奥州街道(7)



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いこいの広場
日本紀行

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笹川

新幹線ガードから300mほどいった右手の路地入口に、「東舘稲荷神社」の石標がたっている。細い道をはいっていくと阿武隈川の堤防近くに、小振りの石鳥居と石段の上に古びた小社があった。土地の名をとって「高瀬稲荷神社」ともよぶ。このあたり一帯は、15世紀初頭、足利満直が城を構え足利氏の東北支配の拠点となった笹川御所跡である。

安積永盛駅前通りあたりまでが宿場だったようだが、古い町並みの情緒を感じさせる景色は乏しかったように思われる。笹の川酒造の先で道が分かれ、旧道は左にはいっていくが、ほどなく笹原川に突き当たって行き止まる。川沿いを下流にむかって旧国道にもどり、橋をわたる。左手は巨大な貨物鉄道ターミナル敷地で、パレットを積み重ねた倉庫群の風景が続く。

そんな乾いた環境の中で、笹原川には万葉時代からのロマンを伝えるしめやかな側面もある。当時、川は音無川とよばれ、そこに架かる橋をささやき(耳語)橋とよんで、笹原川は歌枕でさえあった。そのいわれは後で話す。今は「笹原川の千本桜」として堤防2kmにわたる桜の名所に変身した。

日出山 

川をわたった先を左に曲がり、倉庫地帯をぬってゆく旧道に復する。ここは安積町日出山3丁目、旧日出山宿の中心地だ。国道49号に交わる辺りでは、工業地域のかげは薄れ、みなれた田園が混じる風景にもどっていた。国道49号を東にすすむと金山橋で阿武隈川をわたる。芭蕉は逆に、はるか乙字ヶ滝から迂回してきて、川向こうから金屋の渡しで、日出山宿にはいってきたのだった。当時の阿武隈川はこのあたりで東に大きく蛇行しており、奥の細道と金山橋は無縁である。

国道49号との交差点の角に小さな公園がしつらえてあって、そこに字がぎっしり詰まった大きな石碑が建てられている。「日出山土地区画整理事業竣工記念碑」で、高度経済成長期の昭和45年から昭和57年にかけ、12年がかりの一大土地区画整理事業をなしとげたとある。その下にある道標はいつ頃のものか、西と南は「村」呼称で古そうだが、北は郡山「市」とあって、後から書き加えたものか。筆跡までもがちがう。

付近に立派な家をみた。鬼瓦にかわって、シャチホコが青空に反り返っている。城はともかく、民家の屋根にシャチホコを見たのははじめてではないかと思う。不思議なことに、この後郡山市内でも、同様の景色をみることになる。そして、その残像がそのまま、郡山の町としての印象の一部をかたちづくっていることに気づくのだった。

小原田(こはらだ)

国道49号を越えてしばらくいくと、地名が日出山から小原田にかわる。例のように、郵便局がある4丁目が中心のようだ。周囲は家がつらなり、すっかり市街地の雰囲気だが、車の行き交う量もすくなくのどかな町中である。


いくつかの旧家を求めて歩いてみた。丸七産業も古そうな店だし、二階の窓に布団を乾している格子造りの民家は旅篭ではなかったかと思われる。ななでも目をひいたのは香久山神社の石柱のそばに長い板塀をめぐらした門構えの家だった。門をのぞくと、一軒の大きな茅葺きの家が控えている。本陣にふさわしい佇まいだが、この宿場の本陣に関する情報は持ち合わせていない。

東北本線の踏切りをわたると郡山宿である。

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郡山

郡山は福島県最大の都市である。芭蕉が泊まったときは曽良に「宿ムサカリシ」と、きびしいコメントを受けたほどの、わびしい小駅にすぎなかった郡山が、現在のような大都市になったのは、明治時代に猪苗代湖から引いた安積疎水の開通がきっかけだった。

明治12年、渇き荒れた安積原野に猪苗代湖から用水を引くという壮大な事業が始まり、延べ85万人を動員して3年後の明治15年、安積疎水が完成した。これよりこの辺り一帯の米の収穫量が10倍に増えたという。安積用水は、「矢吹が原」を潤した羽鳥ダムにならぶ国営開拓事業だった。

市街地の西方、市役所前に、その大事業を記念する開成山公園がある。開拓時の潅漑池を整備して、スポーツ施設を含む一大市民公園にしあげた。五十鈴湖にかかる鮮朱色の橋をわたると、咲きそろったチューリップ越しに子供の日を祝って多数のコイノボリが翩翻と五月のそよ風に戯れていた。広場の中央に建つ「開拓者の群像」は郡山市の歴史を語るモニュメントである。

駅に近い方に
麓山公園という、安積の歴史を語るもう一つの公園がある。旧二本松藩主の馬場があったところで、文政7年(1824)、当時の郡山村が宿場町に昇格したのを記念して造られたものといわれている。樹齢200年を越す赤松がその優美な姿を弁天池の水面に映し、静かで落ち着いた日本庭園だ。明治15年、公園内に安積疎水の完成を記念して疎水の水を引いた「麓山の滝」がつくられた。通水式では、政府高官や地元の豪商らが顔をそろえるなか、200発の花火が打ち上げられ豪華な舞踏会が催されたという。

