奥州街道(6)



根田小田川太田川踏瀬大和久中畑新田矢吹久来石笠石須賀川
いこいの広場
日本紀行

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根田(大字萱根)・安珍生誕の地 

国道を1km程進み、高橋川をこえると、三叉路から右へでる道がある。ここから根田宿にはいるのだが、その前に、三叉路を一筋越えた交差点を左に曲がってすこしばかり恋の道草を食う。

右手の細い坂道を上がったところに石切り場のような岩壁を背にして小さな御堂が潜んでいる。この中に色白い一人の若僧が蕭然と座っていた。この地に生まれ、修業先の遥か紀州で、幼い女性の激情に命を落とした安珍である。

紀州のとある庄司の家に宿を借りた。その家のまだ10才をこえたばかりのあどけない娘が、美少年安珍に一目ぼれした。結婚してほしいとせまる清姫に、安珍は「おおきくなったらね」とやさしくいいきかせた。あとで、彼女の思いは真剣であると知った安珍は、こわくなって清姫を避けて帰った。恋に狂った清姫はどこまでも彼のあとを追い、逃げ場を失って道成寺の鐘の中に身を隠した安珍を、体を蛇と化してその鐘に巻きつき、灼熱の恋の熱気で焼き殺してしまったのだった。好色5人女を上回る激烈な恋情である。しかも爛熟の江戸時代をはるかさかのぼる平安時代の物語である。

安珍の墓が、田圃づたいに西にすすんで東北自動車道をくぐったすぐ右手の民家裏にある。彼の冥福を祈った里人がはじめたものといわれる安珍念仏踊りが根田に伝わっている。ここでは一方的に安珍ばかりが同情をかっているが、紀州道成寺では様子がちがうのかもしれない。安珍の僧としての良識より、清姫の純真な恋心のほうについ気持ちが引かれてしまう。

根田の宿場入り口に、創業200年以上という、根田醤油合名会社の工場全体から、香ばしい匂いが発散している。中庭まで入り込んで、売店を兼ねる蔵の前をうろついていると、母屋の戸が開いて、「すみませんね。今日は定休日ですので」と断りの声がした。二羽のツバメが庇下の巣に餌を運ぶのに忙しい。醤油会社が簡易郵便局を兼ねているのが宿場町の唯一の面影だった。


逆くの字形に根田宿をぬけ国道にもどってすぐに、右にそれていく国道をはなれて、直進する旧道にはいる。旧街道沿いらしい泉田の町並みが終わったころ、右手に小田川小学校があらわれ、旧道はこの付近のどこかで消失しているらしい。これより先の行き方は二通りある。

一つはそのまま、車道をすすみ東北自動車道のガードをくぐり、ゴルフ場入口で右に曲がって再びガードをくぐって国道4号線にでる。
他の一つは、小学校から逆戻りして、町中の丁字路を東におれて国道4号線の泉田交差点に出る。その後切り通しの国道を進んで坂をくだると、最初の方法で出てきた地点に追いつく。  
そこからおよそ500mほど国道を走って、左にでる道が小田川宿にはいっていく旧街道である。


小田川  

旧道にはいってすぐ左手に、小野薬師堂と二十三夜塔や戊辰の役戦死者供養塔などの石碑群がみえる。このあたりが小田川宿の入口だ。本陣や脇本陣なはかったようだが、宿場問屋だったという立派な蔵を持つ旧家の他、沿道にならぶ家並みがおしなべて豪勢なつくりである。町の中程、郵便局の向かいの路地をはいって、国道を越えた所に新しい山門を構えた宝積院がある。山門は土地の名士の寄贈である由の碑があった。米沢藩主上杉氏が休息所とした所という。

集落を出て小さな泉川を渡る。左に東北自動車道が最接近してくる地点に「岩窟切岸城跡」の表示がでてくる。面白そうな城名にひかれて、ガードをくぐり、右手の細い坂道を上がっていくと
八幡神社があった。この小山を切り崩して防壁とし、その上に城館でも築いたものか。社の裏側にせまりたつ岸壁には採石の痕がはっきり見てとれた。

