奥州街道(5)



鍋掛
越堀
芦野明神峠白河
いこいの広場
日本紀行

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錬貫(ねりぬき)

錬貫を過ぎ、登坂にさしかかる手前で、左手にまとまってある石碑を熱心に観察している一組の夫婦に出会った。
「万年常夜灯と書いてある。村の人が毎晩交代で、火を灯しに来るんだ。おかしいなあ―笠だけあって燭台がない」
「本当ですね。松茸みたいで、これでは灯篭にならない」
60代半ばと思われる男性は笠の下に刻まれた文字を読むのに必死だった。奥さんになにか頼んでいるようすである。物静かな夫人は車から布切れを取り出し、傍の小川に浸してしずくが垂れたままの布を夫に手渡した。彼はそれで風化した文字面をたたく。白い石面が濡れて薄茶色にかわり、うっすらと刻まれた部分がにじみ上がってきた。
「何とか暦…、宝暦だな、きっと」
他の二面にはしっかりとした文字で「右奥州海道」、「左原方那須湯道」と刻まれているのがわかる。彼はそばの小道を指さして、
「この道が那須まで通じていたのですよ」
「そうでしたか。芭蕉が通ったのは、もしかしたらこれですかね」
「……」
男性は芭蕉に興味がないらしい。草花を清流にうつした小川に沿って、土の小道をたどっていくと、裏の林の中に消えていた。ここはまだ野間の手前だ。芭蕉は通ってはいない。
「では、お先に」
歴史に詳しい行動的な男性と、最後までしとやかに控えていた夫人の二人連れは、車の中に姿をけして坂道を上っていった。

道は右にゆるやかなカーブを画いて乙連沢地区六町歩の田園地帯を通っていく。道端の野草を摘んでいる三人の女性の姿が好ましく目にはいり、羽田沼へ通じる横道に急停車して、写真の了解を得に車を出た。一家総出の野良仕事だが、主人が田植え機を運転しているだけで、息子は畦に突っ立って父親の仕事を傍観している。女性陣も食事かお茶のとき以外は特にすることもなさそうで、三人そろって道端の草を摘んでいた。
「これもって帰りな。これはテンプラにして、これはそのまま味噌をつけて食べるの」
丸顔のかわいらしいおばあさんが、ヨモギとニラに似た細いネギを束にして、突きつけるようにくれた。ニラに似た野草はノビルといって、小さな白い球状の鱗茎を味噌に着けて食べるらしい。

ほどなく大田原市を抜けて那須塩原市野間に入る。芭蕉が黒羽から借りていた馬を返したところである。ここは昨年までは黒磯市であったが、2005年1月1日にて、西那須野町・塩原町とともに「那須塩原市」を作った。新市名に「黒磯」の名は入れてもらえなかった。

野間集落をすぎたあたりの左手高台に
樋沢神社があらわれ、参道を上がると二つのふるびた巨石が安置されている。「八幡太郎義家愛馬跡の石」、「葛篭石」と命名され、共に源義家に縁ある伝承が伝わっている。源義家(1039〜1106)は頼朝・義経から5代前の祖。11世紀後半の前九年(1051)・後三年の役(1083)で陸奥の安倍・清原氏征圧に活躍した。義家と二つの石の物語りを詮索するよりも、この道がそれほどに古い臭いを今も醸している現実を喜ぼう。

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鍋掛 

74号線は愛宕峠で切通しになっている。ブロック壁の左上から、江戸から41番目の鍋掛の一里塚が街道を見下ろしている。石段を登ると、鬱蒼とした杉の大木の奥に鍋掛神社が鎮座している。昔の道はこの位置まで高かった。

坂をくだり県道34号線との交差点を越えて、道は鍋掛の町へ入っ行く。鍋掛宿は小さな宿場であるが、通りは清潔によく整備されていて、馬つなぎ石のような半円状の石列で歩道を仕切っているのがおもしろい。先に天領に鍋掛宿ができ、かなり遅れて向かいの黒羽藩に越堀宿ができた。那珂川を挟んで、越堀との相宿である。

