今様奥の細道 

元禄2年(1689)3月27日(新暦5月16日)



深川千住草加−蒲生越谷春日部(粕壁)
いこいの広場
日本紀行

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奥の細道を歩くことにした。大垣まで何年かかるか予定はたてていない。文学書『奥の細道』とは離れ、芭蕉の感傷にもこだわらず、ただ彼の旅路を借りてその21世紀的風景をながめ、気楽で自由な見聞と自分の写真趣味を楽しみたい。


資料1

月日は百代の過客にして、行かふ年も又旅人也。舟の上に生涯をうかべ、馬の口とらえて老をむかふる物は、日々旅にして旅を栖とす。古人も多く旅に死せるあり。予もいづれの年よりか、片雲の風にさそはれて、漂泊の思ひやまず、海浜にさすらへ、去年の秋江上の破屋に蜘の古巣をはらひて、やゝ年も暮、春立る霞の空に白川の関こえんと、そゞろ神の物につきて心をくるはせ、道祖神のまねきにあひて、取もの手につかず。もゝ引の破をつゞり、笠の緒付かえて、三里に灸すゆるより、松島の月先心にかゝりて、住る方は人に譲り、杉風が別墅に移るに、

 草の戸も住替る代ぞひなの家

面八句を庵の柱に懸置。
 



深川  
 
この地深川村は慶長元年(1596年)摂津からやってきた深川八郎衛門が干拓したものである。干拓者の姓をとって村の名とした。一帯は漁村で、魚の生け簀があった。幕府の魚御用商人であった杉山杉風(鯉屋市兵衛)が、その生け簀番小屋のひとつを芭蕉にゆずった。芭蕉にとっての最初の庵となる。
浜ではアサリがよくとれた。アサリの出し汁をご飯にぶっかけたものが深川めしとして名物になった。深川不動、深川江戸資料館付近に深川めしを食べられる所が多い。1200円が相場である。

隅田川の東岸、小名木川に架かる
万年橋の北詰めは芭蕉関係の記念館や碑が集中する芭蕉村である。

芭蕉が江戸に出てきたのは寛文12年(1672)、29歳のときであった。日本橋小田原町に住んだのち延宝8年(1680)都心を離れて深川村に移ってきた。佗びと風雅を求める生活に入ったのは芭蕉37歳の時のことである。杉風からもらったこの小屋には門人から贈られた芭蕉が茂り、近所の人々は「芭蕉の庵」と呼んだ。

「芭蕉」は決してわび・さびの風情ある草木とはいいがたい、熱帯植物を思わせる大型の植物である。芭蕉庵を描いた古い絵をみると幅広の葉は屋根まで達し庵をすっぽり覆い隠すほどであるが、ともかく俳人芭蕉はそれが気に入っていたらしい。

庵は江戸の大火で焼失し、その後場所もいつしか忘れられていった。大正6年(1917)の大津波のあとに芭蕉が愛した「石の蛙」と思われるものが見つかった。これを奉ったのが芭蕉稲荷神社で、赤い鳥居を構えた狭い一角に祠や句碑や記念碑を詰めこみ、ここを芭蕉庵跡ということにした。その「石の蛙」自身は芭蕉記念館の二階でガラスのケースに入れられている。かってはここに巨石に彫り込まれた古池蛙の句碑があったが、手狭になってきて近所の清澄庭園に移された。

 古池や 蛙飛びこむ 水の音

芭蕉稲荷の20m西に会議室一室だけの芭蕉記念館分館があり、その10坪ほどの屋上をテラスにして
「芭蕉庵史跡展望公園」という仰々しい名前をつけた。確かに隅田川がよく見下ろせる。南方にはドイツ、ケルンの吊り橋を真似たというブルーの清洲橋が眺めよく、北にはオレンジ色した一対の橋塔が目立つ新大橋が展望できる。タイミングがあえば行き交う遊覧船も見える。

