江戸幕府は、江戸を防衛する軍事上の理由から、大河川には橋をかけることを許さず、また、交通上の要地には関所を設けていた。当地は日光街道の重要地点で、街道中唯一の関所と渡船場の両方があったところである。利根川のうち、当地と対岸の栗橋の間の流れの部分を「房川(ぼうせん)」(理由は諸説あって不明)とよび、渡船場を房川渡、関所を房川渡中田御関所といった。やがて、関所は対岸の栗橋側の水辺に移されたので、普通には「栗橋の関所」の名で知られていた。4人の番士が交代で、関所手形を改め、旅人や荷物を厳しく監視した関所は、明治2年(1869)の廃止令でなくされたが、二艘の渡し船と5艘の茶船を操る船頭たちによって、およそ40間(やく70m)の流れを渡した渡船場の方は、大正13年(1924)の利根川橋の完成前後まで続けられた。 古河市教育委員会
利根川房川渡し跡・中田関所跡・旧中田宿 中田 古河市