宿場のなかほど路傍に「芭蕉の句碑」の標識がたち、ちょっとした公民館広場の片隅に「野を横に馬牽きむけよほととぎす」の句碑がある。芭蕉が「奥の細道」に旅している元禄2年(1684)に、黒羽から野間に至る道中で、手綱とる馬子に作り与えた句といわれ、句碑は文化5年(1808)に建立された。広場の裏にある正観寺山門脇のシダレザクラは結構な高さだった。

前方に、那珂川に架かる青い昭明橋が見えてくる。橋の手前左手の竹薮におおきな馬頭観世音碑があり、その横に細い農道がついている。この道が旧道らしい。車でさかのぼっていくと、農家と田の間を縫って舗装道路へ出た。
渡し跡をさぐってみたが、鍋掛側の那珂川岸は険しい崖になっていて、岸辺に降りる地点はなさそうだった。

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越堀 

昭明橋を渡って越堀宿に入り、つきあたり丁字路を右に曲がり路地をくだると岸辺に出る。このあたりが渡し場の跡だろう。微妙な色合いの新緑のなかに、深緑の川面が静かにのびて、河原には明るいタンポポの花が満開だった。

越堀の宿場は鍋掛よりも小さい。左手郵便局のあるあたりが本陣跡だろう。一般的に、最近のはやり言葉となった「特定郵便局」は、庄屋や名主など、昔の名士が営んだ例が多く、彼らが本陣を勤めていた可能性が高い。ついでに。高札場や問屋がある宿場の中心地を求める際にも、まず郵便局を探すのがよい。本陣跡でないにしても、そこが町の中心地であることが通例である。

郵便局の先に、「仙台屋商店」という酒屋がある。なぜ、「近江屋」でなくて、「仙台屋」なのか、ということではない。日野商人中井源左衛門は伊達藩の御用商人であったから、「仙台屋」に近江資本がはいっている可能性はあるのだ。正保3年(1635)仙台の伊達候が参勤交代で江戸へ向かう途中、那珂川の増水で川を渡れず、越堀に小屋を建てて待ったことが、宿場に発展するきっかけだったといわれている。おなじような話を北千住の千住小橋で聞いた。伊達政宗が隅田川にさしかかったとき、やはり水がでて渡れなかった。幕府に橋を架けるようにかけあい、隅田川最初の橋、千住大橋ができたという。

酒屋の向かいが浄泉寺で、境内の右隅に「史蹟 黒羽領境界石」と書かれた白杭と、「従是川中東黒羽領」と刻まれた花崗岩の四角柱が建っている。この境界石はもともと越堀宿(黒羽領)側の川岸に建てられ、川向こうの鍋掛宿(幕府領)との境界を示していたものである。

宿場の出口で、街道は右に折れて行く。一方、左に曲がり、川沿いに高久まで通じる道がある。芭蕉が歩いた道にしては、どうも新しい感じがつよかった。この道のほかにも、越堀あるいは寺子から高久にむかう道はある。奥の細道はどれだったのか、わからない。

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寺子


杉渡土の集落を北へ進み雑木林の中を富士見峠にさしかかる。
「寺子一里塚の里」の標識が立っていて、その先に林道が右に延びている。「見晴台」のサインにつられてでこぼこ道を分け入ってみた。しばらくいくと左手の林が切り開かれ、畑か宅地になかば造成されつつある場所がいくつかある。ここが「見晴台」、別荘分譲地のことであった。富士がある方向は樹木に遮られていて、見晴らしはない。なお「水源地」とは、池や川でなくて、水道栓のことである。

峠を下ると
寺子宿にはいる。間宿で、宿駅の数には入れない。余笹川の手前に寺子一里塚公園が設けられており、なかに42番目の寺子一里塚が復元されている。そばには富士見峠の頂上にあったのものを移したという、安永4年(1775)建立の道標を兼ねた馬頭観世音碑があった。