公園内には芭蕉の座像とちいさな水溜まりと芭蕉の植え込みがこじんまりと配置されていた。
日曜日の午後3時半、妻とふたりでたずねると公園に一人の先客がいた。しゃがんで水溜まりをのぞいている。
そのおじさんが急に私たちを手招いた。
「おどろいたねえ。こんなところにめだかがいるよ」
「ホントですかあ?」
しっぽをつけた黒ごまのような生き物がチョロチョロ群れ泳いでいる。
「それ、おたまじゃくしでしょ」
「ああ、そうだ。おたまじゃくしだった。どうしてこんなところに…」

僧衣をまとった芭蕉が宙を見つめて座っている。よく見るとノボーとした顔だ。記録写真を撮ろうとするのだがカメラをどこから構えても背景にビルや住宅が侵入してきて邪魔をする。低位置から見上げるアングルでレンズを覗くと、空のなかにぽつねんと浮かんでいる芭蕉が見えた。どうしても記念にするような写真にはならない。

隅田川の堤防は高く、左側は背よりも高いコンクリートの壁がつづいている。その堤防の下を数分北に歩くと右手に
芭蕉記念館への通路の表示がでてきた。注意していなければ見過ごすような入口である。狭い入口を入っていくと芭蕉庵をかたどったミニチュアの祠があり中に小さな芭蕉が窮屈そうに座っていた。そばにいつもの句碑があった。これで3つめである。

  古池や 蛙飛びこむ 水の音

庭らしきところの狭い道を下りると近代的な建物の正門に出た。入ってきたのは裏口だった。
館内をのぞくと大きな部屋に机を口の字にならべ、数十人の老若男女が向かい合わせに座って、句会のさ中であった。世界でもっとも短い文学の、庶民による即席創作・発表・批評会である。いったいこういう文化が欧米にはあっただろうか。

二階が展示室になっていて例の蛙がいる。鼻もかけボロボロに老いたような粗雑な石の蛙を芭蕉が愛した訳はどこにも書いていない。入口に「撮影はご遠慮下さい」とあったので、帰りに事務室で石蛙の絵葉書を買った。

正門近くに立派な句碑がある。

 草の戸も 住みかわる代ぞ ひなの家

芭蕉は奥の細道の旅に出るのに先立ち芭蕉庵を売り払い、杉風の別宅採茶庵(さいとあん)に移った。その家を引き払うときに詠んだ句である。出立の2ヵ月ほど前、ちょうど雛祭りの季節であった。

採茶庵跡は
清澄庭園の東南角、海辺橋の南西詰めにある。幅1間ほどの庵を模した建物がおかれていて、その濡れ縁に今にも旅立とうとする芭蕉が腰掛けていた。茅葺きであったろう庵の建前はジュラルミンのように白っぽい。障子はまるでアルミサッシである。裏を覗いてみて驚いた。畳の間どころか、つっかい棒の他なにもない。復元された採茶庵は建物でなくて、固定された舞台大道具だった。

私の奥の細道はなんとも情緒のない初日となったが、314年前はそうではなかったと思う。
芭蕉一行は見送りの人とともにここ
仙台堀川から船で千住まで隅田川を上った。
船から眺める両岸の風景は新緑の柳が風になびいて美しいことであったろう。

私はその間をとばして電車で南千住まで先回りする。

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資料2

弥生も末の七日、明ぼのゝ空朧々として、月は在明にて光おさまれる物から不二の峯幽にみえて、上野谷中の花の梢又いつかはと心ぼそし。むつまじきかぎりは宵よりつどひて舟に乗て送る。千じゆと云所にて船をあがれば、前途三千里のおもひ胸にふさがりて幻のちまたに離別の泪をそゝく。

 行春や鳥啼魚の目は泪

是を矢立の初として、行道なをすゝまず。人々は途中に立ならびて、後かげのみゆる迄はと見送なるべし。


千住

地下鉄日比谷線南千住で下りる。まず、最初の発見である。なんの疑いもなく今日まで「せんじゅう」と読んでいた「千住」は「せんじゅ」という。南も北も駅名のふりがなは「せんじゅ」であることに今まで気付かなかった。

千手観音に由来するとか、平安時代のころ千寿村といわれていたとか、足利将軍義政の愛妾千寿が生まれた土地だとか、いずれもこの地は「せんじゅ」に由来している。千住は南の東海道品川宿、西の中山道板橋宿、甲州街道新宿と並んで、江戸の4宿の1つに数えられた。

