いこいの広場
日本紀行

板橋−上板橋下練馬白子(和光)膝折(朝霞)大和田(新座)三芳大井川越


街道の終点川越はさつま芋の産地として知られる。焼き芋屋の定番宣伝文句に「栗(9里)より(4里)うまい13里」とあるのは、江戸から川越までの距離、13里に由来する。それに川越の芋のうまさを、やはり距離にひっかけた。たしかに焼きたてのサツマイモは、栗のようなクリーム色で歯ごたえがありながら、栗よりも甘くてうまい。

日本橋から川越街道は板橋宿平尾で中山道と別れて、上板橋、下練馬、白子、膝折、大和田、大井の6つの宿場を経て、川越城下に達する。13里といえば50km余り。一方国道17号は日本橋から板橋まで10km。そこから国道254号で川越までおよそ30km。合わせて40kmあまりで、13里とは10kmの差異があることになる。ゴロの関係で13里としたのか、旧道は実際それだけあったのか。いくつかの説明板でも、数字はまちまちだったが、そのなかで13里との差について言及している案内板が一つあった。それによると、「川越の大手前(現川越市役所前)から日本橋までの距離は11里34町33間半(46.93km)である。2里(8km)ほど短いようであるが、生産地の三芳と集積地の川越の距離を合わせると13里半となり、見事に距離も一致する。」とある。細かな数字の詮索はべつにして、13里は芋の生産地までの距離だというのが新しい視点だ。



板橋
 

旧中山道は埼京線板橋駅の北側をよこぎり、新中山道の国道17号線とぶつかる板橋3丁目交差点にでる。ここが
「平尾の追分」で、角にある平尾交番にその名を残している。道向こうに明治時代の旧板橋警察署の切り絵を掲示した板橋宿の案内板が立ってある。その右側が旧中山道で、左側の国道17号線歩道にあたるのが旧川越街道である。首都高速が二又にわかれるあたりに「日本橋まで10km」の国道距離標識があった。

川越街道はそこで国道17号とわかれ、首都高速の下を山手通りまで、「四つ又通り」をいく。街柱にはワイン色の布地にワイングラスが白抜きされ、そのなかにZ(zerosome)、下に「四つ又ワインロード」と書かれた旗がたなびいていた。凝ったデザインで、商店街の旗にしては内容が謎めいている。特産ワイン店が並んでいるのかと道の両側をみわたせば、およそ商店街の景観をなしていなかった。高速道路の建設に伴う道路画拡幅工事で、かっては人の親しく行き交った商店街の、南側全部がごっそりと移転させられたという。いまや商店街の姿はない。それでも町の活性化の祈りをこめて、ひとつの親環境コンセプトを取り入れて四ツ又通りに採用された。廃棄ワイングラス粉砕カレットを利用して歩道や景観柱などに利用した。地域の再開発の際生じた特定の廃棄ゴミを再利用したという意味で「ゼロサム」だというのだろう。Zはゼロの頭文字だし、合計をあらわすシグマでもある。悲しいかな歩いている時は、足元の舗装素材まで鑑賞する余裕をもたなかった。どこかで「ワインロード」の説明板を見逃していたか。

道路拡幅の犠牲者がもう一人いる。山手通りの手前左に、移設させられてさみしく立っている四ツ又観音だ。祠の横板に「元四ツ又堂主大野」と名乗る人物が墨書きした、道路公団宛の抗議文が貼り付けられていた。いわく、「工事も終わったのにまだ観音堂をもとの位置にもどすという約束を果たしていない」と怒っている。民営化や談合問題でゆれる公団も、完成した工事の後始末くらいはしっかりやってもらいたいといわれれば、反論、釈明の余地もないことではある。「公団早晩
「怒」必ず受けるでせよう」という一文が、実現した神託のように、いやに生々しくひびいた。

山手通りを渡ると大山東町の
遊座大山商店街にはいる。かっては四ツ又商店街と連なっていたのであろう。道にはみだして品物を並べる店先、来客を拒むようにとめてある自転車などは、下町商店街の典型的な風景だ。早々に「川越屋」呉服店の看板が出てきて、川越街道を歩いている実感を得た。それにしても左右、大小、新古を問わず、食べ物関係の店が多い。コロッケ、トンカツ、弁当、惣菜、豆腐・こんにゃく、野菜・果物、魚、おむすび、団子、饅頭、ケーキ、駄菓子、乾物、漬物等々。これらを電車に乗って買いにくるとも思えないから、大方はここの住民だろう。売り子と客の交わす言葉からも、その近親な関係がうかがい知れる。それらの店に、うどん、そば、カレー、ハンバーガー、寿司、定食、焼肉、餃子などの食堂が混じって、ダイヤット中の人間には通るのがつらい商店街だ。

ワインロードの場合とおなじく、この「遊座大山」という商店街名の意味も即座にはわからなかった。「大山」は神奈川県にある山岳信仰で名高い山。鎌倉に通じる道をなべて鎌倉街道というように、各地から大山に通じる道が開発された。ここ、板橋からも大山詣でが盛んだったようで、地名になってしまった。「遊座」の謎は、ある店の窓でみた張り紙で解けた。いわゆる地域通貨としてこの商店街が発行する小判が参加商店の間で流通しているのだった。それを使う客に与えられるインセンティブは「スタンプを集めて韓国ツアーに行こう!」というものだ。金座、銀座のように江戸時代通貨鋳造所を「座」といった。ここでつくられる小判は、粋な遊び心の「遊座小判」。

商店街は東上線の大山駅北の踏切を越える。電車の往来が激しい。あれば、住民にはイライラして迷惑なものでしかないが、踏切の風景もいつかは、ノスタルジックなものとして懐しまれることだろう。二度と来るかこないかの旅人にとっては開かずの踏み切りも悪くない。踏切の向こうは美しい薄緑のアーケードが続く別の商店街で名前も「ハッピーロード大山」に変わる。遊座商店街より心持ち店が大型化している印象をもった。

商店街が終わり、国道254号との交差点を右に入ったところに、
大山福地蔵尊がある。150年前の文化文政の頃、鎌倉街道(日大交差点付近)にお福という行者が来て街道筋の人々の難病苦業を癒し大山宿の人々に慕われていたという。お堂は3のつく日に開帳されるほか、鍵がかけられて地蔵の正面を見ることができなかった。丸窓からみた横顔は口元がかわいいお地蔵さんだった。

国道に戻り、つぎの日大病院入り口交差点で、旧街道は右斜めに下頭(げとう)橋通りへ入っていく。この交差点を左右に横ぎっているのが
鎌倉街道だそうだ。右側、北に進む道は変哲もない様子だが、左側の日大病院方面には大きな道のすぐ脇に、細い路地がのぞいていた。いかにも古道の名残りらしい、ひなびた奥ゆかしさがあった。

トップへ


上板橋 

大山商店街ほどの濃密さはないが、下頭橋通りも共栄会として組織された商店街である。大山商店街は戦後の闇市から発展したという点で、上野アメヤ横丁を思わせる。それに比し、下頭橋通り商店街には上板橋という宿場町の歴史を抱き、ゆったりしたひらけた下町風情がただよっている。上板橋宿は下頭橋まで下宿、中宿、上宿と続いていく。なお、東武東上線の駅で言えば、ここは「中板橋」駅前にあたり、次の下練馬宿に「上板橋」駅があって、地理的なズレが生じている。右手に出てくる
防災辻広場という小さな公園に、青ペンキの井戸ポンプが尾をピンとのばして万が一の時にそなえていた。

郵便局がでてきた。宿場の中心であろう。隣が
「辰屋かぎや」という二重屋号の和菓子屋である。腰板にそのいわれが説明してあった。初代は、今から200年程前の江戸時代、京都で和菓子の修業をした後板橋で鍵屋を開業。明治27年の板橋大火で廃業したが、分家4代目の栗原登喜雄氏が生まれ年の辰にちなんで辰屋を号してかぎやを復活したという。本家と分家の連名で書かれていたところをみると、この店は本家かぎやと分家辰屋の共同運営とみられる。

すぐ先右手に
豊敬稲荷神社があり、境内に上板橋宿の案内板が立っている。文政6年(1823)の宿の町並みは、長さ740m、道幅3間(約5.5m)家数は90戸だった。街道にそっていくつかの家が記されている。下宿では「はくらくの大野家」、中宿では先に見た「かぎやの栗原宅」、「かがいの大村家」、「上板橋宿副戸長の榎本家」、「大正時代説教強盗が侵入し捕われた三春屋」、「お代官とよばれた醍醐宅」、そして「上板橋宿世話役栗原佐左ェ門宅」である。なお弥生小学校は牧場だった。