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太田川 

東北自動車道を左に、広がる田園をはさんで国道4号線を右にみながら道は白河市を出て西白河郡泉崎村にはいっていく。農道との分岐点あたりの夫婦坂から太田川宿がはじまる。入口近くの林の丘腹をのぞくと、赤いキャップを頭にのせた大きな石地蔵が座っているのがみえた。武光地蔵とよばれ、伝説が伝わっている。その昔居合い抜きの達人として知られる仙台伊達藩の侍が、奥州街道を江戸に向う途中、夜更けの夫婦坂にさしかかった時、 前方に妖しい女の影が出た。侍は一刀のもとに斬りすてた。江戸からの帰り、再びここを通ると、道ばたに二つに切断された石地蔵が転がっていた。(ここで話は飛躍する)土地の者は、この石地蔵を斬りつけた刀が竹光だったので、「武光地蔵」とも、「化け地蔵・首切り地蔵・二身堂地蔵」とも呼んだ。近年まで、そばに切断された下半身があったという。

丘を下った所にある集落が大田川宿である。集落の入口に常願寺がある。静かでひなびたたたずまいのまちなかをすすむと、正面に小山があらわれ愛宕神社の鳥居に突き当たる。神社までは急な石段をのぼらなくてはならない。中腹であきらめ、振りかえると眼下に太田川の美しい町並みが広がっていた。赤茶色や青の屋根並みに、一本の街道筋が真っ直ぐに走っている。丘陵にかこまれた中世ヨーロッパの小都市を連想させる風景だった。

道は、小山を回り込むように左折してゆるい坂を上っていく。裏側に小さな池をみて、山間の道をすすんで四ツ屋前地区をすぎると旧国道に出る。左におれてすぐ、密やかに沈む「新池」の街道沿いに、樹齢を感じさせる赤松の並木がつづいている。池端の民家の裏庭に、細い旧道跡が残っていた。



踏瀬(ふませ) 

国道を横断して、道なりにすすむと小さな踏瀬宿にはいる。といってもバス停向かいの立派な家と、鉄骨の火の見櫓の他、宿場の面影をしのばせるようなものが見当たらない。あくまでこじんまりとして平和な集落である。



踏瀬宿をぬけてまもなく、踏瀬長峰のバス停前に
「踏瀬旧国道松並木」の碑がでてくる。ここから700mあまりにわたって、赤松の並木道がつづく。およそ200年前、白河藩主松平定信によって、2300本の赤松が植えられた。



踏瀬集落を出た所から緩やかな坂道を登る。松並木を過ぎた辺り右手に「卯衛門茶屋跡」の案内板が建っている。大和久の七曲がり峠の泉崎寄りに卯右衛門茶屋と文七茶屋が軒を並べて、旅人の休み所として繁盛して代々引き継がれていたが、明治の初めの鉄道開通のためさびれて閉店となった。道はあぶくま高原道路の上を越し、山中を蛇行しながら下っていって大和久宿へ入る。

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大和久(おおわく)

町のほぼ中央あたり、左手の山王寺境内に樹齢200年といわれる黒松がある。枝や幹が地を這うような姿から臥竜の松と呼ばれてきた。説明板で知ったことだが、福島県中通りは「赤松林区」といわれるほど赤松が豊富だそうだ。松茸はアカマツ林にできるという。白河からはじまり、五本松・新池の松並木も赤松だった。そんな中で樹形のすぐれた黒い老松は、ひとり気を吐いている様子だった。


中畑新田 

一瞬町並みが途切れるが、すぐにつぎの町がつづく。新町が中畑新田宿のあった場所である。いまは、大和久とともに矢吹町の町並みに組入れられていて、判然と境界がみえない。新町の中ほどで、常陸街道(旧県道棚倉矢吹線)が東にでている。追分に常夜灯が立っていたそうだが八幡町の八幡神社に移されたという。角にあるのは幸福寺。

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矢吹
 

いつしか沿道が建て込んできて道は矢吹町にはいったようだった。白河以来、小刻みに宿駅の数をこなしてきたが、この矢吹宿は芭蕉も泊まった比較的大きな宿場である。中町、本町を中心として1kmほどの町並みをあるいてみた。

駅前通りの手前、東邦銀行の角に矢吹町道路元標の石があり、そこを左にはいったところに大福寺がある。戊辰戦争で矢吹に本陣を敷いた仙台水沢藩(現・宮城県登米(とめ)市登米(とよま)町)の戦死者が埋葬されている。彼らの故郷登米は、芭蕉が泊まったところでもある。その時に矢吹のことを思い出そう。