余笹川を寺子橋で渡り石田坂にさしかかったところに、牛の石像が石仏群をしたがえて広々とした水田の風景をのんびり眺めている。近寄ってみると「畜魂碑」とある。方形に整地され、田植えをまつばかりに水を張った田が五月の陽をあびて黒光りにかがやいていた。

寺子を過ぎ、黒川をこえると那須町である。しばらくすると、右手に「夫婦石神社」の立て札がでてくる。田のあぜ道をすすむと、石鳥居の背後に二つに割れたとみえる石が安置されている。昔、敵に追われた一組の男女がこの地の大きな石の割目に身を隠したところ、白蛇が2匹現われ巨大な石を動かして追手を追い返した。二人はこのお石様に感謝しこの地に住み暮らした。その後この石が夜になると互いに寄り添うという話しが伝えられ、いつの頃からか夫婦石と呼ぶようになったという。昼間はなれて、夜に寄り添うというのが、現実味があってなんとなくおかしい。

まもなく、道の両側に43番目の「夫婦石一里塚」があらわれる。標識は右側にしかないが、左の盛土も塚であろう。道は芦野宿へはいっていく。

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芦野 

国道294号線の手前で農道と交差するところに「芦野氏居館跡」の標識が立っている。車一台分の幅の農道を入っていくと畑の傍に説明板があった。鎌倉時代初期に芦野氏の祖が構築したものとされているが、場所を示すだけで、遺構はない。目の前で1人の農夫が黙々と畑を耕していた。草の上に置かれたラジカセからはボリューム一杯に演歌が流れてくる。見渡すばかりの田畑のなかで、おじいさんのいる畑の奥に手付かずの空き地があった。そこに植えられた果樹の木立から、かび臭い中世の風がもれてくる風情がある。

国道を横断し奈良川をわたった左手に、片足を折って座った半伽地蔵が鎮座している。ここは奥州街道と黒羽街道の分岐点で芦野宿の出入り口にあたった。左に坂を上がっていって芦野宿に入る。那須7騎の一家であった4500石の旗本芦野氏城下として発達し、江戸時代になってからは奥州街道の関東北端の宿駅として賑わった。今も各家には屋号のはいった常夜燈風石台が設けられ、宿場の風情を醸しだしている。屋号の木札を掲げる例は千住やっちゃ場や白沢宿などで見てきたが、ここではそれを一歩すすめた。

静かな通りを歩いて行くと左に、芦野宿の旅籠と江戸時代からの伝統を守るウナギ料理の老舗旅館、安達家
「丁子屋」がある。昼食のため中にはいると、二階の座敷にとおされた。
「ここが蔵ですか」
「蔵は一階です。予約制になっていまして」
「そこで食べたいのですが……」
「いいですよ。今は空いていますから」
一階の奥へ案内されて、女将さんは重そうに閉まっている黒壁の蔵戸を開けた。
「ここは涼しいですから、寒かったら言って下さい。ストーブをつけますので」
たしかに中はひんやりとしていた。中央に座敷机がひとつ。脇に記帳用の和紙帳簿が重ねてある。床の間の飾り物は骨董めいている。
鰻丼定食を頼んだ。透明無色の上品な吸い物と、炭火でほのかに焦げ目をつけた身の厚いウナギが出てきた。炭の香とタレの匂いが美味に溶け合って食欲をそそる。

胃を充たして、宿場町を散策する。道向かい、仲町通りのほぼ中央に「奥州道中 芦野宿」の道標と、「明治天皇東北巡幸記念碑」がある。この場所は芦野宿問屋場跡地であり、巡幸の際の宿泊所でもあった。

郵便局のある宿場中央の交差点角には、芦野氏陣屋の大手を守る番所があった。今、そこに「芦野町道路元標」がある。道向かいが
本陣跡で、現在は地場産の「芦野石」を使った石の美術館、ストーンプラザになっている。