南千住駅から西に1ブロック行くと旧街道に出る。右折して北に進む。GWの連休なか日とあって閉めている店が多い。電柱にぶらさがる「コツ通り商店街」という看板が気になり、目的地の
素盞雄神社につくまで「コツ」のことばかり考えていた。旧道と国道4号の交差点にある交番の前に大きな「素盞雄神社」の看板がありよく目に付く。いかにもいたずらそうな須佐之男命のことはさておき、ここに矢立ての句碑があるというので寄ってみた。下部に芭蕉の絵も彫ってある。文字、絵ともに浅彫りで、写真には映りにくい。

「千じゆと云所にて船をあがれば、前途三千里のおもひ胸にふさがりて、幻のちまたに離別の泪をそゝぐ。行春や鳥啼魚の目は泪 はせを翁」

境内のベンチで親子と思われる婦人ふたりが赤子をあやしている。
「ちょっとすみません。旧街道を通ってきたのですが、ずーっと『コツ通り商店街』と書いていまして……」
「しらないねえ。『コツ通り商店街』なんていうのもはじめて聞いた」
30前後の娘さんも顔を赤らめてゆっくり首をかしげるしぐさをした。
「いや、結構です。どうもおじゃましました」
「わるかったねえ。かえって教えてもらって」

後でわかったことだが「コツ通り」とは「骨通り(こつどおり)」のことで、近くに小塚原刑場があったことから、処刑された罪人の骨がうまっているとのことらしい。

神社をでて北に進むとすぐに
千住大橋だ。2005年3月、修復工事で綺麗になった。下りの一方通行である。上り車線は隣接して段違いの別の橋(新千住大橋)があった。橋は思ったより短かい。

千住大橋は文禄3年(1594)徳川家康によって架けられた隅田川最初の橋である。名をたんに「大橋」とした。66年後の1659年、明暦の大火を受けて江戸市域を隅田川の東へ広げるために2番目の橋が架けられた。これを「大橋」と呼んだため千住の方を「千住大橋」と改称した。なお、3番目の橋は1695年の「新大橋」である。その後2番目の「大橋」が「両国橋」と変わったため結局「大橋」はなくなった。「なんとか『大橋』」はたくさんある。

2005年、新旧の千住大橋下堤防をつなぐ小橋が架けられた。名付けて「
千住小橋」。南の荒川区でなくて北側の足立区に属する。橋の下だから、ホームレスに狙われやすい。不法占拠を防ぐために、毎日夜間は鍵がかけられる。それまでしてここに小橋を設けたのは、この付近の水中に重要な遺跡が残っているからであった。伊達政宗が提供したという千住大橋オリジナルのコウヤマキ杭である。3個のブイがその位置をしめし、小橋からうっすら、杭の姿を見ることが出来る。橋の下からの眺めも一興だ。

橋を越えた左側に入舟乗り場の看板がでている。釣船乗合の出船案内もある。屋形船の使用例は意を尽くしていた。
「接待、謝恩会、クラス会、同窓会、新年会、忘年会、展示会、各種イベントの打ち上げ会、お花見、花火、カラオケ大会等…」 クラス会が一番いいと思う。

その裏側の空き地が大橋公園で大きな
奥の細道行程図矢立初の碑が立っている。

芭蕉はここで見送りの人と別れた。

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やっちゃ場跡     

橋からの傾斜が地表に消えて行くところに足立市場入口交差点がある。金属製の道標が立っていて「日本橋から7km」とあった。
国道4号からそれて、東京都中央卸売市場の横を斜めに延びる道が旧街道である。2004年12月、市場入り口の一角に、芭蕉の石像と日光道中道標を据えた
千住宿奥の細道プチテラスが完成した。千住のひとたちの「日光街道・宿場」と「芭蕉・奥の細道」に対する愛着は並でなく、この町全体を包む大気の色といってよい。

