今様奥の細道 

3月28日(新暦5月17日)



杉戸幸手栗橋中田古河


いこいの広場
日本紀行

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杉戸

杉戸町に入った直後、左手歩道に駐車場のスペースを設け、そこに地球儀のモニュメントが設置されている。この地点が北緯36度線ぴったりらしい。

下本村のシェル・ガスステーションの先で旧道は左に入り静かな集落の中を進む。途中左手に沿いの九品寺境内に日光街道の道しるべがある。寺といっても無人のようで、墓地だけが残されている。小堂の横に、1784年に地元堤根の村人によって立てられたという庚申塔を兼ねた道標があった。東面に「右江戸 武州葛飾郡幸手領堤根村、北面に「天明四辰戊十一月吉日 松伏領新川村 石工 星野常之」、西面に「左日光」、南面には「青面金剛」と刻まれている。

旧道の「本陣跡前」という交差点にでた。車をとめて本陣の跡を探すが遺跡も標識も見当たらない。銀行前の歩道に「明治天皇御小休所阯」の石碑がたっているがどうもそれではないらしい。角で煎餅を焼いている菓子屋(林屋)のおじさんに聞くと、中から奥さんがでてきて詳しく教えてくれた。100mほど北に行った右手に、一本の大きな松の木陰に長瀬家の古風な門が保存されていた。雨ざらしの標柱に残るかすかな筆跡は判読できない。奥は近代的な民家である。


東武動物公園駅近くの
浅間神社境内に芭蕉の句碑があるというので探しに出かけた。地図を開けると、香取、八幡、厳島、稲荷、熊野など神社は多いが浅間の名が見当たらない。東武線の線路をわたり大落古利根川にかかる河原橋をわたったところで、おじさんに聞いた。

堤沿いの一画に自然石を寄せ集めた手作りの岩山が築かれている。周りに2つの小さな祠があって、それぞれには厳島神社や稲荷神社とあるが、浅間神社と書かれた建物がない。浅間神社はその岩山自体であって、頂上に「富士大権現」と彫られた石がそれを物語っていた。地図上でこの場所を一つの神社名で示すのは悩ましい仕事であったろう。多くの自然石の一つに芭蕉の句が彫られている。

 八九間 空で雨ふる 柳哉 はせ越

葦がしげる古利根川はじっと静まりかえって緑の流れを湛え、土手には花を終えて種をふくらませたひまわりが残暑の光を楽しんでいる。誰が植えたのか、ムクゲやコスモスの花が神社の前庭を飾っていた。

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幸手

日光街道の旧道は杉戸高野台をすこしすぎた所から、左にまっすぐ伸びている道である。昨年ここで右の国道4号をたどって、志手橋が追分だと思っていた。旧日光街道が国道と分かれ御成街道に合流する途中に幸手南公民館があり、その正門に上高野村道路元標が保存されているが、文字はほとんど読めない。志手橋の手前で旧国道4号と合流し、左におれて幸手宿の町中へ入っていく。

幸手の町を通り抜け、右に曲がって国道4号に合流する手前に正福寺がある。境内のすぐ左手に、数段に盛り上げたピラミッド状の石仏塚が威圧的な眼差しを投げかけているようである。大木を支える築山の麓に「日光道中」と彫った大きな四角柱の石道標があった。街道筋に建てられていたものである。

正福寺の正面、曲がり角の道端(幸手市北2−1−9)に、幸手一里塚の跡をしめす案内板がたっている。一般的な一里塚の説明の後に、明治初期までこの道の両側に塚があったことを記してある。

すぐに出てくる三叉路を左にとるのが旧道(県道65号線)だが、そのまま進み、桜の名所で名高い権現堂桜堤によっていくことにした。国道4号を突っ切ってまっすぐ東に進むと権現堂という場所にでて、中川(庄内古川)にさしかかる。