この公園に芭蕉の句碑がある。

  
雲折々 人をやすむる 月見哉    芭蕉

そばに、芭蕉にまけじと、遊女の句碑があるのが郡山らしい。
明治のはじめ、郡山宿に126人の飯盛女たちが働いていたという。当時、郡山は本宮宿につぐ歓楽街だった。当地の俳壇の巨匠であった佐々木露秀が経営する旅籠に、あやめと鶴子という、俳句をたしなむ文学遊女がいた。

  
水くさし 端沼山の おとこへし     あやめ
  
巳の日にも 小松ひきせん わが背子と    鶴子

町の中を車で散策した。恐ろしいほど複雑な一方通行システムになっている。巡回方式でなく、双方向から一方通行道路がぶつかる交差点が多いのだ。互いに直進禁止で、左右どちらかにまがっていかなけらばならない。次は右折なのか、左折なのか、出てみないことにはわからない。ついでに苦情を言ってしまえば、名所旧跡に観光客用の専用駐車場がない。最寄りの私営有料駐車場に自己責任でとめなければ、市内の寺社仏閣を参拝できないことになっている。車やよそ者に不親切な町だった。その一方で、シャチホコが手招く裕福な甍の波も郡山の現実な姿ではある。

夕方の中央通りを歩いている。商店街のなかには江戸時代からの老舗もあるのだろうが、建物はみな新しくて宿場通りの面影はない。大町交差点近くの歩道に、郡山市道路元標と山水道がわずかに昔の香りを放っていた。大きな石鳥居が立ちはだかるように建つ左の路地は、国道4号線を越えて奥まってある安積国造(あさかくにつこ)神社の表参道である。長い参道を国道が分断したものだ。

郡山の総鎮守、
安積国造神社は大和朝廷の時代、初代安積国造比止弥命(ひとねのみこと)が造ったとされている。神社の北側の清水台地区に安積の郡衙があった。郡山という地名はそこからきた。延暦十九年(800)、坂上田村麻呂は東征の途上で本神社に八幡大神を祭り旗と弓矢を寄贈した。また、源頼義・義家が戦勝祈願している、など古い話が伝わっている。

中町は広い駅前通りまでで、向こうは大町になる。車両侵入禁止のサインがある。歩いて北に入っていくと人通りもまばらになって、四方の角に若い女性がたむろしている交差点にきた。例えば渋谷の町角に集ってくる若者が発散させるような明るさはなく、角地全体が、たそがれにもたれかかるような蔭を帯びている。とてもその前を通りすぎて行く勇気をもたず、妻の耳元に一言解説をほどこして、手をとって道を引き返した。いままで、旧街道筋の宿場町を散策していて、このようなあやしげな光景を目にしたことはない。浅草にしろ、水戸街道の松戸にしろ、旧廓街は街道筋から離れた田圃の中に隔離されていたものである。「文学遊女」を置いていたという、地元の俳諧巨匠のことが、一瞬脳裏をかすめていった。

翌早朝、昨晩引き返した場所まで車でもどり、その先の追分から郡山の町を北に抜けていくことにした。

左に大きな道がでている。ここが安積街道(会津海道)との追分で、分岐点に2つの道標が立っている。案内板の説明が分かりやすい。

1、「従是三春道」 石碑一基

この石碑は、ここから北へ38mの下枡形(宿場の木戸)に、文政8年(1825)に建てられました。郡山から三春への道は、枡形から阿久津の渡し、小泉、舞木を経る岩城街道と呼ばれる道でした。

1、「左会津街道 右奥州街道」 石碑一基

この石碑は、大正3年(1914)渡辺藤吉氏によって、現在地に建てられました。会津への道は、明治19年新設され、ここから富田、安子ヶ島を経て越後街道に出る道です。

説明にあった北木戸の桝形跡をすぎたあたりからは、商店街の色合いは失せて、カメヤ商事のなまこ壁や、格子戸などの家並みが復活する。大町2丁目にはいった一筋目の左奥に、阿邪詞根(あさかね)神社がある。源頼義、義家が前九年の役で奥州安倍氏平定をした後の、治暦3年(1067)に建立したと伝えられる古い社で、源義家の副将軍であった平忠通が祀られている。
境内南側端に「石造浮彫阿弥陀三尊塔婆」と呼ばれる大きな石板碑がある。目を凝らしてみると、風化のはげしい表面に円を認めることができた。その中に仏のレリーフがあるのだろう。

逢瀬川にかかる安積橋を渡り、富久山町久保田にはいる。

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福原

磐越西線の下をくぐると、
佐藤酒造の煙突が目にはいる。清酒「藤乃井」の造り酒屋だ。塀はブロック造りで趣きに欠くが、内には白壁の美しい蔵がいくつも見える。郵便局に車を留めて町をあるいた。佐藤酒店だけでなく、ほかにも古い佇まいを見せる家がある。郡山の大都市体臭から、昭和時代の懐かしい匂いのする宿場町にもどった安堵をおぼえた。

郵便局の隣りの丘にある
日吉神社に上る。参道石段の下でうろうろしていると、小学5,6年生くらいの女の子がひとり、「おはようございます」とさわやかな声をかけて軽々とした足取りで階段を登っていった。
「いまでもあんな子がいるのね」
カメラを手に16基石塔婆群をながめまわしているうちに、さっきの少女が用をすませたのだろう、恥じらいの笑顔をいっそう濃くして通り過ぎていった。
「はやいねー」
何が、ともわからず、感心してしまう。