その小学校入口交差点角に板壁のうつくしい
三春屋の建物がある。大正末期から昭和初めにかけて東京に奇妙な強盗が出没した。夜間民家に侵入して金品を盗るのが本業だが、見つかっても逃げないところがかわっていた。ナイフで脅しながら居座って、「庭にあかりをつけなさい」とか「犬を飼いなさい」などと、防犯上の心得や提案を数時間にわたり静かに家人に説くのだった。番犬を飼う家庭が増え、「猛犬注意」という張り紙が出だしたのは、彼の提案によるものだという。三春屋でもかれの説教を受けた。現場に残していった指紋から、左官職人妻木松吉(29)が逮捕させた。妻木は無期懲役となったが、模範囚となって仮釈放された。

三春屋の筋違いに、今も宿場の役人を引き受けているかのような下町然とした一軒がある。「飯島」の木表札をかかげ、玄関先に「板橋宿」の杭柱、窓横には日本橋までの距離標が掛けられている。ここまでの距離は2里25町となにがし。約10.6kmの計算になる。中山道の巣鴨商店街でも私立一里塚標をみた。街道好きな主人の家なんだろう。


やがて商店も人通りも少なくなって、下頭橋に差しかかり、上板橋宿がここで終わる。下を流れる石神井川は数センチほどの浅い水流がうろこ状のさざなみをうかべて北に下っている。
下頭橋は寛政10年(1798)に、石橋に架け替えられた。その際、橋の袂で頭を地に付けて金を恵んでもらっていた六蔵という乞食が死んで残したお金をもとにした。橋の右手袂にある六蔵祠は六蔵を讃えて建てられたものである。彼はまた、下頭という橋名の由来にも一役買っている。

旧道は商店街を抜けて下頭橋を渡り、左斜めにはいっていく。玄関先に花をならべる家がつづく、のんびりした道が緩やかな曲線を描きながら、国道254号線と環状7号線の交差点に出る。交差点の向こうには真言宗長命寺がある。しばらく国道を歩いて常盤台地区を過ぎた後、旧道は上板橋1丁目交差点で斜め右の商店街にはいっていく。地名や駅名は「上板橋」で、あたかもここが上板橋宿のように思われるが、上板橋宿は東上線の「中板橋駅」前でまちがいない。

トップへ


下練馬 

旧道沿いに延々と続く商店街は歩くにつれてその名を変えていく。

板橋区上板橋 練馬区北町1丁目 練馬区北町2丁目 練馬区北町2丁目

上板橋地区は
「上板南口銀座」商店街で、入口に設けられた門には「ベルの町」という英語が副えられている。町とベルとの関係は知らない。ここは板橋区、元上板橋村の中心地だった。上板橋宿の西はずれになり、位置的には下練馬宿に隣接している。上板橋2丁目交差点に出口ゲートがあって商店街の街並みはいったんここで途絶える。

旧街道は板橋区から、練馬区の北部をかすめて、赤塚でふたたび板橋区の領域にもどる。そのわずかな練馬区域に下練馬宿があった。練馬区にはいった北1丁目は
「北一」商店街で、毎月第1土曜日に「北市みのり市」が開かれる。商店街の始まりと終わりにゲートが設けてあって、境がわかりやすい。

北2丁目にはいると、
「きたまち」商店街となり、「きたまち阿波おどり」の鮮やかな横断幕が掲げられている。通りのスピーカーからは軽快な阿波踊の囃子が流れてきて、今日の夕方の準備も整っているようすだった。街灯柱には馬の顔と蹄鉄を描いた看板がとりつけてある。

北2丁目も西に進んで、東部ねりま駅前をすぎ29番地のセブンーイレブンにくると、看板が馬の全身像にかわり、街灯の笠のガラスにも蹄鉄と馬が白ペイントで描かれている。商店街の名は
「ニュー北町」商店街という。蹄鉄が共通のモチーフになっているのが興味深かった。先に「上板橋宿概要図」でみたように、上板橋一帯は、牧場あり、蹄鉄屋あり、伝馬駅ありで、馬にふかくかかわりあっていたようすがうかがわれる。図にあった「はくらく大野家」は蹄鉄屋で、伯楽とは、中国の周代に名馬を見つけた人の名で、そこから馬の鑑定人、獣医のことをいう。

下練馬宿の中心地はどこだったのか定かでないが、練馬北町郵便局は1丁目、北一商店街にあった。
すこし先走ってしまったが、そんな四様の商店街を歩きなおす。

街道と上板橋駅からの道との交差点が「上板南口銀座」商店街の中心で、このあたりに元上板橋村長飯島弥十郎家の屋敷があった。上板橋宿でみた飯島の表札と同じ姓だ。昭和のはじめ新川越街道(現国道254号)が出来た時、飯島家の屋敷林が道路用地となったが、同家の強い要望で、その一部が国道の中央分離帯に「五本ケヤキ」として残された。国道を走るドライバーにとっては一瞬の目を休め、場所を知り距離の目印となって、一里塚的存在になっている。

内田酒店、上板橋局の隣の初音家だんご屋などの懐かしい店先風景を楽しみながら進み、上板橋2丁目交差点を越えると、商店街の色がうすまった住宅街の一角に五本ケヤキにまけないほどの屋敷林を抱え込んだ大邸宅があらわれた。「東洋クリーン」という会社札とともに「木下」と書かれた表札が頑丈なブロック塀にかけられている。通りに面したブロックの上に、植木の剪定をしている庭師職人の姿があった。

木下邸から一筋いくと練馬区となって、北一商店街のゲートをくぐる。間口の広い「野瀬商店(米屋)」、威勢のよい掛け声がとびかう「まつもと魚屋」、店そでに粋な木戸を構えた「内田屋呉服店」、朝の仕事をおえて店先で主人が新聞を読む
「戸崎とうふ」など、旧街道下町情緒がいっぱいだ。

商店街は工事中の環状8号線によっておおきく分断される。この交差点は川越街道と冨士大山道との分岐店で、かどに、宝暦3年(1753)下練馬村名主内田久右衛門と並木庄衛門という2人が建てたとされる
道標がたっていた。今は工事中の道路敷地の細い西側道を北に入ったところにある子供広場の金網内に一時疎開している。内田という姓は、すでに酒屋、米屋、呉服屋、金物店とみてきたが、これらは、元下練馬村名主内田家の末裔だろうか。

練馬北町郵便局を過ぎ、2丁目の「北町商店街」にはいるとすぐ右手に浅間神社がある。富士講が盛んだったころ、山に登れない人のために、近隣に富士塚を造りそこに詣でた。小社と富士塚が商店街の空き地にすっぽりとおさまっている。境内入口には、旧川越街道下練馬宿の案内板があった。

 この道は、戦国時代の大田道潅が川越城と江戸城を築いたころ、二つの城を結ぶ重要な役割を果たす道でした。江戸城には中山道板橋宿平尾の追分で分かれる脇往還として栄えました。日本橋から川越城下まで「栗(9里)より(4里)うまい13里」とうたわれ、川越藷の宣伝にも一役かいました。
 下練馬宿は「川越道中ノ馬次ニシテ、上板橋村ヘ26丁、下白子村ヘ1里10丁、道幅5間、南ヘ折ルレバ相州大山ヘノ往来ナリ」とあります。川越寄りを上宿、江戸寄りを下宿、真ん中を中宿とよびました。 上宿の石観音の所で徳丸から吹上観音堂への道が分かれています。 
 通行の大名は川越藩主のみで、とまることはありませんが、本陣と脇本陣、馬継の問屋場などがありました。旅の商人や富士大山詣、秩父巡礼のための木賃宿もありました。
 浅間神社の富士山、大山不動尊の道標、石観音の石造物に昔の面影を偲ぶことができます。    平成6年3月   練馬区教育委員会

その先、東部練馬駅前通り交差点に
北町観音堂(石観音堂)がある。堂敷地は、向かいのパチンコ店客の自転車やバイクで囲まれてすきまがない。北町聖観音座像は、天和2年(1682)に造立されたもので、高さ270cmで練馬区内最大の石仏。また、小さな山門には観音座像の翌年に作られたという二人の仁王像が立っている。また、敷地内には庚申塔などの石仏群が並べてあった。

北町2丁目の26番と29番の境で商店街の名が「北町」から「ニュー北町」に変わる。近くの店先を掃いていた若い男性に聞いてみた。
「向こうのxxさんが、一緒にやっていくのはむずかしいということで・・・別にしたとか。大きな声ではいえませんが」
同じ丁内の商店会世界に、昔のしがらみをひきずった人間関係や勢力関係とかの複雑な綾模様を垣間見た。その「ニュー北町商店街」はわずか100mほどで終わり、道歩く人もめっきりみかけなくなった。

北町3丁目に立派な二軒の家が連なっている。表札を確認すると共に
「栗原」家だ。間に神輿庫を挟んで本家と分家らしき年代の違いをうかがわせるたたずまいだった。上板橋宿の世話役を務め今も和菓子屋の店を営む「辰屋かぎや」の本宅だろうか。