上船渡橋の埼玉県側から北におよそ1kmにわたって桜並木の堤が延びる。関東でも指折りの桜の名所で、特に土手の東側に整備された菜の花畑とのコントラストで知られている。春の景色はみごとであろう。

桜堤を右手にみて4号線にもどり、権現堂川に沿って北にむかう。
正福寺横の三叉路で左に折れた旧道は内国府間(うちごうま)で4号線に合流し、岩槻渋江から出た県道65号はここで終わる。中川を渡ってすぐに左の小道に入っていく。田園地帯に点在する民家を通り抜け、外国府間(そとごうま)交差点をすぎたところで道が二又にわかれ、その分岐点に古い道標があった。右つくば道、左日光道とある。選挙のポスターが興ざめだった。

左の農道を進んでいくと雷電神社にぶつかる。300年以上もの歴史をもつ社だったが3年前不審火で焼失し、翌年再建されたばかりの新しい建物だった。境内に、破れかかった皮から真紅の実がのぞいているザクロが鈴なりだった。国道の土手下の道を突き進んでいくと土地は幸手市から栗橋町にかわる。

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栗橋

農道のような細い道はやがて弁天堂のある
小右衛門一里塚にたどり着く。江戸から14番目、56kmにあたる。現在、塚の上には字堤外(現・権現堂川)から移築されたという弁財天堂が建てられている。そこから土手をかけ上がり国道4号に出、すこし行った所に再び左に入る旧道がある。入口の目印は「栗橋第一劇場」というストリップ劇場である。車が数台とまっていた。こんなところで経営は成り立っているのかしらん。

国道にもどり、加須ICからきた125号との大きな交差点をすぎたところで左に降りて、ようやく栗橋宿に入る。坂を下りきり栗橋の宿への入口右手に
「炮烙(ほうろく)地蔵」がある。この場所は関所破りの重罪人を火あぶりの刑にした処刑場で、地元の人が処刑者の供養のために地蔵を祭った。南千住の首切り地蔵のような存在と考えればよい。ただ、首切りと火あぶりの違いがある。堂の中は暗くてよく見えない。格子の隙間にレンズを突っ込み一枚記録写真を撮ってみた。炮烙とは素焼きの平たい土鍋のこと。地蔵の足元に写っている。

栗橋宿は町の堤防に最も近い部分にあたる。利根川の渡船場があった交通の要所ばかりでなく、日光街道の栗橋関所は、東海道の箱根関所、中山道の碓井関所と並ぶ重要な関所であった。今は駅から離れた存在となって通りはもの静かで、旧家というよりも廃家が目につく。昼時でもあったので食堂をもとめて駅に向かった。町全体がまだ盆明けのけだるそうな余韻につつまれている。

栗橋駅の手前に義経の愛妾、
静御前の墓があった。淡い色彩で静桜と優雅な女性を描いた大きな標札やケース入りの墓石の他、いくつもの石碑や鳥居までもがそろった立派な墓所である。

彼女の伝承にはいくつかあり、主に義経との間にもうけた子供のこと、鎌倉での舞いのこと、そして没した経緯と場所の点で違いが大きい。
京都府丹後、磯の禅師の娘として生まれたことには異論がない。丹後の田舎から禅師である母とともに京都へ上がって静は祇園の白拍子になった。白拍子とは辞書には「遊女」とある。仏教をよくした親の娘と、白拍子という職業との関係が感覚的に理解しがたい部分ではある。美人のうえに舞いがうまかったのだろう。そんな彼女を源義経が見そめた。静は側室となって男子を産んだ。

利根川の堤防下、三叉路の一角に
八坂神社がある。大きな藤の木の一枝に花がわずかに生きていた。そこから道路をよこぎり堤防の下にでると右斜めに関所跡が見える。栗橋関所はもと「房川渡(ぼうせんわたり)中田・関所」とよばれ、日光街道が利根川を超える要所にあって「利根川通り乗船場」から発展した。東海道の箱根、中山道の碓氷とならぶ重要な関所であったという。元の位置は現在の堤防の内側、利根川のほとりにあった。堤を這い上がり利根川にでてみる。日本を代表する大河の一つを間近に見る。流れをほとんど感じない池のような川面だ。水門の支柱に歴代の洪水水位が記されている。