南北朝時代、畠山氏がこの地に館を築き、山王館とよんだ。今もそれが地名となって残っている。時代は移って、天正15年(1588)6月、奥州支配をめざす伊達政宗と、迎え撃つ佐竹氏・芦名氏・岩城氏・二階堂氏・白河氏・石川氏の連合軍が逢瀬川を挟んで対峙した。この郡山合戦で伊達軍は山王館に布陣したのである。

国道288号を横切りしばらくいくとセブンイレブンの3軒ほど手前に「下宿一里坦」の看板が目につく。下宿アパートのことか、気になる見出しだが、とにかくそれと相応じるように道路の右手には「史跡一里坦址」の標石があった。福原の一里塚跡と思われる。このあたりが福原宿の南端にあたる。ここから続く福原の町並みには、久保田ほどの趣が感じられなかった。

富久山郵便局の向かいに豊景(とよかげ)神社がある。この神社に伝わる福原太々神楽(だいだいかぐら)は、県指定の重要無形民族文化財で演目の数が多いことでも知られる。境内には朱の板戸で隙間なく閉められた神楽殿が、毎年4月10日の春季大祭と大晦日から元旦にかけての出番に控えている。

宿場町の終りほどの左手の丘に
宝沢沼(ほうざわぬま)が出てくる。縁に立っている郷土史研究会の説明板によると、寛永4年(1627)加藤嘉明が会津領主となるや工事に着工し、延人員4628人を使役して寛永7年に完成した、とある。古い潅漑用水池ということだ。

道は日出山から始まった郡山の市街地風景からようやく脱出し、断続的にも松並木の名残りをとどめるのびやかな街道風情をとりもどしたようである。緩やかな普賢坂を上っていく。峠の頂で、民家の庭先を借りて車を留め、「牛ヶ池」の場所をたずねた。
「ここを下りたところ、すぐ右ですけど。何もありませんよ」

下り坂の眺めがすばらしい。松がかざした向こうには、頂に残雪をかがやかせた安達太良の山並みがその一部をのぞかせた。これから北に進むにつれて、その雄大な全貌を徐々に披露していくのであろう。牛ヶ池は、まだ緑に生え変わらぬ葦に覆われた窪地だった。開拓の歴史を語る碑がなければ、池であったことも気づかなかったろう。

坂をふたたびのぼりはじめ、すぐに左の道にはいる。沿道には瓦を扱う店が多い。坂の頂上付近にも、看板に「すずき瓦店」とあった。その前に二本の松が街道に日蔭をつくり、根元には古い道標があった。牛ヶ池から左に迂回して藤田川に下りていく短い峠道だが、行き交う車もほとんどない静かな丘に、松並木が残る美しい道だった。

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日和田

坂を下ったところで、道は大きく右に旋回して藤田川とJR東北本線の上を越えて、旧国道の県道355号に合流する。左下をみるともう一つの橋が藤田川をまたいでいて、道は線路にぶつかって止まっていた。これが旧道で、かっては踏切りを越えて日和田へつづいていた。

駅前通りの交差点あたりを中心として、南北それぞれ300mにのびるこぢんまりとして鄙びた宿場町だが、江戸時代は鋳物の町として知られていた。駅前にある「からかねや」は二本松藩御用鋳物師佐藤久八郎の生家であるという。

町のほぼ中央にある蔵店の植田屋の南となりから、東に県道115号(三春日和田)線が出ている。滝桜でしられる三春に通じる道だが、その途中に高柴デコ屋敷という、面白そうな集落がある。この町を見た後、ここから、寄り道をしていくことにした。

町の北端近くにある
西方寺の境内に、樹齢約250年という笠松が、みごとな枝振りを見せている。樹高4m、幹周りが1.9m、枝張りが東西南北とも11mという立派なものだ。寺の南隣にある蛇骨地蔵堂は、713年の開山で、享保3年(1718)に再建されたといわれている古堂で、蛇骨を刻んで造ったと言われる地蔵菩薩が安置されている。堂の裏手には、石垣に沿って、人身御供にされた三十三観音の石像が並んでいる祀られている。

昔、安積左衛門忠繁という領主の娘、あやめ姫に恋をした家臣、安積玄蕃は、結婚の申込みを父親に断られ、主人忠繁を殺してしまった。これを嘆いた姫は沼に身を投げて、蛇に姿を変え、荒神となって天変地異を起こすようになった。不作が続く里人は、毎年村の娘を一人づつ人身御供に捧げることにして、あやめ姫の霊をなぐさめようとした。

それから30年余りが過ぎたある日の事、33人目の人身御供に選ばれた乙女の父親は、娘の命を助けて欲しいと長谷の観音に参拝した。そこで出会った佐世姫という娘に話を伝えると、佐世姫は身代わりになる決心をしたのだった。蛇の棲む沼の傍で佐世姫がお経を読み始めると、水中から大蛇が現れ、やがて「あなたのお経のおかげで、やっと迷いからさめて往生できました」と、天女に姿を変えて天界へ舞い上がっていったという。