旧街道の千住河原町に属する部分が旧千住宿の市場跡で、そのころ問屋の店先でかけあうせりの声が「やっちゃ やっちゃ」と聞こえてきた。今でも
「やっちゃ場」と言えば千住市場のみならず、むかしの市場を指す。民家の玄関先に昔の問屋名を示す看板が多数掲げられている。

やっちゃ場は戦国時代の昔に、周辺の農民や漁民が野菜や川魚を持ち寄って街道の両側にひらかれた青空市場から始まった。1594年隅田川に千住大橋ができると青物と川魚を扱う江戸の正式な市場になった。江戸には、ほかに神田と駒込にやっちゃ場があった。

やっちゃ場通りのほぼ半ば、京成電鉄のガードをくぐってしばらくいくと左手に
「千住宿歴史プチテラス」という表示の門構えがあり、その奥まったところに白壁の蔵が見える。この蔵は後ほどみる4丁目の横山家の蔵を移築したもので、区民ギャラリーとして利用されている。中には当時の貴重な写真も展示されている。最近新しい芭蕉句碑が建てられた。

 
鮎の子のしら魚送る別かな 

プチテラスからすぐ先の旧道の左側に石標があらわれ二面に
「旧日光道中」、「是より西へ大師道」と刻まれている。ここから日本三大師のひとつ西新井大師への道が出ている。

やっちゃ場通りをすぎると千住仲町に入る。

1丁目から北に5丁目まで、およそ1kmの街道筋は、千住宿の中心をなしていた。今は歩行者天国になっていて、甘納豆屋、佃煮屋、あんみつ、など古いたたずまいの店が残っている。銭湯もある。

2丁目と3丁目の境が駅前通りである。3丁目にはいったところ100円ショップの前に
「千住宿本陣跡」の標柱がある。

4丁目と5丁目交差点の南西角にも立派な板垣家の邸宅があった。そこから東に延びる細い道が水戸街道である。旧日光街道は直進して50mほど先、名倉医院の手前を左におれて国道4号線に合流し、千住新橋で荒川を渡っていく。なお、名倉医院の前をそのまま直進して土手にぶつかる道は、日光街道よりも古い下妻街道で、日光街道の東方を北上して喜連川で奥州街道と再び交わる。荒川以北の街道は千住で江戸に向かって一束に束ねられた。

コンクリート堤防に挟まれた隅田川にくらべれば荒川は開放的で明るい。橋の上を五月の風がさわやかに渡り車の排気ガスは気にならない。橋の真中に道標があり
「日本橋まで9km」とある。つまり千住大橋をわたってから宿場をとおりすぎるまで2kmということだった。そんなものかもしれない。橋の上からしばらく真昼の川面を眺めていた。広々とした両岸の河川敷では野球練習場に遊ぶ若者がいる。川辺で釣り糸をたれる一団の頭上には鯉のぼりが泳いでいた。ボートと水上スキーの一組が川を上下している。もう水は緩んでいるか。

資料3

ことし元禄二とせにや、奥羽長途の行脚只かりそめに思ひたちて、呉天に白髪の恨を重ぬといへ共、耳にふれていまだめに見ぬさかひ、若生て帰らばと、定なき頼みの末をかけ、其日漸早加と云宿にたどり着にけり。痩骨の肩にかゝれる物先くるしむ。只身すがらにと出立侍を、帋子一衣は夜の防ぎ、ゆかた・雨具・墨筆のたぐひ、あるはさりがたき餞などしたるは、さすがに打捨がたくて路次の煩となれるこそわりなけれ。



草加

草加宿は、南は草加市役所前の交差点に建つ地蔵堂付近から北は神明神社あたりまでで、この間、新道を避けて旧日光街道が残されている。深川をでた芭蕉は初日の宿をここに求めた。ただしそれは『奥の細道』上の創作であって、実際はそのまま春日部まで行ったらしい。

地蔵堂からしばらくいくと1丁目の角、黒ずんだ旧家の北側に、草加神社の標柱がある。草加神社は旧南草加村の鎮守で、昔は氷川神社と称していた。さらに進むと右手、埼玉りそな銀行の前に、「日光街道 葛西道」と彫られた標柱がでてくる。草加駅前通りとの交差点の東北角には高さ50cmばかりの小さな
「道路元標」が座っている。