郵便局の側の道を山手にはいると、左手に松の枝が寄りかかり堂々とした棟門(むねもん)の、平久江家武家屋敷門と石垣があらわれる。石垣は高く積まれ、門を入ると桝形をなしている。

その先を右に曲がって
芦野氏陣屋跡に通じる細道の入口に、近代的で大きく立派な那須歴史探訪館がある。鉄骨造りだが、正面玄関入口は和紙の障子戸を設けて、落ち着いた雰囲気に囲まれた建物だ。事務室には中年の館長と若い女性が1人。受付の女性に、芭蕉が歩いた殺生石からここまでの順路をたずねると、手書き風の資料が印刷されている一枚の紙をくれた。部分的には芭蕉の歩いた旧道が残っているようだが、概ね、那須高原から県道17号線を下ってきて、一軒茶屋追分で21号線に乗り、池田−北条を経て、漆塚ですこし国道4号線をかりて県道28号線に乗り換え、黒田原を通り抜けて芦野まで、那須高原の東すそ野をかけぬけていく道であるらしかった。湯元からの帰路は判明しているが、この資料でも往路は高久からで、依然として黒羽−高久間の往路は謎のままである。

歴史探訪館の東側に迫っている、城山の山腹に設けられた一直線の段を登っていく。竹で土止めされた階段は途中に踊り場がなく、一気に上り詰めた時は、息があがった。案内図にはそこに立派な裏門が在るはずだったが、その後大塩家に買い取られて移築された。陣屋跡は芦野氏の居城跡で、「御殿山」、「桜ヶ城」、また「芦野城」とも呼ばれている。天文年間(1532−55)芦野資興の代に築かれ、江戸時代には交代寄合旗本芦野氏の陣屋(1万石以下の旗本の居城を陣屋という)があった。今は八溝自然公園の一画をなし、桜の名所となっている。

本丸跡と思われる頂上は草の茂みがひどい。奥にいくつかの石碑と説明板らしきものが見えたが、ズボンにまとわりつく草をかき分けて近寄る気にならなかった。一方、崖の側から西方を見下ろすと、奈良川の細い流れが夕方の暖かな日差を受けて芦野宿を縦断する、牧歌的な風景があった。

長い階段を降りて探訪館とは反対の方向に進むと寺の傍の細い路地を通って、黒羽街道との分岐点近くに出た。左の道を進むと三光寺と銘木ハイマツがある。さらに行ったところの左手に、家臣であった大塩家が引き取ったという、黒々として頑丈そうな
芦野氏陣屋の裏門があった。

芦野宿最後で最大の見所は言うまでもなく
遊行柳である。遊行柳は昔から種々の紀行文に現われ、芭蕉や藤村なども訪れた。細い用水が流れる野道を進んでいくと、柳の大木の下に、芭蕉、蕪村の句碑と西行の歌碑がある。詳しくは「奥の細道」に譲ろう。

 
田一枚うえて立ち去る柳かな 芭蕉

 
柳散清水涸石処々(柳散り清水かれ石ところどころ)蕪村 

 
道のべに 清水ながるる柳影 しばしとてこそ 立ちどまりつれ 西行

芦野宿を終え、国道にもどってまもなく左にはいって峰岸集落を通る。愛宕神社参道横に「べこ石の碑」という巨石がある。芦野宿の学者・戸村忠恕が民衆教化のため建立させたものというが、もちろん読めるものでない。この学者は次の村でも碑に訓示を彫っている。

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板屋(横岡)

国道294号線から高瀬・板屋方面へ右斜めに分岐する道がある。板屋の集落はゆるやかな坂道の両側にひらけ、登り坂の途中に、論農の碑がある。これはべこ石と同じ戸村右内忠恕が寛永元年に建立したもので、病害虫の駆除、予防から、飢饉のための備忘録、飢人の看護法など農民を諭す言句が刻まれている、という。戸村は説教のすきな学者とみえる。