道は国道17号新大宮バイパスをまたいで国道254号に合流する。その手前で、旧道商店街のトリをとるように、「どら焼き」の幕を張った老舗が店を構えていた。明治8年(1875)創業の神馬屋(じんめや)松原家である。先祖は絵馬を作っていた。現在は「
いま坂どら焼」でしられるどら焼き専門店である。「いま坂」は、川越街道のだらだらと続く坂道の上にあるこの店で、旅人が和菓子を食べ休みながら、「今の坂はきつかった」ということが多かったことからきているという。卵風味のきつね色に焼き上げたつやのあるソフトでシットリとした皮が格別だそうだ。テレビにもいくつかとりあげられ、ガラス戸に貼った短冊に実績を宣伝している。

「日本TV番組『日テレ三人娘』にて峰竜太さんより紹介されました」
「『はなまるマーケット』カフェにて映画監督井筒さんに推奨頂きました」
「『ぶらり途中下車の旅』にて『いま坂どら焼き』紹介されました」


トップへ


赤塚−成増

国道沿いの地下鉄赤塚駅出入り口傍に小さな騎馬武者像がたち、台座に
「鎌倉古道 至かまくら 至はやせ」と記されている。東部東上線踏切を越えて北に伸びている「赤塚壱番街」が、かっての鎌倉街道だという。鎌倉は古すぎて、江戸時代の旧街道のような目に見える名残は期待できない。大山商店街をでた日大医学部付近にも旧鎌倉街道だという道筋があった。「大山道」といい「鎌倉古道」といい、旧道のあとを見つけるのは楽しい作業だが、一方心のどこかで、あまりたくさんあってほしくないとも願っている。

国道沿い、赤塚新町2丁目3番の損保ビル脇に上部が欠け基部が埋もれた供養石柱があったが、内容は読み取れなかった。

坂を下がりきった所、赤塚交番の横に
「小治兵衛窪庚申尊」がある。天明3年(1783)浅間山の噴火と飢饉の犠牲者を供養するために造立されたものだという。昔ここは、川に丸木橋があっただけのさびしい場所で、毎晩のように強盗が出没していた。ある朝立派な橋に変わっていて、橋のてすりには「悪業を悔いて、罪ほろぼしにこの橋を造る。小治兵衛」と書かれた木札が下げられていた。下頭橋の六蔵エピソードをおもわせる伝説が伝わっている。

昼飯の場所探しに地下鉄成増駅前に寄った。南口にも北口にも童謡作詞家清水かつらゆかりの記念物がある。南口に建てられた
「うたの時計塔」には「叱られて」の歌詞が、北口の歌碑には遺作「みどりのそよ風」の歌詞が刻まれている。清水かつら(本名:桂)は、明治31年(1898)東京深川で生まれた。第二の母の実家が隣町和光市新倉にあった関係で、後半生は白子に住んだ。利用する駅は成増駅だったといい、白子と成増には彼の業績を顕彰するものが多い。

国道254号の成増駅入口交差点で旧道は右に入り、国道の側道を白子川におりていく新田坂に向かう。国道は崖を切り通した長い坂を下りはじめる一方、旧道はしばらく台地上をあるいたあと、急に下りていく。途中左手の林の中に、石地蔵、常夜灯、道祖神をあつめた
「新田坂石造物群」の一画がある。向かいの坂下に八坂神社。共に国道からは見えない場所に移転された。新田坂は白子川の手前までつぐく。板橋区と埼玉県和光市との境近くに一軒の古い家が壁板の修理を受けていた。その近くに清水かつらが住んでいたという。

トップへ


白子(和光) 


白子は新羅に由来する渡来人の里である。8世紀の中頃、新羅から渡ってきた人々の一部数十人が、果てしない武蔵野原野の一点をきり開いて定着し新羅郡を設立した。新座郡の前身である。白子や新座だけでなく、志木(志羅木)、清水かつらの母方実家があったという新倉の地名も新羅の派生だ。実際、新倉にある午王山は当時の住居跡が発掘され、新羅郡郡衙跡の候補地とされている。

街道は白子川をわたって白子宿にはいる。
白子橋の四方の親柱に清水かつら作「靴がなる」の歌詞が刻まれたプレートが貼り付けてある。昔はのどかな小川の風景が広がっていたのであろう。白子橋から白子坂上までの町並みが白子宿である。すぐ先の「白子宿通り」との交差点角に「白子村道路元標」がある。県道109号との交差点角には白子郵便局があり、旧白子中宿本陣冨澤家である。県道沿いにモダンな茶タイル貼りの冨澤薬局、冨澤外科医院がならび、薬局の裏側にみえる白壁土蔵が僅かに旧家の名残をとどめていた。

冨澤薬局の裏側に緑豊かな白子の鎮守
熊野神社がある。右手に丸く刈り込まれたツツジに覆われた富士塚が、左手の石段を上がると清龍寺不動院、子宝の木、黄金色した観音像、溶岩の窪みに立つ行者のような石像などが、狭い敷地に同居している。横道をたどると洞窟があるらしい。夏休みだというのに子供の一人も見かけず、人影といえば木陰に駐車した車中で、足を窓に投げだして昼寝をとる運転手だけである。音といえば大暑の短世を鳴きつくす蝉の声だけだった。

県道をよこぎると道は「大坂通り」となり、急な坂をS字状に登っている。右手の黒々とした格子がみごとな旧家も
冨澤家だ。屋敷林のなかにクリーム色に醸成された白壁土蔵がみえる。坂途中、溝に流れ出る湧き水が冷たかった。この坂一帯が白子上宿にあたる。坂下冨澤宅から坂の途中まで、両側を樹木で護られた静かな隠れ坂は、旧道の趣をゆたかに残した逸品だ。

坂上は新しい家やアパートがつづく住宅街で、県道にもどる手前にも冨澤宅が二軒並んでいた。旧道は笹目通りを歩道橋でよこぎり、「くらやみ坂」をなだらかに下っていく。坂を下りたところの右手に、長屋門を建て替えたモダンな門構えの大きな屋敷がある。垣根越しに、茅葺屋根をそっくりトタンで覆ったスキー場のスロープみたいな巨大な屋根がみえる。代官屋敷と呼ばれていたもので、旗本酒井家の代官を勤めた豪農柳下(やぎした)家の邸宅だ。周囲にならぶ西欧風の天窓をつけたマンションもおそらく同家のものだろう。その先には古い門と土蔵のある古い家があり、郵便箱には「(有)柳下商事」「柳下長治」の表札がならんでいた。

和光市消防団第6分団の向かい角の高台
に馬頭観世音がある。文化15年(1818)の建立で、現在の東松山市上岡の妙安寺にある馬頭観世音を模して造られた。台上にあがり、観音を覗き込むようにして撮った写真ではじめて気付いたのだが、顔が三方を向いた三面観音だった。

県道109号に合流し、第三小学校歩道橋を渡る。このあたりから膝折宿近くまで、県道の南方を国道254号が併走し、その南側に陸上自衛隊朝霞駐屯地が広がっている。

本町小学校交差点を渡ったところで、旧道はマグドナルドの右側の細い道に入る。特段、旧街道の風情を残している道でもない。道は200mほどで県道に戻るが、この間に区域は和光市本町から朝霞市栄町に移る。

トップへ


膝折(朝霞) 

「朝霞警察署前」バス停の先で左に曲がる県道とわかれて、まっすぐ細道に入っていく。この旧道も300mほどの短い路地で、県道への出口近く左手にある膝折不動尊が唯一旧道の情緒を醸していた。車のあごが引っ掻いた擦り傷を残す急な坂を下りて県道と合流する。この坂を一人で荷車を引き上げるのは無理とみえて、坂下に車の後押し専門の人夫が待機していた。いつしか「かせぎ坂」と呼ばれるようになった。坂下あたりから膝折宿がはじまっている。

すぐ右手に
一乗院がある。この土地に定着した渡来人高麗氏の開基と伝えられる。案内板に記されているその経緯が興味深い。

716年駿河、甲斐、相模、上総、下総、常陸、下野ノ7国ノ高麗人、1799人ガ武蔵国(現在の入間付近)ニ移住シ、高麗郡ガ置カレタ。ソノ後戦乱アリテ高麗ノ城陥レリ時、主将某ハ敵ノ為ニ討レ畢ヌ。家臣5人遁レテ落人トナリ此ノ膝折ノ地ヘ来レリ、其頃ハ只原野ナリ。彼ノ5人ノ者力ヲ合ワセテ遂ニ家ヲ作リ居住ノ地トセリ、高麗氏ヲ家号トセル者アリ、ソノ時乱世ノ平和ニ立チ還エル事ヲコイ希イ、且世ノ人々ノ後生ト縁者ノ菩提ヲ願イテ守リ本尊タル11面観世音菩薩ヲ勧請安置シ一宇ヲ建立ス