東福寺の参道の向かいに
「おせん茶屋」がある。駅前の少女の名にちなんで名付けられた公園で、街道沿いに茶店風の休憩所があり、大きな「日光街道」と書かれた標柱が建てられている。奥の広場には高札を模した掲示板や草加宿の絵地図などがあった。
      
いよいよ草加宿が終わろうとする旧道と新道の分岐点付近に、草加宿の総鎮守として天照大神を祭神とする神明神社がある。その北側、伝右川の脇に
「おせん公園」となづけられた狭い一画があり、柳の枝に囲まれた密やかな公園にはせんべいに見立てた巨大な石碑が建っていた。大きな文字で「草加せんべい発祥の地」と彫られてある。

おせん公園前の新道を横切ると芭蕉像や望楼が建つ
「札場河岸公園」にたどり着く。ここの芭蕉の顔は史跡展望公園の芭蕉より表情があってしまっている。

ここからおよそ1.5kmにわたって綾瀬川に沿った松並木の遊歩道が整備された。もともと草加宿が日光街道第二の宿となった時、街道沿いには松が植えられ、「草加松原」、「千本松原」として知られていたものである。
一時60数本まで減少したらしいが、現在約600本にまで復活した。最近この遊歩道は「日本の道百選」に選出され、記念に矢立橋の南側に埼玉県を型取った日本の道百選顕彰碑が建てられた。

公園内に、綾瀬川が舟運に利用されていたころの舟着き場の石段が再現されている。河岸の所有者の屋号「札場」がそのまま河岸の名になった。

遊歩道には道路をまたぐ橋が二つ架けられてある。矢立橋と百代橋で、名はいずれも「奥の細道」からとってきた。矢立橋の階段に愛嬌のあるタイル絵がはめこまれている。

百代橋の南詰付近には「月日は百代の過客にして、行かふ年も又旅人也」が刻まれた橋名碑が、また北の袂には「ことし元禄二とせにや 奥羽長途の行脚 只かりそめに思いたちて……」という、草加の章段が彫られた芭蕉文学碑が建っている。

そこで草加松原の遊歩道が終わる。遊歩道は芭蕉三昧だった。

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蒲生


遊歩道から堤に沿って北に進むと、松並木はまだ樹齢10年程の若い桜並木に移る。1990年ころ、川の西岸に沿って数キロの桜並木が整備された。桜並木が国道4号を横切るまでに綾瀬川を渡るいくつかの橋がある。そのうちの一つが蒲生大橋で、昔は大橋土橋といって綾瀬川をまたいで日光街道を足立郡(草加側)と埼玉郡(越谷側)につないでいた。足立郡側のたもとに高浜虚子の句を彫った銅版がはめ込まれている。

 舟遊び 綾瀬の月を 領しけり

橋をわたった埼玉郡側にこんもりした木の陰に隠れるように愛宕神社が座っている。ここが
蒲生の一里塚で、埼玉県内では日光街道に残る唯一の一里塚である。ヤマブキ色のコスモスが満開だった。

一里塚の南側に古い二階建ての建物と、大谷石造りの蔵がならんでいる。藤助酒造の主家と蔵で、その道向かいに、同家の寄贈によって復元された藤助河岸が、綾瀬川水運の全盛時代を語り継いでいる。説明板によれば、越谷・粕壁・岩槻などの特産荷が荷車で運ばれ、この河岸で高瀬船に積み替えられて東京に出荷されたという。

一里塚の前の道を北に進むとやがて蒲生本町交差点の手前右手に
清蔵院が出てくる。山門の中央を見上げると金網に覆われた竜の彫り物があった。標札によると、山門は寛永15年(1638)の建立で、日光東照宮造営に動員された関西の工匠が建てたものだろうという。欄間の竜は左甚五郎の作とも言い伝えられ、夜な夜な山門を抜け出して畑を荒らしたことからこれを金網で囲ったという。金網のせいで由緒ありそうな龍の彫刻はよく見えなかった。