坂の頂上は切り通しになっていて、両斜面のなかほどに44番目の板屋一里塚のふくらみが認められる。峠を過ぎると田圃越しに並行する国道を見下ろしながら、のんびりとした里山道を進んでいく。左側には馬頭観世音などの石碑がある。板屋から蟹沢、高瀬と通り抜け、脇澤の集落で国道にもどり、寄居に向かう。板屋と寄居は正式な宿場に数えられていない間宿である。

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寄居

まもなく、国道を「く」の字にそれる旧道が栃木最後の宿場、
寄居宿である。沿道の家並みも落ちついてまことに静かで平和な村だ。道をいく車も人もみかけなかった。宿の終り近くに、白壁に暗小豆色の長大な板塀で囲った家が現れる。長者屋敷とでもいうのだろうか。寺ではなさそうだ。村を出て再び294号線に合流する。合流点から国道をすこしもどったところから、右に「旧白河の関」方面への旗宿道が分かれる。奥州街道から旧関跡へいくにはこの道を行くのが自然に思えるが、芭蕉はここを通らずに、新関で関東から奥州に入り、白坂宿で右に折れていった。

寄居集落を過ぎ、国道沿いの自動車チェーン装着場に江戸から45里、関東最北端の
泉田一里塚がある。円形の大きな塚だ。木が植えられていないのはめずらしい。周囲が舗装された駐車場だからか、塚から古風が匂ってこなかった。

国道から左にそれて小さな集落を進む。左手は台地の崖がせまり、ところどころに
石切り場がある。この辺が「芦野石」の産地なのだろう。巨大な岩盤に直接するどいメスをあて、四角柱にきりとっていくのであろう。崖璧は格子状の傷跡が生々しい。集落の中ほど、右手の路傍に「足尾山 旅行安全」とあり、側面は「従是江戸四十五里五丁」と刻まれた道標になっていた。当たり前な話だが、一里塚の道のりと平仄があっている。一里塚を測点として、個別の道標がつくられたのであろう。

近くに
「初花清水」の標石が出てきた。山から道路下をビニール管で農業用水路に引かれていて、水源を見ることができない。誰が置いたのか、そばにあった紙コップで喉をうるおしたが、冷たくておいしかった。「初花」といえば、マッハッタンのすし屋の名前が思い出される。説明板がないので、天然ミネラルウォーター以上の味を感ずることはなかったが、後で調べてみて、もうすこし感慨をめぐらしておくべきだったと悔やまれる。「初花」とは女性であった。

「初花」は、歌舞伎「箱根霊現誓仇討(はこねれいげんちかいのあだうち)」に出てくる飯沼勝五郎の妻で、兄の仇を探して旅をするうちに足の病気にかかり歩けなくなった夫勝五郎を箱車に乗せて諸国を巡る。最後には箱根を訪れ、初花は権現に祈願し、滝に打たれて夫の病気回復を祈ったおかげで、勝五郎の病は癒え、ためでたく仇討ちを果たしたという物語。男よりも初花のほうに人気がある由。

国道に戻る出口に一群の石碑が集められている。大きなひょうたん型の「瓢(ふくべ)石」の他、「初花清水従是二丁」と清水までの道標もあり、むかしは人気スポットだったことがうかがえる。

国道をしばらくすると右方にまがる旧道があり、関東最後の奥州街道集落、
山中に入る。バス停近く、右側の白壁土蔵のある民家に、「明治天皇山中御小休所」の立派な石碑が立っている。宿場でもなく、本陣を勤めた家ということでもないのだろうが、いよいよ白河の峠越えを前にして、貴人が一服するにはふさわしい土地の豪邸と思われた。