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中田


利根川橋を渡り終えたところで国道4号と分かれ、堤防から左に降り下った曲がり角に
中田関所跡の標柱がある。説明板によると「当地と対岸の栗橋の川の流れの部分を房川といい、ここに房川渡中田関所が設けられた。やがて関所は対岸の栗橋側に移された」とある。関所の廃止後も、渡船場の方は、大正13年(1924)の利根川橋の完成前後まで続けられた。旧道が再びはじまり、大きな交差点を渡ったところに中田宿跡の説明板が立っていた。

光了寺は昔は伊坂(現栗橋町)にあったが、利根川改修のため栗橋からこの地に移転してきた。ごみひとつ無く掃き清められたこの寺に、
静の遺品の舞衣(まいぎぬ)の一部や、鏡、守本尊などが残されている。「宝物殿」の前に「いかめしき音やあられのひの木笠」と刻まれた芭蕉の句碑があった。野ざらし紀行での句である。

JRの踏切りを渡り茶屋新田地区にはいると、両側の幅広い歩道に若い松並木が整備されていた。昔、この辺は中田の松原と呼ばれた見事な松並木が続いていた。近年、一部の区間であるがその景観を復元する努力が試みられた。10年もすればたくましい姿に成長していることであろう。

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古河

利根川橋で埼玉県を去り栃木県小山市に入るまでに、茨城県の最西端をかすめ通る。ここに古河という利根川、渡良瀬川、思川水運の拠点として、また城下町として栄えた大変古い魅力的な町がある。

古河の地は万葉時代から川とのかかわりが深かった。駅前にある歌碑の裏側には、万葉集巻14あずま歌のなかから2首を訳付で紹介している。付近に渡りがあったのだろう。場所は古河だがテーマは愛である。表側に彫られているのは最初の歌であった。二つ目の歌は雀神社の裏にある。

 
逢はずして行かば惜しけむまくらがの 許我こぐ船に君も逢わぬかも
(逢わないで行ったら惜しい。古河の渡しを漕ぐ船のなかでせめてあの人にあえないものか)


 
まくらがの許我の渡りのから楫の 音高しもな寝なえ児ゆえに
(古河の渡しを行く船のから楫の音のように噂がとどろきわたるよ。共寝もせぬあの娘のことで)    
まくらが=枕香、枕にしみ移った香(広辞苑)

室町時代、京の幕府は関東の出先として鎌倉に関東公方を置いた。1455年、足利成氏(しげうじ)の代になって管領上杉氏および幕府と対立し、成氏は鎌倉をおわれて古河に移った。以来、古河公方として五代目義氏まで130年余りを統治する。江戸時代にはいり古河藩主は11家がめまぐるしく交代したが後半になって土井家で定着した。

中田から国道4号を進み原町交差点で354号線を左に行ったところに、昭和50年に開園した面積約21平方mの広大な
古河総合公園がある。歴史と自然を融合させた立派な公園だ。2000本ともいわれる花桃林は一面に落ちている朽ちた実を踏みつけて歩かねばならなかった。3月20日から4月上旬まで開かれる古河桃まつりはさぞかし多くの人出で賑わうのだろう。公園内には、最後の古河公方義氏の墓、旧中山家・旧飛田家という17−18世紀の民家、古河公方館跡、田船が浮かぶだけの静まり返った御所沼、鮮やかなピンクの花をつけた古代(大賀)ハス池、花菖蒲田など、家族で一日を過ごすに十分な場所である。

原町交差点に戻って国道4号を市中に向かって進んでいくとまもなく右手に青いフェンスの内側に高くそびえる榎の大木が見えてくる。古河第二高校の敷地にある「古河一里塚」である。