その三叉路で、草加市役所手前で別れた国道4号と再会する。一里塚からここまでの道を「蒲生茶屋通り」といった。昔、綾瀬川を高瀬舟が忙しく行き来していた時代、藤助河岸に集まる農民、商人、舟人、旅人などをもてなす茶屋が並んで、活況を呈していた。

越谷

越谷市街の手前瓦曽根で旧国道を逸れて左の旧街道に入る。交差点の東側に
照蓮院が見える。創建は定かではないが、甲斐国武田氏の家臣秋山信藤の子長慶が、天正10年(1582)武田勝頼の遺児幼君千徳丸をともなって瓦曽根村に潜居し、千徳丸の早世後照蓮院の住職となってその菩提を弔ったと伝えられ、秋山家墓所には「御湯殿山千徳丸」と刻まれた五輪塔が立っている。

旧市街地の商店街を北に進む。いくつかの人形店がめにつく他、古い土蔵や縦格子造りの商家も散見され、特に中町には宿場町の面影が濃く残っている。越谷産業会館前で今も荒物を営む鍛冶忠商店は屋根からひさし暖簾まで黒々とした店構えだ。隣の塗師屋は、黒漆喰土蔵の袖蔵を配して二階と一階の千本格子が見事に美しい。これだけの街並みを残しながら、北千住や草加のように宿場を意識した街造りの様子がみえないのは不思議だ。越谷は芭蕉との絡みにかけているからでもあるまい。

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春日部

春日部市内、一宮交差点の北西角に
東陽寺がある。交差点をそのまま北上するのが4号線で、西におれていくのが旧道である。駐車するには4号線側から入るのがよい。深川を発った芭蕉はその日のうちにここまできた。日本橋より九里余り、およそ38kmの地点である。

境内の本殿前に、曽良の随行日記から
「廿七日夜 カスカベニ泊ル 江戸ヨリ九里余」の一節が刻まれた碑が建てられている。また、旧道側の山門脇に「伝芭蕉宿泊の寺」と彫られた標柱があった。山門前の入口には車止めかあるいは駐車防止のためか、標柱を隠すかのように柵が横たわっているため見逃す危険がある。

旧道は道幅も広く町並みも新しい店が多く古い面影がない。いぶかしげに車をゆっくり進めると、駅入口の粕壁東1丁目三叉路に白壁の堂々とした蔵造りの旧家(田村本店)が見えてきた。建物の正面左手の歩道には、昭和のシンボルのような赤い郵便ポストが目立っている。反対側には一個の石柱があった。車を止めて近づくと、天保5年(1834)製の古い道標であった。「東江戸 西南いわつき」とある。西南岩槻とは、日光御成街道に出る道なのであろう。この辺りが粕壁の宿の中心であったと思われる。

春日部駅入口交差点を過ぎ、新町橋西交差点を右折して工事中の新町橋で大落古利根(おおおちふるとね)川を渡る。すぐに左折するとまもなく道が二手にわかれる。ここは旧関宿往還との追分で、右は小渕南交差点で国道4号と交わり、そのまま北上して関宿に至る県道319号である。左は国道4号に合流する。その分岐点手前に
小渕一里塚の跡地を示す石標があった。追分には「左日光道」彫られた道標がある。隣りにある小さな自然石には「左方阿ふ志う(奥州)道」と刻まれている。
この一角は長い黒板塀に囲われた屋敷に鬱蒼とした木々がしげり、旧宿場町の名残が濃い。

市内には東陽寺の他にもう一ヶ所、芭蕉の宿泊地と伝えられる寺がある。小渕交差点から100mくらい行った所の左側にある、
小渕山観音院という鎌倉時代の建立と伝えられる古刹である。70歳を越えると思われる老住職がゆったりと、桐色に白けた本堂の戸や板壁を雑巾でなでていた。

山門は金網で囲われ、その中で一人の大工が修理工事に汗を流していた。両側に仁王が立つ。肌は色褪せ、もがれた片腕が痛々しい。なぜか顔が怒りよりも苦痛に歪んでいるように見えた。畑とも庭とも区別がつかない一画に芭蕉の句碑があった。

 
ものいえば 唇さむし 秋の風

芭蕉がここで泊まったことを示唆するような標識は見当たらなかった。


2003年8月)
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