大福寺の北にある神社が宿の名前の由来となった矢吹神社だ。明治37年の建設という社殿は、トタン葺切妻屋根の下にピンクの鉄製開き扉を取り付けた、一見倉庫風の建物だった。八幡太郎義家が奥州征伐の途上建てた八幡社で、その屋根を矢柄で葺いた事から矢吹の名が付いたと伝わっている。



矢吹駅前通りの交差点を越え、福島銀行のとなりにある豪邸は、慶応元年(1865年)創業の造り酒屋「大木代吉本店」である。「自然郷」と白抜きされた紺色の幕を大きく店先にはって、隣りの黒格子塀の内側には姿よい松の木が老舗を誇示するように伸び立っている。この辺りを中心としていくつかの古い商家をみることができるが、大木代吉本店は抜きんでていた。

左手空き地の奥に、本陣だったという元旅館の門がわずかにその面影をとどめようとしているが、手前の2本の赤松に景色の主役をゆずっているようにみえる。

昭和40年代まで医院として使用されていたという、大正時代の二階建て洋風建物がでてくる。「大正ロマンの館」として保存されており、夜にはライトアップされるそうだ。

会田医院の建物につづく大きな白壁蔵造りも会田家の本宅だろうか。灰小豆色のなまこ壁と暗褐色のレンガ屋根が白壁の上下を上品に縁取りしていて、清潔な気品を漂わせていた。

芭蕉はこの町で一夜をすごしたのだが、どの家に泊まったのか記録がない。町の散策も句を詠んだ形跡もない。矢吹町は江戸時代、「行方野(ゆきかたの)」と呼ばれる広大な原野だった。明治時代に宮内庁管轄の御料地「岩瀬御猟場」となり、この頃から行方野は、「矢吹が原」と呼ばれるようになった。昭和にはいると陸軍飛行場として使われた。矢吹が現在の姿に生まれ変わったきっかけは昭和十六年にはじまった国営開墾事業である。昭和31年に完成した羽鳥ダム(岩瀬郡天栄村大字羽鳥)が隅戸川を通じて荒涼とした矢吹が原を豊かな田園地帯に変えた。その歴史的原風景の一端を、まもなく岩瀬牧場でみるであろう。

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久来石(きゅうらいし) 

矢吹の町をでて国道4号線に合流(*)し500mあまり行ったところで分かれ道を斜め左の旧道に入る。ここは岩瀬郡鏡石町で、奥州街道久来石宿があった集落である。大きくて立派な家並みがつづく道の両側に、東側・西側という字名が残っている。気のせいかもしれないが、道の東西で、屋根の色が黒派と茶色派にわかれているような気分になった。           

(*)メモ書き

ふと、通り過ぎた国道キロ標の表示が「東京から205km」とあったのに気がついた。確か雀宮で100kmを越えたとき、せめて100km毎ぐらいには現代の道標にも敬意を払おうと決めたのだった。旧道を走っていたために5kmオーバーランしたわけで、国道をその分もどって200kmの標識をさがすと、ちょうど都合よく道路際のセブンイレブンのすぐ近くにあった。なんだ、ノンストップでいけば3時間たらずか、とは言うまい。さて、つぎの300km地点はどこだろう。ざっと広域地図を見渡すと、水戸街道との合流点岩沼あたりにみえる。

笠石

久来石集落をでて今度は国道を横断して右に入っていく。宝泉院の前を通り、北原稲荷神社の二筋手前の交差点角に、笠石の名前の由来になった笠地蔵がある。小さな御堂の前に並んでいるいくつかの石碑をつぶさに一つ一つ見ても、どれも石の笠をかぶっている風にはみえない。堂内の闇に目を馴らしているうちにうっすら、石笠をいだいた石板碑がみえた。写真でみれば瞭然とわかる。肝心の板碑の所以は、わからない。

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岩瀬牧場

鏡石郵便局をすぎたところの五叉路を東におれる。広々とした田園地帯のなかをまっすぐな桜並木道がつづいている。約2km進むと、右手遠くに一直線にならんだポプラのすずしげな木立がみえてきた。約10万坪もの広さをもつ国内で初めての西欧式牧場、岩瀬牧場だ。明治初期、矢吹・鏡石・須賀川一帯の平地2700町歩が政府によって開墾されたのがそのはじまりである。明治40年、日本に初めてオランダから乳牛13頭と農機具が輸入されたとき、友好の印として鐘が贈られた。