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明神峠
 

国道はゆるやかな登り坂となり、前方に峠の標識が見えてくる。右側に那須町が「お気をつけて」と手を振り、左側に白河市が「ようこそ」と会釈する。切り通しの頂上が、
栃木県と福島県の県境で、当時は下野国黒羽領と陸奥国白河領との国境であった。古代、陸奥といえば異郷の地にも等しかった。江戸幕府でも、道中奉行が直接支配した奥州街道はこの峠までで、白河以北は五街道の中に含まれず、勘定奉行が在地の領主、代官を通じて管轄する脇往還だったのである。その意味でも、白河の国境と関所は特別の意味を持っていた。

関東と奥羽をわける峠を挟んで街道の左側に、境の明神が並び建っている。栃木県側は、玉津島神社で衣通姫命を祀り、峠を越した福島県側には、住吉神社が筒男命を祀る。司馬遼太郎は『街道をゆく』の取材のために、新幹線新白河駅からタクシーで、この峠へ駆けつけた。彼は最初に見たのを玉津島神社、下野側にあるのが住吉神社だと言っている。おそらく彼は栃木県側の神社をみなかったのだろうと思う。

これは矛盾でない。峠神社は内側と外側で一対をなし、内側に女神を祀り、外側には男神を祀った。内ー外は、自分がどちらの側にいるかという相対的なものである。私は栃木県が内だったが、司馬遼太郎にとっては福島県側が内だったまでのことである。

福島県側の住吉神社の境内の片隅にいくつかの句碑がよせられており、その中に芭蕉の句があるが、それはここで詠まれたものではない。

  風流のはじめや奥の田うへ哥 芭蕉

道向かいに昔、「南部屋」とよばれる
峠の茶屋があった。今も草深いその場所に、13代目といわれる石井家宅がある。茶屋をひらいたのは南部藩家老で、元和3年(1617)のことというから、芭蕉もここで休んでいった可能性はある。石井宅の庭先に文字がびっしり詰まった大きな「白河ニ所の関址」碑が建てられている。白河の古関があったところは、旗宿なんかでなくて、この場所こそがそれだ、と書いてあるという。

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峠から歩いてまもなく、左手に一本の楓の古木があって、根本の窪みから細い流れが出ている。
弘法大師衣替えの清水という。弘法大師が衣を濯ぎ芭蕉が休んだという湧き水は、途中、水溜まりを経てかぼそい小川は近くの山里集落まで田を縫っているようだった。その遠く向こうには、まだ残雪をいただいた那須の連峰がうす青く横たわっている。

峠との間の路傍に、ツクシ(土筆)の群生を見た。淡茶色の胞子頭がかわいい。

白坂宿の入り口に右に入る道がでてくる。角の草地に「おくのほそ道」の低い石標がたっている。芭蕉はここを通って白河の古関がある旗宿へ向かった。ここから、旗宿での一泊、翌日の旧関所跡めぐり、関山満願寺参詣をへて白河宿に入るまでの芭蕉の足跡については、「今様奥の細道」に譲る。

白坂宿にはこの追分以外、特記すべきものがない。宿場を通過して皮籠の町にはいり、左側にある小道をしばらく行くと木立の中に
金売り吉次兄弟の墓が建っている。「昭和49年8月」と日付が読める石囲いの中に、3基の墓があり、中央が吉次である。兄弟3人はここで盗賊に殺害されたとあるが、兄弟で隊商を組んでいたとは知らなかった。おなじく奥の細道道中にあたる壬生でも吉次の墓をみたが、この時は、源義経の平泉逃避行の途中で、吉次は病死したことになっている。墓はこちらの方が立派だ。

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白河  

一里塚でもあったのか、一里段という地名の地区を通って、山間をぬけていくと視野に市街地がひろがってくる。289号線を横断し、市内入口にあたる「石切場」バス停角地に
「戊辰の役古戦場」の碑と戦死者の碑が建っている。慶応4年(1868)4月、背後にある稲荷山から南側一帯にかけて、薩長の西軍と東軍の会津、仙台、棚倉、二本松藩が激しく戦った。会津若松のみならず、福島県にのこる戊辰戦争の傷痕は深くて広い。

