川越街道はそこで国道17号とわかれ、首都高速の下を山手通りまで、「四つ又通り」をいく。街柱にはワイン色の布地にワイングラスが白抜きされ、そのなかにZ(zerosome)、下に「四つ又ワインロード」と書かれた旗がたなびいていた。凝ったデザインで、商店街の旗にしては内容が謎めいている。特産ワイン店が並んでいるのかと道の両側をみわたせば、およそ商店街の景観をなしていなかった。高速道路の建設に伴う道路画拡幅工事で、かっては人の親しく行き交った商店街の、南側全部がごっそりと移転させられたという。いまや商店街の姿はない。それでも町の活性化の祈りをこめて、ひとつの親環境コンセプトを取り入れて四ツ又通りに採用された。廃棄ワイングラス粉砕カレットを利用して歩道や景観柱などに利用した。地域の再開発の際生じた特定の廃棄ゴミを再利用したという意味で「ゼロサム」だというのだろう。Zはゼロの頭文字だし、合計をあらわすシグマでもある。悲しいかな歩いている時は、足元の舗装素材まで鑑賞する余裕をもたなかった。どこかで「ワインロード」の説明板を見逃していたか。
郵便局がでてきた。宿場の中心であろう。隣が「辰屋かぎや」という二重屋号の和菓子屋である。腰板にそのいわれが説明してあった。初代は、今から200年程前の江戸時代、京都で和菓子の修業をした後板橋で鍵屋を開業。明治27年の板橋大火で廃業したが、分家4代目の栗原登喜雄氏が生まれ年の辰にちなんで辰屋を号してかぎやを復活したという。本家と分家の連名で書かれていたところをみると、この店は本家かぎやと分家辰屋の共同運営とみられる。![]() |
![]() |
![]() |
![]() |
| 板橋区上板橋 | 練馬区北町1丁目 | 練馬区北町2丁目 | 練馬区北町2丁目 |
| 665 710 716 755 758 771 780 |
朝鮮半島情勢の悪化により、天智朝から天武・持統両朝にかけて、百済・新羅の人々が東国へ移される
平城京遷都 武蔵国に高麗郡が設置される 武蔵掾防人部領使安雲宿祢三国が武蔵防人歌20首を献進する 奈良時代 新羅郡が設置される 武蔵国が東山道から東海道に編入される 新羅郡の沙良真熊等二人が広岡造の姓を賜る |
| 川越街道は、川越往還と呼ばれ、江戸日本橋から、川越まで、約11里(43km)を結び、五街道と並ぶ重要な道でした。江戸時代、川越は、江戸の北西を守る要となり、藩主には、老中格の譜代大名が配置されました。又、家康以下、三代将軍も鷹狩や参詣にこの街道を往来し、松平信綱が、川越城主となってからは、さらに整備されるようになりました。街道には、上板橋、下練馬、白子、膝折、大和田、大井の6か宿が設置され、人馬の往来が盛んでしたが、各宿場の村にとって、伝馬役の負担も大きかったようです。「新編武蔵風土記」によると、大和田町は、郡の西にあり。江戸より6里余。村内東西を貫きて、川越街道一里許係れり。この街道を西行すれば、入間郡竹間沢村に至り、東行すれば、郡内野火止宿に至れり。 と述べられ、街道沿いには、人馬にまつわる伝説や道標が残り、往時の宿場のにぎわいが、しのばれます。 平成6年3月 新座市教育委員会 |
一つ一つ店の屋号をつぶさに見ていくと「近江屋xxx」とか「近xx」と読める店がいくつかある。重要な手がかりを得た探偵のようで自分でも気分が高まっているのがわかる。| 明治の初め鈴木藤左衛門がこの地に住んで、江戸っ子好みの気取らない駄菓子を製造したのが始まりといわれ、江戸時代には、養寿院の門前町として栄えたところである。明治の後半からは「のれん分け」により、店の数も次第に増え、大正時代に入ってからは、菓子問屋の多かった神田、浅草、錦糸町などが大正12年の大震災で焼失してしまった影響を受けて、川越の菓子製造業がより盛んになっていった。この横丁の最盛期は昭和の初期で、70店余りが軒を連ねチソパン、千歳飴、金太郎飴、麦落雁、水ようかん、かりんとうなど数十種類の菓子が製造されていた。しかしながら、庶民の菓子として親しまれていた駄菓子も、時代とともに移り変わる嗜好の変化によって昔の活況が見られなくなり、現在では十余軒が手作りの生菓子や飴菓子を作っている。最近は駄菓子の良さが見直されてきているため、今後の発展が期待されている。 昭和57年3月 埼玉県 |