西方寺を過ぎたところの三叉路で左におれ、県道357号の坂をくだって家並みがきれたあたりに、右に出でる農道がある。前方にJR東北本線がよこたわって延び、その手前は一面の田圃がつづく。農道をたどっていくと、左のあぜ道に立て札が見えた。
「安積沼跡」の説明板だ。大昔は一帯に沼が点在する低湿地だった。芭蕉がたずねたころは開拓が進んで大方田圃となり、沼はわずかに残っていたようである。今は一沼も見えない。

日和田から高倉にむかう街道は、短かな松並木が遠慮がちに数本姿を見せては数百メートルとぎれるといった繰り返しがつづく。なかでも密度濃くたち並ぶのは、日和田をでてほどなく右手に見える歌枕の地、安積山の森付近だろう。

「須賀川の等窮宅を出て五里ばかり、日和田の宿を離れた街道近くにあさか山がある。このあたり沼が多い」と、芭蕉が記した場所である。


安積山公園

安積山は、万葉の古代から歌に詠われた代表的な歌枕の一つである。今は公園として整備され、赤松に覆われた低い丘の西面の各所に、ゆかりの碑が建てられている。北側駐車場の端に、「山ノ井の清水」が細々と水脈をつないでいる。とにかく、この公園のありがたさを理解するためには、万葉集を紐解かねば話が始まらない。

  
安積山 影さへ見ゆる山の井の 浅き心を 吾(あ)が思(も)はなくに (巻16の3807)

  
(山の井の清水は安積山の影を水面に映し、浅い井戸のように思われますが、とても深い清水なのです。
   私たちが王をお慕いする気持ちも、とても深いのですよ。)


聖武天皇が近江紫香楽(しがらき)に都を造営中のころ、葛城王(橘諸兄684〜757)が陸奥国に視察にやってきた。迎えた里長は娘の春姫に歌を詠ませたところ、王は大いに喜んで宴を楽しんだ。葛城王は、三年間の年貢を免除し、春姫を「安積うねめ」として帝のもとへ連れて行くことにした。

しかし春姫には次郎(太郎、という話もある)という約束をちかった許婚者がいたのだった。王と春姫の一行が音無川(郡山市安積町)まで来たとき、次郎と姫はこっそり最後の愛をささやいたとか、音無川が春姫との別れを悲しんで、ささやくかのように流れの音をひそめたとか。以来、里人達はこの橋を「ささやき橋」とよぶようになった。

春姫を失った次郎は人生に絶望し、山の井の清水に身を投げた。都で帝の寵愛を受ける春姫だが、次郎のことはひとときも忘れることはなかった。数年後、おりから猿沢の池で月見の宴が開かれていたとき、池畔のしだれ柳に衣を掛け入水したと見せかけて、都をあとに遠路安積の里に向かったのだった。しかし里にたどりついた春姫は、次郎の死を教えられ、雪の降る夜道をたどって、彼女も同じ清水に身をなげてあの世に恋を結んだのである。

悲しい冷たい冬が去り、安積の里に暖かな春が訪れると、山の井の清水のまわり一面に、薄紫の可憐な花が咲き乱れていた。二人の永遠の愛が結ばれてこの花に変わったのだと、里人はその花を「花かつみ」と呼ぶようになった。

郡山では毎年、夏の夜を彩どる「うねめまつり」で、この悲しい物語に思いを馳せる。二人が身を投げた山の井の清水は、この公園の片隅にある清水でなくて、郡山駅の西8kmほどいった片平町にあるものだそうだ。8月上旬のうねめ祭りでは「ミスうねめ」の参加もある。情報まで。

芭蕉は、「ミスうねめ」のことはさておき、春姫にまつわる采女物語を知ってこの土地にやってきた。ちょうど「花かつみ」の季節でもあったので、必死にその花を探したが、土地の人も知らなかった。

2、3分でたどりつく公園の頂上は横に枝を張った赤松にかこまれた明るい広場で、3分咲きのつぼみを満載したツツジの潅木がその間を埋めている。街道沿いの入口付近に
「花かつみ」の植栽記念碑があった。うしろに、まだ花をつけるには幼すぎる緑の細茎が数本しなだれていた。芭蕉が問題提起してから以後今日まで、「花かつみ」とは何の花なのかという議論が専門家の間で続いた。一応の結論は「姫シャガ」ということで落ちついている。「シャガ」よりも花弁全体がうす紫色の、あやめに似た形の、小さな花である

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寄り道

高柴デコ屋敷

県道115号の入口は、すれちがうこともむずかしいほどの狭い路地だが、町を抜けるやどこまでも田畑のひろがる中の平和な一本道となる。磐越道をこえ阿武隈川をわたった西田町3丁目で、しばらく県道73号線に合流する。北に500mほど進んだところで73号とわかれ、115号線は東に向かい、道なりに山里をいくつか通り過ぎて、大平交差点を左におれる。

野鳥の声が新緑の谷をわたり交う高柴村の山すそに、奥州三春藩の庇護をうけ、三春張子人形や三春駒人形など、伝統的な人形作りをつづける里があった。何代も続く人形師の家が五軒ひっそりと軒を並べている。木地師のふるさと近江蛭谷が死火山なら、デコ屋敷は今もなお意気盛んな活火山だ。三春人形は芸術的にもすぐれたもので、工芸家バーナード・リーチも絶賛したという。

