静御前は、(京都府丹後、竹野郡網野町)磯の禅師の一人娘として任安3年(1168)に生まれたといわれ、白拍子と呼ばれる美しい舞姫に成長いたしました。
 干ばつが3年も続き、加えてその年も長い日照りで農民が大変に困っておりました。そこで、後鳥羽上皇が寿永元年(1182)、京都神泉苑に舞姫100人を選び、「雨乞いの舞」を命ぜられました。最後に静が舞い始めると空がにわかに曇り、激しく雨が降り出し3日3晩も降り続いたといいます。後鳥羽上皇は、静が15歳でありながら類希な才能を賞嘆され、褒美に「蝦蟇(がま)龍」の錦の舞衣を賜りました。この衣は現在、古河市中田町の
光了寺に保存されております。
 平氏追討に功績のあった義経の寵愛を受けた静が初めて義経に出会ったのもその頃のことでした。その後、義経は兄頼朝の不興を蒙り、奥州平泉の藤原氏を頼って京都を落ちのびました。静は義経を慕って京都を発ち、平泉へ向かいましたが、途中下総国下辺見付近(古河市東隣、総和町)で「義経討死」の報を耳にして悲しみにくれ、仏門に入り義経の菩提を弔らいたいと再び京都へ戻ろうとしました。しかし、重なる悲しみと馴れぬ長旅の疲れから病気となり、文治5年(1189)9月15日、この地で死去したと伝えられています。
侍女琴柱(ことじ)がこの地にあった高柳寺に遺骸を葬りましたが、墓のしるしの無いのを哀れみ、享和3年(1803)5月、関東郡代中川飛騨守忠英が「静女之墳」の墓碑を建立したものと考えられています。また、境内にある「舞ふ蝶の 果てや夢みる 塚のかげ」という歌碑は、江戸の歌人坐泉の作を村人が文化3年(1806)3月に建立したものであります。

注:公式には、静御前の生没年は、はっきりしていません。ここに記されている内容は当地の伝承をもとにしています。

静桜
静桜は、静御前ゆかりの花であり、数の希少さとともに、学術的にもきわめて貴重な桜です。里桜の一種といわれていますが、ソメイヨシノのような一般の桜にくらべ、花期の訪れが遅く、4月中旬に開花します。花は、5枚の花弁の中に、旗弁といって、おしべが花びらのように変化したものが混じる特殊な咲きかたをします。このことから、開花した様子は、一見、八重と一重が混じったように見え、他の桜とは趣を異にした風情を見せています。この桜の原木は宇都宮市野沢にあります。地元の伝承では、奥州へと向った静が、義経の討死を知り、野沢の地に一本の桜を植え菩薩を弔ったのがその名のおこりといわれています。その接ぎ木苗が、(財)日本花の会から寄贈され、この墓所に植えられました。平成5年の静御前墓前祭で、日本花の会により墓所の桜から穂木が採られ、芽接ぎが行われたのをきっかけに、栗橋町では静桜を町のシンボルとして大切に育て、その数を増やすことを目的に「静桜の里くりはし」づくりを進めています。
静御前の墓 栗橋