墓地の手前に、14世紀から15世紀にかけての古い板石塔婆140基が収蔵されている。保管箱の窓ガラスが泥に汚れて内部はうっすらとしか見えなかったが、これだけ多くが年代順にそろっている点は歴史的に貴重な資料なのだろう。

宿場の中心部に歩を進めていくと、右手に
脇本陣「村田屋」住宅がある。大きな茅葺屋根はトタンで保護され、玄関入口は現代風のガラス戸がはまっているが、重厚な屋根と端麗な格子は古家の品格を保っている。裏庭には車がとまっていて、人が住んでいる。表札には「高麗」とあった。一乗院の縁起を裏付けるように、この家をはじめとして膝折には「高麗」という苗字が多い。

その先左、郵便局の隣が本陣だった牛山家だが、家は現代風に建替えられていて本陣の名残はない。右手の「中村屋」住宅は門を構えた長塀の後ろに、白壁の土蔵と、塀からこぼれでそうに植え込まれた庭木がみえる大きな家だ。

宿場は数百メートルほどでおわり、街道は膝折宿町内会館交差点を左折して、黒目川に架かる大橋を渡って、新座市に入っていく。橋の手前に古くからの商人宿
「増田屋」旅館がある。

橋を渡ったところに、土壁袖蔵を従えた二階建ての木造商家が、旧街道の趣を漂わせていた。東隣はまぐち1間ほどな小さな平屋に、
「魚政」の看板を掛けて、奥におばあさんが一人団扇をあおっているのが見えた。かっては黒目川傍で繁盛していた魚屋だったのだろう。交差点を左にはいったところに「榎木」という地名がある。一里塚の榎だろうか。

道は右にやや曲がり、小さな庚申塔が立つ二股の分岐点を左にとって、「たびやの坂」とよばれる坂を上る。マンションや戸建住宅にはさまれた道は朝霞市と新座市の境界をなしている。坂上で道が平らになると、幅はいちだんと狭くなって新座市野火止8丁目を通っていく。県道に合流するとすぐ、野火止下交差点の手前左手に「横町の六地蔵」がある。享保17年(1732)の六地蔵のほか、宝暦6年(1756)の銘が刻まれた庚申塔、正徳4年(1714)造立の地蔵菩薩立像が並んでいる。六地蔵は、釈迦如来の後に弥勒菩薩が現れるまでの間、六道(地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上界)に迷い転ずる人々を救う菩薩として、古くから信仰され、親しまれてきた。


トップへ


大和田(新座)

「新座(にいざ)」という名称は、天平勝字2年(758)武蔵国に新羅郡が設置されたことに由来する。その後「新羅郡」は「新座郡」に改称された。渡来人の武蔵国移住について、新座市HPに記載がある。同じ頃、近江蒲生の地へは鬼室集斯を筆頭にたくさんの百済人が移ってきた。

665
710
716
755
758
771
780
朝鮮半島情勢の悪化により、天智朝から天武・持統両朝にかけて、百済・新羅の人々が東国へ移される  
平城京遷都
武蔵国に高麗郡が設置される
武蔵掾防人部領使安雲宿祢三国が武蔵防人歌20首を献進する 奈良時代
新羅郡が設置される  
武蔵国が東山道から東海道に編入される  
新羅郡の沙良真熊等二人が広岡造の姓を賜る


平林寺・野火止用水

野火止大門の交差点は「平林寺」へと向かう参道の入口である。南西角に「金鳳山平林禅寺」と彫られた大きな寺号石がある。道向かいには見事な茅葺の家があった。

交差点を左折して、このあたりでは最大の名刹、
平林寺に寄り道をする。途中、朝霞市役所前交差点に「野火止用水」の大きな説明板が建っている。この地は武蔵野東端にあたる野火止台地で、自然の水利に恵まれなかった。承応4年(1655)川越城主松平信綱の命で、用水工事が始まり、玉川上水より取水して志木市を流れる新河岸川にいたる長大な用水が開削された。昭和20年頃まで住民の生活用水としても利用されていたという。今、その一部が平林寺境内に残っている。

総門をくぐると、左右に仁王が威嚇する山門、その奥に末広がりのみごとな茅葺屋根をのせた仏殿。仏殿の裏側にまわると、中門、そして本堂。これらが一直線上に配置されているのは禅宗様式だそうだ。順路に沿って歩いていくと、木橋がかかる野火止用水があらわれた。水路というより、雑木林をぬってつくられた自然の溝ほどの乾いたくぼみである。周囲を覆う武蔵野の面影を残す雑木林は国の天然記念物という貴重品だ。順路の奥に松平信綱の墓があった。その奥にさらに広がる雑木林は歩かなかった。ともかく広い。そして静かだ。散策路の両側は、あふれんばかりの青葉モミジで、11月にはこれらが燃えるような赤錦に染まるかと思うと、嫉妬を感じる。

平林寺の向かいにある
「睡足軒の森」は、国指定天然記念物平林寺境内林の一部で、江戸時代、上野国高崎藩が飛び地だったこの地に設けた「野火止陣屋」跡地でもある。門の内側は庵風の建物があるほか、雑木林を庭に改造したような、自然を残す癒し系の空間だった。路傍の水槽に三輪の山吹色をした可憐な花を見つけた。絶滅の危機にあるアサザだ。

県道109号に戻り、西に進み武蔵野線のガードをくぐって500mほどいくと、大和田小学校の手前、右手奥に清楚な
神明神社がある。案内板には「昭和の始めには野火止用水が境内の横を流れ…」とあり、境内の内外を見渡してみたがそれらしき窪みを認めることはできなかった。神社は野火止地区の西端に位置し、ここを越えると大和田地区である。

大和田宿

大和田地区にはいってすぐ右手の高台に、「鬼鹿毛(おにかげ)の馬頭観音」がある。元禄9年(1696)の建立で、新座市内では最古最大の石造馬頭観音だ。案内板に鬼鹿毛伝説が詳しく書かれてある。死後も主人を乗せて駆けた忠馬物語である。
「鬼鹿毛の馬頭観音」の解説と並んで「川越街道」の解説板もある。ここでは川越まで43kmとなっていて国道ベースの距離に近い。13里との乖離については触れていない。

川越街道は、川越往還と呼ばれ、江戸日本橋から、川越まで、約11里(43km)を結び、五街道と並ぶ重要な道でした。江戸時代、川越は、江戸の北西を守る要となり、藩主には、老中格の譜代大名が配置されました。又、家康以下、三代将軍も鷹狩や参詣にこの街道を往来し、松平信綱が、川越城主となってからは、さらに整備されるようになりました。街道には、上板橋、下練馬、白子、膝折、大和田、大井の6か宿が設置され、人馬の往来が盛んでしたが、各宿場の村にとって、伝馬役の負担も大きかったようです。「新編武蔵風土記」によると、大和田町は、郡の西にあり。江戸より6里余。村内東西を貫きて、川越街道一里許係れり。この街道を西行すれば、入間郡竹間沢村に至り、東行すれば、郡内野火止宿に至れり。
と述べられ、街道沿いには、人馬にまつわる伝説や道標が残り、往時の宿場のにぎわいが、しのばれます。
     平成6年3月  新座市教育委員会

鬼鹿毛の馬頭観音の右隣に芭蕉句碑があり、「花は賤(しず)乃眼にもみえけり鬼薊(あざみ)」とあった。

大和田地区の県道沿いに大和田宿があったはずだが、本陣などの跡はおろか、宿場の場所さえも特定できないようだ。大和田1丁目にある郵便局が宿の中心地だったのだろうと推測するしかない。わずかに手前の白壁土蔵と、先の空き地に立つ地蔵が手がかりを提供している。地蔵の傍に観音堂があったとのことだが、ガラス窓の廃家があるだけで、堂らしきものはなかった。

郵便局から西に進み、大和田4丁目の河幸米店の横から右に出ているのが
鎌倉街道だそうだ。すこし入って道の先を覗き込むと、トウモロコシ畑のそばを緩やかにまがってのびている様子だった。板橋、赤塚でみた鎌倉街道に比べれば格段にそれらしい。

県道は柳瀬川に架かる英(はなぶさ)橋で国道254号に連結するが、旧道はまっすぐ右の道を通って土橋で柳瀬川を渡っていた。県道の左車線(川越方面)は川で行き止るが、東京方面の右車線は、国道から流れてきた道につながっている。片方だけの行き止りという珍しい道をみた。ここまで川越に向かって車できたものはUターンしなければならない。郵便局をもどりすごして大和田中町交差点から国道254号線に入り、英橋先の複雑な五差路インターチェンジを直進して新座市中野地区に入る。

インターチェンジを越えたところの左手に立派な農家の屋根が見えた。車を側道に乗りすてて、徒歩でその建物を訪れる。間口の広さに驚かされるだけでなく、それを覆う多層の屋根が立派である。前庭にすこし足を踏み入れ一枚撮ったところで、遠くに主人が視野に入ってきた。