集落入口の茶屋で昼食をとり、恵比寿屋、大黒屋などを見て歩く。民芸、民族、民話といった「民」のつく言葉の裏には、ある種の固定観念が潜んでいる。それを見せるか見せないか、見るか見ないかは、個人の勝手とでも割り切る程度の重さでしかない。それをふんだんに見せる「道六館」を私は見に行った。「彦治民芸」の経営だそうだ。向こうから見学を終えて帰ってくる6人ほどの子供連れ家族とすれちがった。みな、なにか言いたそうな笑顔をうかべながら、キッと口をつぐんでいる。

入口でコインを買って回転ドアを入る。室内はガラスの飾り棚ばかりだ。幸いにも撮影禁止のサインはなかった。マリリン・モンロー、インドヒンズーの神々、枕絵皿、ほら貝・巻き貝、天狗におかめ、性具の類はほとんどある。「下から見ないで下さい」という張り紙のあるガラス板に座っている女人形を、下から覗き込むと、人形の底にも絵柄が丁寧にほどこされていた。

猪苗代の「会津民族館」を思い出した。


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高倉

磐越自動車道をくぐりぬけ、松並木に目をやすめながら右手の低い丘陵のすそを道なりに進んでいくと、やがて高倉宿の集落に入る。静かな町だが街道沿いの家並みは総じて新しく、宿場町の面影を求めることはできなかった。右手にある高倉山には、室町時代畠山氏の居城があった。宿場の終りあたり、道が左にまがる角に鹿島神社がある。夫婦杉をみて参道をのぼると、トタン屋根に白木の社が座っていた。

街道は五百(ごひゃく)川を渡り、郡山市から安達郡本宮町仁井田地区にはいる。一里壇という地名がでてくるのは、この辺に一里塚があったのか。いまは地を整え、水をはってただ田植えを待つばかりの田んぼがつづく景観で、かってここを基幹街道が通っていた景色を想像するさえむずかしい。

仁井田集落をすぎ下ノ原地区の手前で355号線は右へ曲がっていくが、旧街道は田んぼになっている所を真っ直ぐに進んでいた。用水路を越したところで左折し、申という地区内に入り込む。途中、二度も道に迷い、今、地図で道順を再現するのはむずかしい。とにかく、ある四つ辻の一角に供養塔が集められていた。そのなかには1291、2年に建てられた塔婆など、かなり古いものがある。北側にすすむ道は民家の奥で消えていた。

供養塔の辻を東にすすむと旧街道にでる。左折して坂を下り355号線に合流して、瀬戸川を渡るとすぐ左手路傍に
積達騒動鎮定之遺跡碑が建っている。寛延2年(1749)の大不作に困窮した安積・安達地区の農民18、000人は、年貢の軽減を要求して立ち上がった。冬室彦兵衛というリーダーの活躍で、一揆は血を流さずに終結した。碑は彼を顕彰するものである。同時に豊作への祈りもこめられていよう。

遺跡碑の道向かいから、旧道はわずかの間、坂上がりの細道となって県道とわかれる。沿道の景色から緑がとぎれ、ようやく本宮の市街地にはいってきた。このあたりから旧街道は阿武隈川の川岸に沿って北上していたらしいが、今は宅地に埋没して、跡をたどることもできない。
車は355号で観音堂をめざす。

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本宮

県道8号との村山丁字路交差点から約1km。観音堂前の三叉路から出ている道が会津街道、追分に石碑がある。観音堂の裏に、川沿いをたどってきた旧道が残っていた。川岸に薬師堂がたち、境内広場の隅には様々な石碑が並んである。この辺りが本宮宿の南木戸口で、桝形があった。電柱に「南の本陣通り」と看板をかかげ、数軒その趣旨を伝える旧家がならんでいる。

この宿場は阿武隈川の支流、安達太良川をはさんで北町と南町に分かれていた。本宮橋で川を渡る。川の南袂が整備されていて、記念碑が建てられている。昭和61年の台風で安達太良川が氾濫し、40億円近い被害を蒙ったそうだ。その後、護岸工事がほどこされ新しい橋が架けられたのだろう。西の方角に安達太良山が大きくみえるようになった。今年は残雪が豊かだそうだ。安達太良山は右側の峰で、左に高く見えるのは和尚山。

道を桝形にすすんで仲町にはいる。ここが北宿の中心地で、左側に鴫原家の旧本陣が残っている。格子窓の町屋の隣りに、全身なまこ壁の土蔵が偉容を誇っている。その先にある黒松の老樹も同本陣のものである。鴫原家の周囲をぐるりと巡った。裏にまわると今も人の住んでいる気配がした。蔵に隣接した角地はドイツ風のモダンな店だが、これも鴫原家の一部かどうか。とにかく豪勢だ。

旧本陣の北にある菅森山に安達郡の総鎮守、安達太良神社がある。本宮の地名はここからきた。かって菅森山の上に領主の館があったことから、本宮宿はまず北町から始まり、その後南町まで発展していった。本宮宿は遊郭で人気があった宿場だそうだが、郡山のように、歩いてきた街道沿いにはそれらしき雰囲気の場所はなかったように思う。