権兵衛稲荷神社の先で道は左右に分かれ、右にいくと
南湖へ寄ることができる。

白河藩主松平定信が1801年に灌漑用水池と藩士の水練場もかねて造営した、我が国最古の公園といわれている。なにをもって「公園」というのかしらないが、東京飛鳥山公園は1737年に徳川八代将軍吉宗が土地を王子権現に寄進してたくさんな桜を植えたものと聞いている。

湖の周囲17ヶ所の眺めのよい場所を選んで、南湖17景とし、和歌が添えられている。造園にくわしかった定信は、この庭をつくるにあたり西方に那須連山を借景した。従って、東側からの眺めがもっとも良い。さらに、山の姿を明らかに見るには、逆光にならない午前中のほうがよい。空気が澄んでかすみがでない早朝がいちばんよい。

来た道をもどり、城の南口にあたる九番町から、七番町を通り、三番町では谷津田川にかかる南湖橋を渡る。二番町の角に医院らしき旧宅を見た。一番町の奈良屋呉服店、天神町角のつたや商店なども古い店構えだ。角の空き地に一本の赤松が西日をうけてその素肌の赤味をましている。 東にすすむときれいな枡形をなした交差点に出た。この辺から駅前通りにかけてが宿場の中心部であったのだろうが、宿場特有の、本陣・脇本陣・問屋場・高札場などの史跡は見あたらない。かわって、地図で町名をおっていくと、九番町から始まって、一番まで。数字がつきると、細工町・道場町・勘定町・天神町・金屋町・管領町・鷹匠町・愛宕町・中町・大手町・大工町・本町・年貢町・馬町・八百屋町・鍛冶町等、城下町一色である。

そんな宿場町筋で立ちよったのは大工町にある皇徳寺だった。そこに会津の旅でなじみになった、小原庄助の墓があるという。民謡に出てくる小原庄助が誰だったのかについては諸説あがるが、この墓の主に関しては、会津漆器の酒豪塗師小原久五郎だといわれている。酒を飲みすぎてか、白河の友人宅で客死した。法名「米汁呑了信士」はどう読むのかしらないが、なんとなく意味はわかる。辞世の句は「朝によし昼はなおよし晩によし飯前飯後その間もよし」で、これも意味明快な一句だ。今風にあてはめれば、カテキン緑茶のことか。

宿場町からみれば、城は町のはずれ、JR白河駅の裏側にある。結城親朝が興国元年(1340)小峰ヶ岡に築城し
小峰城と名付けた。寛永4年(1627)丹羽長重が初代白河藩主として10万石を与えられて白河藩が成立し、城の大改修と町割りが整備され、今の形となった。240年後、戊辰戦争で城は落城焼失した。城山の頂上に優美にたたずむ三重櫓は平成3年に復元されたものである。城跡一帯は城山総合公園となっていて、芝生が生えそろった広場にはサッカーに興じる子供の姿が多かった。

奥州街道はJR白河駅前を通り、本町で左折し、横町・田町を通って
阿武隈川を渡る。高村光太郎の詩で知られるこの川は東北第2の大河で、250kmの北上川より若干10km短い。那須岳の北方に源流を発し、ここ白河を通って須賀川・郡山・福島を抜け宮城県に入り、そこから東に向い、岩沼で奥州街道・水戸街道と出会って太平洋に去る。白河ではまだ川幅も狭く、楚々とした流れをみせていた。

田町大橋を渡り向寺の地区をすぎて、ゆるやかな切り通しの峠を下ると、幕府直轄奥州街道の終点、
女石の集落につく。道中奉行管轄の奥州街道はここまでで、ここからは、地方の各大名が管轄する、仙台・松前街道となった。旧奥州街道は右にまがって久々に国道4号線に合流する。また、ここで会津街道(294号線)が左にでて会津若松に向かっている。合流する手前に、再び戊辰戦争の慰霊碑をみた。白河市北口で展開された激戦で亡くなった仙台藩士150余名の「仙台藩戊辰戦没の碑」である。

(2005年4月)
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