「いやー、どうも。写真を撮らせてください」と、帽子をとって会釈を送ると、
「どうぞ」という会釈が返ってきた。
「立派な屋根ですね」と、屋根のてっぺんを指差すと、
「いやー、どうも」と、はにかみの会釈が飛んできた。
「どうもありがとうございました」と、お礼のおじぎをすると、
「どういたしまして」と、腰から折った深い挨拶があった。

3回の無言のエール交換で、用は十分に果たせたようだった。

跡見女子大学の手前左、急勾配の石段の上に富士塚がある。「三国第一山」と書かれた大きな石碑が建っている。国道は切り通しを上ってきている。川越街道のハイライトである、三芳町の街道石碑で区切られた並木道はもうすぐだ。

トップへ


三芳 

資料館入口交差点で新座市から入間郡三芳町に入る。中央分離帯の先端に「川越街道」と縦書きされた大きな石碑が川越方面に向かうドライバーを出迎える。ここから、見事なケヤキ並木が続く。両側の歩道と中央分離帯との三列並木道だが、主役は石垣造りの中央分離帯にある。分離帯を設けるだけの広い道幅を確保するだけでも大事業だったろうに、そこを並木で埋めることについては政治的決断を要したことであろう。

大崎電気の先に1661年創建と伝わる「木宮稲荷神社」がある。緑の静寂の中に、楚々とした佇まいが愛らしい。

中央分離帯と並木はこの先で終わり、振り返るとここにも「川越街道」と彫られた石が立っていた。東京方面に帰る人たちのためにある。

右手の道路沿いに背の低い石鳥居が見え、傍らに
「御嶽信仰と塚」の案内標識が立っている。民家の敷地内に塚が築かれ、蔵王権現が祀られている。木曽御嶽山に対する山岳信仰で、藤久保では「覚明講社」という御嶽講が結成された。

藤久保の交差点の先から再び分離帯と並木がはじまる。右手の道路角に享和壬戊(1802)の庚申塔があり、中央には「川越街道」と横書きされた石碑が据えてある。ここからの
「藤久保の松並木」は主役のアカマツに混じって、杉やケヤキも仲間に入って賑やかだ。

右手の歩道に「川越街道」の案内板がある。これによると、川越街道は、長禄元年(1547)古河公方に対する防衛道とするため以前からあった古道をつなぎあわせたのが起源とされる。ここの説明が唯一、川越までの13里と実際の距離との差異について解説していた。

三芳町に宿駅はなかった。通り過ぎるだけの村であったのに、街道に対する愛情はどこにも負けなかった。

大井町にはいると目を休ませてくれた松並木の分離帯は終わり、車の流れが倍になる。4つ目の「川越街道」碑は、大井町の手になるもので、筆つかいも三芳町の三基とは違っている。

トップへ


大井 

左手に克福稲荷神社の石鳥居が見えてくる。その道向かいに「下木戸跡」の標識がある。ここに大井宿の南木戸があった。木戸の傍らにあった道中安全を守る石地蔵は徳性寺に移されている。バス停は「坂上」とあり、ここから道は坂下の「大井橋」にむかってゆるやかに下っていく。途中、右手に大井稲荷神社がある。「大井橋」の下には鎌倉時代に掘られたという砂川堀が通っていたが、現在は下水路が埋まっている。

左手に
徳性寺(とくしょうじ)が現れる。山門を入った左手隅に、南木戸跡にあったといわれる明和4年(1767)の石地蔵とともに、近くで出土した弘安4年(1281)というきわめて古い板塔婆などが並べられている。寺自体は明治14年の大火ですべてが焼失し、今の姿に昔の面影をとどめないが、当時は大井宿の中心的存在であった。

大井中宿バス停の先、小林理髪店の前に「従是川越迄2里18丁」の標識がたっている。このあたりに大井宿の高札場があった。つづいて左手に「大井宿と本陣」の案内板がでてくる。
本陣新井家跡で、今は「池坊いけばな教室」の看板をかかげるモダンな邸宅である。新井家は名主、問屋場も兼ねていた。川越藩主の参勤交代では、江戸に近いため宿泊することはなく、休憩と人馬継ぎ立てのみが行われていた。大井宿は、明治時代に3回もの大火にあって焼失し、宿場の面影はどこにも残っていない。

東入間警察入口交差点を越え、大井小学校の前に国指定有形文化財の
旧大井村役場がある。明治42年(1909)建築で、小柄ながらベージュ色のコンクリート壁がおちついた雰囲気を醸している。国道沿いの正面は足場が組まれ、外装工事中だった。

その先で、わずかながら富士見市勝瀬地区が東から大井町を侵食している。その勝瀬で旧川越街道は国道254号線と分かれて左側の細い道に入っていく。通例なら、国道からはなれた旧道に宿場町がのこされているものだが、大井宿場はすでに通り過ぎた。この分岐点にあった馬頭観音は神明神社の西側の空き地に移された。

国道の西にそれた旧道のほぼ中ほどにあたる役場入口交差点で、旧川越街道と、大井町役場の前を西にむかう地蔵街道・大山道が交わる。東南角が小公園に整備されて、そこに享和2年(1802)建立という道標を兼ねた立派な
「角の常夜燈」が立っていた。「大山 武蔵野地蔵 ところさわ 道」と、標している。

旧道をすすむと右手に地蔵院がある。正和3年(1314)の開基という古刹だが、昭和27年の火災で、本尊と山門をのこしてすべてを失って、本堂はコンクリート造りで再建された。

旧道が国道に合流する手前に慶長3年(1598)創立とされる亀久保の鎮守
神明神社がある。境内全域にわたって青シートが点在し、大がかりな修復工事が行われているようだった。その西側の空き地を利用して、富士見市勝瀬の分岐点にあった馬頭観音が堂内に安置されている。大和田宿の鬼鹿毛に係わる話が伝えられている。その昔3人の武士が早馬で江戸を目指して走ったところ、川越の伊佐沼で1頭が倒れ、亀久保で1頭、さらに大和田で最後の1頭が倒れた。亀久保の1頭がここの馬頭観音で、大和田で倒れた1頭は、鬼鹿毛伝説となった。

旧道は亀久保交差点で国道254号に合流するが、1kmほど歩いたところの藤間歩道橋で、再び国道を離れて左の旧道を川越市へと入っていく。歩道橋の左手に
鶴ヶ丘八幡宮がある。八幡宮の境内はクズひとつなく掃き清められ、社殿は質素なほどに素朴である。

鶴ヶ丘八幡神社の道向かいに、元禄7年(1694)建立の芝開(しばびらき)観音がある。近所の人だろうか、バケツと竹箒を手にした女性が、3坪ほどの敷地をていねいに掃除していた。

トップへ


川越 

川越市にはいったといっても、沿道にはのんびりとした空気がただよい、盆をひかえた町並みは残暑のけだるさに浸っているようにみえる。塀や門を構えた立派な家が多い。苗字や商店名に新井、沢田といった姓が目につく。大谷石造りの塀に薬医門を構えた屋敷には新井の表札がかかっていた。「いもせんべい本家あらい」と書かれた行灯を出している店先の藤棚の下に「旧川越街道 藤馬中宿」の碑がある。大井と川越の間にあった宿場だろうか。

「藤間中」のバス停をはさんでいるのは沢田米店で、道の西側に精米所が開放されている。機械は運転していなかったが、なつかしい匂いと風景だった。

藤間文化会館から坂を上がる途中左手に東光寺がある。その先の三叉路角に祠に入った「開明地蔵大菩薩」がある。近くに刑場があったので通称
「首切り地蔵」と呼ばれている。

ここから道の左側は砂新田地区となる。右手の高階中学校の体育館からボールの弾む音と共に、元気な掛け声と、荒っぽい男性教師の罵声がもれてくる。バレーかバスケット部だろう。道向かいの高台に吉田神社の小さな祠が見える。

高階郵便局は広い間口の古い建物と隣接しているようだ。表札には
「加藤商店」とあった。おりしも郵政改革選挙を前にして、今や「特定郵便局」は国民の常識語となった。大都市をのぞいて、どこへいっても町や村の中心地にある郵便局は土地の名士が局長を勤める「特定郵便局」だと思ってよい。

春日神社を右手に見て、ほどなく小さな不老川(ふろうがわ)にかかる御代橋(ごだいばし)を渡る。不老川の水源はかぼそい湧き水で、流れは冬に枯れて年を越さないため、「としとらず川」と呼ばれている。橋を渡り終えると左手に二階建ての趣味のよい古風な民家が現れる。近づくと「すばるデイサービスセンター岸町」の案内板が板塀に取り付けてある。満開の白いサルスベリが木戸門を飾る、老人のための介護施設であった。