大町の北で道は左に大きく曲がり、本宮宿をでていく。百日川を渡り堀切集落を通りぬけ、左右に田圃がひろがる安達郡大玉村をつきぬける。大玉村は目下、本宮町と合併にむけて協議を重ねつつある。神話時代の歴史をもうかがわせる「大玉」という、宝石のような名がなくならねばよいが。

街道が東北本線と近づく辺りでいよいよ二本松市に入って行く。県道をそれて右の旧道にはいる入口に、奥の細道自然歩道にも指定されている薬師寺参道がある。参道入り口に山水を引いてきた
薬師の霊泉がある。冷えて美味そうだが「この霊泉は飲めません」との注意書きがあった。

石仏、石碑がならぶ参道をのぼり、濡れ落ち葉の道をたどっていくと、狛犬にまもられた清楚な薬師堂が建っていた。延宝5年(1677)正月のこととして、農夫と泉のエピソードを地元人が建てた説明板が伝えている。静かで緑の酸素に満ち溢れた、癒しのハイキングコースだ。

300mほどの旧道を通りぬけ県道にもどり、杉田宿に向かう。

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杉田

宿場は、杉田川を境に北杉田村と南杉田村の2つの村にわかれていた。馬の継立を一月に15日交代で行う相宿だった。南も北も、町の様子は古くもなければ新しくもなく、いわば特徴のない町なみに見うけられる。本陣や問屋は双方にあったはずだが、それらしき教育委員会の説明板を目にすることもなかった。

北杉田宿の北端近くで国道4号線によって旧道は分断され、道はなくなってしまった。国道の向こう側にわずかながら七夜坂とよばれた部分が残っている。杉田3丁目の駐在所丁字路で左折して、国道の下を潜り、すぐ右折して国道の側道を進んでいくと、左側は数軒民家があるだけで山すそが国道近くにせまってくる。国道との合流点手前で左前方へ上る旧道が七夜坂とよばれた旧道だ。坂を上ると土道の傍らに一本の桜の木があって根元に七夜桜の碑がある。

昔、北杉田村に美しい少女と雄々しい少年が人目を忍んで深く愛しあっていた。
ある日ついに、「あの桜の咲く頃に、あの桜の下で、契りを結ぼう」と、約束しあった。だが、実際来てみると互いのタイミングがあわず、なかなか会うことができない。次の日も次の日も通い続け、ようやく7日目の夜になって逢うことができて約束どおり契りを結んだ。以来、この場所はロマンティックな名所になった。

 
七夜桜 はるばるここに北杉田 やがて都へ 帰る身なれば

この歌は、藤原実方朝臣が平安時代初期に歌ったもので、碑は文政9年に建立、昭和22年10月に再建されたものである。道は碑の少し先で山すそ野に消失している。

県道355号にもどって北上、新座地区で右方向へ向かう旧街道をとる。道なりに伝法寺の町を通りぬけ、羽石川を渡り、国道459号に向かうあたりは、大壇坂と呼ばれ、戊辰戦争で二本松少年隊と西軍との間で、激しい決戦が行われたところである。国道の下をくぐってすぐに左折し、国道にのって東北本線をまたぐと、右手にJAグリーンセンターがある。そこの駐車場をかりて右手の丘にのぼると、公園風に整えられた見晴らしのよい高台に、二本松少年隊長木村銃太郎他の墓碑や歌碑があった。

坂を下れば二本松の市内である。会津若松における白虎隊のように、二本松はどこへいっても少年隊の話で持ち切りだった。

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二本松

はじめて訪れる者にとって、二本松はすこしわかりにくい町だ。南東の市外を阿武隈川が流れ、国道4号が地勢的な南限をなし、JR東北本線が歴史文化上の南の境界となる。その北に旧国道・県道355号・奥州街道が東西に走って、その周囲に、若宮・松岡・本町・亀谷からなる城下町人地区と宿場町が形成された。初回訪問者をまどわせるのは、街道の北に横たわる低い丘陵で、坂をのぼると、丘陵の裏側にもうひと組の東西幹線道路がある。西側が郭内とよばれる地区で二本松城(霞ヶ城)と武家屋敷が占拠し、東方の竹田・根田町は、丘陵の南側から上がってきた奥州街道の宿場町後半を引き受ける。

つまり二本松宿は市内の南西と北東の二部構成となっていて、総延長2.5kmにおよぶ大宿場町であった。かっては街道は郭内から真っ直ぐに竹田・根田と延びて、宿場町は一つにまとまっていたものを、郭内部分だけ南の町人地区に付け替えたために、宿場街が二分された。

まず街道に沿ってこの町をいったん通りぬけることにし、そのあと引き返して城を中心にスポット散策を楽しもう。

街道にひきかえして東にすすむ。松岡町でつきあたりの檜物屋酒造店角を右にまがり、県道355号との合流点を左折して本町を通る。駅前通り入口をすぎたところの左手に二本松神社への長い参道がでている。丘陵の深い緑のなかに鎮座する
二本松神社は、もと15世紀に二本松城主、畠山氏を祀ったもので、その後城下町の総鎮守となった。石段をのぼりつめ、社殿にむかう参道は新緑の樹木がおいかぶさるように垂れ、境内の建物は古びてもいず、朱色の派手も好まず、品格のただよう社であった。

