鏡沼跡 鏡石町 鏡田かげ沼町
建保元年(1213)信濃源氏の泉親衡(ちかひら)による北条討伐の謀反が発覚し加盟者は捕らえられた。和田平太胤長もこれに参加した為、岩瀬郡稲村に配流され5月9日誅された。夫の身を案じた妻は鎌倉よりこの地に至り里人に夫の死を知らされ、鏡をいだき沼に入水して果てた。以来この沼を「鏡沼」というと伝える。天保13年鏡沼村の常松菊畦が「磨光編」を著し夫婦を顕彰した。芭蕉の奥の細道に「かげ沼と云う所を行くに、今日は空曇りて物陰うつらず。」とあるは、この地は一種の蜃気楼現象が現れ、道行く人が水中を歩く如く見ゆることで有名であった。  「杜撰集」  平成14年3月   鏡石町
天留夫人は夫に逢いたい一心から奥州への一人旅を決心し幾山川を越えてこの地までたどりつきました。もうすぐ夫に逢えるうれしさに懐の鏡をとり化粧をし見のつくろいを済ませ(この場所を「化粧ヶ原」と呼んでいる)夫の許へと急ぎました。かげ沼の近くで里人に夫胤長はすでに誅されたことを告げられ悲憤のどん底に泣きくずれ鏡を胸に抱き夫の後を追って沼に身を投げました。時に胤長31歳、天留夫人27歳でした。