長田寺(ちょうでんじ)の参道を覗き込むとテントが張られて大勢の人が集まっている。本堂の前に人だかりができて、スピーカーから住職の講話が流れてくる。
「食べ残しをしてはいけません」とか聞こえてくる。
境内にいる聴衆は本堂に入りきれなかった人たちだろう。テントでは榮太郎本舗の社員が弁当箱らしきものを配っていた。中身は金つばか甘納豆だろうか。私も一箱ほしかった。

道はゆるやかな登り坂にかかる。左にうっそうとした森がみえて、石階段のふもとに「烏頭坂」の石柱がある。説明板には「川越街道を岸町から新宿町2丁目・富士見町へ上がる坂道で、往時は杉並木がありうっそうとしていた。新河岸川舟運が盛んな頃は、荷揚げされた荷物を市内の問屋街に運ぶときに必ず通らなければならず、難所として知られていた」とある。
石段を上ると、茂みの中に立派な鳥居を構えた
熊野神社がある。蝉の声の間隙を縫って甲高い声が聞こえる。神社の裏側にあるテニスコートを女子中学生が占領していた。

道は国道254号と合流して、大きくて煩雑な新宿町北交差点に出る。254号線は左から来た国道16号線と合流して右へ折れ、旧川越街道は交差点をまっすぐ突き進んで県道39号線にはいっていく。いよいよ川越市内の匂いが濃厚となってくる。交差点の下を東武東上線とJR川越線が二方向から接近してくる。いつものように歩道からカメラを構えて、電車の来るのを待った。

街道からすこしはずれて右に折れた国道沿いに
浅間神社がある。浅間神社は古墳の上にあり、石段を上り墳頂にある社殿の裏側に回りこむと、富士山の噴火口を象徴して、溶岩で築いた富士塚と穴が穿ってある。入口鳥居の脇に「占肩(うらかた)の鹿見塚(ししみづか)」碑がある。昔は鹿の肩や亀の甲を焼いて吉凶を占なった。

旧道に戻り、
ケヤキ並木を通り過ぎたところ左手に妙善寺がある。コンクリート造りの小江戸川越七福神の第一番毘沙門天が祀ってある。秋の七草の一つオミナエシが境内のあちこちに満開だった。「女郎花」ともよばれるが菜の花をさらに可憐繊細にしたような花だ。

南通り町の川越八幡神社の社殿は昭和50年完成したばかりで新しいが、由緒は長元3年(1030)にさかのぼる川越一ノ宮である。話はながくなるのでHPに譲ることにする。社殿の階段に若い男女が腰掛けて睦まじく会話を楽しんでいた。そんなスポットに望遠で焦点を合わせるのはすこし気が引ける。

松江町1丁目にきれいな
枡形があって、いよいよ城下町にはいった実感がわいてくる。まがったところの岡田畳店で、親子らしき二人が仕事に忙しくしていた。古いたたずまいの二階建ての家で、一階は半分が新しく建替えられているが、仕事場にあてられている他の半分は古い造りのままだ。

このあたりから川越を代表する老舗が次々と現れる。
松江交差点東北角には板張りの風格のある店を構えた、天保3年(1832)創業のうなぎの老舗「いちのや」
。昼時でもあったからか、裏の専用駐車場は満席だった。

1筋上がった角には明治元年創業の「芋十」。皇室にも献上したことを誇りとする芋菓子の老舗だが、同時に古美術商を商っているところがまた古くさくてよい。二階の格子が美しい街道沿いの建物は国指定有形文化財だそうだ。古美術品にならんで、ピカピカのバイクが置いてあるのはなんだろう。陳列品か、車庫がわりか、ジョークのつもりか。

芋十から
筋北、川越キリスト教会の斜め向かいに長い板塀にかこわれた総二階の割烹旅館「佐久間」が横たわっている。建物は国指定有形文化財で、内部は外観以上に立派なもののようだ。島崎藤村が泊まったとか、将棋名人戦の対局が行われたとか、有名人・政府高官がひいきにしていた老舗旅館のようだ。塀にそってあるいてみると、その長さに改めて驚いてしまう。

鉤の手をまがると大手町になる。川越から江戸に向かうときこの町が起点となったことからこの街道筋を
江戸町とよんだ。左右に昔の風情を残す建物が散在するなかを北にむかうと、ほどなく、視界がひらけて、市役所交差点に着いた。角に「川越城大手門跡」の石碑、その背後に川越城を築造した大田道灌が満足げに立っている。ここが街道の終着点である。

トップへ


川越と近江商人


2002年5月、近江商人ゆかりの地を訪ねる旅として川越にやってきた。かってこの地方は三芳野の里といわれ、周囲を入間川、荒川、新河岸川、小畔川、赤間川などがめぐっている。川を越えなければ入れないために「河越」、あるいは川によって肥えた土地であることから「河肥」と言われた。城下町である川越はまた荒川支流、新河岸川水運の拠点として江戸の食料基地でもあった。蔵の街並みとともに今も当時の面影を濃く残し小江戸として知られる。当然のことのように江戸から近江商人が進出してきた。

古めかしい間口に掛けられた「民俗資料館」という札に惹かれてふらりと入ってみた。服部家は山新という屋号で傘や履物を商んでいた。奥の部屋には黒漆塗りの看板や桐たんすなどが陳列してある。額入りの賞状らしきものもある。

店には同家に伝わる町方民具や文書などが展示されている。ガラス越しの展示品のなかに蔵造りの商家の絵が並んでいる一枚のポスターを見つけた。よく見ると店の絵は渦巻き状にならんでいて中央に氷川神社がある。
右端に
「川越町勉強商家案内壽語録」とあった。双六で川越の店をおぼえようというのだろうか。下の余白に書かれた読みづらい漢字を右から左へ追っていくと、
「非売品」「明治丗四年十二月廿五日」「東京市神田区旅篭町壱丁目丗三番地成美堂」と読み取れた。
一つ一つ店の屋号をつぶさに見ていくと「近江屋xxx」とか「近xx」と読める店がいくつかある。重要な手がかりを得た探偵のようで自分でも気分が高まっているのがわかる。
店のおばさんに聞いてみた。
「近江商人の足跡をたどっているのですが、これらはみんなそうなんでしょうか。町名が書いていますが、今どこにあるかわかりますか?」
「近長さんはすぐそこの角ですし、近亀さんはあさひ銀行の近くにあるのがそうだと思います。近常さんはあそこで、あとは、そうですねえー……町の名前もかわりましたし……」
非売品に1500円の値札が貼ってある。
「これ売っているのですか?」
「まだあると思いますがねえ」
気のない返事をしながら、奥から筒状に丸めた紙をもちだしてきた。
「これがそうだと思います」

トップへ


鐘撞き堂に向って歩いていると通りの向かいから薄っすらとした煙とともに食欲をそそる香りが漂い流れてきた。「中市」という店の前の人だかりのなかで何かを焼いている。30cmほどの木短刀のようなかつお節だった。母の手伝いに、カンナをひっくり返して私はこれを削ったことがある。一人の男性が石のように硬そうなかつお節を赤く照った炭火であぶり、柔らかくなったところをスライサーにかけると、紙よりも薄くかすかに波打った茶色のリボン帯が削りだされてくる。そこから発散する温かくて乾いた生臭ささが香ばしい。他の一人の若者は売り子である。二袋買った。袋に放り込まれたかつお節は綿菓子のようにふわふわして、少々おさえてもまるくもどるほど弾力があった。

町のシンボルとなっている鐘撞堂は巨大な4本の杉の柱で支えられた木造3階建の櫓で、17世紀前半に川越城主酒井忠勝によって建てられた。数回の火災にあって、現在のものは明治26年(1893)の川越大火の翌年に再建されたものである。この鐘は400年近くにわたって、午前6時、正午、午後3時、午後6時の1日4回川越城下町に「時」を告げてきた。彦根城の時報鐘とともに「残したい日本の音風景百選」の一つである。

時の鐘の近くまできたとき、年配の男性が「1分ほど」といって、アンケートを求めてきた。質問だけでなく、予想回答までつけて聞いてくるから手間がはぶけて効率がよい。
「川越ははじめてですか」
「2回目です。1回目は近江商人ゆかりの店をたずねる目的で。近長さんは近江商人とは関係ないんですね」
アンケートから逸脱して主客が転倒してきた。
「城に出入りを許された商人の中から、『近江屋』の屋号を与えられた者がいるのですよ」
これは新規情報だった。ところで、藩主が「近江屋」の屋号をえらんだ理由はなんだろう。

「泊まる予定はありませんね」
「ええ」
男性は『日程:日帰り』に○をつけた。
「お土産は買う予定ですか。芋菓子とか」
「ああ、芋菓子くらい買ってもいいですね」
『土産品:芋菓子』に○印をつける。
「5百円くらい・・・」
「ええ、5百円くらいなら・・・」
『予算:500円』に○印をつける。
「年代は50歳代ですね・・・」
「ええ、まあ」
返事をするまえに、『年齢:50代』を○で囲みかけている。
きわどい推測をしてくるものだ。ベテランの市場調査マンではないかな。