秋の例大祭として行なわれる「二本松提灯祭り」は、秋田市の竿燈まつり、愛知県津島市の津島天王祭とならんで、日本三大提灯祭りとして有名で、7町内から金箔塗りの太鼓台が市内を練り歩き、夜は一台に約300個の紅提灯を飾り付け、豪華絢爛を競う。この町には提灯屋と羊羹屋が多い。参道入口から数軒先に、練羊羹の老舗「玉島屋」が立派な看板を屋根に掲げていた。

道は本町と亀谷町の境で鉤型にまがり、郵便局前の丁字路で355号と分かれて北に亀谷坂を登っていく。(丁字路をそのまままっすぐに355号を東にすすむと、安達ケ原に通ずる)。丘陵を越え、竹田町の交差点で県道129号に乗り、右にとると宿場の後半、竹田・根崎町である。旧街道はそのまま129号をとり、山口屋酒店の交差点を左折、鯉川を渡って道なりに右折して智恵子の里、安達町へと進んでいく。

さて、来た道をひきかえし、竹田町から、丘陵をこえずにその北側の住宅街を西にすすんで霞ヶ城に向かう。右手に白壁石垣の麗姿がうかびあがるころ、左前方にはその花道を飾るように、老松の並木があらわれる。丹羽氏によって現在のルートに付け替えられる以前の、旧奥州街道の証人である。城の正門前を通るこの松並木道は日本の道百選に選ばれた。

二本松城

駐車場の東端に「戒石名碑」という史跡がある。
寛延2年(1749)に藩主、丹羽高寛が、丸みを帯びた大きな自然石に、藩士への戒めを刻ませた。「領民を大切にし、不正をするな」という趣旨である。普遍的な戒めだ。

当時「千人溜」とよばれた城の正門前広場に、二本松少年隊とひとりの母親像が建つ。敗色濃厚な状況の下にあって、13歳から17歳までの少年62名が出陣を志願した。1868年7月29日、大壇口での決戦むなしく、正午ごろ二本松城は炎上し落ちた。

霞ヶ城公園(二本松城址)
 二本松城は、室町中期に奥州探題を命じられた畠山満泰が築城し、以後畠山氏歴代の居城として140年余り続き、天正14年(1586)建て正宗の執拗な攻撃により落城しました。豊臣時代、当城は会津領主となった蒲生氏郷の重要な支城として、中通り(仙道)警備の任を与えられ、頂上の本丸やその周辺に石垣が積まれ、近世城郭として機能し始めました。その後、徳川時代初期も会津領として蒲生氏・加藤氏らの支配下にありました。
 寛永20年(1643)二本松藩が誕生し、白河藩より丹羽光重公が10万7百国で入城し幕末まで丹羽氏10代の居城として220余年続き真下。しかし慶応4年(1868)戊辰戦争に際し、西軍との徹底抗戦で城内の家中屋敷のすべてを焼失し、7月29日に落城しました。
 明治から大正末年までは民間製糸工場として活用が図られ、その後は公園として開放され、春は桜花が全山を包み、ツツジ・フジが彩りを競い、夏は緑したたる百庭池、秋は菊人形と紅葉が錦を織りなし、冬は老松にかかる雪景の風情は、市民の憩の場として、また多くの来園者が訪れています。本丸は平成3年の発掘調査を契機に石垣の修築・復原工事が行われ、平成7年に完成しました。    二本松市

大手門にあたる箕輪門をくぐって城内に入る。桜の季節は終わって、客はまばらだった。茶店は一軒だけが開けている。平日のせいもあるのだろう。滝、庵、池、、桜、……最近山上の本丸で石垣が発掘され、それをおおいに宣伝している。途中の見晴らし台で、息がきれて本丸突入は断念した。安達太良連峰を正面にのぞむこの見晴らし台に、もう智恵子の息吹を感じたのは驚きだった。連峰は6つの峰からなる。安達太良山が1700mで最も高い。その高さに念を押すように、頂上に巨岩が乗っかっている。遠くからはそれが乳首に見えて、安達太良山のニックネームはいつしか「乳首山」となった。男がつけたにちがいない。

若宮町「近江屋」から一筋西へいったところに、会津白虎隊と二本松少年隊をペアにした派手な看板を立てかけた「観光センター隊士館」なる土産物店・レストランがある。その道向かいにあるのが、二本松藩丹羽氏の菩提寺大隣寺である。もともと白河にあったものが、寛永20年(1643)、丹羽氏三代光重が白川より二本松へ国替となったのに伴い、当地に移ってきた。丹羽氏関係の墓や位牌堂とともに、二本松少年隊の墓、会津藩仙台藩の戊申の役供養塔などがある。少年隊の墓は個々の墓石に名と年が刻まれている。13歳、14歳という、幼い年齢を読むにつけても痛々しい。

安達ケ原

亀谷町郵便局前の丁字路で奥州街道と分かれ、そのまままっすぐに355号を東にすすむと、榎戸1丁目で
十王堂という小祠をみて、「ダイユー8」の先で一瞬国道4号を借り、すぐに安達ヶ橋で阿武隈川を渡って、鬼婆伝説で有名な安達ヶ原に至る。