文部省唱歌「牧場の朝」でうたわれる、ポプラ並木も鐘の音もこの牧場のものだ。
作詞者ははるか後になって、杉村楚人冠だとわかった。どこかで聞いた名前だな、と考えていたら、我孫子の「手賀沼ゆかりの文人」の一人だった。

ここに着いたのはもう4時を過ぎて、澄み切った大気が赤らみはじめていた。一面の霧にかすむポプラがみたくて、翌早朝もういちどやってきた。街道歩きを忘れてしまって、牛や馬や兎や山羊など。家畜動物撮影会が始まった。道向かいのフラワーパークもチューリップと花水木がさかりで、そちらでは花の撮影会である。
「孫がいたら一日あそべる場所だね」と妻。

福島のホテルで、「子供の日の今日は、5000人以上の人出でにぎわいました」とテレビが伝えていた。

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五叉路にもどり、旧道を北上する。このあたり、鏡石の鏡田かげ沼町に、鏡沼があり、またの名をかげ沼ともいい、地名が錯綜してややこしいが、一点だけあきらかなのは、この地方一帯には沼が多かった。また、その低湿地には古来から蜃気楼現象がまま起きていたことが伝わっている。芭蕉はそのことに興味があったらしい。
「かげ沼と云所を行に今日は空曇て物陰うつらず」

鏡田かげ沼町に史跡として保存されている
「鏡沼」、別名「かげ沼」は、街道から西に直線距離にして3kmほども離れたところにある小さな池である。沼一つをみるための寄り道にしては効率が悪い。芭蕉はそこへは行っていないと思う。
ところで、矢吹町から須賀川市にかけての湿地帯を指して、かげ沼あるいは鏡沼の里という呼び名もあった。旧街道はそのなかを通っている。人伝えにきいて期待していた蜃気楼は残念ながら発生しなかった。

そうこうしているうちに、岩瀬郡から須賀川市にはいっていた。新旧国道の間に、すこやかな
一里塚が見えてくる。公園風に整備された松並木の両側に、日本橋から59番目の一里塚がしっかり残っている。国史跡に指定されている優良児だ。

メモの続き。

矢吹をでてからここまで約5km。つまり東京から210km。59里は約236km。その差26km。つまり旧奥州街道(およそ旧国道)は現在の国道より一割強、蛇行していたということか。思ったほど無駄足をふんでいないなあ。むしろ一割の節約で見逃した景色は数も知れない。旅は旧道にかぎる。

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須賀川         

須賀川は宿の長さが1.7kmもあるこれまでにない大きな宿場である。芭蕉はここで8日も滞在した、奥の細道の拠点でもある。宿場と芭蕉のことを、町ぐるみで最大限に活用している点で、北千住に似た雰囲気がある。市内22ヶ所には「俳句ポスト」が設けてあり、だれでも投稿することができるなど、千住や草加をうわまわる勢いだ。

さてここで私も一泊して、町の中をゆっくり見てまわろうと思う。芭蕉のことはできるだけ「今様奥の細道」で書こう。とりあえず、一里塚から奥州街道の道筋をおっていくことにする。この町は入るところと、出ていく道順がかなりややこしいからだ。

一里塚は旧道沿いにある。すぐ前を国道118号線が横切っているが中央分離帯があって、そこを渡ることができない。来た道をしばらくもどっていったん4号線にのり、すぐ左車線から国道をおりて一里塚交差点を右折する。ガードをくぐりぬけたところで左に未舗装の細道がでているのが旧道である。ところが道は閉鎖された踏切りにぶつかって、これを越すことができない。また、逆戻りして118号を東にすすみ、JRを越えた交差点で県道355号線(旧国道)を左におれて、並木町体育館の手前でようやく一里塚からの旧道に合流する。

ここからは一本道で、南町・大町・本町・中町と市内の繁華街を北上する。北町で左にまがりはじめるところの交差点を左に入って、岩瀬病院の東側の坂をおりていく。昔はここに宿場の北限をしめす
北町の黒門(木戸)があり、道はそのまままっすぐに後釈迦堂川に向かって、急坂を下っていた。今も355号線から右に急な下り坂がでていて、川原ちかくに民家がつづいている。