「多賀町」とありますが、あれ、滋賀県の多賀でしょう」
攻守いれかわって聞いてみた。
「タガは桶の箍(たが)なんです。桶屋があつまっていまして。近江とは関係ありません」
その通りの説明碑があった。随分詳しい人だ。

最後の質問で、『よかった』に○をつけながら、
「商店街の印象は、よかったですか」
「『大変よかった』でいいですよ」
『よかった』を二本線で消して、その左の項目を○で囲みなおした。
「なにか、要望とかありますか」
「一番街は車乗り入れ禁止にしてください。せっかく素晴らしい街並みがあっても車がじゃまになってまともな写真が撮れませんから。9時から5時までとか」
 
かねつき通りの店先には
「近長 細田長兵衛商店」と書かれた古めかしい看板が取り付けてあった。近江商人は屋号に「近江屋」あるいは「近」の文字を用いた。店は三棟に分かれていて、かねつき通りの入口から時の鐘の正面にかけて、豆腐屋・うどん屋・さかな屋が並んでいる。蔵造りではなかったが細い格子が美しい商家であった。鐘撞堂を眺める一等地を占めている。豆腐屋は数席のテーブルを備え豆腐料理も供していた。

中に入ると30代後半と思われる男性が豆腐を売りつつ食事の注文も取っている。若旦那なのか雇われ店長なのかはっきりしない。近江商人のことを聞いてみたいと思ったのだが、ちょうど昼時で忙しく立ち回る店の責任者に野暮用で声をかける勇気はなかった。 

その後細田長兵衛商店の親戚の方からお便りを頂いた。同商店は長兵衛8・9代目で、地元川越の出身であり近江商人とは関係がないということだった。看板の上に描かれた○三の家紋は初代長兵衛が、ある川越商人(家紋は○一)の3番番頭だったからだそうだ。川越のどこかに初代長兵衛のライバルだった二番番頭が分家独立した○二の家紋を持つ店があるはずだという。残念ながら細田長兵衛は近江商人でなかったが、まだあきらめない。その本家○一の店があやしい。「近長」という屋号に望みをかけよう。

トップへ
 
「近長」から蔵通りを札の辻に数軒寄った所に、間口六間の堂々とした店舗蔵が誇らしげに陣取っている。観光名所として訪問客の足が絶えない。寛政4年(1792)、呉服太物を扱っていた川越の豪商
近江屋半右衛門(西村半右衛門)が建てた。蔵づくりの町家の中でも最も古いものとして国の重要文化財である。西村半右衛門のルーツについてはよくわからない。

西村半右衛門は――明治16年に発行された「川越繁昌店萬代鏡」では筆頭に名を連ねており、埼玉県で最初に設立された第八十五国立銀行の発起人にも名前がみえる――(『三方よし』第10号「AKINDO会議」より)。
明治26年、川越で市内の大半を焼失するという大火があったが、その時も西村半右衛門の近江屋は類焼をまぬがれた。それを見て火災の後、多くの蔵づくりの商店や民家が建設されたという。会津、喜多方にも同じような話しがあった。

小間物商人であった大沢家が西村家から譲り受け、現在は川越地方の民芸品や土産品を販売している。広々とした間口をくぐると薄暗い三十畳ほどもある帳場に巨木からとったとしか思われない太い柱が突っ立っている。中央奥には三間もある大きな神棚が横たわっていた。すべてが骨太の造りだ。

女主人と思われる愛想のよさそうな年配の女性が帳場机に近寄ってきた。私は先ほど買った双六紙を広げて聞いてみた。
「近江商人の跡を訪ねているのですが、ここと近くの近長さんの他にありませんか?」
「私はここで生まれて、ここに嫁にきましたから、近所のことならわかります。隣は……、その隣が……、その次は……、その隣が……、……、……」
と、たて続けに10軒を越える近所の名を挙げた。結局そのなかに近長以外の名はなかった。
こちらから聞いてみた。
「この醤油屋の池田さんはどうですか」
「札の辻を西に行ったところにあったと思います。今は家を売り払って取り壊し中と聞いていますが」
「ありがとうございました。とにかく行ってみます」

帳場の両側に箱階段がある。まことに箱を積み重ねてあるだけで釘付けなどしていない。一段が高く、狭い幅の階段を大股で登ると足元に揺らぎを感じて不安定だった。
二階は立派な蔵座敷である。

大沢家の向かい側に町内地図が張ってあった。「近」の字を探していると「近江物産」というまがいもない近江商人の痕跡をみつけた。場所は今来た大沢家の二軒北隣である。入り口は鉄板が打ち付けられ看板もなければ名札もない。商売や家名が変わったとはいえ、明治時代の店蔵をひきつぎ観光客あいてに店をひらいているこの一角にあって、ここだけは押し黙ったように閉じていた。右隣の大正造りの棟と一体らしいがそこも閉めきられ商売をしているふうには見えない。資料によれば「岡家住宅」(岡常吉氏宅)として建物だけが市の文化財に指定され保存されているようである。「近常」という屋号の酒屋さんだったが、20年ほど前に廃業したとのことだった。

大沢家の向かいが亀屋栄泉で、明治よりこの川越甘藷を原料にした菓子の製造販売を続けてきた老舗である。二階は「芋菓子の歴史館」にして当時使用していた菓子作りの道具や資料を展示している。
干しいも、いもようかん、いもせんべい、いもかりんとう、いも甘納糖、いも飴、きんつばなど、いもの用途は多様である。いずれをとってもサツマイモの素朴な甘さと飾り気のない純情な色合いが大地の包容力を感じさせ、なつかしい気分にしてくれる。

さきほど教えてもらった
池田家を探す。菓子や横丁にいく手前の通りに面して工事中の空き地らしきものをみた。隣接地にもと商家らしき板張りの民家があった。名札もなく確認するすべもないが、直感的にここではないかと思う。主のいない自分の生家をたずねている気分であった。

さて、
「近亀」さん宅である。服部資料館のおばさんに教えてもらったとおりあさひ銀行の南、法善寺の石標が立つ角にあった。蔵並みにあって石造りのモダンな店である。正面には「ないものはない きんかめ」と、肯定的に読むのか否定的に解釈するのか、気になる言い回しの看板がとりつけてある。後日、同じ言い回しを奥の細道道中でみることになる。金物店特有の看板用語であるらしい。

藏通りと長喜院に通じる細道の角地にひときわ重厚な店藏がある。呉服商を営んでいた山本平兵衛が建てたもので、現在
ヤマワ陶器店として使われている。長喜院に向って、店蔵、座敷蔵、物置、土蔵が続いている。細道を少し入ったところの店先に人力車が主にも客にも見放されたように寂しく置かれていた。尻をヒョンと上げた人力車をまじかに見ると座席の意外な高さに驚く。車引きが途中で手をはなせば、客は転げ落ちるというより、後ろにすっ飛ぶのではないかと思われた。通りでみかけた車上の親子は楽しそうだった。

目を屋根に転ずると、入母屋造りの頂上には大きな鬼瓦や箱棟が乗っている。見るからに仰々しく重そうで、おそらく今様の木造住宅なら瓦の重みで押しつぶされるであろうと思われる。民家の瓦屋根に比べれば横綱武蔵丸と一般市民ほどの差がある。

人力車を過ごして更に長喜院に近づくと、すこし奥まった木陰に純和風の物置蔵がのぞいていた。観音開きの土扉の上部には
「YAMAWA CLUB」とアルファベット文字で書かれていた。喫茶店だろうか、何かの同好会だろうか。密かなようでいて気づいて欲しそうでもある。興味をそそられる蔵ではあった。

その他蔵通りには軒下を歩くだけで楽しい店が多い。

「まめの店」という大きな看板の店先では、先輩格らしき女性が前を通る観光客に甘納豆の試食を誘うのに忙しかった。店の中は甘納豆だらけである。民芸調の黒装束をまとった店員が色形、大小さまざまな豆製品を売っている。豆の種類に加えて甘さ加減やゆで加減、最後にまぶす材料によって実に多様な豆製品ができあがる。それらの総てを口で試すことができる。
売り場は納豆の最終工程を見せてくれる作業場につながっていて、二人の女性が手さばきよく豆を黄粉で塗しながらさかんに客に声をかけていた。半ば資料館か倉庫のようにひんやりと静かな店が多いなかで、豆の店は目立って活気のある店だった。

札の辻から高澤通りを西に行くと左手に
菓子屋横丁へ通じる路地がある。入ると「く」の字に曲がった小路の両側に10軒あまりの駄菓子屋が軒を連ねている。長さにすれば100mほどの短い横丁である。横丁の入り口にある看板が横丁の由来を伝えていた。