古河市内に入る。台町の路地角に「御茶屋口」と彫られた石碑がある。昔古河藩は、日光参拝の歴代将軍を、古河城入城の際この入口に茶屋を置いてもてなした。路地を入っていくと鮒の甘露煮の老舗「ぬた屋」、古河歴史博物館、そして長い黒壁塀に囲まれた鷹見泉水の武家屋敷である
鷹見泉石記念館にたどり着く。鷹見泉石(1785〜1858)は古河藩主土井利位(としつら)に仕えた家老で優れた蘭学者でもあった。藩主利位が大坂城代として赴任中、大塩平八郎の乱を鎮圧した人物で、また早くから開国論を唱えて幕府に咎められ、この地に隠棲した。紅葉しつつある木々や竹に囲まれて端正な邸宅が落ち着いた佇まいを見せている。右奥に今は珍しいつるべ井戸があった。井戸は塞がれていて、上半身だけを見た感じではあるが、白木の滑車と縄が周りの景色にしっとり溶け込んでいる。

旧道にもどり、駅前大通り入り口の古河宿場の中心街に高札場址と本陣址の石碑を見る。本町1丁目の交差点で街道は左右に分かれ、日光街道は左に、筑波街道(国道125号熊谷−佐倉)は右に進路をとって行く。古い造りの太田屋旅館の前を通りすぎると、木のベンチを従えて立派な常夜灯を兼ねた石道標が立っている。
「左日光道 右筑波道」と大きな文字が彫られていた。もとは、先ほどの交差点にあったものである。道路向かいに、店先を派手な青色に塗り染めた荒物屋があり、その看板には大胆な書体で「ないものはナイ」とある。見覚えのある表現だ。

道標の先の十字路を右折(車は逆一方通行で進入禁止)して、横山町「よこまち柳通り」を北上する。数軒の古い商家と整備された歩道に柳の木がよく似合う魅力的な商店街であるが、土曜日の午後という時刻を考えると、人通りの少ないのが少々気になった。

道標の前を柳通りに入らずにそのまま進むと昔武士の居住区であった大手町に入っていく。スポンジ調のレンガ敷きの道づたいに旧武家屋敷の土塀が延びる。一こまおきに格子窓が開けられたクリーム色の土塀を瓦葺きの屋根が覆い、内側にはうっそうとした木立が埋まっていた。ホテル山水をはじめとして、このあたりは格調の高そうな料亭らしき建物が多かった。

大手町の
正定寺(しょうじょうじ)に芭蕉塚があるというので寄ってみた。塚を探すが見当たらない。墓の掃除に来ていた婦人に聞いてみた。
「みたことありません。奥の左手に住職さんの家がありますから、そこで聞かれたらわかると思いますが」
庫裏をたずねて呼び鈴を押すと。紳士然とした品のよい住職がでてきて「中庭にありまして普段はお見せしておりません。写真でよければさしあげます」と、塚の写真に大きく説明文が横切っている絵はがき大の写真をくれた。

古河の町は楽しかった。去るまえにもう一ヶ所寄るところがある。そこから見渡す
渡良瀬遊水池の風景がカメラに絶好なのだそうだ。目印は雀神社の裏手の堤にある万葉歌碑である。碑の歌は、駅前の歌碑裏側で紹介されていた2つの歌の内、表面に彫られていない他の一つであった。

 
まくらがの許我の渡りのから楫の 音高しもな寝なえ児ゆえに

さて、土手の高みに来て手をかざして見渡してみるが水の一筋も見えない。眼下に広がるのは古河ゴルフリンクスの芝ばかりだった。地図で確認すると、ゴルフコースの西側に渡良瀬川が流れ、遊水池はその向こうに広がっていた。超望遠レンズでもない限りここからは見えない。すでに芭蕉に遅れをとっている上に、更に遊水池までの寄り道をしていくべきかどうか、土手の上で腕時計を見つめながら、しばらく深い思案にくれた。

(2003年8月)
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