川の向こうはしばらく旧道が失せている。須賀川駅前まですすんで右に折れ、高架道路の下を走って北側にぬけ、JR東北本線の下の地下道をくぐりぬけてようやく下宿地区の旧道にめぐりあう。

町中をみるために並木町までもどることにしよう。
合流点からまもなく道がふたつに分かれる。右方をそのまま進むのが旧道で、すぐ右手の街灯に「四丁目集会所」の看板が見える。細い路地をはいると突き当たりの奥に
千日堂がある。4丁目集会所の駐車場に車を留めて御堂の写真を撮っていると、近所の人たちが老人が集ってくるところだった。

入口に建てられてある4丁目町内会の説明板によれば、須賀川宿は古町村、中町村、道場町村、北町村の4町があり、中町村が急成長したため南の黒門の外に移って新町がつくられた。それが4丁目のはじまりで、現在の公民館付近には枡形があったという。

広い意味ではこのあたりが須賀川宿のはじまりだが、正確にはもうすこし行った南町の黒門(木戸)跡が宿場の南口だった。東北電力営業所前に説明板が立っている。営業所前の階段で一車線が行き止まりになって、そこまで道幅が広い。南町木戸地の枡形のなごりであろう。

黒門跡の先にある広い交差点から大町となり、芭蕉は須賀川に滞在したあと、この辻を東にとって乙字ヶ滝を見に行った。そのあと須賀川にはもどらず、大きく阿武隈川の蛇行部分にそって日出山に出た。従って、芭蕉は北町の釈迦堂川をわたっていない。
その交差点かどの
「よってけ広場」に、大町町内会による案内板が建てられており、芭蕉のことの他、六軒道には地元のヒーロー円谷幸吉の記念館があると紹介している。

大町の北端、本町との境界交差点角に小さく
「軒の栗庭園」が設けられていて、プチ芭蕉公園といった風である。ロータリークラブが寄贈したという、ズングリとした芭蕉と曽良の像は、二人のおさない表情にピッタリとあっている。じつはこれとそっくりのものを、鏡沼跡と乙字ヶ滝でもみたのだった。ロータリークラブが同じ物をいくつか作って各所に配ったものとみえる。正座した実直そうな等躬の像もある。道の傍には馬つなぎ石がそっと置いてあった。本町町内会による説明板が立っている。4丁目、3丁目、大町、そして本町と、これで4つめ―――。いずれも平成13年春のこと。各町内会が、芭蕉に絡めてそれぞれの町を案内する看板を設置しようではないかと、市議会で決まったのではないか。

この宿場の本陣は、芭蕉が滞留した等躬宅で、NTTの場所にあった。等躬の墓は長松寺にある。近くの須賀川市総合庁舎の一角に
須賀川芭蕉記念館がある。曽良が日記で「寺々八幡ヲ拝」と記した、八幡社と岩瀬寺があったところである。それを記念して、芭蕉記念館の入口付近に「奥の細道 八幡社 岩瀬寺跡」の標柱が建てられている。八幡神社は明治初年に神炊館神社(諏訪神社)に合祀された。館内に入って、20分のビデオを見せてもらった。よくできている。

事務室の若い女性職員に、乙字ヶ滝から日出山までの芭蕉の足取りをたずねたところ、新聞紙大の地図を取り出してきて受け付け窓口一杯に開けてみせてくれた。
4万分の1地図に芭蕉の足跡と、代表的な寄り場所の名が書き込まれている。
「いやあー、すごいですね」
赤ボールペンで足取りをなずろうとしたら、
「すみません。これ一枚しかありませんので…」と、きびきびとした女性職員はコピー室へ姿を消し、しばらくして2枚に分かれたコピーに、「マーカーを使って下さい」と、色ちがい4本を添えてもどってきた。さっそくコピー地図に、道順をマークしようとするのだが、気持ちがあせって、線をずれて色がつく。
「いやあー、ありがとうございました。これから、この通りいってみますよ」
手早に、地図や関連パンンフレット、ボールペン、マーカーをひとづかみにしてしまいこんだ。

諏訪町にこの町の歴史を語る神社が二つある。一つは芭蕉も参拝した、総鎮守
神炊館神社で、成務天皇(84〜190)の時代に、初代石背(いわせ)国(福島県中部)の国造として当地に赴任した建美依米命が主祭神である。彼はここに赴任するとすぐに社壇を築いた。2世紀の古い神社である。一時、諏訪大明神と称されていたが明治11年に現在の名前に帰った。