安積山で花かつみを見つけることなく、失意の内に二本松までやってきた芭蕉は、ここで市内の観光をひとつもせずに、宿場を素通りして安達ケ原へ直行してしまった。考えてみれば、その当時、智恵子も少年隊もまだ世間には知られていなかった。芭蕉にとって、二本松=安達ヶ原であったとしても、無理はない。

私としては、寄り道である安達ヶ原を「奥の細道」にゆずり、奥州街道沿いにある智恵子の実家に直行したい。

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油井(ゆい)

二本松宿場の後半、根崎をすぎると、安達郡安達町油井地区にはいる。東山道時代、湯日駅があった古い土地柄で、風情を帯びた家並みの中を進むと、左手に目を見はるみごとな窓格子に屋根つき杉玉をかかげた町屋が現れる。智恵子が生まれた、「花霞」の造酒屋長沼家だ。明治19年(1886)長沼家の長女として生まれた。こどものころから通知簿オール5の秀才で、福島女学校から日本女子大を卒業した。

その後。

明治44年(1911)26歳、雑誌「青鞜」の表紙絵を描く。高村光太郎と出会う。
大正3年(1914) 29歳、高村光太郎と同棲、結婚。
大正7年(1918) 33歳、父今朝吉が没する。
昭和4年(1929) 44歳、長沼家が破産、一家は離散。
昭和6年(1931) 46歳、精神分裂症の最初の徴候が現れる。
昭和9年(1934) 49歳、千葉県九十九里海岸に転地。千鳥と遊ぶ。
昭和10年(1935)50歳、南品川のゼームス坂病院に入院。
昭和12年(1937)52歳、病室で紙絵制作を始める。
昭和13年(1938)10月5日、肺結核で死去。53歳。墓は染井霊園。
昭和16年(1941)光太郎が詩集『智恵子抄』を刊行。

智恵子の狂気は、父の死やその後の実家の倒産、一家離散、肺病、文展の落選、夫光太郎へのきがねなどが重なったことによるものと言われている。親の死や、病気、夫婦間のストレスなどは、だれもが経験する当たり前のことで、それで発狂していたら国民の大半が狂わねばならない。倒産といっても、庶民からみれば、以前が豊かすぎただけのことだ。それらは外形上のできごとでしかない。遺伝子とはいわないまでも、もっと内的な素因があったはずである。高すぎるプライド、強すぎる勝ち気・自意識。虚栄と知性の葛藤もあったかもしれない。それと相反的に同棲していた繊細・過敏・明晰な頭脳と神経。智恵子が凡人であったなら、光太郎にもであっていなければ、皆が引き合いに出す原因が一度に重なったとしても、彼女は人間界への切符を失うことはなかったろうと思う。そして思うのだ。妻が狂っていなければ、『智恵子抄』は生まれていなかったのだろうかと。

そんなやりきれない感慨にふけりながら、彼女が愛用した蓄音機や、遺していった紙絵などを見て歩いた。

実家の裏山を二人はよく散歩した。北に雪をのこした、薄青い安達太良山が見える。今日はすこし霞んでいて、それほど青くはないけれど、それでも山の上がほんとの空。南にひろがる町のはずれ、鉄橋の下に光るのが阿武隈川。

今、樹下の二人はあわせておよそ120歳。
「よかったなあ」と、凡人の幸せをかみしめている。


   
   樹下の二人
   ―― みちのくの安達が原の二本松 松の根かたに人立てる見ゆ

   あれが阿多多羅山、
   あの光るのが阿武隈川。

   かうやって言葉すくなに坐っていると、
   うっとりねむるやうな頭の中に、
   ただ遠い世の松風ばかりが薄みどりに吹き渡ります。
   この大きな冬のはじめの野山の中に、
   あなたと二人静かに燃えて手を組んでいるよろこびを、
   下を見ているあの白い雲にかくすのは止しませう。

   あなたは不思議な仙丹を魂の壷にくゆらせて、
   ああ、何といふ幽妙な愛の海ぞこに人を誘ふことか、
   ふたり一緒に歩いた十年の季節を見せるばかり。
   無限の境に烟るものこそ、
   こんなにも情意に悩む私を清めてくれ、
   こんなにも苦渋を見に負う私に爽かな若さの泉を注いでくれる、
   むしろ魔もののやうに捉へがたい
   妙に変幻するものですね。

   あれが阿多多羅山、
   あの光るのが阿武隈川。

   ここはあなたの生まれたふるさと、
   あの小さな白壁の点点があなたのうちの酒蔵。
   それでは足をのびのびと投げ出して、
   このがらんと晴れ渡った北国の木の香に満ちた空気を吸はう。
   あなたそのもののやうなこのひいやりと快い、
   すんなりと弾力ある雰囲気に肌を洗はう。
   私は又あした遠く去る、
   あの無頼の都、混沌たる愛憎の渦の中へ。
   ここはあなたの生まれたふるさと、
   この不思議な別個の肉身を生んだ天地。
   まだ松風が吹いています、
   もう一度この冬のはじめの物寂しいパノラマの地理を教へて下さい。

   あれが阿多多羅山、
   あの光るのが阿武隈川。


(2005年5月)
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