明治の初め鈴木藤左衛門がこの地に住んで、江戸っ子好みの気取らない駄菓子を製造したのが始まりといわれ、江戸時代には、養寿院の門前町として栄えたところである。明治の後半からは「のれん分け」により、店の数も次第に増え、大正時代に入ってからは、菓子問屋の多かった神田、浅草、錦糸町などが大正12年の大震災で焼失してしまった影響を受けて、川越の菓子製造業がより盛んになっていった。この横丁の最盛期は昭和の初期で、70店余りが軒を連ねチソパン、千歳飴、金太郎飴、麦落雁、水ようかん、かりんとうなど数十種類の菓子が製造されていた。しかしながら、庶民の菓子として親しまれていた駄菓子も、時代とともに移り変わる嗜好の変化によって昔の活況が見られなくなり、現在では十余軒が手作りの生菓子や飴菓子を作っている。最近は駄菓子の良さが見直されてきているため、今後の発展が期待されている。  昭和57年3月  埼玉県

店によりそれぞれ得意の菓子が並べられている。にっき飴屋の店先には胡椒とはっかとココアを混ぜ合わせたような香ばしい匂いが立ち込め、殆ど忘れていた感覚をよみがえらせた。
もちろんあらゆるイモ菓子がある。甘納豆類も多い。棒キャンディやラムネもある。目新しかったのはフランスパンのような巨大な菓子だった。たくましく茶色にやけて店先に立てかけてある。材料は麩(ふ)だった。ふ菓子棒というのだそうだ。私はすき焼きで食べる麩しか知らなかった。
なつかしいアイスキャンディーも売っている。夏休みの午後、毎日リヤカーに木製の冷蔵箱を乗せて売りに来るキャンディー屋さんのベルの音を待ちかねたものだった。私のお気に入りは「小豆」で、うす紫色のほのかな甘みのなかに、大豆のこまかな皮のなごりを冷たくしびれた舌に感じるのだった。ここでは1本105円。味は変わっていない。
蔵並み通りの裏手に昭和20年代の風情がこじんまりと閉じ込められている。

トップへ

 
川越城は、1457年に関東管領の上杉持朝(もちとも)が家臣の太田道真・道灌父子に命じて築城させたものである。その後、北条氏が支配するが1590年、徳川家康の関東入りに伴い川越藩がおかれることとなった。寛永16年(1639)松平信綱の時に大幅な拡張整備がなされ、徳川家の親藩、譜代の大名が居城した。明治維新後、堀は埋められ土塁は壊されて、現在では富士見櫓の跡と本丸御殿の一部が残るのみとなった。

本丸御殿は1848年に建てられたものである。全部で16棟、総建坪1025坪の規模をもっていたが、明治維新以後次第に解体され、本丸御殿の一部として大玄関・36帖の大広間・諸役人の詰所等8間・家老詰所を残すのみで、総建坪165坪である。巨大な唐破風を構える玄関を入っていくと、カメラをぶら下げているものは住所・氏名を登録させられた。家老詰所で、地図を囲んで議論している三家老の蝋人形はよくできていた。
 
喜多院は平安時代、淳和天皇の勅により天長七年(830)に慈覚大師円仁により創建された無量寿寺(むりょうじゅじ)がその起こりである。その後、慶長4年(1599)天界僧正が喜多院と名を改めた。寛永15年(1638)の川越大火で山門を除き焼失。三代将軍家光は、江戸城紅葉山にあった書院造りの別殿をこの場所に移築し、客殿、書院などにあてた。その結果、「家光誕生の間」や「春日局化粧の間」がここにあることになった。

その後、慈恵堂、慈眼堂、多宝塔、鐘楼門、仙波東照宮、日枝神社等が相次いで再建される。明治維新には、神仏分離令により仙波東照宮、日枝神社が喜多院から独立した。

関東天台宗の中心で川越大師としても知られ、1月3日は初大師・だるま市で賑わう。

山門は寛永9年(1633)に建立されたが、焼失を免れたために喜多院の中では最も古い建造物である。本瓦葺きの切妻造りで2本の門柱の前後に各々1本ずつ控え柱を持つ四脚門である。

無量寿殿とも呼ばれている客殿は柿葺き(こけらぶき)の入母屋造りで、北側にある12畳半のへやは「家光誕生の間」とよばれている。又、ここには喜多院の本尊である阿弥陀如来の他、3体が安置されている仏間が設けられている。

書院は柿葺きの寄棟造りで内部には、8畳と12畳の部屋が各2室ずつあり、このうち8畳の1室が3代将軍家光の養育にあたった春日局の化粧の間と伝えられている。

庫裏からウグイス張りの廊下でつながっている
慈恵堂は喜多院の本堂で、延暦寺第18代座主慈恵大師良源を祀っている。折りしも香の煙がたちこもるなかで供養が執り行われていた。ガラス越しに20人ばかりの参拝客が正座し、そのむこうに一人の僧がしきりに経を唱えているのが見えた。そこまでは見慣れた光景である。僧の前では焚き火のような炎がメラメラとゆれていた。密教ということばがもつ密やかな響きと、炎が放出する魔術的な怪しげさはなかなか私に純粋な宗教的関心を起こさせない。

市内最大の前方後円墳の上に建っている慈眼堂は、正保2年(1645)将軍家光の命によって建立され、一名開山堂とも呼ばれている。本瓦葺きの3間四方の宝形(ほうぎょう)造りである。寛永20年(1643)喜多院で入寂した天海僧正を祀っている。

元和3年(1617)徳川家康の遺骸が久能山から日光に移葬される途中、喜多院に4日間とう留して供養をうけた。仙波東照宮はそれを受けて天海僧正が寛永10年(1633年)この地に創建したものである。東照宮は当初から独立した社格をもたず喜多院の一隅に造営されたが日光、久能山の東照宮とともに、三大東照宮のひとつと数えられている。

駅への帰り道に偶然「近江屋」をみつけて、川越街道歩きに有終の美をそえた。六軒町2丁目角に「京染 近江屋」と白抜きした藍染め暖簾が広い庇いっぱいにかかっている。中は暗くて、盆休みのようだった。二家族の共同経営なのか、表札には2つの苗字が並んでいた。

トップへ


資料「川越町勉強商家案内壽語録」 
 
50商家  内近江関係 5件
                            現況
振り出し:
呉服商            松屋呉服店  志義町角    
大つかや       綾部屋 薬舗     志義町
煙草問屋       萬屋  小山文蔵   南町   
旧小山家 「蔵造り資料館」
陶器並学校用品商       水村瀬戸物産 高澤町
菓子舗        亀屋  山崎嘉七   志義町  亀屋菓子店
呉服太物商      亀屋  山崎呉服店  志義町
銃砲火薬洋品店        桜井半造   加冶町
時計商            近亀     加治町  きんかめ
醤油醸造       近江屋 池田半七   喜多町
  
酒類商        木村屋 木下藤四朗  高澤町
旅館 有斐館     福屋  竹澤     江戸町
銅銕商            松江作太郎  本町
袋物商            谷福     加冶町
醤油醸造元          森田芳次郎  高澤町
酒類商        伊勢屋 源七     猪鼻町
陶器類御盃焼付所       小高盃店   南町
粉名砂糖鰹節塩商   松崎屋 徳次郎    志義町角 
松崎屋スポーツ洋品店
油塩肥料商          田中定吉   石原町
油肥料商           麻利綾部商店 喜多町
陶器商        釜屋  武助     加冶町
魚商             中市     南町   鰹節
xxx        伊勢清        多賀町
菓子商        四ツ橋 日吉     高澤町
青物果物魚商         近長     南町角  うどんや、豆腐屋
洋品商            岩崎育太郎  南町
肥料砂糖塩      小川  伊藤長三郎  高澤町
洋品商        足立屋 洋服舗    南町
学校用品           明文堂書舗  南町
呉服太物商      足立屋 山本呉服店  南町
菓子商        小松屋 仁村福太郎  加冶町  小松屋菓子店
株式会社川越商業銀行            多賀町
魚類商        扇屋  伊助     喜多町
お料理仕出し     山屋         南町
小間物化粧品商        山田小間物舗 南町
酒類販売       和泉屋 喜左衛門   南町
下駄傘薬種商     
山田屋 服部新助   南町   服部民俗資料館
時計商            坂本屋商店  南町
糸綿洋物類      麻屋  綾部商店   高澤町
綿類夜具蒲団縫糸針商     高橋栄助   南町
洋物商洋服裁縫    近江屋 太助     南町
太物問屋           小林佐平   南町   くらづくり本舗
小間物商       近江屋 輿八     高澤町
呉服太物商          麻伊呉服店  南町
上松江町           佐久間旅館  上松江町
会席西洋料理         初音楼    本町新道
薬舗         酢屋  野二山薬房  喜多町
太物問屋       山田屋 高山仁兵衛  南町
菅間商店 染工場       菅間正作   南町
氷川神
社 :上がり

近江屋半右衛門(大沢家)が見当たらない。どうしてだろう。

2005年8月
トップへ