境内の左側に須賀川城外堀跡がある。安政5年(1448)岩瀬郡の大半を支配していた二階堂氏が築城した城があった。天正17年(1589)伊達政宗の攻撃により陥落し、二階堂氏は滅亡した。城の遺構はほとんど無くなったがこの外堀跡だけがわずかに残っている。

戦国大名12代二階堂行続は、鎌倉公方足利持氏より奥州岩瀬郡を拝領し、須賀川城を築いた。その後長禄年間(1457〜1460)、13代二階堂為氏によって、現在の市街地に改築された。城域は現在の市街地全体に及び、
二階堂神社は、本丸の場所に当たっている。

旧街道の東側、十念寺の裏にあたる低い丘陵の愛宕山一帯は、
翠ヶ丘公園として整備されており、市立博物館などの公共施設がいくつかある。博物館の駐車場奥に芭蕉句碑を見つけた。乙字ヶ滝での句である。

五月雨耳飛泉婦梨う川む水可佐哉 (さみだれは瀧降りうづむみかさ哉)

園内に植えられてある植物を万葉集の歌で紹介している。太鼓橋近くにあった気になる歌を一つ。
ぬばたまの妹が黒髪 今夜もか 我がなき床に なびけて寝らむ 巻11 2564 

今夜も私のいないひとり寝の床であの方は長い黒髪をなびかせながら寂しがっているだろうなあ。私もつらいよ。

いつも感じるのだが、万葉歌の現代語訳はどこか、間がぬけてきこえる。
「私もつらいよ」なんて、寅さんみたい。

ぬばたまとは檜扇(ヒオウギ)のこと。実はみごとな黒色で、「射干玉(ぬばたま)」または「烏羽玉(うばたま)」ともいう。黒にかかる枕詞。

釈迦堂川で宿場は終わる。そんな不便な場所にJRの駅がある。鉄道を嫌ったばかりに、その後の繁栄を郡山にもっていかれた。その分、町には郡山にない品のある文化が残ることになった。須賀川の町も戊辰戦争でひどくやられ、川の北側から線路にかけては旧道がない。目算で走っているうちに鎌足神社の前にきた。手前に大きなわらじがぶら下がっている。社殿は矢吹神社のいろちがいのような造りだった。説明しがたい順路をたどってJR踏切りを越し、下宿集落の旧街道にたどりつく。この辺も誤って一度宅地内部に入り込むと、分譲開発でつけられた迷路にはいってしまって、旧道にもどるのが困難であった。

旧国道である県道355号との交差点を越えてまもなく、右手にこんもりとした盛土が見え、二十三夜塔をはじめとする石碑類が集っている。低い木立の根元にある小さな石碑には「一里坦」と刻まれていた。江戸から60番目の森宿一里塚跡である。トタン板にかかれた説明文は、サビとペンキのはがれで、読めなかった。

緩やかな白石坂を登っていき、柏城小学校をすぎた交差点の角に
「筑後塚供養塔群」とよばれる一群の石碑類がある。なかでも屋根の下にならんでいる4基の板碑が重要らしい。この辺りは鎌倉時代の官道だった東山道が通っていた場所で、古い土地柄のようだ。「筑後塚」のいわれは、中世末の支配者、二階堂氏の家臣であった守谷筑後守からきているという。守谷は、須賀川が伊達政宗に攻められている最中に、主君を裏切り敵側に内通して二階堂氏を滅亡に追いやった卑怯な男である。そんな彼の塚でもあったのか。

その先、道は右に曲がって355線に合流していくが、街道はまっすぐ民家の傍の土道を川縁に下りてゆく。旧道はそこで滑川をわたっていたようだが、道は消失していて、川沿いに右へまがって355線に合流する。角に道標が立っているが、ローカル道を示すものらしかった。県道のすぐ東隣りの短い東北本線鉄橋を電車がわたってきた。橋の下で聞くとすごい轟音だ。

滑川橋をわたり東北本線沿いにしばらくすすみ、「郡山方面」という標識のところで右折して踏切りをわたる。水郡線の踏み切りをこえたところが市境で、須賀川市から郡山市にはいる。東北新幹線の下を潜りぬけたあたりから旧笹川宿がはじまる。

(2005年5月)
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